伝えられなかった想い
俺は間違えたんだ。
『間違えた』その一言が、俺の胸中を支配していた。
ここは、王城の大広間。煌びやかなシャンデリアの光が、やけに冷たく感じられる。貴族たちが見守る中、俺の前に立つのは、俺の婚約者リリアーヌ・エルフェルト。
彼女は、いつも穏やかで、柔らかく微笑む少女だった。その可愛らしい表情が大好きだった。
だが今は違う。
俺が好いていた表情は消え失せ、瞳に影を作り、何かに怯え、表情からは諦めが見える。
「・・・殿下」
かろうじて俺の耳に届いた声は、弱々しく、とてもか細い声だった。いつもの、暖かく、柔らかい声色ではなかった。
俺は、すごく嫌な予感がしていた。何か言わなくては。彼女を安心させる何かを。だが、口がパクパク動くだけで、言葉は出てこなかった。
「このたびの、私達の婚約についてーー」
やめろ。やめてくれ。それ以上言わないでくれ。俺は君のことを愛しているんだ。
そう、ただそう言えばいいだけだ。ただそれだけのことが、俺にはどうしてできなかった。口下手などとただの言い訳だ。
「・・・破棄させていただきたく、存じます」
俺が聞きたくなかった言葉は、あまりにも簡単に落とされた。それだけ、彼女を追い込んでしまっていたんだ。
王太子が、婚約破棄を告げられた。周囲は一斉にざわつき始める。空気が揺れる。
周囲の貴族たちのざわめきが耳に届いていたが、俺には全く聞き取れなかった。お前らの声など、どうでもいい。
「ーー理由を、聞こう」
俺は、やっとの思いで言葉を絞り出した。絞り出された声は、驚くほど冷たかった。
本当は違う。理由なんて聞きたくない。
“行くな”と、“離れるな”と。
ただ、そう言いたいのに。なぜこんな言葉になってしまうんだ。
リリアーヌは一瞬だけ顔を歪めた。そんな顔、しないでくれリリアーヌ。
リリアーヌは、すぐに表情を戻し、丁寧な礼を取る。
「・・・私では、殿下のお役に立てません」
役に立たない?そんなことない。近くに居てくれるだけでいいんだ。それだけで、俺は頑張れる。
「至らぬ点も多く・・・」
良いところがいっぱいあるじゃないか。君の笑顔に、君の献身に助けられているんだ。
「また、殿下のお心に沿えないことも・・・」
俺は君を愛しているんだ!!
心の中で叫んでも、声にはならない。俺が動揺している間にも、彼女の言葉は続く。
「殿下は、より相応しい方とーー」
「誰にそう言われた」
俺は、思わず口を挟んでしまった。より相応しい?リリアーヌ以外にそんな奴は居ない!!
リリアーヌが一瞬だけ目を見開く。
「い、いえ、そのような」
「噂は聞いている」
とても冷たく、鋭い声色だった。しかし、胸中では、感情が暴れている。
「私が、お前を疎んじていると」
ぴくり、と彼女の肩が震えた。彼女の反応。それが答えだった。誰かが吹き込んだのだ。
いや、“誰か”ではない。心当たりはある。だが、今はどうでもいい。問題はそこではない。
問題はーー。
それを否定してこなかった俺自身だ。
「・・・否定、なさらないのですね」
ぽつりと、リリアーヌが言った。俺は言葉を失った。違うと言えばいい。ただそれだけなのに。
王太子としての教育が、俺を躊躇させる。王太子として、軽々しく言葉を使うべきではない。感情を表に出すべきではない。そんな教育が、体に染みついている。
だが今、この瞬間に必要なのは、感情に身を任せた言葉のはずだ。
躊躇している間沈黙が流れ、すべてを物語ってしまう。
そして、リリアーヌは小さく微笑んだ。それは、これまで見たどんな笑顔よりも悲しいものだった。
「・・・やはり、そうなのですね」
声が出ない。
「短い間でしたが、ありがとうございました」
彼女は深く頭を下げた。それが、終わりの合図だった。その時、俺の中で、何かが崩れ落ちる。
「・・・待ってくれ」
それが、やっと出た言葉だった。しかし、もう遅かった。リリアーヌはもう顔を上げない。
「失礼いたします、殿下」
彼女は、そのまま背を向け歩き出した。記憶の中の彼女より、線の細い背中だった。
俺が、守らなければならないはずの存在。その存在を、俺は追い詰めたのか。
勝手に足が動く。気づけば、俺は彼女を追っていた。
「リリアーヌ!」
名を呼ぶのは、久しぶりだった。必死に彼女の名前を呼ぶが、彼女は振り返らなかった。
ドレスの裾を揺らしながら、廊下を進んでいく。その歩みは、どこか危うく見えた。正しく、追い詰められた人間の、それだった。
「待ってくれ!」
ようやく追いつきかけた、その時。
彼女が階段へと足を踏み出し、そして。
「――っ」
彼女の足元が、わずかに乱れた。ダメだ、このままでは階段を転がり落ちてしまう!!
俺は、反射的に手を伸ばす。だが、手は届かない。
「リリアーヌ!!」
無理な体勢だったが、俺は彼女を抱き寄せることに成功した。
視界は傾き、身体中に走る衝撃。一瞬のことなのに、すごく長く感じた。
そんな中、頭の中に鮮明に浮かんだのは、彼女の笑顔だった。あの日、庭園で見せた、何気ない笑顔。自分に向けられたものだと、信じていた笑顔。
それを、守ることができなかった。ちゃんと伝えられなかった。
たった一言でいい。
好きだと。大切だと。離したくないと。
それすら、できなかった。
――もし
もし、やり直せるのなら。今度こそ。
次第に意識が沈んでいく。深い深い闇の中に沈んでいく。その中で、最後に浮かんだのは。
ーー後悔だった。
やり直したい。バカな俺をぶん殴ってやりたい。彼女を、幸せにしたい。
ーーリリアーヌ
ーーーーーーーーーー
意識が戻る。暗かった視界に、光が差し込んだ。俺はゆっくりと目を開ける。
見慣れた天井だった。ここは、俺の部屋だ。
「ーーっ」
短く息を吐く。
すぐに身体中を触るが、どこも痛くない。
「夢・・・いや、そんなわけない」
確信があった。あれは現実だ。
俺はゆっくりと体を起こす。
机の上に置かれた日付の刻まれた書類。
そこに書かれている日付を見て、俺は息を呑んだ。
「時間が、戻っている?」
婚約破棄が起きる、数ヶ月前。すべてが、まだ壊れていない時間。やり直せるのか?
俺は拳を握る。握った拳はみっともなく震えていた。
しかし、これは恐怖ではない。そして、歓喜でもない。これは決意だ。
「・・・二度目、か」
小さく呟く。
理由は分からない。これは奇跡か、それとも罰か。いや、そんなことはどうでもいい。
重要なのは、一つだけ。
「やり直せる」
今なら、まだ間に合う。彼女を追い詰めてしまわぬように。彼女を幸せにするために。
「ーーリリアーヌ」
彼女の名前を口にする。それだけで、俺の胸は締め付けられた。
「今度は、今度こそは」
俺はゆっくりと立ち上がる。
「絶対に、間違えない」
愛を伝える。守るべきものを守る。
ーーそして
彼女を傷つけたすべてを、排除する。




