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都市伝説は、忘れられた名前に届く  作者: オカノヒカル
第4章【覚り】 さとり
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■第25話「壊れない人の、壊れかた」


 昼休みが近づく頃には、例の写真はもう「見たことがあるかどうか」ではなく「どこで見たか」の話になっていた。


 一組の女子がスクショを回し、二組の男子がそれを別のSNSへ貼り、見たこともない連中まで半端な検証勢の顔で感想をつける。

 夜の音楽室。黒板の中央。篠原《しのはら》慧《けい》。

 たったそれだけで、一日分の空気を濁らせるには十分だった。


 その中心にいるはずの本人だけが、妙なくらい静かだった。


**


 篠原慧は、朝から三度あの画像を見せられた。


 一度目は同じクラスの男子に。二度目は、心配の顔を被った女子たちに。三度目は、生徒会室へ向かう途中ですれ違った下級生に。


「篠原先輩、これ……」


 その声の作り方が、もう嫌だった。

 気遣いの形をしているのに、目の奥に好奇心がある。見たいのだ。本人がどんな顔をするのか。動揺するのか、怒るのか、笑い飛ばすのか。


 篠原はスマホの画面を見下ろした。

 夜の音楽室の黒板。白いチョーク文字。自分の名前。


 気味が悪い、とは思った。こんな形で名前を使われること自体、不快だった。

 だが、それを顔に出すほうがもっと嫌だった。


「……よくできてるね」


 相手にスマホを返す。


「本物かどうかは分からないけど、少なくとも面白がる趣味は悪い」

「え、あ……ですよね」

「先生にはもう話が回ってるかな。無駄に騒がないでくれると助かる」


 声音は穏やかだった。責めてもいない。怯えてもいない。

 こういう時に誰より適切なことを言える——そういう声だった。


 それができる自分に、篠原はうっすら吐き気がした。


 何も感じていないわけではない。むしろ逆だ。心の底は冷えているし、気分は最悪だ。

 けれど動揺した顔を見せた瞬間、もっと見られる。乱れたところを晒した瞬間、それが次の材料になる。


 だから整える。

 こういう時こそ、整えていなければいけない。


 生徒会の副会長なのだから。


**


 四時間目の終わり、俺――高尾才は二年の廊下を遠目に覗いていた。


 そうそう用のある場所じゃない。完全に不審者だ。だが同じことをしている人間が俺以外にも何人かいて、それが余計に気分を悪くさせた。篠原先輩は「見る価値のあるもの」になってしまっている。


「高尾クン?」


 振り返ると、初狩《はつかり》が廊下の角に立っていた。手には図書室の返却カードを持っている。


「なんで二年のフロアにいるんだ?」

「図書室の帰りです。こっちを回ったほうが近いので」

「……」


 まっとうな理由がないのは俺の方だった。


「高尾クン、顔が完全に野次馬を軽蔑する野次馬です」

「最悪な定義を作るな」

「でも否定はできないでしょう」

「……できないけど」


 初狩は教室の壁にもたれたまま、小さく肩をすくめた。


「で、どう見えますか」

「どうって」

「壊れそうに見えるかどうか、です」


 俺は廊下の先に目をやった。


 篠原先輩は二年の担任らしい教師と話していた。距離があるから声は届かない。けれど、見えるものはある。


 頷く角度。視線の合わせ方。相手が話しやすいように一拍だけ間を置く癖。困らせない返事の選び方。


 ぜんぶ、きれいすぎた。


「……いや」

「いや、ですか」

「壊れそうっていうか——もう先に『ちゃんとしてる』んだよな」


 自分で口にして、変な感覚が残った。普通なら、ちゃんとしているのはいいことのはずだ。でも今の篠原先輩には、そのいい手触りがなかった。


 写真の噂が朝から学校中を回っているのに、平常運転どころか、いつもより隙がない。

 乱れないこと自体に、全力を注いでいるように見えた。


 初狩も同じことを感じていたのだろう。


「安心できる整い方じゃないですね」

「わかる」

「完璧な人というより……完璧でいないとまずい人、です」


 さらりと、重いことを言う。


 その時、廊下の向こうで一人の男子が、軽い調子で篠原先輩にスマホを見せた。たぶんまた例の画像だ。悪ふざけ半分、反応見たさ半分。


 篠原先輩は一瞬だけ画面に目を落とし、それからごく自然に言葉を返した。

 相手の肩から力が抜けるのが、遠目にもわかる。怒らせず、怯えさせず、けれど踏み込ませもしない。


 あまりにも手際がよかった。


「……すごいな」

「はい。嫌になるくらい」

「なんであの場面で、あんなふうに返せるんだよ」


 問いかけの形をしていたが、初狩に聞いたわけではなかった。

 初狩もすぐには答えなかった。


 しばらく間があって、ぽつりと落とす。


「返せるんじゃなくて、それしか残してないのかもしれません」


 俺はその言葉を、うまく飲み込めなかった。


**


 放課後。生徒会室の戸締まりを終えて、篠原はようやく一人になった。


 人気のない廊下は静かだった。昼間の視線が嘘みたいだった。だが静かになった途端、今度は自分の頭の中がうるさくなる。


 スマホを取り出す。無意識に、Xを開いていた。


 表向きのアカウントではない。

 鍵付きの裏垢。誰にも見せるつもりのなかった、小さくて汚い逃げ場。

 副会長でも優等生でもない自分を、一度だけ雑に捨てられる場所だった。


 ホーム画面は開かなかった。


 代わりに表示されたのは、アカウントの利用制限を告げる無機質な案内だった。


 一瞬、意味がわからなかった。


 指が止まる。

 更新する。変わらない。

 いったん閉じて開き直す。変わらない。


 ポストが見られない。書けない。

 いつもの逃げ場に、入れない。


 思考が、ひどく嫌な音を立てて崩れていく。


 凍結。

 その単語が浮かんで、すぐに疑問がぶつかる。どうして。何をした。

 ——いや、何もしていないわけではない。人に見せられないことは書いた。性格の悪い愚痴も、疲れた、消えたい、面倒だ、もう無理だ、そういう言葉も。

 けれどあれは、誰にも見せないための場所だった。見せないからこそ、あそこでだけは崩れていられた。


 スクロールしようとして、スクロールできる場所すらないことに気づく。


 今すぐ何か書きたかった。

 最悪だ、でもいい。ふざけるな、でもいい。意味がわからない、でもいい。

 けれど、その「書く場所」自体がもうなかった。


 呼吸が浅くなる。


 たかが裏垢だ、と言い聞かせる自分がいる。こんなことで、と思う自分もいる。

 だが同時に、それがなくなったらどこで息を抜けばいいのかわからない自分がいた。


 ちゃんとしていない自分を、どこにも置けない。


 その事実が、想像していたよりずっとまずかった。


 篠原は人気のない廊下で、誰もいないことを確かめるように一度だけ顔を上げた。

 それから、乱れかけた呼吸を無理やり整える。


 大丈夫だ。

 そう思う。思わなければならない。


 アカウントが使えなくなっただけだ。学校生活は回る。明日の会議資料もある。先生への確認事項もある。やるべきことは山ほどある。


 やるべきことをこなしている限り、自分は崩れない。


 そうやって胸の内側を押さえつけた瞬間に、逆にわかってしまった。


 今の自分は——

 もうそれでしか立っていられない。


 その夜、ねむからようやく返信が来た。


『前にも名前が出た人はいる。三人。

 サッカー部、手芸部、バスケ部。

 共通してるのは、写真のあとで少しずつ“変わった”って噂が残ってること。

 詳しくは、もう少し追う』


 短い文だった。

 けれど、寝る前まで頭のどこかに引っかかり続けた。


**


 次の日の朝、違和感はもっとはっきりした。


 ホームルーム前に職員室へプリントを取りに行かされた。どう考えても雑用係の顔が定着しているのだろう。理不尽だ。


 その帰り、生徒会室の前で篠原先輩を見かけた。気になって、思わず後を付けてしまう。


 昨日と同じ人間のはずだった。制服の着方も、眼鏡の位置も、背筋の伸び方も変わらない。


 でも、動きが違う。


 教師が来る前に扉を押さえている。話の要点を一度で拾い、渡された書類をその場でざっと確認して抜けを指摘する。相手が礼を言いやすいタイミングで一歩引く。


 全部が滑らかすぎた。

 人がうまく振る舞っている、というより——そういう機能だけが研ぎ澄まされた動き方だった。


 職員室の前では、教師が篠原先輩に向かって感心したように言っていた。


「篠原、助かるなあ。本当に気が利くよ」

「いえ、私にできることなら」

「生徒会に君がいてくれて本当に助かってる」


 篠原先輩は、きれいに微笑んだ。

 その笑みが、昨日よりほんの少しだけ——隙がなかった。


 教室に戻ると、初狩が席でつまらなそうにスマホを弄っていた。俺は隣の席に鞄を置きながら、さっき見たことを小声で話した。


「それって、昨日よりすごくないですか」


 正直な感想だった。


「そうなんだよなぁ」

「副会長のアップデート版みたいです」

「その言い方、人間やめてるだろ」

「すでに少しやめてる気がしませんか」


 笑えない冗談だった。


「なあ」

「はい」

「前からあんなだったか? 篠原先輩をそんなに知らない俺でも、なんか引っかかるんだけど」

「優秀ではありました。でも——」


 初狩は少し黙ってから、続けた。


「少し前に生徒会にいるのを見かけたときは、まだちゃんと疲れてる人に見えたんですよね」

「今は?」

「疲れてる感じが消えすぎてて、逆に変です」


 なるほど、俺の違和感を妙に言い当てている。

 目の前にいる篠原先輩は、壊れていない。むしろ以前よりちゃんとしている。ちゃんとしているのに、どこかおかしい。


 昨日まで見逃していた違和感が、今はやけに目について離れない。クエストメールのせいかもしれない。あるいは俺の中で、「ただの噂」で片づけることをやめた何かがあるのかもしれない。


「そういえば……前にもいたらしいな」


 気づけば、そう口にしていた。


「何がですか」

「人が変わったやつ。ねむが教えてくれた——黒板に名前を書かれたのは、篠原先輩だけじゃないらしい」


 手芸部の一年女子。サッカー部の三年男子。バスケ部の二年男子。


 単体なら、ただの気分の波で済む。人間にはそういうことがいくらでもある。

 でも今の篠原先輩を見たあとだと、妙に繋がって見えた。


「たまたま、で片づけるには数が嫌ですね」


 初狩が言った。


「だろ」

「けど、黒板に名前を書かれることと、人が変わることに何の関係が?」

「わからん」


 人が変わる。

 その前に、名前が出回る。夜の音楽室の黒板写真という、気味の悪い形で。


 窓の外では、朝の光が校舎の壁を白く照らしていた。どこにも怪異らしいものなんてない。なのに学校の中身だけが、少しずつ別のものへ貼り替わっていく。


 その時、生徒会室の戸が開く音がした。


 篠原先輩が出てくる。

 書類を抱えたその立ち姿は、見惚れるくらいきれいだった。

 整っていて、正しくて、隙がない。


 だからこそ俺は、背筋の奥が冷えるのを止められなかった。


 あれは、元に戻った人間の顔じゃない。


 もっとたちの悪い何かが——

 きれいに完成してしまった顔だった。




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