その上でこれだ
空が、どう見ても嫌な色をしていた。
「三娘ォ、さっきから空ばっかり見てるねェ」
「見たくもなるでしょ! 降ったら絶対ろくなことにならない!」
孫二娘が肩をすくめる。
「予期不安ってやつだねェ」
「この状況で不安にならない方がおかしいでしょ!」
顧大嫂まで空を見上げた。
「まあ、降るなら濡れるだけだろ?」
「泥になるし、荷車は止まるし、林の奥まで見えなくなる!」
「詳しいねぇ」
「嫌な想像だけ解像度高いのよ!」
孫二娘が水路へ目を向ける。
「李俊も気になるしねェ」
「今それ関係ない!」
「今は?」
「そこ拾わないで!」
その時、前方から斥候が走ってきた。
叫んだ内容を聞いた瞬間、アタシは思った。
雨だけ心配してればよかった。
民達へ最低限の水と食料を渡すと、二路軍は再び動き始めた。
止まり続けるわけにはいかない。
方臘軍は、こちらが立ち止まった瞬間を狙って補給へ食い込んできたのだから、次も同じ手を使わない保証なんてどこにもなかった。
水陽江沿いへ、再び長い隊列が伸びていく。
水上では負傷兵や補給物資を抱えた船が進み、河岸道では疲れ切った兵達が泥を踏んでいる。
その全部を無理矢理ひとつの流れにして、湖州へ押し込もうとしているみたいだった。
アタシは前を見る。空はさっきまでより重く、灰色の雲が低く垂れ込め始めている。
玉楼も方天画戟を肩へ預けたまま、空を仰いだ。
「降りますかね」
「やめて……今それ言ったら本当に降りそう」
「天候は、わたくしにはどうにもできません」
「分かってるけど!」
後ろから孫二娘が笑う。
「三娘ォ、玉楼に八つ当たりするのは感情調整としてどうなんだい?」
「雨雲相手に心理学持ち出さないで!」
「アタイは雨雲を診てないよォ」
「もっと悪い!」
顧大嫂が空を見ながら鼻を鳴らした。
「降るなら降るで、さっさと降りゃいいんだよ。待たされる方が鬱陶しい」
「豪快過ぎない?」
笑ったのはそこまでだった。
雨が来れば、河岸道はぬかるみ、荷車はさらに進みにくくなる。
林の奥も見通せなくなれば、何度も奇襲を食らっている二路軍には最悪だった。
前方から斥候が駆けてくる。
「報告!」
馬が泥を跳ね上げ、斥候は盧俊義の前で止まった。
「前方へ出した舟が何艘か動けなくなっています!」
李俊が船の舳先から顔を上げる。
「何があった?」
「川底へ杭を打ち込まれていました。知らずに入った舟が底を傷めています!」
水軍の兵達がざわつき、童威が舌打ちした。
「陸だけじゃ足りねぇってか」
李俊は答えず、水面の先を睨んだ。アタシもそちらを見るけれど、何も見えない。
水陽江は静かに流れているだけなのに、その底には船腹を裂くための杭が隠されている。
見えないところから、こちらの足を止めに来ている。
「……厄介だな」
李俊の声から、いつもの軽さが消えていた。
「舟を先に出せ。竿で底を探れ。補給船は勝手に前へ出すな」
「分かった!」
童威がすぐに指示を飛ばし、童猛も小舟へ移って長い竿を手にした。
朱武が地図へ目を落とす。
「水路側の偵察を増やした方が良さそうですね」
「増やしてる」
李俊は即座に返した。
「その上でこれだ」
誰も続けなかった。
油断したから引っ掛かったわけじゃなく、方臘軍の方がこちらの進む道を先に読んで準備していたのだ。
アタシが李俊を見ると、また目が合った。
「……何だ?」
「いや」
「確認か?」
「まだ何も言ってない!」
背後から孫二娘が口を挟む。
「視線だけで通じるようになったねェ」
「通じてない!」
「通じてるだろ」
「李俊まで乗るな!」
思わず怒鳴ると、李俊が片眉を上げた。
「そっちは川底見てて!」
「見てるよ」
「じゃあアタシ見ないで!」
「先に見たのはお前だろ」
ぐうの音も出ない……
顧大嫂が笑ったところで、前方の空が白く光った。
少し遅れて雷鳴が届き、風が水陽江を伝って吹き抜ける。
最初の雨粒が頬へ当たった。
嫌な予感は、こういう時に限って外れない。
雨は間もなく強まり、河岸道を叩き始めた。
乾いていた土がみるみる色を変え、荷車の車輪が沈んでいく。
兵達が肩を入れて押しても、泥に足を取られて思うように進めず、強まる雨で林の奥まで霞み始めていた。
「止まるな!」
林冲の声が雨を裂く。
「荷を軽くしろ! 動ける車から先へ出せ!」
兵達が泥だらけになって荷車へ群がる。
アタシも馬を降りかけたが、孫二娘に袖を掴まれた。
「三娘ォは乗ってな」
「何で?」
「また何か出た時に走れる奴まで泥に埋まってどうすんだい」
「正論が腹立つ!」
「褒め言葉として受け取っとくよォ」
孫二娘はそう言いながら、自分の裾をたくし上げて避難民の中にいた怪我人を荷車の陰へ移し始めた。
妖艶な独身のお姐さんが、雨と泥の中で怪我人を担いでいる。
色気の使い道としては絶対に何かがおかしいけど、本人は全く気にしていない。
顧大嫂も兵達を怒鳴りつけながら、動けない者へ肩を貸している。
二人とも、口ほど雑じゃない。
その時、水路側から船板が軋む大きな音がした。
李俊が振り向く。
「まずい!」
補給船の一隻が大きく傾いている。
川底の杭へ乗り上げたらしく、船腹が引っ掛かったまま、雨で増え始めた流れに横から押されていた。
「船を支えろ! 横へ付けろ!」
李俊の声に、水軍が一斉に動く。
別の船が慎重に寄せられ、投げられた縄を兵達が掴み、兵糧を移し始めた。
けれど流れは強く、二艘とも大きく揺れる。
「李俊!」
名前が勝手に出た。
雨の向こうで、李俊がこちらを振り向く。
「生きてる!」
「聞く前に答えないで!」
「どうせ聞くだろ!」
孫二娘が吹き出した。
「三娘ォ、先回りされてるよォ」
「今それ言ってる場合!?」
「緊張してる時ほど、普段通りの会話ができるのは悪くないよォ」
「急に仕事へ戻るのやめて!」
雨脚はさらに強くなり、荷車が一台、とうとう泥へ沈んだ。
兵達が押しても車輪は空回りし、馬まで足を滑らせる。
林の奥で、火が揺れた。
雨の向こうに松明がひとつ見え、その横でもう一つ、さらにその奥でも火が灯る。
「……来る!」
今度は矢だけじゃない。
方臘軍の兵が林から一斉に飛び出し、止まった隊列へ槍を突き込んできた。
「迎え撃て!」
盧俊義の怒声が響く。
アタシは日月双刀を抜き、馬を前へ出した。
隣にはもう玉楼がいる。
「三娘様、右をお願いいたします」
「了解!」
方天画戟が雨を切り、飛び込んできた敵兵の槍を外へ払う。
開いた懐へアタシが入り、日刀で腕を斬った。
反対側から来た二人目へ向け、アタシが身体を沈めた瞬間、頭上を玉楼の方天画戟が走る。
刃が敵兵の胸元へ食い込み、その身体を横へ押し退けた。
「近い近い!」
「避けてくださると信じております」
「信頼の使い方が怖い!」
返事をしながら、次の敵へ入る。
アタシが踏み込めば玉楼が外を払い、玉楼が長い得物で敵の列を崩せば、その隙間へアタシが潜る。
雨で互いの姿が見えにくくても、どこにいるのかは不思議と分かった。
もう、考えるより先に身体が動いている。
荷車の陰から、泥まみれの方臘兵が這い出した。
「三娘様、後ろ!」
振り向いたところへ刀が来る。
月刀で受け流した刃が火花を散らし、相手は泥を蹴って荷車の下へ潜ろうとした。
「逃がさない!」
馬を寄せようとした横から、別の兵が飛び込んでくる。
見えていなかった。
方天画戟の柄が横から入り、敵兵の胴を強く打った。
体勢が崩れたところへ玉楼が刃を返し、そのまま胸元へ突き込む。
「助かった!」
「お互い様でございます」
敵は正面から勝とうとしているんじゃない。
ここで足を止め、荷を壊し、少しでも多く疲れさせればいい。
だから、倒しても倒しても次が来る。
水路でも怒号が上がり続けていた。
傾いた補給船から兵糧が別の船へ移され、李俊達が縄を引いている。
雨で水かさが増し、杭へ掛かった船体は今にも裂けそうだった。
「船を戻せ! 荷を先に逃がせ!」
李俊が怒鳴る。
アタシは一瞬だけそちらを見る。
「三娘様」
「分かってる!」
玉楼の声で前へ戻った。
今は、李俊を信じるしかない。
敵の槍を双刀で挟んで外へ捻ると、玉楼がその横を薙いだ。
二人分の間が開き、後ろの兵達がそこへ押し込む。
林冲の蛇矛も雨の中で大きく振るわれ、盧俊義の隊が崩れかけた荷車の周囲を固め直していった。
ようやく押し返せる。
そう思った頃、林の奥から角笛が鳴った。
方臘軍の動きが一斉に変わる。
「……退きます」
玉楼が方天画戟を止めた。
敵兵達は雨の林へ戻っていく。
追えば足場の悪い林へ引き込まれるだけだと、こちらも分かっている。
誰も追撃を叫ばなかった。
方臘軍が消えた後には、血の混じった泥の中へ倒れた兵と、半ば壊れた荷車だけが残された。
雨は止まず、兵達は濡れた仲間を起こしながら、流されかけた荷を拾い集めている。
誰も勝った顔をしていなかったし、これを勝ちと呼べるのかも分からない。
ただ、生き残った。
今は、それだけで精一杯だった。
李俊が水路側から戻ってくる。
全身ずぶ濡れで、髪から水を滴らせていた。
アタシは顔を見るなり口を開く。
「生存確認」
「見りゃ分かるだろ」
「更新」
「好きだな、それ」
「必要なの!」
李俊が少し笑った。
その顔を見て、やっとアタシも息を吐けた。
童威は壊れかけた補給船を見ながら舌打ちし、朱武は雨に濡れた地図を開いている。
「このままでは、湖州へ着く前に兵が潰れますね」
誰も否定しなかった。
アタシは水陽江を見る。
雨で川面が荒れ、昨日まで静かに見えていた水が濁っている。
静かな時の方が不気味だと思っていた。
でも、今は違う。
もう、水陽江そのものが牙を剥いているみたいだった。
戦が終わってから、孫二娘殿がわたくしへ尋ねました。
「玉楼、さっき三娘ォの頭の上を方天画戟が通ってなかったかい?」
「通りました」
「即答するんだねェ」
顧大嫂殿まで眉を上げます。
「当たったらどうするつもりだったんだい?」
「三娘様なら避けてくださいますので」
「信頼が物騒過ぎるよ!」
三娘様もこちらを振り向きました。
「アタシもそう思う!」
「ですが、避けられました」
「結果論で押し切らないで!」
孫二娘殿が笑います。
「まあ、相手の動きを予測できるくらい一緒に戦ってるってことだねェ」
「心理学で綺麗にまとめないで!」
ですが、その夜――
朱武殿が濡れた地図を広げて、一言だけ告げました。
湖州まで、まだ遠い――と。




