■第14話「のっぺらぼうの少女」
屋上は、風が強かった。
コンクリートの床に夕方の光が薄く広がり、フェンス越しに校舎の影が長く伸びている。梅雨入り前の空はまだ明るく、薄い雲が風に流されて形を変えていく。
山田先輩が一眼レフタイプのデジタルカメラを差し出した。動画も撮れるタイプだ。
「説明いる?」
「いえ、この手のカメラは扱い慣れてます」
「じゃ、まずは静止画から」
「あ、あの——」
初狩が小さく手を挙げた。
「先輩方を、スケッチしてもいいですか。なんかいい絵が描けそうで」
「いいよ。初狩ちゃん、絵描きなんだ」
「ええ、まあ……」
「部活は美術部?」
「いえ……その」
「漫研とか?」
「すみません。どっちも追放されました」
「そっか」
山田先輩はそれ以上聞かなかった。深掘りもしなければ、同情も挟まない。「そっか」のひと言で受け取って、次に進む。
「それよりも撮影始めるんですよね? わたし、邪魔にならない場所でスケッチしてますので」
初狩はフェンス際のコンクリートブロックに腰を下ろし、スケッチブックを膝の上に開いた。
「じゃ、いこっか」
山田先輩が手際よくポジションを決める。笹子先輩——ファーメイの衣装のまま、軽く肩を回して応じた。
「了解です。あんまり盛りすぎんといてくださいよ」
「盛るのは編集でやるから」
軽口を叩き合う二人は、完全に息が合っていた。
俺はファインダーを覗き込む。笹子先輩がゆっくりと構えを取った瞬間、シャッターを切った。
モニターに映った画像を見て、息を呑む。
衣装の再現度。足の運び。重心の位置。風に靡くスカートの動き。全部が「ファーメイ」だった。コスプレを着た男子高校生ではない。キャラクターそのものがそこに立っている。
「……すごいな」
「でしょ。こういうの、動きがきれいなんだよね」
山田先輩が腕を組んで頷く。笹子先輩は少し照れたように頬を掻いた。
「うち、格ゲーのキャラやと体の向きとかクセで覚えてしもてるだけやし」
「その"だけ"が大事なんですけどね」
静かな声が聞こえた。フェンス際で、初狩がスケッチブックにペンを走らせている。目線は紙の上だった。
撮影の合間にちらりと覗く。荒いスケッチではなかった。立ち方、重心の移動、風に揺れるスカートの線——人間の「動き」そのものが紙に写し取られている。
圧倒的な才能の塊。凡才の俺には、嫉妬という感情すら届かない高さだ。
「何か言いました?」
独り言が漏れていたらしい。初狩がペンを止めずに聞いてくる。
「なんでもない」
撮影は順調に進んだ。勝利ポーズ、挑発ポーズ、技の一瞬の残心。俺は夢中でシャッターを切り続けた。ファインダー越しの世界は心地いい。自分がどこにもいなくなれる。
「高尾ちゃん、カメラ慣れてるね」
山田先輩に言われて、少しだけ肩が強張った。
「母がカメラを仕事で使う人で、小学校の頃から手ほどきを受けていたんですよ。デジカメじゃなくてフィルムも扱わされたんで、最初はだいぶフィルムを無駄にしましたけど」
「十年選手じゃん。どうりで、フレームが安定してるわけだ」
褒められ慣れていない。視線をファインダーに逃がして、次のシャッターを切った。
**
撮影が終わると、山田先輩が腕を伸ばしながら言った。
「今日はありがと。高尾ちゃんのカメラ、かなりいいよ。——そっちの初狩ちゃんも、スケッチ見せてもらったけどプロレベルだよね。同人誌とかやってそう」
「ファンアートはけっこう描いてますよ。蝶子とかファーメイとか」
「だったら衣装の細部を描き起こせるよね。コスプレ作るとき参考になりそう」
「冴子先輩、そんな物欲しそうな顔してると逃げちゃいますよ」
笹子先輩が苦笑いでツッコむ。山田先輩は悪びれもしない。
「うち人手足りないんだよね。見学だけでもどう?」
被服部への勧誘。唐突だが、山田先輩の口調に押しつけがましさはなかった。「来たければ来い」。それだけだ。
「考えておきます」
「行きます」
俺と初狩の返事が同時だった。
初狩の即答に、山田先輩が「お、いいね」と笑う。笹子先輩も「やったー、時雨ちゃんと蝶子の話できるー」と無邪気に喜んでいる。
俺は「考えておきます」と言った。嘘ではない。部活動に所属するということは人間関係が発生するということだ。面倒事が増える。損得勘定で言えば、メリットは少ない。
——なのに、断らなかった。
初狩がこちらを見て、わずかに口角を上げた。「行くんでしょう?」とでも言いたげな目だ。
俺は視線を逸らした。
**
廃墟ゲーセンREX。
シャッターの隙間から滑り込み、ポータブル電源のスイッチを入れる。薄暗い店内に、筐体の画面とデスクトップPCのモニターの光だけが灯った。カビと埃と古い配線の匂い。いつもの風景だ。
初狩は真っ直ぐ奥のPCに向かい、ペンタブレットを接続している。最近は毎日のようにここで何かを描いている。何を描いているのかは聞いていない。聞かないのが、今の俺たちの距離感だ。
「初狩」
「はい?」
「Discordで、ちょっと面白い噂が流れてる」
スマホの画面を見せた。「のっぺらぼうの少女」の都市伝説スレッド。初狩は手を止め、画面をスクロールしていく。
「面白い噂ですね。見た人にだけ文字が浮かぶ、ですか」
「昨日、俺もあの絵の前を通ったんだが——」
言いかけて、止めた。
「凡才」が見えたことを、初狩に言う必要があるのか。錯覚か仕掛けか判断がつかない段階で、中途半端な情報を共有するのは非効率だ。
「通ったんですが?」
「いや……まだ事件性はないなと思って。ただの怪談だ」
初狩は少し首を傾げたが、追及はしなかった。視線がスレッドに戻る。
「でも、この学校の都市伝説って——前の二件もそうでしたけど、ただの噂で終わったことがないですよね」
鋭い。まったくその通りだ。「座敷童は"いない子"の影」も「絶死の呪い」も、最初は怪談レベルの噂だった。それが現実の誰かの痛みと接続した。今回もそうならないとは限らない。
『面白くなりそうじゃな』
背後で声がした。
振り向くと、薄闇の中にオボロがいた。白い毛並みが筐体の光を受けて、ぼんやりと輪郭だけを浮かばせている。口元だけが笑っていた。
「面白がるな」
『面白がっておるのはお主もじゃろう。あの絵が気になっておる顔をしておったぞ』
「……気になるのと面白がるのは違う」
オボロは答えず、煙のように薄くなって消えた。あいつはいつもそうだ。核心だけ突いて、後は知らん顔で消える。
その時——デスクトップPCのモニターが明滅した。
メールソフトに新着の通知。差出人は——不明。
俺と初狩は顔を見合わせた。
アプリを開く。
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差出人:不明
件名:クエストNo.0003『のっぺらぼうの少女』
本文:
【ミッション】レッテルの正体を見極め、真相を解明しろ。
それは、本当に"顔がない"のか。
それとも、誰かが削ぎ落としただけか。
貼られた言葉を、信じるな。
残ったものを、観測しろ。
真相は、
語られていない場所にある。
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「レッテル——」
俺は画面を睨んだ。
「レッテルの正体を見極めろ、か。……まだ誰にもレッテルは貼られてないんだが」
都市伝説は怪談レベルの噂でしかない。特定の誰かが攻撃されているわけでもない。あの絵の前で「凡才」が見えたのは俺だけの体験であって、被害者がいるわけでもない。
なのに、クエストが届いた。
今までのクエストは、起きている問題か、これから起きる予兆かのどちらかだった。「いない子にされる」は初狩へのいじめがすでに始まっていた。「絶死の呪い」は安田が巻き込まれるより先にメールが届いていた。
だが今回は、誰が傷つくかすら見えない。
予兆だ。これから何かが起きるという——予告。
『これからじゃよ』
オボロの声が、薄闇のどこかから届いた。姿は見えない。
俺は画面を見つめたまま、何も言い返せなかった。
初狩が楽しそうに笑いながら呟く。
「……来ましたね、次のクエスト」
「ああ」
「高尾クン」
「なんだ」
「さっき、あの絵の前を通ったとき——何か見えたんじゃないですか?」
やはり誤魔化せなかったか。この子は妙に勘が鋭い。いや——絵を描く人間は観察力が高いのだ。俺の顔のわずかな変化を、読み取ったのだろう。
「……文字が見えた気がした。目の錯覚かもしれない」
「なんて?」
「——凡才」
言ってしまってから、少し後悔した。
だが初狩は笑わなかった。
「なるほど。それは確かに、高尾クンには刺さりますね」
「容赦ないな、お前」
「事実ですから」
初狩は画面に目を戻した。
「レッテルの正体を見極めろ——ですか。面白い問題設定ですね」
「面白いって言うな」
「事実です」
初狩がもう一度小さく笑う。
俺はクエストメールをもう一度読み返した。
——貼られた言葉を、信じるな。残ったものを、観測しろ。
まだ何も見えていない。何が起きるのかもわからない。
だが、一つだけわかることがあった。
あの絵には、何かがある。そして、それを利用しようとする誰かが——これから、現れるということを。




