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都市伝説は、忘れられた名前に届く  作者: オカノヒカル
第5章 【ドッペルゲンガー】
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■第33話「コピーと、オリジナルと、ゼロと」


 夏休みに入って三日目の午後。


 旧館の家庭科準備室には冷房がない。窓を全開にしても風は来ず、扇風機が首を振るたびに裁断台の端切れがひらひらと揺れるだけだった。油性ペンと接着剤の匂いが熱に溶けて、鼻の奥にまとわりつく。


 初狩《はつかり》のスマホが、また鳴った。


 スケッチブックの上で手が止まる。スマホの画面を一瞬だけ確認して、唇の端がわずかに持ち上がって、また絵を描き始める。その繰り返しが、もう十回以上になっていた。


「時雨ちゃん、今日何件目?」


 ミシンの前で生地を送っていた笹子先輩が、針から目を離さずに聞く。


「数えてません」

「嘘やん。手ぇ止まるたび顔ゆるんでるで?」

「ゆるんでません。反射です」

「反射で口角上がる人間、初めて見たわ」


 初狩は黙った。ただ、耳の先だけが裏切るように赤い。


 俺は裁断台の隅でカメラの撮影データを整理しながら、その横顔を見ていた。


 初狩の絵が、伸びている。


 夏休み前にイラスト投稿サイトのアカウントを復活させてから、ブックマーク、リポスト、フォロワー——すべてが目に見えて増えていた。火がついたのは「アイメイ」の蝶子を描いたファンアートだった。ゲームの公式アカウントにリポストされたのを起点に、静かに、でも確実に、初狩のイラストを見つける人間が増えている。


 窓際のパイプ椅子に座っていた山田先輩が、ふと自分のスマホをこちらに傾けた。画面には投稿サイトのランキングページが映っている。


「初狩ちゃん。pixivのデイリー、もうすぐ二桁入るんじゃない?」

「……まだ全然です。上にいる方たちとは画力が」

「謙遜だけ早くなってない?」


 山田先輩はそれだけ言って、再びスマホの画面を見る。


 部室は雰囲気は明るかった。


 笹子先輩のミシンが布を噛む低い振動。山田先輩の裁ちばさみが空気を断つ、軽い金属音。初狩のペンがスケッチブックの紙面を滑る、かすかな摩擦。真夏の光が窓から斜めに差し込んで、壁に貼られたコスプレの資料写真を白く照らしている。


 ここには確かに、何かが育っている音がした。


 初狩が描いている画面を横目で見た。線が、春先よりも明らかに迷わなくなっている。色の選び方にも躊躇がない。「上手くなっている」と言うより、「自分の描き方を見つけ始めている」のほうが近いと思った。


 絵のことはわからない。でも、そのくらいは見える。


 笹子先輩がふいに顔を上げて、こちらを見た。


「才くんは? 小説のほう、どうなん」


 悪意はない。初狩の話をしたから、その流れで聞いているだけだ。


「ぼちぼちですね」

「投稿してるんやったっけ?」

「カクヨムですよ。検索すれば出てきますよ」


 俺は誰にも知られていないペンネームを伝え、自虐気味に笑った。笑ったはずだ。


 山田先輩が、布を裁く手を止めないまま呟く。


「高尾ちゃんはさ、そういうとき、いつも同じ顔するよね」


 扇風機が首を振った。端切れが揺れた。


 返す言葉が、見つからなかった。


**


 夕方、いつものようにREXに立ち寄る。初狩は用事があると先に帰ってしまった。


 ポータブル電源の青白い光だけが、埃っぽい店内をうっすらと照らしている。冷房のないゲーセンの空気はこもって重く、壁際の筐体のガラス面に、俺の輪郭がぼんやりと映っていた。


 ノートPCを起動して、小説投稿サイトのマイページを開く。


 閲覧数:24

 ブックマーク:0

 評価:0

 感想:0


 最終更新から二週間。数字は、ほぼ動いていない。


 閲覧数の24にはbot巡回や検索表示の分が含まれる。人間がクリックして読んだ回数は、もっと少ない。さらにユニークアクセスに表示される三人のうち一人は自分のサブ垢、もう一人は巡回bot。


 実質、一人。


 さっき被服部にいた間、初狩のスマホは何回鳴った?


 ……十七回だ。通知が、十七回。


 PCの液晶が鏡のように反射して、自分の顔と数字が重なった。ゼロの上に、俺の目が乗っている。


 ——"唯一"という幻想を壊せ。


 夏休み前に届いたクエストの一文が、脈絡もなく頭をよぎった。


────────────────────────────

【ミッション】"唯一"という幻想を壊せ。


人は誰でも、自分だけの形を持つと思っている。

だが形は、ときに別の場所で繰り返される。

同じ線、同じ色、同じ感情。

写し身が増えれば、元の姿は曖昧になる。


その正体を見つけ出せば、

"本物"とは何かを知るだろう。

────────────────────────────


 壊せ、と言われても。


 壊す対象がある時点で、そいつはすでに"何か"を持っている。初狩にはイラストがある。笹子先輩には衣装がある。ねむにはプログラミング技術がある。


 俺のマイページには、24と0が3つ並んでいる。


 ゼロは壊しようがない。最初から何もないものを、どうやって壊すんだ。


 椅子の背もたれに体を預けた。天井のシミを見上げる。蛍光灯の残骸が、錆びた金具にぶら下がっていた。


 初狩が皆に見つかっていくのは、いいことだ。素直にそう思う。あいつの絵にはそれだけの力がある。俺が必死で書いた小説より、初狩がペン一本で描いた線のほうが、ずっと多くの人間の目を止めている。


 それは事実で、事実は認めるべきで、認めた上で——


 何も浮かばなかった。認めた先に、何を思えばいいのか。


 PCの電源を落とした。モニターが暗くなって、筐体のガラスから自分の顔が消えた。



**



 REXを出て表通りに戻ると、商店街は夕陽に染まっていた。


 閉まったままの金物屋のガラスに西日がぶつかって、アスファルトに赤い光が滲んでいる。遠くで蝉が鳴いていた。夏の夕方特有の、一日が終わりかけているのにまだ終わらない、やけに長い時間帯だ。


 歩きながらスマホを開いた。Xのタイムラインに、見覚えのある名前が引っかかる。


 『谷上瑠璃ちゃんのメイク真似したら友達にバレたwww』

 『るりちゃん系、もう何人目? 量産型すぎて草』

 『てかこの人、谷上瑠璃のパクリじゃない?→→→』


 谷上瑠璃。二年三組。最近、被服部にも衣装の相談で顔を出している先輩だ。


 スクロールすると、似たような投稿がいくつも並んでいた。谷上先輩のメイク動画を参考にした投稿。それをさらに模倣した投稿。似た色味の顔が、同じ角度で、タイムラインを静かに埋めていく。


 ふと——少し前に目に入った、初狩の画風に似たイラストのことが頭をかすめた。


 首を振って、スマホをポケットにしまう。


 商店街の角を曲がったところで、声が聞こえた。


「——てか最近さ、あたしのドッペルゲンガーいるんだけど」


 ファストフード店の前。谷上先輩が、同級生らしい女子二人と並んで立っていた。私服姿で、肩にかかる暗い茶髪が夕風に揺れている。声のトーンは明るい。いつもの、場の空気をつかんで回す感じの話し方だった。


「マジウケるんだけど、あたしのメイク丸パクりしてる子いてさ。顔まで寄せてくんの、もう怖くない?」

「やばー」

「それ都市伝説じゃん。どっぺるさん出た?」


 谷上先輩も笑った。


 ただ——。


 口角は上がっているのに、目が追いついていない。


 初狩が通知を「数えてません」と言ったときの、あの顔と似ていた。真逆の状況なのに、構造だけが重なる。気にしているものほど人は過剰に気にしていないふりをする。


 谷上先輩は俺に気づかないまま、友人たちと角の向こうへ消えていった。


 ファストフード店の自動ドアが開いて、店内の冷気が一瞬だけ頬にあたった。すぐに閉まって、夕暮れの熱が戻ってくる。


 ——"どっぺるさん"。


 コピーされる人間がいる。


 コピーすらされない人間がいる。


 このクエストは、どっちに向いているんだろう。


 俺はまだ、商店街の真ん中に立っていた。空は赤から紺に変わりかけていて、アーケードの骨組みだけが、暮れていく空を細く切り取っている。どこかの蝉が最後の力で鳴いて、やがて止んだ。


 帰ろうとは、まだ思えなかった。



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