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都市伝説は、忘れられた名前に届く  作者: オカノヒカル
第4章【覚り】 さとり
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■第24話「黒板の名前」


 翌朝になっても、あのメールが剥がれなかった。


 件名だけなら、ありがちな怪談だ。クエストNo.0004『黒板の覚(さとり)』。だがそのあとに続く本文が、歩いている最中もずっと舌の裏に貼りついたままだった。


 自分という幻想を見破れ。

 人は皆、「自分らしさ」という檻を持っている。

 優しい人。穏やかな人。真面目な人。気配りのできる人——。

 頭の中で反芻するうちに、メールにはなかった一語が勝手に混ざっていた。


 観測者。


 それらはすべて、選ばれた役割にすぎない。


 昨夜、廃墟ゲーセンREXの薄暗い店内で画面を見たときは、ただの挑発だと思った。埃とカビの匂いが沈んだ空間で、止まった筐体に囲まれながら読むぶんには、まだ距離があった。

 けれど朝の通学路を歩いていると、その距離が詰まってくる。


 観測している、なんて言い方はきれいすぎる。

 ただ安全圏に立っているだけの人間が、自分をちょっと賢そうに呼んでいるだけじゃないのか。


 住宅地の坂道を登りながら、首筋を湿った風がなぶった。紫陽花が終わりかけた通学路は、朝でもどこかむわっとする。肌に貼りつく空気が、頭の中のざらつきと妙に重なった。


 校門が見えた時点で、異変に気づいた。


 騒がしくはない。むしろ逆だ。声がやけに低い。二人組も三人組も、互いの顔より先にスマホの画面へ視線を落としている。何かひとつの話題が水面下で膨らんでいるときの空気だった。


 昇降口までの短い道のりで、前を歩く女子たちの会話が耳に入る。


「見た?」

「見た見た。マジで鳥肌」

「てか、なんであの人なんだろ」


 下駄箱の前でしゃがみ、上履きに足を入れながらスマホを開いた。

 通知欄に、ねむのDiscordサーバーの新着が詰まっている。都市伝説フォーラム。投稿から数時間しか経っていないはずなのに、スクリーンショットがすでに何人もの手を渡っていた。


 画像を開いた瞬間、指が止まった。


 夜の音楽室だった。


 照明は落ちている。窓の外から差し込む光だけが、青白くぼんやりと室内をなぞっていた。アップライトピアノの輪郭。壁際の棚。傾いた譜面台。見慣れた学校の音楽室のはずなのに、画面の中では空気ごと入れ替わったみたいに別の場所だった。


 そして、黒板。


 中央に、白い文字が浮いている。


 篠原慧


 チョークで書いたように見える。

 だが、妙に整っていた。殴り書きの荒さがない。かといって定規を当てたような不自然さもない。線の太さがほぼ均一で、黒板の表面に馴染んでいるようで、どこか一枚膜を挟んでいるような——

 本物っぽいのに、信じ切れない。その半端さが、喉の奥にひっかかった。


「うわ」


 声が漏れた。


「それですか」


 横から覗き込む気配。

 初狩《はつかり》だった。

 いつもの眠たげな目が、こういう時だけ変に冴える。


「朝からみなさん元気ですね。嫌な話題ほど回転が速い」

「元気って言い方するか、普通」

「適切でしょう。怖がっているわりに、誰も画面を閉じていませんし」


 言われて、昇降口を見回す。

 みんな眉をひそめた顔をしながら、親指だけはせわしなくスクロールしていた。


 俺はもう一度、画像を拡大した。

 黒板の表面。文字の滲み。窓ガラスの反射。見るほど判断がつかなくなる。


「音楽室って、夜は鍵かかってるよな」

「かかってますね」

「じゃあ誰が撮ったんだよ」

「そこがもう、怪談として出来すぎてるんですよね」


 初狩は淡々と言ってから、少しだけ眉を寄せた。


「厄介なのは、現物を見た人がいないことです。写真はある。でも、今朝の音楽室の黒板を確認したという話はまだ出回っていません」

「……だよな」


 確認しに行ければ話は早い。だが音楽室は普段は施錠されていて、放課後は吹奏楽部が占有している。コンクール常連の部だけに顧問が厳しく、部外者が入るのを嫌う。鍵を借りるには理由がいるし、理由をつければ目立つ。


 夜中に忍び込んだ目撃者も名乗り出ていない。本当に書かれたのかどうか、その部分だけがすっぽり抜け落ちている。


 なのに、画像だけがある。


 その歪さが、ただの悪ふざけという箱に収まらなくしていた。


 背後から、別のグループの声が聞こえる。


「音楽室だろ? 夜閉まってんのにこれ何」

「幽霊じゃね」

「いや今どきAIとか加工とかあんだろ」

「でもさ、名前出たやつ、そのあとおかしくなるって」

「性格変わるってやつ?」

「急にキレっぽくなったとか聞いた」

「少し前にもいたな、誰だっけ」


 半分笑いながら話しているくせに、その輪の中で本気で否定する声がひとつもなかった。


 名前を書かれたやつは、壊れる。

 性格が豹変する。

 そんな噂だけが、ひとり歩きしている。


 どこまで本当かはわからない。けれど「わからない」まま広がる話ほど、妙にしぶとい。現物がないからこそ想像で埋められる。見ていないからこそ、勝手に輪郭が太くなる。


「”黒板のらしさ様”って呼ぶんだよな」


 誰かがそう言って、別の誰かが「それそれ」と笑った。

 軽い。名前だけ聞けば、ふざけた学校怪談だ。

 なのに、画面の中のあの写真は笑えなかった。


 俺はスマホを握ったまま、頭の中で並べた。

 クエストメール。観測者。夜の音楽室の黒板。名前を書かれた写真。壊れる、という噂。

 繋がっている——少なくとも、偶然で済ませるには気味が悪すぎる。


「ねむに投げるか」

「そうですね。あの人の庭みたいな場所ですし」


 その表現はやけにしっくりきた。


「たしかに庭か……」

「管理人のいる怪談置き場ですよね」


 俺はその場でねむに連続でメッセージを打った。


『朝から都市伝説フォーラムで回ってる画像、見たか?』

『音楽室の黒板に篠原慧って書いてあるやつ』

『投稿元わかるなら追ってほしい』


 少し迷って、もう一文つけ足す。


『なんか変だ』


 送信。既読はつかない。

 ねむの生活リズムは人間社会とゆるくしか繋がっていない。朝だから起きているという前提は、最初から持たないほうがいい。

 それでも、投げないよりはましだ。


 スマホを鞄に押し込み、教室へ向かう。

 廊下はまだざわついていたが、ホームルームの時間が近づくにつれ、みんな表向きは席へ戻りはじめていた。鞄を机に押し込み、教科書を出し、何事もなかった顔を作る。日常の膜が、薄く張り直されていく。


 その膜を、窓際のざわめきが破った。


「あれ、噂の人じゃない?」

「マジで?」

「篠原先輩じゃん」


 何人かが立ち上がりかけ、すぐに身を引く。見たいくせに、見ていると気づかれたくない。そんな中途半端な動きが、教室のあちこちで同時に起きた。


 俺もつられて窓の外を見た。


 校門から校舎へ続く通路を、ひとりの男子生徒が歩いてくる。


 長身。黒縁メガネ。隙のない制服の着こなし。背筋がまっすぐに伸びた歩き方。

 遠目でもわかる。見間違えようがない。


 二年四組。生徒会副会長。篠原《しのはら》慧《けい》。


 今朝からDiscordで出回っている、あの写真——夜の音楽室の黒板に名前を書かれた、その本人だった。


 教室のあちこちで、声がひそやかに弾む。


「普通に来てる……」

「知ってんのかな」

「いや、もう見てるだろ」

「でも全然ふつうじゃね?」


 ふつう。


 その言葉に、妙な引っかかりを覚えた。


 窓の外の篠原先輩は、たしかに平然として見えた。うつむいてもいない。怯えてもいない。周囲を窺うふうでもない。いつも通りに登校してくる、整った優等生そのものだった。


 けれど——それが逆に、据わりが悪かった。


 まるで最初から、そういう表情しか持っていない人間みたいに見えたからだ。


「……ねえ、高尾クン」


 後ろから、初狩の声が低く届いた。


「何」

「みんな、何か起きるのを待ってますよ」


 言われなくても、わかっていた。


 窓際に寄った連中も、離れた席で横目を使っている連中も、篠原先輩を心配する顔をしながら——目の奥では別のものを見ている。

 このあと、どうなるのか。

 噂どおりになるのか。

 壊れるのか。変わるのか。


 見ているだけの顔で、結末だけを待っている。


 ——観測者。


 昨夜のメールのその一語が、頭の底で冷たく鳴った。


 篠原先輩は昇降口の屋根の下へ入り、見えなくなった。

 それだけで、教室のざわめきがもう一段、深くなる。


 誰もまだ何も見ていない。

 何も起きてもいない。

 それでも、この学校のどこかで最初の一枚はもうめくられてしまった——そんな感触だけが、朝の光の中に残っていた。


 そして俺は、自分もまた窓のこちら側に立っていたことを、嫌になるほどはっきり意識した。



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