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アンタのせいよ

戦が終わった夜くらい、静かに酒を飲ませてほしい。

そう思っていたアタシの前で、孫二娘が妙に楽しそうな顔をした。

「三娘ォ、人間って秘密を共有すると親密になりやすいんだよォ」

「何その嫌な前振り」

顧大嫂まで笑っている。

「安心しな。あたしらはもう十分親しいから」

「もっと嫌なんだけど!」

孫二娘が酒瓶を抱えたまま身を乗り出した。

「ところで東京を出る時、李俊に何て言ったんだい?」

「…………誰から聞いたの?」

二人が同時に笑った。

戦場の情報漏洩より、今はこっちの方が怖い。

雨は、夜になっても止まなかった。

幕舎の外では、水が地面を流れていく音が途切れない。

アタシは濡れた上着を脱いで入口へ放り、袖で頬を拭った。

たぶん綺麗な顔まで泥だらけだ。

鏡がないから確認できないのが救いだった。

卓の上には、もう酒瓶が置かれている。

犯人は孫二娘だ。

「酷い顔してるねェ」

「自分の顔見てから言って」

妖艶な独身のお姐さんも、今日は髪まで雨に貼り付いて色気どころではない。

その隣では顧大嫂が腕を組み、濡れた靴を乱暴に脱いでいた。

「河岸道で、そのまま泥に埋まるかと思ったよ」

「アンタら前に出過ぎなのよ」

「三娘が言うのかい、それ」

「……今のなし」

顧大嫂が鼻を鳴らし、孫二娘が笑う。

少し離れたところでは、玉楼が方天画戟を布で拭っていた。

長い柄についた泥を落とし、刃に残った血まで丁寧に拭き取っている。

アタシはその手元を見てから、息を吐いた。

「……今日は助かったわ。荷車のところ」

玉楼の手が止まる。

「あの声がなかったら危なかった。横から来た奴も見えてなかったし」

「当然のことをしたまででございます」

いつもの返事だったけれど、肩から少し力が抜けたように見えた。

孫二娘が盃を傾けながら言う。

「ま、玉楼がいなかったら三娘ォが泥の中で転がってたのは本当だねェ」

「縁起でもないこと言わないで」

「アタイは事実関係を整理してるだけだよォ」

「心理学の使い方がおかしい!」

顧大嫂が酒を飲みながら笑った。

「今日は全員、生き残っただけで上等さ」

その一言で、幕舎の中が少しだけ静かになる。

外ではまだ雨が降り続けていた。

水陽江沿いでは今日も兵が倒れ、怪我人は船へ運ばれた。

湖州へ着くまでに、また誰かが欠けるかもしれない。

だからこそ、この狭い幕舎の中で聞こえる笑い声が妙に温かかった。

孫二娘が酒瓶を揺らす。

「ところで三娘ォ」

「何よ、その顔」

「東京を出る時、李俊に『全部終わったら、迎えに来てよ』って言ったらしいじゃないか」

「……は?」

さっきまでの温かさを返してほしい。

顧大嫂が吹き出した。

「言ったのかい?」

「言ってない!」

「否認が速いねェ」

「本当にそこまでは言ってないから!」

孫二娘の目が細くなる。

「そこまでは?」

「…………」

しまった。

顧大嫂が卓を叩いて笑う。

「じゃあ、似たようなことは言ったんだね」

「『全部終わったら、呼びに来てよ』とは言ったけど!」

「ほぼ同じじゃないか」

「違う! 迎えに来てと呼びに来ては主語とニュアンスが――」

「三娘ォ、言語学で逃げ始めたよ」

「心理学よりマシでしょ!」

玉楼は方天画戟を拭く手を止めていない。

ただ、口元だけが少し緩んでいた。

「玉楼まで何なのよ」

「いえ、別に」

「今、絶対笑った!」

「気のせいでございます」

「最近それで押し切るよね!?」

孫二娘が肩を揺らす。

「李俊なら本当に来そうだけどねェ。水軍を連れて」

「どこへよ」

「三娘ォのところへ」

「規模がでかい!」

顧大嫂まで乗ってくる。

「岸まで迎えに来てくれるなら便利じゃないか」

「恋人を渡し舟みたいに言わないで!」

笑いがまた広がった。

しばらくして顧大嫂が盃を置き、少しだけ声を落ち着かせる。

「まあ、悪くないんじゃないかい。こんな戦ばっかり続いてるんだ。そういう話の一つくらいあった方が、人間らしくてさ」

返事はしなかった。

できなかった、の方が近い。

李俊の顔が浮かんだからだ。

川へ飛び出していく背中も、「生きてる」と先回りして答えた声も、ついさっきのことみたいに残っている。

アタシは盃を持ち上げた。

「……飲む」

「誤魔化したねェ」

「うるさい!」

その夜は、それ以上戦の話をしなかった。

翌朝、雨は弱まっていた。

完全に上がったわけではなく、細い雨が幕舎の屋根を叩いている。

兵達は泥へ沈んだ荷車を引き起こし、傷んだ車輪を直しながら出立の準備を進めていた。

アタシも外へ出る。

少し眠い。飲み過ぎたほどではないのに、頭の奥に昨夜の笑い声が残っていた。

水路側から李俊が歩いてくる。

「おう」

相変わらず軽い挨拶だけれど、目の下には疲れがある。

夜の間も船の確認をしていたのだろう。

李俊はアタシの顔を見ると、妙に楽しそうに笑った。

「昨日の夜、随分賑やかだったみたいだな」

背後で孫二娘が吹き出す。

顧大嫂まで肩を揺らした。

嫌な予感しかしない。

「……アンタのせいよ」

反射で口から出た。

李俊が足を止める。

「は?」

本気で分かっていない顔だった。

そこでようやく、自分が何を言ったのか理解した。

顔が熱い。

「いや、違っ……今のは、その……」

後ろで孫二娘が腹を抱える。

「アハハハハッ! 三娘ォ、自分から認めたよ!」

「認めてない!」

顧大嫂も笑いを堪え切れていない。

「昨日あれだけ否定したのにねぇ」

「違うって言ってるでしょ!」

玉楼だけは静かに視線を逸らしていた。

肩が震えている。

「玉楼!」

「何でございましょう」

「こっち見て!」

「今は少々難しゅうございます」

「笑ってるからでしょ!」

李俊はまだ話について来られていない。

「……俺、何かしたか?」

「もういいわよ!」

アタシが顔を押さえると、今度は李俊まで笑い始めた。

「何だよ、それ」

「アンタは笑うな!」

最悪だった。

水陽江沿いの状況は昨日から一つも良くなっていないのに、その朝だけは幕舎の周りへ妙な笑い声が響いていた。

やがて孫二娘が息を整え、手を叩く。

「はいはい、三娘ォの自爆はここまで。そろそろ出るよォ」

「誰が自爆したのよ!」

「自覚がないのが一番重症だねェ」

「診断しないで!」

顧大嫂も表情を戻した。

「昨日みたいなのを、また食らうかもしれない。気を抜くんじゃないよ」

玉楼は方天画戟を持ち直す。

もう笑っていた気配はなく、いつもの顔へ戻っていた。

切り替えが早い。

アタシも水陽江の先を見る。

二路軍は再び進み始めた。

昨日の伏撃で壊れた荷車は応急修理され、積みきれなくなった兵糧は別の車へ分けられている。

水路側では李俊の船団も速度を落とし、先行する小舟が竿で水底を確かめながら進んでいた。

もう、川だから安全なんて誰も思っていない。

それでも湖州へ行くしかなかった。

昼を過ぎた頃、灰色の空の下に城壁が見え始める。

「……あれか」

アタシが目を細めると、玉楼も前を見た。

「湖州でございましょう」

ようやく着いた。

そう思ったのに、安堵はなかった。

近付くにつれて、城門が固く閉ざされているのが分かる。

城壁の上にはすでに兵が並び、弓を持った者達がこちらの隊列を見下ろしていた。

河岸側も徹底している。

外にあったはずの舟はほとんど見当たらず、倉の周囲にも人影がない。

使える物を残さず城内へ引き上げたらしい。

朱武が息を吐いた。

「徹底していますね。こちらへ使わせる物を残す気がない」

李俊は船上から水門を睨む。

「あそこも閉めてる。杭があると思って近付いた方がいいな」

「また杭?」

思わず声が出る。

李俊がこちらを見た。

「昨日食らったばっかだろ。あるつもりで動く」

「それはそうだけど……」

「心配すんな。今度は先に見る」

「別にアンタの心配とは言ってない!」

「言ってないだけだろ」

また始まった。

孫二娘がすぐ横で笑う。

「三娘ォ、条件反射になってきたねェ」

「アンタは黙って!」

顧大嫂が城壁を見上げながら舌打ちした。

「嫌な城だよ。正面から行ったら、また死体を積むだけじゃないか」

その言葉で、笑いは消えた。

盧俊義が前へ出て、林冲も隣へ馬を進める。

二人とも湖州を見上げたまま、すぐには命令を出さない。

兵達も疲れている。

雨と泥と伏撃を抜け、ようやくここまで来た。

その目の前で、湖州は何事もなかったように門を閉ざしている。

矢は飛んでこない。

向こうは急いですらいなかった。

待っているのだ。

こちらが疲れ切ったまま、城へ手を伸ばすのを。

「……すぐには攻めませんね」

朱武が湖州を見上げたまま呟く。

「でしょうね」

顧大嫂が腕を組む。

「ここまで来たからって、頭から突っ込む理由はないよ」

アタシは城壁を見た。

ここまで来る間に何人も死んだ。

兵も、民も、それぞれ別の理由でこの道から消えていった。

それなのに湖州だけは、最初から全部分かっていたみたいにこちらを待っている。

二路軍の進軍速度が自然と落ち、やがて水軍も岸に沿って停止した。

その時、湖州の城壁の上で大きな銅鑼が鳴る。

腹の底へ沈むような音だった。

次の瞬間、城壁の上へ、方臘軍の旗が一斉に掲げられる。

風の中で、無数の旗が揺れた。

まるで、「来るなら来い」とでも言っているみたいだ。

三娘様は、李俊殿を前になさると時々ご自分で退路を塞がれます。

「玉楼、朝笑ってただろ?」

顧大嫂殿に問われましたので、首を振りました。

「笑っておりません」

「肩が震えてたよォ」

孫二娘殿まで余計なことを仰います。

「寒かったのでございます」

「雨は止んでたけどねェ」

「では、冷えが残っていたのでしょう」

「玉楼まで言い訳が上手くなってない!?」

三娘様がこちらを指差しました。

「絶対笑ってた!」

「証拠はございますか?」

「そこまで言う!?」

顧大嫂殿が腹を抱えました。

ですが、湖州が見えた頃には、誰も笑っておりませんでした。

城壁の上で銅鑼が鳴り、無数の旗が掲げられたからでございます。

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