↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
都市伝説は、忘れられた名前に届く  作者: オカノヒカル
第4章【覚り】 さとり
PR
27/61

■第27話「裏垢とはけ口」


 休み時間の廊下は、いつもより少しだけ静かだった。


 正確には、静かなふりをしているだけだ。教室の中では相変わらず噂が流れている。篠原先輩は今日も普通だったとか、逆にあれが怖いとか、変わるならいつなんだとか。聞こえないようで、ちゃんと聞こえる声ばかりだ。


 俺はプリントを職員室へ持っていく途中で、その本人を見つけた。


 二年の廊下の曲がり角。窓から差す昼の光の中で、篠原《しのはら》慧《けい》は一人で立っていた。手にはファイル。背筋はきれいに伸びている。制服の皺も、ネクタイの結び方も、ファイルに挟んだ黒いボールペンも、今日も狂いがない。全部が"副会長の持ち物"として、一問も間違えていない解答用紙みたいだった。

 それだけならいつも通りだ。

 なのに、いつもよりきれいすぎた。必要なものだけ残して、余計な揺れを全部削ったような立ち姿だった。


 篠原先輩のほうも、俺に気づいた。


「高尾くんだね。被服部の新入部員の」

「はい、そうですけど」

「職員室?」

「まあ、はい」


 それだけのやり取りなのに、妙に息が詰まる。相手が怒っているわけでも警戒しているわけでもない。ただ、崩れないために全部を整えている人間の静けさが、会話の入口からそこにあった。


「例の件で、少し騒がせてしまってるみたいだね」


 先にそう切り出したのは、篠原先輩のほうだった。

 穏やかな言い方だった。謝っているようにも聞こえるし、事務的に処理しているだけにも聞こえる。どちらにせよ、主導権を渡すつもりがないように聞こえる声だった。


「騒がせてるのは先輩じゃないと思います」


 俺がそう返すと、篠原先輩は少しだけ目を細めた。


「ありがとう。そう言ってもらえるのは助かるよ」

「でも、平気そうには見えないです」

「……そう見える?」


 そこで初めて、ほんの少しだけ間ができた。ほんの少しだけだ。でも今の篠原先輩には、その一拍で十分だった。


「見えます。平気っていうより、平気な顔を崩さないようにしてるみたいに」


 篠原先輩はすぐには答えなかった。

 廊下の向こうで、どこかのクラスの笑い声が短く弾ける。その音だけが妙に遠かった。


「高尾くんって、他人をよく見てるんだね」

「自覚はないです」

「だろうね。自覚があれば、もう少し遠慮するだろうから」


 口調は柔らかい。だが、言葉の置き方が慎重すぎる。感情に触れそうになると、すぐに冗談か建前へ逃がしている。その逃がし方まで、隙がなかった。


 俺は少し迷った。三人のパターンが同じだった。写真のあとに裏垢が凍結される。四人目も同じなら、ここで外す方が不自然だ。だが外れたら、ただの失礼な後輩で終わる。


 早期解決のためにも賭けた。


「先輩、裏垢ありましたよね?」


 空気が、わずかに止まった。


 怒られるかもしれないと思った。最低だと切られても仕方ない質問だ。


 けれど篠原先輩は怒らなかった。ただ、表情の何かが一瞬だけ遅れた。


「……その言い方、雑だな」

「すみません」

「いや、君らしいのかもしれない」


 君らしいという、その言い方にも棘がない。棘がないから、かえって刺さる。先輩は続けてこう問いかける。


「何でそう思ったの?」

「他の人がそうでしたから」

「他の人」

「黒板の写真のあとに、愚痴を吐く場所を失って、おかしくなった人がいたんです。先輩で四人目です」

「……」

「先輩は有名人ですから、今回は噂の広がりが尋常じゃなかった」

「……」

「先輩も、同じじゃないですか?」


 今度の沈黙は、さっきより長かった。


 篠原先輩は廊下の窓の外を見た。中庭の木が風に揺れている。誰でも目にする、どうでもいい景色だ。そういうものを見るふりをしながら、言葉を選んでいる。


 やがて、小さく息をついた。


「否定はしない」


 その一言だけで、胸の奥が少し冷えた。


「別に大したものじゃないよ。立派な思想があるわけでもないし、誰かを告発するとか、そういう話でもない。ただ、疲れたとか、面倒だとか、そういうのを捨てていた場所だ」

「……」

「ちゃんとしていない自分を、一回だけ雑に置いていける場所——かな」


 その言い方が妙に具体的で、作り物の台詞に聞こえなかった。


「それが、使えなくなった」


 俺が言うと、篠原先輩は苦く笑いもしなかった。


「急にね」

「理由は?」

「分からない。警告が出ていたのかもしれないけど、ちゃんと見ていなかったのかもしれないし。後から何を言っても仕方がない」

「……焦りましたか?」

「焦ったよ」


 今度はちゃんと即答だった。

 その短さに、むしろ本音が滲んでいた。


「想像していたより、ずっと困った。たかがそんなもの、なくても平気だと思っていたんだけどね」

「平気じゃなかった」

「うん。平気じゃなかった」


 そこでようやく、篠原先輩は少しだけ自嘲するように口元を緩めた。でもその笑みもすぐに、元の整った形へ戻る。


「人には役割があったほうが楽なんだよ」


 ぽつりと、そう漏らした。


 俺は何も言わなかった。続きがある気がしたからだ。


「何を期待されているのか分かるし、どう振る舞えば嫌われにくいかも分かる。副会長なら副会長らしく、優等生なら優等生らしくしていれば、大きくは外れない」

「でも」

「でも、その外れた分を捨てる場所がないと——けっこう息苦しい」


 言い終えたあと、篠原先輩は自分で少し驚いたような顔をした。こんなことを口にするつもりではなかったのかもしれない。


 たぶん、ここまでが限界だった。


 この人は全部は言わない。言えないのではなく、言わないように整えている。崩れそうな部分に自分で蓋をして、蓋の上からさらに「篠原慧らしさ」を重ねている。


 だから余計に、危うかった。


「先輩」


 俺は、もうひとつだけ聞いた。


「例の写真、どう思ってますか」


 篠原先輩の視線が、まっすぐ俺へ戻る。


「気持ち悪いよ」


 その答えは、意外なくらい率直だった。


「音楽室は夜間施錠されている。現物を見た人間は誰もいないのに、写真だけが出回っている」


 言葉は整っている。けれど、そこにはさっきまでより明確な温度があった。


「人の仕業だとしても気味が悪いし、怪異だとしてもなおさら気味が悪い。どちらにせよ、まともな話じゃないよ」

「……ですよね」

「君もそう思っているから、こうして話しかけたんだろう?」


 そこで篠原先輩は、ほんのわずかに首を傾けた。


「高尾くん。君は、見ている側に立つのが上手いよね」


 心臓が一度だけ変な鳴り方をした。


 ——観測者。

 あのメールの一語が、反射みたいに浮かぶ。


「でも——」


 篠原先輩は静かに言った。


「見ているだけのつもりでも、見ていること自体がもう、たぶん無関係じゃないんだよ」


 責めているようには聞こえなかった。むしろ、自分自身がたった今わかってしまったことを、つい口にしてしまったような声だった。


 廊下の向こうから教師を呼ぶ声がする。篠原先輩はそちらへ一瞬だけ目を向けて、またいつもの顔に戻った。


「ごめん、そろそろ行かないと」

「あ、はい」

「話して少し楽になった——とは言わないよ。そういうふうにきれいに締められる話じゃないから」

「……」

「でも、ありがとう」


 その礼だけ残して、篠原先輩は歩き出した。

 まっすぐで、迷いがなくて、見ている側を安心させる歩き方。

 けれど今の俺には、それが前よりずっと危うく映った。



**



 篠原先輩の背中が角を曲がって消えてからも、しばらくその場から動けなかった。


 裏垢を失った。息を抜く場所をなくした。

 その結果、野崎先輩は雑になった。斉藤先輩は神経質になった。サッカー部の先輩は怒鳴るようになった。


 じゃあ篠原先輩は——


 答えは、さっき目の前にいた。


 もっと副会長らしくなる。もっと優等生らしくなる。もっと「ちゃんとしている人間」のほうへ寄っていく。


 仮面が剥がれるんじゃない。

 仮面を締め上げて、自分ごと固定してしまう。


「最悪だな……」


 誰に聞かせるでもなく呟いて、ようやく歩き出した。


 足は教室のほうへ向いていたが、頭の中では別のことが回っていた。


 問題はもう、黒板そのものじゃない。


 音楽室に本当に誰かが入ったのか。現物があったのか。それももちろん気味は悪い。

 だが今の会話で、もっと気味の悪い場所がはっきりした。


 誰も現物を見ていないのに、写真だけはある。写真だけが流れて、写真だけが観客を集めて、そのあとで人間のほうが壊れていく。


 だったら起点は、黒板じゃない。

 あの画像だ。


 教室の扉が見えたところで、スマホを取り出した。ねむに追加でDMを打つ。


『画像の出所、急いでくれ。篠原先輩に直接会った。状況は思ったより悪い』


 既読はつかない。いつものことだが、今日は少し苛立つ。


 朝に保存した例の写真を開く。


 夜の音楽室。黒板。白い文字。篠原慧。


 さっきまでは、ただの不気味な記録に見えていた。

 でも今は違う。


 これは記録じゃない。何かが起きた証拠でもない。

 むしろ逆だ。


 これが出回ることで、何かが起きるように作られている。


 その考えに触れた瞬間、指先が冷えた。


 現物を誰も見ていないのに、人だけが確かに変わっていく。なら、あの写真は怪異の証拠じゃない。


 怪異を始めるための、最初の一枚だ。


 ただ、もう一つの可能性も頭から消せなかった。画像の拡散と裏垢の凍結を、同時に仕掛けている人間がいる——その線だ。どちらにしても、まず調べるべきものは同じだった。


 俺は画像を拡大した。黒板の反射。窓の明かり。文字の線。

 まだ何もわからない。


 でも、次に見るべき場所は決まった。


 黒板じゃない。

 あの画像そのものだ。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。