■第17話「"好きだったもの"の場所」
重い沈黙が部室を満たしていた。
笹子先輩は俯いたまま、手元の布の端を指先で撫でている。何かを縫っているわけではない。ただ、指を動かしていないと保てないものがあるのだろう。
その沈黙を破ったのは、山田先輩だった。
「笹子っち」
背中を向けたまま、名前だけ呼んだ。
「新しいコスプレの型紙できたよ」
何事もなかったかのように。自分のペースで。空気を読まないのではなく、空気ごと塗り替えるように。
先輩が顔を上げた。
「え? もう……ですか」
「フリガルのアリサ。冬コスだから生地の量多いんだけど、予算内に収まりそう。素材の生地見て決めよう。今から手芸店行っていい?」
「……今からですか」
「閉まる前に行かないと」
山田先輩がこちらを向いた。
「高尾ちゃん」
「はい」
「新しいコスプレ衣装できたら、また撮影しよ」
「……はい」
「初狩ちゃんも」
「は、はい」
「小物の造形で相談したいことあるから、連絡先教えてくれる?」
初狩がスマホを取り出す。LINEのIDを交換する。笹子先輩も立ち上がって、CADの画面を閉じ始めた。
慰めない。説教しない。正しさを語らない。
代わりに——型紙ができた。手芸店に行こう。撮影しよう。連絡先を交換しよう。すべて具体的な未来の約束だ。「大丈夫だよ」なんて言葉はどこにもない。ただ、「やることがある」という事実だけが置かれていく。
先輩が荷物をまとめながら、小さく鼻をすすった。泣いてはいなかった。泣く手前で踏みとどまったのだと思う。
四人で部室を出た。
**
学校を出て、住宅地の坂道を下った。
坂の先には、白花センター通り商店街の古いアーケードの骨組みが見えている。
駅へ向かう山田先輩と笹子先輩も、そこまでは同じ道だった。
商店街の入口で、山田先輩と笹子先輩は改札の方角へ。俺と初狩は、少し手前で足を止める。
REXは、この商店街の中ほどにある。
分かれ際、山田先輩が振り返った。
「明日も来なよ」
それだけだった。笹子先輩が小さく手を振って、駅の方へ歩いていく。
俺と初狩は二人で、商店街の中へ向かった。
アーケードの骨組みの下を歩く。日暮れの空が、オレンジから紫に変わりつつあった。
しばらく無言が続いた後、初狩がぽつりと言った。
「さっきの話ですが……」
「……」
彼女の不機嫌な顔で、水島先輩の話題だというのがすぐわかる
「何が『理解者』ですか」
怒鳴ってはいない。低く、平坦で——だからこそ、底に沈んでいる熱が伝わる。水島先輩に対する怒りだろう。
「理解するって、相手の話を聞くことでしょう。相手が何者かを決めつけることじゃない。あの人は最初から——」
初狩は言葉を途中で切った。
「……すみません。感情的になりました」
「いいよ。初狩の感想は正しいと思う」
「正しいかどうかはわかりません。ただ、腹が立っただけです」
商店街の入口まで来た。REXはこの先の横道を入ったところだ。
だが、俺の足が止まった。
今日の重さを引きずったまま、あの薄暗い店に入る気になれなかった。REXは考える場所だ。
あそこへ入れば、たぶんまた今日のやり取りを反芻してしまう。水島先輩の怒鳴り声も、笹子先輩の「ごめん」も、山田先輩の何事もなかったみたいな声も、全部まとめて。
今は、考えるより先に、頭の中を一度冷ましたかった。
何か答えを出すためじゃなく、ただ、風に当たっておきたかった。
「初狩」
「はい」
「今日、REX行く気あるか」
初狩は少しだけ首を傾げて、それからゆるく首を振った。
「……正直、今日はちょっと、描く気分じゃないですね」
「じゃあ、ちょっと歩くか」
**
商店街を外れて、西の方へと向かう。
住宅地が途切れて、河川敷に出る。堤防沿いの遊歩道を歩いて、見晴らしの張り出しまで来た。展望ベンチが一つだけ据えてある。誰もいない。
特別な場所ではない。帰り道を少しだけ逸れた先にある、ただのベンチだ。川が見えて、対岸の住宅地が見えて、風が通る。それだけの場所。
並んで座った。
六月の湿った夕方の風が、草の上を渡っていく。川面に夕日が散って、橙色の粒がちらちらと光っている。遠くの橋を車が渡る音が、水の音に混じって聞こえる。
どちらも何も言わなかった。
さっきの水島先輩の爆発と、笹子先輩の「ごめん」が、まだ頭の中で反響していた。
しばらくして、初狩がスケッチブックを取り出した。
「描く気分じゃないって言ってなかったか?」
「描く気分じゃないのと、手が動くのは別です」
言い返せなかった。たぶん、それが絵描きの理屈なのだろう。
初狩が鉛筆を握って、紙の上に最初の線を引いた。
俺はぼんやり川を見ていた。
ふと、手元に目を落とした。
意外なことに気づく。初狩は川や空から描いていない。
最初にペンを落としたのは、ベンチの手すりだった。塗装が剥がれて錆が浮いている角。地面に伸びる歪な影。そこから入って、少しずつ周囲へ広げていく。
「空とか川とか、大きいところから描くもんだと思ってた」
初狩は手を止めずに答えた。
「大きいところからは描けないんです。全体像が先に見えちゃうと、自分の目で見た順番がわからなくなるから」
鉛筆が手すりの影をなぞっていく。細くて正確な線だ。
「最初に目に入ったものから描くのが、わたしのやり方です」
その言葉を、何気なく聞いていた。
初狩の手元を見ながら、「そういうものか」とだけ思った。
風が吹いて、草が一斉に揺れた。川面の光が乱れて、また戻った。
しばらく鉛筆の音だけが続いたあと、初狩がぽつりと言った。
「うまく描けなくなった時って、たぶん人は"好きだったもの"の場所に戻るんだと思います」
「好きだったものの場所?」
「大きくて立派なものじゃなくて。最初に心が動いた、小さなもの。それを見つけた場所に戻れたら、たぶんまた
描ける」
今日のことが頭にあるのだろう。笹子先輩が追い詰められて、「好きで着ている」服を脱がされかけている。初狩自身も、漫研と美術部を追い出された。描く場所を奪われた経験がある。
だから「戻る場所」の話をしている。
俺は「なるほど」とだけ返した。それ以上の言葉はいらなかった。
日が傾いてきた。川面の橙色が紫に変わり始めている。初狩はスケッチブックを閉じて、膝の上に置いた。完成はしていない。でも、始めたことだけで十分だったのだろう。
立ち上がりかけて、初狩がスマホを取り出した。ベンチと、手すりと、川面の光を、何枚か撮っている。
「資料用?」
「はい。続き、描きたくなるかもしれないので」
「もう戻る?」
「ええ」
ベンチを立って、来た道を引き返す。
**
商店街へ戻る途中、初狩が不意に口を開いた。
「高尾クン」
「なんだ」
「そういえばさっき、部室で何か言ってましたよね」
俺の足が一瞬だけ遅くなった。続けざまに初狩は聞いてくる。
「水島先輩が出ていったあと。小さい声で何か呟いてました。『勘違いした者か、それともさせた者か』って」
——聞かれていた。
あれはオボロの言葉だ。オボロが俺に投げた問いを、無意識に口に出していた。
「……また、独り言ですか」
「……」
言い訳が思いつかない。
「この前の絵の時も、何か見えたって言ってましたよね」
「……」
まあ、そういう方向で勘違いしてくれるのなら——
初狩は数秒だけ黙って、それから静かに言った。
「それとも、何か……そこに『居る』んですか?」
初狩の目がまっすぐにこちらを向いている。好奇心ではない。心配でもない。ただ、事実を確認しようとする目だ。
たぶん、さっきの河川敷がなかったら、初狩はこれを訊けなかっただろう。あのベンチで並んで座って、何も言わずに風の音だけ聞いて、初狩が勝手にスケッチブックを開いて、俺はぼんやりそれを見ていた。あの時間が、初狩と俺のあいだにあった壁を少しだけ薄くした。
薄くなった分だけ、踏み込まれた。
「何が?」
とっさに返した。それ以上の言葉が出てこない。
初狩は数秒だけ俺を見つめてから、静かに視線を外した。
「……わかりました」
追及はしなかった。だが、引き下がったわけでもない。「今はここまで」という線を引いただけだ。
REXに着くと裏口に回り、薄暗い店内に足を踏み入れる。ポータブル電源のスイッチを入れる。筐体の画面が薄ぼんやりと光り、PCのモニターが青白く灯った。
いつもの場所。いつもの光。
だが今日は、その静けさが少しだけ重かった。




