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静かな西湖

敵を引きつけるだけ――

騒いで、走って、敵の目を逸らす。

少しでも、李俊達が敵兵に感づかれない様に……

でも――

夜の西湖は、最後まで静かなままだった。

あの静けさを、アタシは忘れられそうにない……

――閑話休題。

「で?」

孫二娘が、湯気の立つ椀を持ちながら首を傾げました。

「今回は“静か過ぎて逆に嫌な回”なんだって?」

顧大嫂が腕を組みます。

「嫌な予感しかしないねぇ」

「しかも当たるんだろ?」

「大体当たる」

嫌な話をしないでください。

本当に……

「三娘」

孫二娘が真顔になりました。

「今、“否定出来ない”って思っただろ」

「思ったねぇ」

顧大嫂まで頷きます。

何故分かるのでしょう。

「顔」

「顔だねェ」

即答だった。

納得出来ない……

全然納得いかない……

「そんなに分かりやすい?」

「分かりやすい」

「初めて会った時からだろ」

酷い言われ様だった。

でも――

少しだけ肩の力が抜けた気もした。

張順は戻らないし、杭州も落ちない。

考えれば重い事ばかり…

それでも、こうして話している間だけは、少しだけ息が出来る気がした。

「まぁ」

顧大嫂が椀を置きます。

「今回も、生き残んな」

「死んだら後で文句言えないからねェ」

孫二娘も頷きました。

……その理屈はどうなの。

でも、

姐御達らしい励まし方だとは思う。

だからアタシも、小さく微笑む。

「分かってるわよ」

そう答えてから、

アタシは、静かな西湖の方へ目を向けた。

自分の幕舎へ戻る頃には、空が少し白み始めていた。

でも、夜が明けた感じはしない。

身体だけが重かった。

帷幕を開けると、中には顧大嫂と孫二娘が居た。

卓には、湯気の立つ椀が置かれている。

顧大嫂が、腕を組んだままこちらを見る。

「戻ったかい」

いつもの声だった。

でも、少しだけ暗い。

孫二娘も、椀を置きながらアタシを見る。

「顔色悪いよ、三娘」

アタシは、小さく息を吐いた。

玉楼も、後ろから静かに入ってくる。

しばらく、誰も張順の事を言わなかった。

言えば、 空気が壊れそうだった。

顧大嫂が、先に口を開く。

「李俊達は?」

「戻ってる」

それだけ答えた。

孫二娘が、少しだけ目を伏せた。

多分、 それだけで分かったんだと思う。

沈黙が流れる。

その時だった。

顧大嫂が、不意に玉楼を見る。

「そういや、お前」

玉楼が顔を上げる。

「名字、何なんだい?」

玉楼が、一瞬だけ止まった。

アタシも、思わずそっちを見る。

……そういえば、 アタシも知らない。

今まで普通に“玉楼”だった。

孫二娘まで吹き出す。

「確かに知らないねぇ」

少しだけ、 幕舎の空気が緩んだ。


玉楼は、しばらく黙っていた。

珍しく、本当に困ったみたいな顔をしている。

顧大嫂が、眉を上げた。

「何だい、その反応」

孫二娘まで笑い始める。

「まさか、自分でも忘れたとか言わないだろうねぇ?」

「……忘れてはおりません」

玉楼が呟く。

でも、まだ少し言いづらそうだった。

アタシは、思わず玉楼を見る。

今まで、 本当に考えた事が無かった。

玉楼は玉楼だった。

それで普通だった。

顧大嫂が、卓へ肘をついた。

「で? 何て言うんだい」

玉楼は、一瞬だけ視線を落とす。

その時だった。

外で、足音が止まる。

帷幕が揺れた。

「入るぞ」

李俊だった。

幕舎内の空気が、少しだけ変わる。

さっきまでの、 ほんの少し緩んだ空気へ、 西湖の冷たさが戻ってくる。

李俊は、中へ入ると、 こちらを見回した。

そして、卓の空気を見て、 少しだけ眉を上げる。

「……何だ?」

顧大嫂が、すぐ笑う。

「丁度良い。玉楼の名字聞いてたんだよ」

李俊が、一瞬だけ玉楼を見る。

玉楼は、珍しく困った顔のまま黙っていた。


玉楼は、しばらく黙ったままだった。

顧大嫂が、呆れた様に笑う。

「何だい。そんな大層な名前なのか?」

「別に笑いやしないよ」

孫二娘まで頷く。

玉楼は、小さく息を吐いた。

そして、観念したみたいに口を開く。

「……呂です」

幕舎の中が、一瞬静かになる。

アタシは、思わず瞬きをした。

「呂?」

「はい。呂玉楼です」

顧大嫂が、少し目を丸くする。

孫二娘は、何故か吹き出した。

「何だい、ちゃんと格好良い名前じゃないか」

「隠す様なもんでも無いだろ」

玉楼は、少しだけ困った顔をする。

「……名乗る機会がありませんでしたから……」

その言い方が、 何だか玉楼らしかった。

アタシは、思わず笑いそうになる。

こんな夜なのに、 少しだけ肩の力が抜けた。

その時だった――

壁際に立っていた李俊が、小さく口を開く。

「呂……か」

低い声だった。

玉楼が、静かにそちらを見る。

李俊は、それ以上は何も言わない。

でも、その短い声だけで、 また少しだけ、 幕舎へ夜の空気が戻ってきていた。


李俊は、しばらく黙っていた。

顧大嫂も孫二娘も、そこを無理に拾わなかった。

少しだけ緩んだ空気が、 また静かに沈んでいく。

アタシは、玉楼を見る。

呂玉楼――

名前を知っただけなのに、 少しだけ距離が近くなった気がした。

でも、今はそれを言葉にする空気じゃなかった。

李俊が、卓の端へ視線を落とす。

「……少し、休め」

「もう少し経ったら、また動く」

顧大嫂が、鼻を鳴らす。

「アンタこそ休みな。顔が死人みたいだよ」

孫二娘も椀を李俊の方へ押した。

「食べな。水軍の事ばっかり背負ってても腹は膨れないよ」

李俊は、少しだけ目を伏せた。

断るかと思った。

でも、何も言わずに椀を受け取る。

その仕草を見た瞬間、 アタシの胸の奥が、また少し痛くなった。

張順は戻って来ない。

でも、 残った人間は食べなきゃいけない。

休まなきゃいけない。

次の朝へ行かなきゃいけない。

それが、 どうしようもなく苦しかった。


少しだけ身体を横にしたはずなのに、気付けば空が明るくなり始めていた。

眠れた感じがしない……

頭の奥が重いまま、アタシはゆっくり起き上がる。

幕舎の外では、もう兵達が動き始めていた。

鎧の音、馬の声、荷を積む音。

戦場の朝だった。

張順が戻らなくても、 朝は来る。

それが、妙に嫌だった。

外へ出ると、空気は冷たい。

杭州の城壁は、朝靄の向こうにぼんやり、見えていた。

まるで、 何事も無かったみたいに、 そこに立っている。

玉楼も、もう起きていた。

槍を持ち直しながら、静かにこちらを見る。

「眠れましたか?」

「全然」

アタシは、小さく息を漏らす。

玉楼は、それ以上聞かなかった。

その時、 少し離れた場所で、銅鑼が鳴る。

低い音が、朝の空気へ広がった。

兵達の動きが、一気に変わる。

軍議だ――

また、戦が動き始める。

アタシは、杭州の城壁を見る。

昨日と同じ場所にある。

でも、 こっちだけが、 少しずつ壊れていく気がした。


朱武は、地図の上へ手を置いたまま周囲を見回した。

幕舎の中は静かだった。

誰も無駄な話をしない。

李俊も居る。

呉用も居る。

でも――

張順は居ない。

その空席を見ない様にしながら、皆が集まっている気がした。

朱武が口を開く。

「昨夜の陽動で、敵兵が城門側へ動いた事は確認出来ました」

地図の上を指が滑る。

杭州城、西湖、湧金門。

見慣れた線だった。

「つまり、敵も西湖側を警戒しているという事です」

呉用が静かに頷く。

「こちらの意図までは読まれていなくとも、何か仕掛けて来るとは考えているでしょう」

誰も反論しなかった。

昨日の灯り。

昨日の銅鑼。

あれを見れば分かる。

方臘軍も眠っていない。

朱武は続ける。

「正面攻撃だけでは損害が増えます」

指先が城壁をなぞる。

「敵を動かす事。そして守る場所を増やす事。それが必要です」

李俊が、初めて口を開いた。

「水路はまだ使える」

低い声だった。

幕舎の空気が少し張る。

李俊は地図を見る。

「西湖も、水門も、生きてる」

そこで一度言葉を切った。

誰も何も言わない。

「まだ終わっちゃいねぇ」

静かな声だった。

でも、それは杭州攻略の話だけじゃない気がした。

アタシは黙って李俊を見る。

疲れている。

眠れてもいないだろう。

それでも前を見ている。

張順が戻らなかった夜の続きに、まだ立っている。

朱武は小さく頷いた。

「では、その前提で考えます」

地図の上へ視線が落ちる。

杭州攻略は続く。

誰も望まなくても……

誰かが欠けても……

戦だけは、前へ進んでいった。


朱武は、しばらく地図を見ていた。

幕舎の中は静かだった。

誰も急かさない。

昨夜の結果を、一番整理しているのは朱武だと皆分かっていた。

やがて、朱武が口を開く。

「昨夜で分かった事があります」

地図の上へ指が落ちる。

杭州城、西湖、湧金門。

また同じ線だった。

「杭州は今まで以上に、容易には落とせません」

誰も反論しなかった。

呉用も黙ったまま頷く。

昨夜、こちらは動いた。

張順も動いた。

扈三娘達も陽動を行った。

それでも――

城は、まだそこにある。

朱武は続けた。

「敵は、かなり冷静に対応しています」

静かな声だった。

「警戒は強まりましたが、混乱はしていない。守るべき場所も理解しています」

指先が城壁をなぞる。

「つまり、かなり優秀な将が指揮しているという事です」

嫌な結論だった。

でも、事実だった。

アタシは地図を見る。

高い城壁。

広い城。

大量の兵。

方臘軍は、まだ折れていない。

朱武が息を吐く。

「だからこそ、焦ってはいけません」

幕舎の視線が集まる。

「正面から攻めれば、こちらも相当な被害が出るでしょう」

李俊も、そこで初めて頷いた。

「城は逃げねぇ」

低い声だった。

「逃げるのは、人だ」

誰も言葉を返さない。

でも、その意味は分かった。

兵糧、疲労、不安、損耗……

戦が長引けば、 城だけでなく、 中の人間も疲弊していく。

そしてそれは、 こちらも同じだった。

朱武は、小さく頷く。

「まずは敵を知る事です」

その言葉と共に、再び地図へ視線が落ちる。

杭州攻略は、まだ始まったばかりだった。

あの夜の扈三娘様は、ずっと前を見ておられました。

敵兵を引きつけ、声を張り、馬を走らせる――

不安が押し寄せて来ない様に……

ですが、西湖から戻られた李俊殿達の姿を見た瞬間、扈三娘様は言葉を失われました。

戻って来ない――

その事が、酷く重かったのだと思います。

だから私も、あの夜の静かな西湖を忘れる事は無いでしょう。

――閑話休題。

「で?」

孫二娘殿が、突然こちらを見ました。

嫌な予感しかしません。

「玉楼」

「はい」

「名字、呂だったんだねぇ」

顧大嫂殿まで頷きます。

「まさか本当に名字があるとは思わなかったよ」

失礼ではないでしょうか。

かなり失礼ではないでしょうか。

「三娘も知らなかったらしいじゃないか」

「本人も聞いてなかったからねェ」

扈三娘様まで苦笑しておられます。

納得がいきません。

全くいきません。

「名乗る機会がありませんでしたので」

そう答えると、

「出た」

「玉楼だねェ」

何故かまた笑われました。

さらに孫二娘殿が腕を組みます。

「で?」

嫌な予感が強くなりました。

「呂って事は、やっぱり呂布の子孫なのかい?」

「違うだろ」

「でも李俊、反応してたよねぇ」

やめてください。

本当に……

「その話はしておりません」

「否定が弱いねぇ」

「怪しいねぇ」

多分、違うと思います。

父親と親戚は、そんな話をしてた事はありますが……

ですが――

あの重かった夜に、少しだけ笑い声が戻った事だけは、悪くなかったのかもしれません。

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