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■第16話「仮面が剥がれる日」


 被服部に通い始めて数日が経った。


 正式な入部届は出していない。「見学」と「手伝い」の中間のような立場で、放課後に旧館の家庭科準備室に顔を出す。山田先輩は「来たいときに来ればいい」としか言わないし、笹子先輩は俺と初狩が来るたびに嬉しそうな顔をする。


 居心地が悪くない場所に通い続けるのに、理由なんかいらないのかもしれない。


 その日も、放課後に初狩と二人で部室に向かった。


 扉を開けた瞬間——目に飛び込んできたのは、ブラウスを脱ぎかけた山田先輩と笹子先輩だった。山田先輩はすでにキャミソール一枚、笹子先輩はブラウスの前を半分開けた状態で、下のTシャツの裾が見えている。作業用のエプロンに着替える途中らしい。


「ちょ、ちょっと待ってください……!」


 初狩が俺の前に回り込んで、通せんぼする。小さい手のひら。爪が短く切り揃えてあって、右手の中指にペンダコがある。


「見ちゃだめです。目、逸らしてください」

「……すみません、ノックすべきでした」


 俺は言われるまま視線を横に逸らした。


「問題はそれだけじゃないです。先輩方も、着替えのときくらい鍵をかけてください!」

「あー、ごめんごめん。忘れてた」


 山田先輩は悪びれもせず、キャミソールの上からエプロンを被っている。笹子先輩はさすがに「わ、すんません」と少し慌てたが、手は止めずにTシャツの上からエプロンの紐を結んでいた。


「いつものことやし、あたしは気にしないけど……後輩の子たちが来ること、考えてなかったね。ごめん」


 山田先輩はすでにミシンの前に座って電源を入れていた。着替えの速度が尋常ではない。


 初狩がゆっくり手を下ろす。頬が薄く赤い。


「……恥ずかしくないんですか?」

「俺に言われても困る」



**



 作業が始まった。


 山田先輩は文化祭用の衣装の縫製。笹子先輩はアパレルCADで新しい型紙のデータを引いている。初狩は先輩に頼まれた小物——ブローチの台座部分を紙粘土で試作中。俺は特にやることがなかったので、部室の隅でスマホを見ながら次のコスプレ撮影の構図を考えていた。屋上以外のロケーションも検討しておいたほうがいい。


 作業の合間に、初狩がスマホで何かを操作していた。覗くつもりはなかったが、画面にpixivのアップロード画面が見えた。


「投稿してるのか」

「前に持ってたアカウントを復活させました。中学のときに作ったまま放置してたんですけど」

「へえ」

「描く場所は高尾クンのおかげで見つかりましたけど、見せる場所がなかったので。漫研も美術部も追い出されましたからね」


 初狩はそう言って、画面を俺のほうに少しだけ傾けた。アカウント名は「SIG_UI」。投稿数はまだ一桁だった。


「反応は?」

「ほぼゼロです。でも、投稿ボタンを押す瞬間だけ、誰かに届くかもしれないって思えるんですよ。それだけで描く理由が一個増えるんです」


 初狩はそう言って、画面を俺のほうに少しだけ傾けた。アカウント名は「SIG_UI」。投稿数はまだ一桁だった。

 それからしばらくして、ふいに初狩は顔を上げる。


「そろそろ衣替えの時期ですよね」


 初狩が紙粘土をこねながら言った。


「まだ朝は涼しいけどな。教室はもう暑いんやろ?」

「窓側の席は地獄です」

「冬服、早く脱ぎたい派?」

「わたしはどっちでも。制服にこだわりないので」

「もったいないなぁ。制服かて、着方ひとつで印象ぜんぜん変わるんやで?」


 初狩の手元に視線が向く。蝶の翅をモチーフにした台座を作っている。アイメイの蝶子だろう。この子は立体物にも興味があるのか。


「笹子先輩の制服は、学校側から特に何か言われたりはしてないんですよね?」


 初狩が自然な流れで尋ねた。衣替えの話題の延長線上にある質問だ。


 俺はスマホで桂明高校のウェブサイトを開いた。生徒指導方針のページに「多様な性自認・性表現への配慮」の一文がある。具体的な運用は書かれていないが、少なくとも建前上は制服選択に柔軟性を認めている。


「ジェンダーへの配慮は一応書いてある」


 俺が補足すると、笹子先輩は少し困ったように笑った。


「……そこまで、きれいな話でもないで」


 ミシンの音が遠くなった気がした。


 先輩はCADの画面から目を離し、椅子ごとこちらに向き直った。


「勘違いされがちやから、言っとくな」


 一拍の間。


「うち、トランスジェンダーちゃうで」



**



 初狩の目が瞬いた。


 俺は——驚かなかった。正確には、驚きと同時に「ああ、そういうことか」と腑に落ちる感覚があった。先輩の振る舞いの中に、言語化できない違和感がずっと引っかかっていた。それが今、形を取った。


 先輩は淡々と話した。


「自分のことは男やと思ってる。そこは変える気ない。ただ、女の子の服を着るのが好きなだけや。落ち着くし、楽やし……それ以上でも、それ以下でもない」


 初狩が少し首を傾げた。


「じゃあ、女の子になりたいわけじゃないんですね」

「全然。うちは男のままでええよ。ただ、こっちの服のほうがしっくりくるだけや」


 先輩はそこで少し笑った。


「オタク用語で言うたら『男の娘』が一番近いかもしれへん。ただ、キャラでやっとるわけやない。姉ちゃんらに着せられて育ったし、自分でも好きやったし……気づいたらこっちのほうが自分やった、ってだけの話や」


 山田先輩は最初から知っていたのだろう。反応ひとつせず、ミシンの針が布を送る音だけが規則的に続いている。

 俺の中で、何かが噛み合った。


 先輩を見て「トランスジェンダーなんだ」と思っていた。周りもそう思っている。だが先輩は「女の子の服が好きな男」であって、「女の子になりたい男」ではない。その二つはまったく違う話なのに、外から見ると同じ箱に入れられる。

 先輩がそれを訂正しなかったのは——訂正しても、聞く側が同じ箱に戻すからだ。


「笹子先輩」


 初狩が言った。


「わたし、ずっと先輩のこと、『女子制服を着ている男子生徒』って見てました。それだけ。先輩が何を好きで、なんでそれを着てるか、考えたこともなかった」


 謝ってはいない。「勉強不足」とも言っていない。ただ、自分が見ていなかったものを認めている。


「……まあ、ほとんどの人がそうやと思うよ」

「でも、わたしがそれじゃ駄目だと思ったので」


 先輩が一瞬だけ目を見開いた。それから——困ったように、でも嬉しそうに笑った。


「時雨ちゃん、真っ直ぐやなぁ」


 俺は黙っていた。何か気の利いたことを言おうとして、やめた。先輩が欲しいのは理解者の看板じゃない。目の前の人間がちゃんと見てくれること。それだけだ。


 黙って受け止める。それでいい。


**



 入口のあたりで、音がした。


 ばさり。


 紙が床に散らばる音。振り向くと、部室の扉の前に女子生徒が立っていた。


 水島沙耶。


 足元に書類が何枚か落ちている。クラスの配布物を笹子先輩に届けに来たのだろう。扉は半開きで、水島先輩はその隙間から中を覗くような姿勢のまま——固まっていた。


 顔色が違っていた。いつもの人懐っこい笑顔がない。目が見開かれ、唇が微かに震えている。


 聞いていた。


 先輩のカミングアウトの、少なくとも一部を。


「笹子さん……今言ったこと、本当なの?」


 声が小さかった。だが、静まり返った部室では、はっきりと聞こえた。


 笹子先輩の笑顔が消えた。代わりに浮かんだのは、申し訳なさと覚悟と諦めが混じったような表情だった。


「沙耶ちゃん……どこから聞いてた?」

「トランスジェンダーじゃないっていうところから」


 水島先輩の声が少しずつ大きくなっていく。


「騙してたの?」

「騙してはいないやん。聞かれたことないし、うちから言う機会もなかっただけで——」

「なんで黙ってたのよ!」


 声が跳ね上がった。足元の書類を踏んでいることに気づいていない。


「私、ずっとあなたの味方だって思ってたのに」


 先輩が何かを言いかけた。水島先輩のほうが速かった。


「だったら最初から言ってほしかった。理解者だって思ってたのに——」

「ごめんな。どうしても言い出されへんかった」

「謝ってほしいんじゃない!」


 水島先輩の目に涙が滲んでいた。怒りだけではないように見えた。本当に傷ついた人間の顔に思える。


「騙されたって思う。どうして大事なこと隠してたの」

「大事なこと……」

「私の気持ちなんてどうでもいいみたいじゃん」


 先輩が顔を伏せた。


「ごめんな」

「人の優しさを都合よく使うなんて、許せない!」

「……ごめん」


 先輩は「ごめん」を繰り返すしかなかった。どう説明しても、水島先輩の「裏切られた」は覆せない。事実の問題ではなく、感情の問題だからだ。


 俺は口を挟めなかった。


 水島先輩の怒りは、主観的にはリアルだ。「信じていた相手に嘘をつかれた」と感じている。その痛みは本物だろう。


 だが——水島先輩が「理解者」として先輩に近づいていたのは、先輩が「トランスジェンダーだから」だ。多様性を理解している自分。マイノリティの友人がいる自分。そういう自己イメージのために、先輩の存在を必要としていた。


 先輩がそのカテゴリから外れた瞬間、自己イメージが崩れた。理解者としての自分が否定された。だから怒っている。


 水島先輩は——笹子玲という人間を見ていたのではない。


 初狩が隣で拳を握りしめているのが視界の端に見えた。何か言いたそうにしている。だが言わない。この場で口を挟むことが事態を良くするとは限らない。


 山田先輩はミシンに向かったままだった。手は止まっている。背中だけがこちらを向いている。


「……もういい」


 水島先輩はそう言って、足元の書類をテーブルに叩きつけるように置いた。踵を返す。扉が閉まる。廊下に足音が遠ざかっていく。


 静寂。


 ミシンの音すら消えた部室に、窓の外から鳥の声が届いた。


 視界の端に、白い影が揺れた。窓際の壁に寄りかかるようにして、オボロがいた。金色の目が細められている。


『お(ぬし)は、どちらが正しいと思う?』


 声は俺にしか聞こえない。


『勘違いした者か、それともさせた者か』


「——勘違いした者か、それとも……」


 反射的に口が動いていた。途中で気づいて唇を閉じる。だが遅かった。声は出ていた。小さく、だが確実に。


 初狩がちらりとこちらを見た気がした。



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