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騎兵急襲

「騎兵が出たわよ」

そう言った時には、もう本陣が騒がしくなっていた。

孫二娘が鍋ではなく、荷の縄を引っ張りながらこちらを見ている。

「杭州城からかい?」

「そうよ」

顧大嫂が丸太の山を指差しながら怒鳴った。

「そっちじゃないよ! 前衛へ回しな!」

それから、やっとアタシの方を見た。

「で、三娘は前かい?」

「林冲の左」

「小彪将だからねぇ」

「そうよ」

自分で言うと、少し変な感じがした。

大きな部隊を勝手に動かす訳じゃない。

林冲隊の中で、一角を任されているだけ。

でも、今はそれで十分だった。

正面は林冲が受ける。

アタシは左へ回る。

流れて来た敵の横を叩く。

やる事は、はっきりしている。

孫二娘がにやりと笑った。

「三娘にしては、ちゃんと指示を聞いてるじゃないかァ」

「聞くわよ!」

「深追いするなって言われたんだろォ?」

「言われたわよ」

「守れるのかい?」

黙った。

顧大嫂が肩を揺らす。

「そこは黙るんだねぇ」

「守るわよ!」

「今、少し遅れたねェ」

「うるさい!」

言い返しながらも、否定しきれなかった。

城門の近くまで寄れば、矢に晒される。

林冲はそう言った。

確かに、その通りだ。

騎兵が出て来たからといって、ただ追えば良い訳じゃない。

向こうも、こちらが慌てる場所を見ている。

杭州城は簡単じゃない。

張順は戻っていない。

西湖は静かなまま。

水路の方にも、嫌な気配が残っている。

その上で、騎兵が出て来た。

「嫌な時に来るわね」

思わず呟くと、孫二娘が少しだけ目を細めた。

「敵だからねェ」

「分かってる」

「待ってくれないねぇ」

顧大嫂も、珍しく茶化さずに言った。

そう――

敵は待ってくれない。

眠れていなくても。

張順の事が頭から離れなくても。

こっちの準備が整っていなくても。

来る時は来る。

玉楼は、もう槍を握っていた。

半歩後ろにいる。

いつもの位置だ。

呂玉楼――

昨夜、初めてその名を聞いた。

その姓の意味は、まだ深く聞いていない。

でも、今はそれで良い。

玉楼は、功を取りに前へ出ない。

アタシが崩れない位置に立つ。

必要な時だけ半歩前へ出て、また半歩後ろへ戻る。

誰かを生かす為の戦い方……

孫二娘が、玉楼を見て笑った。

「玉楼がいるから、三娘は戻って来れるだろォ」

「アタシだけじゃ戻って来ないみたいに言わないで」

「言ってるんだよォ」

「言うな!」

顧大嫂が腕を組んだ。

「こっちは任せな。道は空けておくよ」

孫二娘も朴刀を肩に担いだまま笑う。

「怪我して戻って来たら、雑に寝かせてやるよォ」

「だから、もう少し優しく出来ないの?」

「生きて戻れば優しい方だよォ」

それは、確かにそうかもしれない。

本陣には、顧大嫂と孫二娘がいる。

道は詰まらない。

怪我人も下がれる。

水も布も届く。

だから、アタシ達は前へ出られる。

前で敵を斬るだけが戦じゃない。

そんな事は、最近嫌というほど分かってきた。

「後ろを頼むわよ」

そう言うと、顧大嫂が頷いた。

「任せな」

孫二娘も笑う。

「三娘こそ、前で転ぶんじゃないよォ」

「転ばないわよ」

「無茶はするだろォ?」

「しない!」

「嘘だねェ!」

言い返そうとして、やめた。

今は、そんな場合じゃない。

でも、少しだけ息が抜けた。

遠くから、馬蹄の音が近付いて来る。

ただの騎兵急襲じゃない。

玉楼が静かに言った。

「参りましょう」

「ええ」

アタシは手綱を握り直した。

林冲隊の左。

アタシに任された場所。

そこを抜かれたら、前衛が崩れる。

今は、前を見るしかない。

「行くわよ」

そう言って、アタシは馬を出した。

軍議を終えて幕舎を出ると、朝日はもう高くなっていた。

兵達が忙しく動いている。

矢を運ぶ者、縄をまとめる者、攻城具の材料を運ぶ者。

顧大嫂は、もう兵達へ怒鳴っていた。

「そっちじゃないよ! 丸太は前衛へ回しな!」

孫二娘も、荷運びの列へ混ざっている。

「重いからって止まるんじゃないよ。止まったら余計重くなるだろ!」

……理屈は分かる様な、分からない様な。

少しだけ笑いそうになった。

その時だ――

宿営地の外から、馬の音が近付いてくる。

早馬だ。

早馬の声が飛ぶ。

「朱武様へ急ぎ、お取次ぎを!」

皆の動きが、一瞬止まった。

泥を跳ね上げながら、一騎が駆け込んで来る。

馬上の兵は、息を切らしていた。

「急報! 前衛より急報!」

朱武が幕舎の前で足を止める。

呉用も、羽扇を握ったまま振り返った。

「申せ」

伝令が頭を下げる。

「杭州城より敵騎兵出撃!前衛陣地へ向かっています!」

空気が変わった。

顧大嫂が、すぐ兵達へ怒鳴る。

「荷を下ろせ! 道を空けな!」

孫二娘も椀を置く。

「水と布を出しな! 怪我人を寝かせる場所も空けとくんだよォ!」

玉楼が、もう槍を握っていた。

アタシも、馬の方へ走る。

張順が戻らなくても……

眠れていなくても……

敵は待ってくれない――

馬の首に手を掛けた時には、もう林冲が前に出ていた。

慌てていない。

声も荒げない。

ただ、敵が来る方角を見ている。

それだけで、周りの兵達の動きが締まった。

「扈三娘」

呼ばれて、アタシはすぐに顔を上げる。

「はい」

「お前は左へ回れ」

短い指示だった。

「正面は我が隊で受ける。敵が流れた所を叩け」

「分かりました」

「深追いはするな。城門の近くまで寄れば、矢に晒される」

「はい」

林冲の言葉は、いつも通り静かだった。

でも、その静けさが一番怖い時もある。

必要な事だけを言う。

余計な事は言わない。

だから、言われた事の重さがそのまま分かる。

アタシは手綱を握り直し、左へ回る。

正面では受けない。

林冲隊が受け流した敵の横を叩く。

「玉楼」

「はい」

玉楼は槍を構えて隣にいた。

当然の様に、アタシの半歩後ろにいる。

「左へ回るわよ」

「承知しております」

返事が早い。

こういう時、本当に助かる。

顧大嫂と孫二娘は、本陣側に残る。

最近ずっと、荷物、負傷兵、水、布、食糧の段取りを任されている。

顧大嫂が腕を組んで、こちらを見た。

「こっちは任せな。道は空けておくよ」

孫二娘も、朴刀を肩に担いだまま笑う。

「怪我して戻って来たら、雑に寝かせてやるよォ」

「もう少し優しく出来ないの?」

「生きて戻れば優しい方だよォ」

言い返そうとして、少しだけ笑いそうになった。

「後ろを頼むわよ」

顧大嫂が頷く。

「任せな」

孫二娘も笑った。

「三娘こそ、前で転ぶんじゃないよォ」

「転ばないわよ」

「無茶はするだろォ?」

「しない!」

「嘘だねェ!」

言い返そうとして、やめた。

今はそんな場合じゃない。

でも、少しだけ息が抜けた。

玉楼が横で小さく言う。

「お二人が本陣におられるから、前が動けます」

「分かってる」

「はい」

玉楼はそれ以上言わなかった。

呂玉楼――

本名を昨夜に初めて聞いた……

けれど、その姓の意味を、アタシはまだ深く聞いていない。

ただ、分かる事はある。

玉楼は、ただ前へ出る為に力を持っている訳じゃない。

アタシが倒れない位置に立つ。

必要な時だけ、半歩前へ出る。

そしてまた、半歩後ろへ戻る。

功を取りに自ら行かない。

誰かを生かす為だ。

その事が、今は少しだけ心強かった。

南の道から、馬蹄の音が近付き、砂塵が上がる。

杭州城から出た騎兵が、前衛陣地へ向かっている。

数は大した事はない。

でも、動きが速い。

前衛の杭柵を壊し、攻城具の準備を乱すつもりだろう。

こちらが慌てて出れば、城門近くまで引いて矢を浴びせる。

それもある。

嫌な動きだった。

「軽騎兵ですね」

玉楼が言う。

「見れば分かるわ」

「ただの威力偵察ではないかと」

「でしょうね」

ただ走って来ただけではない。

隊列の奥が妙に締まっている。

指揮を執っている者がいる。

敵も、こちらを見ている。

どこが脆いか。

どこを突けば崩れるか。

杭州城の中で、ちゃんと考えている。

張順が戻らない――

西湖は静かなまま……

水路の方も嫌な気配を残している。

その上で、騎兵が来る。

考えたくない事ばかりだった。

でも今は、前だ。

林冲隊が正面に並ぶ。

槍が揃い、盾が半歩前へ出る。

白い披風が朝の光の中で揺れた。

林冲は馬上で蛇矛を立てる。

その動きだけで、前衛が落ち着く。

アタシは左へ回る。

林冲隊の正面に入らない。

敵の突撃を正面から止めようとしない。

流れて来た所を叩く。

「左へ寄せる!」

アタシの声に、手勢が動く。

大きな部隊じゃない。

でも、今ここで任された分だけは、アタシの責任だ。

玉楼が兵達へ短く指示を飛ばす。

「馬間を空け過ぎないでください」

「正面へ出ない様に」

「林冲殿の隊が流した所を叩きます」

落ち着いた声だった。

焦りがない。

兵達もそれに釣られて落ち着く。

敵兵が迫る。

先頭が槍を低く構えた。

馬の脚が土を叩く。

杭柵の手前にいた兵達が、盾を持って下がる。

林冲が蛇矛をわずかに動かした。

「受けるな。流せ」

低い声が届いた。

次の瞬間、敵騎兵が前衛へぶつかった。

槍と盾が鳴る。

馬が嘶き、土が跳ねる。

でも、林冲隊は真正面から受け止めなかった。

盾を少し斜めに置き、槍の列をずらす。

突っ込んで来た騎兵の勢いを殺し切らず、横へ逃がす。

流れてきた敵の先頭が、わずかに左へ膨らむ。

そこだ――

「今よ!」

アタシは馬腹を蹴り、玉楼も続く。

左へ流れて来た敵騎兵の横腹へ、アタシ達は一気に入る。

双刀を抜くと、朝の光が刃に走った。

敵兵の一人がこちらを向く。

遅い――

正面を抜けるつもりだった身体が、横からの刃に追いつかない。

右の刀で槍を払い、左の刀で手綱を切る。

馬が横へ跳ね、敵兵が体勢を崩す。

「押し込まない! 横から崩す!」

叫ぶ。

正面からぶつかれば、騎兵の勢いを受ける。

だから横から切る。

隊列を乱し、馬首を狂わせる。

玉楼の槍が、敵兵の肩口を正確に突いた。

深くは入れずに落とす。

馬上から引き剥がす。

それで十分だった。

敵の隊列が乱れる。

後ろの敵兵が前の馬を避けようとして、さらに外へ膨らむ。

林冲隊が正面で形を保ち、アタシ達が左から削る。

悪くない。

でも――

敵はすぐに引かなかった。

隊列の奥から、低い号令が飛んだ。

聞き取れない。

敵兵の動きが変わる。

先頭の乱れた兵を捨て、後ろの列が左右へ分かれた。

「来ます」

玉楼の声。

「分かってる!」

敵は、こちらの左翼を潰しに来るつもりだ。

林冲隊の正面を抜けられないと見て、横へ回る。

アタシ達を潰して、林冲隊の横腹へ入る。

嫌な判断が早い。

「下がり過ぎない!でも受け止めない!」

自分でも面倒な事を言っていると思う。

でも、それしかない。

ここで踏ん張り過ぎれば、敵兵に押し潰される。

下がり過ぎれば、林冲隊の横が空く。

玉楼が槍を構え直す。

「半歩、外へ流します」

「任せるわ」

玉楼が前へ出た。

ほんの半歩。

敵兵の突っ込みたくなる隙を作る。

馬と槍と勢いを見る目。

どこへ誘えば敵が入るかを、玉楼は分かっている。

でも、玉楼は自分で取りに行かない。

アタシが動ける位置へ、敵を流す。

敵兵が玉楼の開けた隙へ入った。

「扈三娘様!」

「はい!」

アタシは馬を斜めに入れる。

双刀を交差させ、敵の槍を下から弾く。

馬首を外へ向けさせる。

そこへ、後ろの兵が盾を突き出した。

敵騎兵の流れが、また崩れる。

「よし!」

思わず声が出る。

でも、その瞬間さらに奥から別の騎兵が見えた。

数は少ないが、重騎兵だ。

「玉楼、奥!」

「見えています」

敵は軽騎兵だけでは無かった。

軽騎兵でこちらを動かし、奥の重騎兵で潰すつもりだったみたいだ。

本命は、まだ後ろにいる。

アタシは歯を食いしばった。

やっぱり杭州は簡単じゃない。

本陣には顧大嫂と孫二娘がいる。

道は詰まらない。

怪我人も下がれる。

水も布も届く。

だから、アタシ達は前へ出られる。

アタシは双刀を握り直した。

「林冲へ伝令! 敵の奥に重騎兵!」

玉楼が即座に兵を走らせる。

アタシは前を睨む。

軽騎の乱れの奥で、重い馬蹄が近付いて来る。

敵は、まだ一枚残していた。

なら、こっちも下がる訳にはいかない。

「左翼、持ち堪えるわよ!」

喉が焼けるくらいに叫んだ。

玉楼が隣で槍を構えた。

「参ります」

「ええ」

アタシは息を吐き、双刀を上げた。

敵の重騎兵が、こちらへ向かって来た。

夜になっても、本陣の空気は、まだ落ち着いておりませんでした。

昼間、杭州城から騎兵が出た。

前衛を揺らし、林冲殿の正面を探り、その左へ回った扈三娘様の方へ流れて来た。

それだけなら、まだ良かったのかもしれません。

ですが――

軽騎兵の奥には、重騎兵が控えておりました。

林冲殿の左。

扈三娘様にとって、そこはもう珍しい場所ではありません。

ですが、敵もまた、その位置を見ていたのです。

本陣では、まだ荷が動いておりました。 怪我人を寝かせる場所も空けられ、水と布も運ばれております。

そして――

孫二娘殿と顧大嫂殿は、やはり鍋の前におられました。

前衛が襲われても鍋。

本陣が騒がしくても鍋。

敵の奥に重騎兵が見えても鍋。

もはや、お二人にとって鍋とは、本陣設備の一部なのかもしれません。

――閑話休題

「で?」

孫二娘殿が鍋を混ぜながら言いました。

「三娘、深追いしなかったのかい?」

幕舎の外から、即座に声が飛びました。

「してないわよ!!」

顧大嫂殿が酒を煽ります。

「まだ、だろうねぇ」

孫二娘殿が吹き出しました。

「まだ、だってよォ」

「そこを突っ込まないで!」

扈三娘様の声は、いつも通り強めでした。

ですが、今日はその強さの奥に、少しだけ疲れが混じっておられました。

無理もありません。

張順殿は、まだ戻っておりません。

西湖は静かなまま。

水路にも、嫌な気配が残っている。

その上で、杭州城から騎兵が出ました。

孫二娘殿が鍋杓子を止めます。

「嫌な時に来るねェ」

外から、短い返事がありました。

「本当にね」

顧大嫂殿も、珍しく茶化しませんでした。

「敵だからねぇ。こっちの都合なんか見ちゃくれないよ」

「分かってるわよ」

「眠れてなくても?」

「分かってる」

「張順の事が頭から離れなくても?」

少しだけ、外が静かになりました。

やがて、扈三娘様の声が返ります。

「……分かってるわよ」

戦場は待ってくれません。

心が残っていても。

不安が消えていなくても。

仲間の帰りを待っていても。

敵は来ます。

そして、来た以上は、受けなければなりません。

扈三娘様は、林冲殿の左へ向かわれました。

林冲殿が正面で受け流し、扈三娘様が流れて来た敵を横から崩す。

それは、もう何度も見て来た形です。

ですが、今回の敵は、ただ流されて来ただけではありませんでした。

軽騎兵で前衛を揺さぶる。

こちらの左を動かす。

そこへ、奥の重騎兵を入れる。

こちらの形を崩す為の動きでした。

顧大嫂殿が椀を置きます。

「杭州城、嫌な見方をしてるねぇ」

「そうなのよ」

扈三娘様が低く返されました。

「ちゃんと、こっちの脆い所を見てる」

孫二娘殿が笑います。

「三娘の所が脆いって事かい?」

「違うわよ!」

「じゃあ何だい?」

「アタシが目立つからよ!」

「自覚はあるんだねェ!」

「そういう意味じゃない!」

そのやり取りに、少しだけ空気が緩みました。

ですが、私には分かります。 扈三娘様は、敵の見方を軽く見ておられません。

騎兵が速いだけなら、まだ対処は出来ます。

数が多いだけなら、まだ形で受けられます。

ですが、こちらを見て動く敵は厄介です。

どこを突けば崩れるかを考えている敵は、もっと厄介です。

その時、孫二娘殿が私を見ました。

「玉楼」

「はい」

「アンタ、また半歩後ろだったんだろォ?」

「はい」

「即答だねぇ」

顧大嫂殿が笑います。

私は静かに頷きました。

「その位置が、一番見えますので」

外から、扈三娘様の声が飛びます。

「見え過ぎるのも困るんだけど」

「見えないよりは良いかと」

「そうだけど!」

孫二娘殿が楽しそうに笑いました。

「玉楼がいるから、三娘は戻って来られるんだよォ」

「アタシ一人じゃ戻って来ないみたいに言わないで!」

「言ってるんだよォ」

「言うな!」

顧大嫂殿も肩を揺らしました。

私は、少しだけ目を伏せました。

戻って来ていただく。

それが、私の役目です。

功を取りに前へ出るのではなく。

三娘様が崩れない位置に立つ。

必要な時だけ半歩前へ出て、また半歩後ろへ戻る。

それで良いのだと思っております。

私の姓の意味を、三娘様はまだ深く知りません。

今は、それで構いません。

大切なのは、名ではなく、どこに立つかです。

孫二娘殿が、また鍋を混ぜ始めました。

「で、三娘」

「何よ」

「重騎兵が来たんだろォ?」

外からの返事は、少し遅れました。

「来たわよ」

「怖かったかい?」

少しの沈黙。

「……怖くない訳ないでしょ」

珍しく、正直な返事でした。

顧大嫂殿が静かに頷きます。

「そりゃそうだねぇ」

「軽騎兵で動かされて、その奥から重騎兵よ。嫌になるわ」

「でも下がらなかった」

孫二娘殿が言いました。

外から、小さく息を吐く音が聞こえた気がしました。

「下がったら、林冲隊の横が空くでしょ」

扈三娘様の声は、もう茶化しておりませんでした。

「そこを抜かれたら、前衛が崩れる」

そうです。

扈三娘様は、怖くなかった訳ではありません。

疲れていなかった訳でもありません。

それでも、左に立たれました。

本陣には、孫二娘殿と顧大嫂殿がいる。

だから前へ出られる。

その繋がりを、扈三娘様は分かっておられました。

夜は、何も答えません。

杭州城の中には、まだ敵がいる。

西湖は、まだ静かなまま。

張順殿も、まだ戻らない。

そして、昼間見えた重騎兵は、まだこの戦の続きを告げている様でした。

ただ静かなまま――

鍋を混ぜながらも、本陣の道を気にしていた孫二娘殿。

酒を飲みながらも、荷と怪我人の流れを見ていた顧大嫂殿。

「怖くない訳ないでしょ」と言いながらも、林冲殿の左を退かなかった扈三娘様。

そして、その半歩後ろに立つ私を――

夜の湿った風の中へ、静かに残している様でした。

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