■ 第13話 渡り廊下の絵と、顔のない少女
壁に掛けられた絵が、俺に向かって⼆⽂字の⾔葉を投げつけた
『凡才』と……。
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旧館と新館をつなぐ渡り廊下は、この学校で唯一、時間の流れ方が違う場所だと思う。
壁の両側に卒業生の絵画作品が並んでいる。油彩、水彩、アクリル。テーマも画風もばらばらで、年代順に並んでいるわけでもない。ただ何十枚もの絵が、色褪せたり日焼けしたりしながら、誰に見られるでもなく壁に貼りついている。
放課後の渡り廊下は人通りが少ない。新館側の部活棟に用がある生徒は一階の連絡通路を使うし、旧館に残るのは被服部や天文部みたいなマイナー部活の連中くらいだ。俺がここを通るのは、単に帰り際の人混みを避けたいだけの話で、それ以上の理由はない。
だから、いつもなら素通りしていた。
なのに今日は、足が止まった。
廊下の中ほど、やや高い位置に掛けられた一枚。他の作品と同じB3サイズの額縁に収まっているのに、そこだけ空気の密度が違った。
制服姿の少女が描かれていた。桂明高校の濃紺ブレザーに、グレーのチェック柄スカート。赤いネクタイ。正面を向いている。
——顔がない。
目も鼻も口もなく、肌色の楕円がそこにあるだけだ。
のっぺらぼう。
そう呼ぶしかないほどに、その空白は鮮烈だった。ブレザーの縫い目、ネクタイの織り模様、スカートのプリーツに落ちる影。制服のディテールが驚くほど精密に描き込まれている分、顔だけがぽっかりと欠けていることの異様さが際立つ。
技巧的にも高校生の域を超えている。背景は抽象的な灰色のグラデーションで、特定の場所を描いたものではない。少女の立ち姿だけが、静かにこちらを——見ている。目がないのに。
何かに引っ張られるように絵の前に立ち尽くしていると、不意に視界の隅がちらついた。
額縁と壁のあいだ。うっすらと、文字が浮かんだ気がした。
——凡才。
目を細める。もう一度見る。何もない。壁のわずかな汚れと、蛍光灯の反射があるだけだ。
「……残像か。目の錯覚か」
声に出してから、周囲に誰もいないことを確認した。独り言の多い人間は信用されない——そういう損得勘定が反射的に働く。いつもの癖だ。
だが、見えた文字は頭に残っている。
凡才。
よりにもよって、一番見たくない二文字だった。俺は小説を書いている。ネットに投稿している。大した評価は得られていない。文芸部を追い出された理由は「低俗なラノベを持ち込んだ」だ。凡才。その言葉が刺さらない日はない。
だからこそ引っかかった。あれが単なる錯覚なのか、それとも何か仕掛けがあるのか。
額縁の裏側に手を伸ばしかけて、やめた。学校の備品を勝手にいじるのはまずい。それに、仕掛けがあるなら触って壊すのは一番愚かな手だ。
観測しろ。触るな。壊すな。記録しろ。
俺はスマホで絵の全体を撮影し、額縁の下に貼られた小さな紙を確認した。
——二〇一七年度卒業制作。
読めたのはそこまでだった。紙は経年で少し黄ばんでいて、他にも細かい文字が並んでいるように見えるが、ここからでは潰れていて判別できない。題名も作者名も、その場ではわからなかった。
額縁の右下の隅にも、何か小さな文字がある。署名か、管理番号か、あるいは連絡先の類かもしれない。だが薄くて読みづらい。今は時間もないし、無理に覗き込んで触るのは悪手だ。
写真に収まっていることだけ確認して、俺は先に進んだ。
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その夜。ベッドに転がり、スマホの画面を睨む。
桂明高校の非公式Discord——ねむが作成し、今も管理を続けているサーバーだ。前のクエストで都市伝説の拡散は止まったが、サーバー自体は閉じさせていない。噂の流れを追うにはあそこが一番都合がいい。ねむもそれをわかっていて、黙って管理者を続けている。
都市伝説フォーラムをスクロールしていくと、見覚えのない話題が立っていた。
『渡り廊下ののっぺらぼうの絵って知ってる?』
『あー、あの顔のないやつ? 二年の先輩が気持ち悪いって言ってたやつだろ』
『あの絵の前に立つと、見た人にだけ文字が浮かぶらしいよ』
『マジ? 何が出るの?』
『人による。自分の本質を暴かれるんだってさ』
『都市伝説じゃん笑』
『試した人いるの?』
『友達が試したって言ってた。「臆病」って出たって』
『うそくせーーー』
怪談レベルの噂話だ。具体的な被害報告はなく、「友達が言ってた」の連鎖。ありふれた学校の都市伝説——そう片づけるのは簡単だった。
本当なら、昨夜届いた差出人不明のメールの方を考えるべきなのかもしれない。
——あなたは、あなた自身の真実を知りたいですか?
それとも知りたくないですか?
あの一文は、まだ頭の奥に引っかかったままだった。
オボロが珍しく黙り込んでいたことも含めて、思い返すたびに気分が悪くなる。
けれど、自分のことを考えるより先に、外にある異物の方へ目が向く。
渡り廊下の絵。顔のない少女。見た人にだけ文字が浮かぶという噂。
観測者なんて、たぶんそういう逃げ方の言い換えだ。
だが、俺には引っかかるものがある。
今日、あの絵の前で「凡才」が見えた。
偶然の一致にしては出来すぎている。友人が試して「臆病」。俺が見て「凡才」。もしこれが思い込みではなく何らかの仕掛けによるものなら——原理としてはどうなる?
目の前に立った人物に、その人物だけに見える文字を表示する。一対一の表示。角度を限定した光の反射か、レンチキュラーレンズのような視差を利用した仕掛けか。いや、「人によって違う文字が出る」のだとしたら、固定の仕掛けでは説明がつかない。
考えても仕方がない。情報が足りない。
俺はフォーラムのスレッドをブックマークして、スマホを枕元に置いた。
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翌日の放課後。
校舎を出ると、初狩が何も言わずに後ろについてくる。廃墟ゲーセンに行くことはもう決定事項なので、いちいち言葉を交わすまでもない。かといって常に隣に並んで歩くような間柄でもなく、俺たちのあいだには二歩くらいの距離がある。それでも最初の頃よりは近づいたと言えるだろうか。
ふと振り返ると、初狩は視線を地面に落として、つまらなさそうな顔で歩いていた。
まあ、そうだろう。俺と一緒に歩くのが楽しいわけがない。あいつの目当てはゲーセンのPCとペンタブレットであって、俺はその手前にある鍵を持っているだけの人間だ。
——と、初狩の表情が変わった。
目が見開かれ、視線が正面に跳ねる。俺はつられて前を向いた。廊下の角を曲がろうとしている人影。見慣れた——いや、見慣れてはいるが、この場所にいるはずのない服装。
チャイナドレスを基調にした格闘装束。サイドに深くスリットの入った紅いスカート。編み上げのブーツ。
「ファーメイ?」
口をついて出た。格闘ゲーム『ストリートバンデッツ(ストバン)』の人気キャラ、ファーメイのコスプレだ。
テンションが一気に跳ね上がる。俺は自分でも驚くほどの速さで、小走りにその背中を追いかけた。
角を曲がった先にいたのは、ファーメイだけではなかった。もうひとり——白と蒼を基調にした軍服風の衣装。銀の飾緒、膝上のプリーツスカート。ストバンのもうひとりの人気キャラ、ラシー・ガーネット。
「あれ? たしか才くんだっけ?」
ファーメイ——ではなく、コスプレ姿の笹子先輩がこちらを振り返った。
「それ、ストバンのファーメイですよね? あと、そちらはラシー——」
興奮で声が上ずる。ラシーのコスプレをした女生徒がこちらを向いた。切り揃えた前髪の下、少し眠たげな目。
「そうそう。ストバンね。懐かしいでしょ」
「今も現役でやってますよ」
「昔のゲームなのに知ってるんだ?」
「現役でプレイしてますよ」
「移植されたのってPS3でしょ。物持ちいいね」
「正確にはアーケードなんですけど。実は叔父が閉店したゲーセンの管理を放り出しまして、俺が鍵を持ってるんです」
「へえ、面白い環境だね」
「ええ。あそこは時が止まってますから」
その言葉に興味を引かれたのか、ラシーのコスプレの先輩が一歩近づいてきた。
「今度あたしもそのゲーム触りたいんだけど、いける?」
「ええ、いつでもどうぞ。——それよりも、そのコスプレ撮ってもいいですか?」
「まるでカメコの少年ね」
先輩は笑い、書類の入ったクリアファイルを軽く振った。
「今、屋上の使用許可取ってきたところ。そこで動画を撮ろうと思ってたの。固定カメラだとつまんないからさ。キミ、カメラ回してくれる?」
「はい。喜んで」
観測者を自称する人間にあるまじき即答だったが、後悔はしなかった。カメラマンはある意味、究極の観測者だ。——そういうことにしておく。
「あたしは被服部部長の山田冴子。よろしくね」
屋上へ続く階段を上がりながら、ラシーの先輩が名乗った。振る舞いに無駄がない。階段の踊り場で鍵を開け、防火扉を押さえ、後続を通す。その一連の動作に迷いがなかった。
「俺は一年三組の高尾才です」
「ああ、笹子っちの言ってた子ね」
「才くん、あのときは本当にありがとね」
笹子先輩に改めて礼を言われ、首の後ろがむず痒くなる。
「いえ、あれは成り行きっていうか。どっちかというと——」
振り返ると、初狩が二歩後ろについてきていた。いつもの距離だ。
「初狩の方が助ける気満々でしたよ」
「ああいうのは……見ていて気分のいいものじゃないですからね」
初狩は目を伏せて、小さな声で言った。
「そっちの子は高尾ちゃんのカノジョ?」
山田先輩が振り返りざまに聞いてきた。
「違います」
「違います」
同時に出た声が、階段の壁に反響した。
「おお、きれいにハモったね。わりと気が合うんじゃない?」




