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■第15話「理解者の仮面」


 旧館の二階、廊下の突き当たり。少し塗装の剥げた木製の扉に、消えかけた文字で「家庭科準備室」と書かれたプレートが貼りついている。


 ここが被服部の部室だ。


「失礼します」


 初狩がノックして扉を開けた。俺はその後ろについて中に入る。


 思ったより広い。窓が二つあって、そこから差し込む夕方の光が室内を斜めに横切っていた。壁際には年代もメーカーも違うミシンが四台並び、一台だけやけに新しいものが混じっている。作業台は二つ。天板には使い込まれた傷と、何かの染料の染みが残っていた。


 布を被せたトルソーが部屋の隅に二体。色褪せた端切れの山。名前の書かれた古い段ボール箱。空気に微かな布と油の匂いが混じっている。ミシンの金属部分が窓からの光を受けて、鈍い金色に光っていた。


「まあ座りなよ」


 山田先輩が作業台の脇からパイプ椅子を二つ引っ張り出してきた。座面にクッションカバーが掛けてある。手作りだろう。


「お茶しかないけど、どうぞ」


 笹子先輩が棚の奥からペットボトルの緑茶と紙コップを出してくる。俺と初狩は並んで座り、紙コップを受け取った。


 部室の空気は——静かだった。良い意味で。


 山田先輩はすでにミシンの前に座っていて、何かの型紙をピンで布に留めている。作業の手を止めずに会話する。その姿勢に、飾りがない。笹子先輩は作業台の反対側で、アパレルCADのソフトが開いたノートPCに向かいつつ、ときどきこちらを振り返った。


 二人の間に、気を遣い合うような緊張がない。互いの存在を当然のものとして受け入れている。


 初狩が先輩のノートPCの画面を覗き込んだ。


「笹子先輩、これファーメイの衣装の型紙ですか?」

「せやで。こないだ屋上で着とったやつの改良版。マントの裏地の縫い代が甘かったから、修正しとるとこ」

「この襟のラインの取り方……原作だとフラットカラーに見えますけど、立体にしてるんですね」

「よう見とるなぁ。フラットやと動いたとき裏返るねん。ステージ用なら立体のほうが安定する」


 衣装談義が始まった。初狩が細部の処理について矢継ぎ早に質問し、笹子先輩がひとつひとつ丁寧に返す。技術的な話と推しへの熱が入り混じっていて、端で聞いている俺にはほぼ外国語だった。


 手持ち無沙汰になり、部室の中を見回す。壁に貼られたアイメイの公式イラストと、ファッション雑誌の切り抜き。作業台の引き出しから覗くメジャーとチャコペン。刃の大きさが違うハサミが三本、柄を揃えて並んでいる。


 ミシンの音。布の匂い。夕方の光。


 悪くない場所だ、と思った。



**



「才くん、暇そうやね」


 笹子先輩が笑いながらこちらを見た。


「いえ、大丈夫です。衣装の話は門外漢なんで」

「そう? 才くんは写真撮れるやん。衣装だけ良くても写真がアカンかったら意味ないんやで」

「それは……まあ、そうかもしれませんが」


 先輩はノートPCの画面を閉じ、椅子ごとこちらに向き直った。


「なあ、才くん。被服部って何する部活か知っとる?」

「服を作る部活、じゃないんですか」

「半分正解。うちはな、コスプレもやるし、普通の服もリメイクするし、衣装デザインの勉強もする。でも一番大事なのは——自分が着たいものを、自分で作れるようになること」

「自分の理想を実現する、と」

「そう。誰かに着せられるんやなくて、自分で選んで、自分で作る。それだけの話やけど——まあ、それが難しいことでもあるんやけどな」


 何でもないことのように言う。だが、その言葉を口にするとき先輩の声が一段低くなったことを、俺は聞き逃さなかった。


「笹子先輩は、いつからこの部に?」


 先輩の表情がわずかに変わった。笑顔は消えていないのに、目の奥にだけ何かが過ぎる。


「……一年の秋くらいやな」


 間があった。


「最初は演劇部やったんよ」



**



 先輩は淡々と語り始めた。


 声の調子は普段と変わらない。おっとりした京都弁で、どこか他人事のように——いや、他人事にしようとしているように。俺は黙って聞いた。初狩も言葉を挟まず聞いている。山田先輩だけが、ミシンの前で作業を続けていた。


 入部は一年の春。新しい舞台の配役を決める日、女子役が足りなくなった。顧問が軽い調子で「誰かやってみるか」と言い、先輩は手を挙げた。姉が二人いて、幼い頃から服を着せられていた。抵抗はなかった。むしろ——


「小さい頃から、姉ちゃんらに着せられとってな。最初は遊びやったけど、いつからか嫌やなかった。むしろ好きやった。姉ちゃんに借りたスカートとブラウスは、ずっと手元に置いてあったんよ。鏡の前で何回も髪とかしたわ。似合ってるかな、って」


 リハーサルの日。スカート姿で稽古場に現れたとき、下級生の何人かが「玲くん似合ってるー」と声をかけてくれた。


 だが、二年生以上の反応は違った。


「表情がな、固まっとった。リーダー格の女子が隣の子に小声で何か言うて——はっきりとは聞こえへんかったけど、視線の温度でわかった。歓迎されてへん、って」


「最初はな、気のせいかなと思ったんよ。自意識過剰なだけかもって」


 精一杯セリフを覚えて稽古に臨んだ。真面目にやれば認めてもらえると思った。


 日が経つにつれて空気が変わっていった。「なんで男子がそんなことやるの」「普通に女子がやればいいじゃん」——面と向かって言われたわけではない。聞こえるか聞こえないかの距離で、背中越しに。


「稽古が終わるたびにな、二年の輪から外されるようになった。グループLINEでも、練習時間の連絡がうちにだけ回ってこーへんくなって」


 無視。排除。暴力はない。暴言もない。ただ、いるべき場所から少しずつ、少しずつ押し出されていく。


 俺は聞きながら、胸の奥が冷たく沈んだ。


 知っている。この構造を、俺は知っている。


「部室で一人残された日があってな」


 先輩の声が一段低くなった。


「スカート畳んで、カバンにしまって。帰り道にずっと考えとった。みんなが嫌がってること、なんで気づかんかったんやろうって」


 排除される側が自分を責める。悪いのは自分だと思い込む。嫌がらせをした側ではなく、嫌がられた自分に原因があると考える——その構造の残酷さを、俺は身体で知っている。


 先輩は小さく息を吐いた。


「自分らしくいたいって願うことが、どうしてこんなに難しいんやろうなって——」


 言いかけて、口を閉じた。


 ミシンの音だけが部室に残っている。山田先輩の手は止まっていない。


 初狩が何か言おうとして、やめた。俺も同じだった。「大変でしたね」では、あまりにも軽い。


「……で、辞めたんですか。演劇部」


 俺は事実だけを聞いた。先輩が求めているのは同情ではないと判断した。


「うん。辞めた」

「それで、この部に」

「それがな」


 先輩の目が変わった。暗さが抜けたわけではない。だが、何かを思い出すときの——柔らかくて、壊れやすいものに触れるような目。


「演劇部辞めた日、校舎の裏手でぼーっとしとったんよ。抜け殻みたいになってな。そしたら——」


 先輩の視線が、ミシンの前に座る山田先輩に向いた。


「隣に座ってきた人がおった」



**



 山田先輩はミシンの手を止めなかった。先輩の話が聞こえていないわけがない。聞いた上で、あえて反応しないのだろう。


 先輩は続けた。


「『君って笹子玲くんだよね? 演劇部で衣装を作っていたって聞いたよ』って」


 衣装。先輩は演劇部で女子役をやっただけではなく、舞台衣装の手直しも手伝っていたらしい。そちらの技術のほうが、本来の先輩の強みだった。


「それでな、いきなり言われたんよ。『美人さんだね』って」


 山田先輩のミシンの音が、一瞬だけ速くなった気がした。


「『制服の着こなしもちゃんとしてる。ただ着たいだけじゃないってのも伝わるね』——そう言われて、うち、何にも返せへんかった」

「……で、スカートめくろうとしたんだっけ」


 山田先輩がぽつりと言った。初めて口を開いた。


「し、しましたね。『さすがにそれはマズいですよ!』って叫びましたわ」

「ちょっと確認したかっただけなんだけどね」

「何を確認するんですか!」


 笹子先輩の声が裏返り、山田先輩が飄々と肩をすくめる。初狩が小さく吹き出した。


 笹子先輩は咳払いをして、話を戻す。


「冴子先輩がな、言ってくれたんよ。『被服部、知ってる? 今ほとんど人がいなくて廃部寸前なんだ。うちさえよければ、一緒に服作ってみない?』って」


 被服部に初めて顔を出すと、部室には山田先輩と引退間際の三年生が二人いるだけだった。狭くて、古くて、ミシンの油の匂いがする部屋。——でも、誰の視線も冷たくなかった。


 先輩が持ち込んだ衣装の端切れを仕立て直す手つきを、山田先輩はじっと見ていたという。


「『やっぱり上手だね』」


 山田先輩はそれだけ言った。スカートのことは聞かなかった。女装のことも聞かなかった。


 服を作る腕を見て、「上手だね」と言った。それだけだった。


「ここなら、自分を責めんでええかもしれへん——そう思ったんが最初やった」


 先輩は笑った。さっきまでとは違う笑顔だった。壊れやすいものに触れる目ではなく、すでにそれを手の中に収めている人間の目。


 俺は山田先輩を見ていた。


 この人は、笹子先輩がトランスジェンダーかどうかなど一度も聞いていない。カテゴリで人を見なかった。ラベルを貼らなかった。ただ目の前の人間が何をできるかだけを見た。


 俺は——人をそんなふうに見られているだろうか。

 いや、今まさに「トランスジェンダーかどうか」というフレームで先輩を見ていた時点で、俺はもう山田先輩と同じ場所には立てていない。


**



 回想の余韻が部室に残っているところに、扉がノックされた。


「笹子さん、いる?」


 明るい声。扉が開いて、女子生徒が顔を覗かせた。ポニーテールに、人懐っこい笑顔。制服を綺麗に着こなしていて、手首に細いブレスレットが光っている。


「あ、沙耶ちゃん。どしたん?」

「この前の体育祭の写真、インスタに上げていい? 笹子さんが写ってるやつがあってさ」

「別にええけど……変なのは載せんといてな」


 笹子先輩は自然に応じた。沙耶と呼ばれた女子が部室を覗き、俺と初狩に気づく。たしか笹子先輩のSNSで名前を見かけた気がする。フルネームが水島沙耶。


「後輩さん? いいなぁ、被服部にぎやかになるね!」

「まだ見学ですけど」

「見学でも来てくれるだけで嬉しいよね。笹子さん、よかったね」


 にこにこと笑いながら軽く手を振り、去っていく。廊下の足音が遠ざかるまで、その明るさは揺るがなかった。


 水島先輩が去ったあと、山田先輩がぽつりと言った。


「あいつ、最近よく来るな」

「うん。気にかけてくれてるみたい」


 笹子先輩はにこりと笑った。嬉しさと、ほんの少しの遠慮が混じった顔だった。


 山田先輩は興味のないことには反応しない人だと思う。


 俺はその沈黙の温度を、記憶に留めた。



**



 翌日。


 放課後の渡り廊下を一人で歩いていると、あの絵の前に人がいた。


 水島沙耶だ。昨日、被服部に来た女子。スマホを構えて「のっぺらぼうの少女」の絵を撮影している。画面にはメモアプリも開いていて、何かを打ち込んでいるようだった。


 俺が近づくと、彼女がこちらを向いた。


「あ、昨日の——被服部の後輩くんだよね?」

「高尾です」

「高尾君。この絵知ってる? なんか面白い仕掛けがあるらしいよ」

「都市伝説ですよね」

「そうそう。顔のない少女の前に立つと、のっぺらぼうの顔の中に文字が浮かぶんだって。試した?」

「いえ」


 嘘をついた。「凡才」が見えたことを、この人に話す理由はない。


「そっかー。私もちょっと気になってて。面白いよね、こういうの」


 水島先輩はスマホをポケットにしまい、軽く手を振って去っていった。興味本位。それ以上でもそれ以下でもない——ように見えた。


 俺は絵の前に立ち、彼女がメモに打ち込んでいた文字を思い出そうとした。距離があったので画面は読めなかった。だが、撮影していたのは確かだ。


 嫌な予感がする。


 理由をうまく言葉にできない。水島先輩の笑顔に悪意は見えなかった。「面白いよね」という言葉にも棘はなかった。ただ——何かが引っかかる。



**



 その夜。ベッドに転がり、Discordを巡回していた。


 「のっぺらぼうの少女」のスレッドに新しい書き込みが増えている。相変わらず怪談レベルの噂話が大半だが、一件だけ目が留まった。


『顔のない少女の前に立つと、見た人にだけ文字が浮かぶんだよね。それってその人の本性じゃないかな?』


 投稿者——「saaaaaaya0572」。


 書き込みの内容は他の噂と大差ない。だが、妙に気になった。「見た人にだけ文字が浮かぶ」——それは曖昧な怪談話ではなく、実際の仕掛けを踏まえた記述に近い。昼間、水島先輩が絵を撮影しながら観察していた姿が重なる。


 俺はアカウント名と、放課後の渡り廊下を並べた。


 あの絵の仕掛けに気づきつつある人間が、少なくとも二人いる。一人は俺。もう一人が——。


 「saaaaaaya0572」と水島沙耶が同一人物かどうかは、まだ断定できない。だが、俺の中の何かが「覚えておけ」と言っている。


 天井を見上げた。


 クエストは「レッテルの正体を見極めろ」と言っている。まだレッテルは誰にも貼られていない。何も起きていない。


 だが——笹子先輩が語った被服部の空気。山田先輩が作った、偏見のない場所。あの静かな部室が、もし壊されるとしたら。


 俺は目を閉じた。


 明日も、被服部に行こう。見学じゃなく——いや、まだ「見学」でいい。


 ただ、見ておく必要がある。あの場所に何が起きるのかを。


 それが観測者の仕事だ。



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