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戻らぬ白跳

「……静かだねぇ」

孫二娘が鍋を混ぜながら、小さく呟く。

顧大嫂が酒を煽る。

「静か過ぎるんだよ」

外では兵が動いていた。

杭州へ来てから、ずっとそうだ。

昼も夜も、人が止まらない。

でも――

今夜は、妙に声が少ない。

孫二娘が、鍋の湯気を見つめる。

「張順のヤツ、まだ戻らないんだろ?」

顧大嫂は、すぐには答えなかった。

「……あいつ、水の中だと本当に魚みたいだからねぇ」

「だから余計に嫌なんだよ」

孫二娘が肩をすくめる。

「魚みたいな奴が戻らないって、相当だろ」

少し沈黙が流れる……

外で、風が鳴る。

顧大嫂が鼻を鳴らした。

「しかも、その状況で扈三娘は城壁前で騒いでたんだろ?」

「やる事が派手なんだよねぇ」

「囮だからねぇ」

「分かってるよ」

孫二娘が吹き出す。

「でも、あの状況で鬨の声上げに行く女、普通じゃないって」

顧大嫂も肩を揺らした。

「しかも、ちゃんと敵兵釣って来るからタチ悪い」

「玉楼も止めないし」

「止められるなら、とっくに止めてるさ」

二人とも笑う。

だが、笑いはすぐ静かになった。

孫二娘が、小さく息を吐く。

「……でもさぁ」

「今回ばっかりは、扈三娘もキツいだろうねぇ」

顧大嫂は、盃を回しながら外を見る。

「李俊の顔見りゃ分かる」

「うん」

「戻って来ない時の顔だ」

鍋の湯気だけが揺れる。

しばらく、二人とも喋らなかった。

その後、 孫二娘が、少しだけ無理やり笑う。

「まぁでも、扈三娘はまた前へ出るよ」

顧大嫂が鼻で笑う。

「止めても出る」

「玉楼が止めても出る」

「李俊が止めても出る」

少し間が空く。

孫二娘が、小さく肩をすくめた。

「宋江なら、もっと出る」

「それは出る」

二人とも吹き出す。

でも――

最後だけ、また静かになる。

顧大嫂が、ぽつりと呟いた。

「……生き残りなよ」

夜風が、城壁の旗を揺らしていた。

杭州の外は暗い。

でも、完全な闇じゃない。

見張り台の松明が、所々で赤く揺れている。

アタシは、城壁から少し離れた林の中で馬を止めた。

玉楼が後ろを見る。

「準備は出来ています」

アタシは頷き、後ろを見る。

後ろには、十数騎だけを連れてきていた。

多過ぎれば、却って動きが悪くなる。

少な過ぎれば、敵が動かない。

今夜の目的は、まともに戦う事じゃない。

敵兵の目を誤魔化す事だ。

「行くわよ」

小さく声を落とす。

次の瞬間、馬腹を蹴った。

夜の土を蹴り、騎馬が一気に飛び出す。

城壁の上で、すぐ灯りが揺れた。

「敵襲!」

叫び声が飛ぶ。

アタシ達は、わざと大きく鬨の声を上げた。

玉楼の槍が、夜風を裂く。

城壁へ向かって、矢が撃ち込まれる。

火矢は使わない。

本当に攻める訳じゃない。

敵へ、 “別の場所も危ない” と思わせれば、それでいい。

城壁の上が慌ただしく動き始める。

灯りが増え、敵兵が走る。

アタシは、それを見上げながら歯を食いしばった。

張順……

まだ、生きてるなら――

そう思いながら、叫んでいた。


李俊は、水辺へ戻っても、すぐには動かなかった。

城壁の灯りを見る。

水面を見る。

風の向きを確かめる。

童威と童猛も黙っていた。

名前は呼べない。

灯りも付けない。

そんな事をすれば、こちらの位置を教えるだけだ。

遠くでは、扈三娘達の鬨の声が聞こえていた。

陸側で兵が動いている。

城壁の上の灯りも、少しずつそちらへ流れていた。

李俊は、童威と童猛と目が合う。

「扈三娘達は上手くやっている様だ」

童威と童猛が頷く。

二人は、ほとんど音を立てずに水へ入った。

夜の水面が、小さく揺れる。

張順が消えた時と同じ様に……

李俊は、岸に膝をつき、水面から目を離さない。

探すものは少ない。

声でもなく、血でもなく、死体でもない。

そんなものは、夜の湖では分からない。

見るのは流れ、波、敵兵の動き。

張順がまだ水の中にいるなら、どこへ逃げるか。

捕まったなら、どこへ運ばれるか。

沈んだなら――

そこまで考えて、李俊は考えるのを止めた。

考えるな。

今は、考える時じゃない。

水面は、ただ暗いままだった。


童威と童猛は、静かに西湖の中を進んでいた。

音は、ほとんどしない。

時々、小さく波が揺れるだけだ。

李俊は岸から、その動きを見ている。

西湖の水面は暗い。

どこまでが浅瀬で、どこからが深いのかも分からない。

遠くでは、まだ扈三娘達の鬨の声が続いていた。

城壁の灯りも、何度か動いている。

敵兵は、確か誘い込まれていた。

だが――

湧金門の辺りだけは、妙に静かだった。

童威の目が細くなる。

静か過ぎる。

見張りの数は減っている。

灯りも減った。

童威が、水門近くの杭へ手を掛ける。

童猛は、その少し後ろで周囲を見ていた。

二人とも、声は出さない。

出せない――

その時だった。

童猛が、不意に動きを止める。

童威は、すぐ顔を上げた。

童猛は、水面を見ている。

何かを見つけた訳じゃない。

でも、 何も無さ過ぎた。

張順なら、 ここまで来ている。

来ているなら、 何かがある。

縄、血の痕。

なのに、 波だけが静かだった。

夜風が吹くと、水面が小さく揺れた。

それでも、 張順の姿だけは、どこにも無かった。


童威は、しばらく水面を見ていた。

湧金門の下。

暗い杭の影。

揺れる波。

どこにも、張順はいない。

童猛も、動かなかった。

諦められない。

でも、探しようが無い。

夜の西湖は、広過ぎた。

岸の李俊は、“戻れ“と手招きしている。

童猛が、すぐ顔を上げる。

「でも――」

童猛は、歯を食いしばる。

拳が震えている。

でも、逆らえなかった。

童威が、静かに西湖から離れる。

童猛も、最後にもう一度だけ湧金門を見る。

灯りは減っていた。

静か過ぎる。

まるで、 最初から誰も居なかったみたいだった。

二人は、音を立てず岸へ戻る。

李俊は、何も聞かなかった。

聞かなくても分かる。

戻って来なかった。

それだけだ――

遠くでは、まだ扈三娘達の鬨の声が続いている。

でも、西湖だけは静かなままだった。


城壁の上では、まだ敵兵が動いていた。

灯りが揺れ、 怒声が飛び、 矢が飛んでくる。

もう十分だ。

アタシは手綱を引く。

「下がるわよ!」

兵達も、すぐに馬首を返した。

粘りはしない。

今夜の目的は、 敵を混乱させる事だけだ。

玉楼も、矢を警戒しながら馬を下げている。

城壁の灯りは、 まだ完全には戻っていない。

西湖側の兵も、 確かに減っていた。

なら――

少しは意味があったはずだ。

そう思いたかった。

林へ戻ると、 梁山泊兵達も自然と声を落としていた。

誰も笑わない。

誰も、 「上手くいった」 とは言わなかった。

その時だった。

暗い水辺の方から、 三つの影が戻ってくる。

李俊、童威、童猛。

でも――

張順の姿は無い。

アタシの胸の奥が、重く沈む。

童猛は、濡れたまま俯いていた。

童威も、何も言わない。

李俊だけが、静かにこちらを見る。

その顔を見た瞬間、 アタシは声を掛けれなかった。

戻ってきたのか。

生きてるのか。

そんな言葉を、 口に出来なかった。

夜風だけが、静かに吹いていた。


幕舎へ戻る頃には、夜風も少し冷たくなっていた。

兵達は、もう休んでいる。

誰も声を出していなかった。

鎧の音だけが、小さく響いている。

李俊が帷幕を開けると、中では朱武と呉用が地図を広げたまま待っていた。

灯りが揺れる。

呉用が、すぐ顔を上げた。

「どうでした」

李俊は、しばらく答えなかった。

その沈黙だけで、 幕舎内の空気が重くなる。

やがて、李俊が口を開いた。

「見つからねぇ」

朱武の目が細くなる。

呉用も、黙った。

童猛が、濡れたまま拳を握っている。

「湧金門の警戒は薄れてた。だが、張順兄貴の痕跡が無ぇ」

声が掠れていた。

「血も、縄も、何も残ってねぇ……」

幕舎の中が静まり返る。

朱武が、静かに地図へ目を落とした。

「方臘軍側は?」

李俊が答える。

「西湖側は妙に静かだった。騒ぎも小さい。捕らえたなら、もっと何かあるはずだ」

呉用が羽扇を閉じる。

「つまり、生死不明……ですか」

誰も答えなかった。

アタシは、その空気の重さに息が詰まりそうになる。

でも―― 戦は止まらない。

朱武が、静かに口を開く。

「夜明けまでに、次の手を整理します」

呉用も頷く。

「張順殿の件は、まだ大きく広げぬ方が良いでしょう」

その言葉で、 胸の奥が少し冷たくなった。

戻って来ない。

でも、 まだ“死んだ”とは言われない。

だから――

余計に苦しかった……


幕舎の外では、まだ風が吹いていた。

夜明けまでは、まだ少しある。

でも、誰も眠る空気じゃなかった。

朱武は地図を見たまま動かない。

呉用も、羽扇を閉じたまま黙っている。

李俊は、西湖の匂いをそのまま連れて来たみたいに、壁際へ立っていた。

童猛は俯いたまま。

童威も、ほとんど口を開かない。

アタシは、そんな幕舎の空気が妙に苦しかった。

誰も、 「張順が死んだ」 とは言わない。

でも、 戻って来ない事だけは、皆分かっている。

その時だった。

外で、足音が止まる。

帷幕の向こうから、小さく声がした。

「失礼します」

伝令だった。

朱武が、短く返す。

「入れ」

兵が、すぐ頭を下げる。

「杭州城側、夜明け前から兵の動きがあります。西湖側の見張りも増えています」

幕舎の空気が、また少し張る。

呉用が、静かに目を細めた。

「こちらの動きに気付いていますね」

朱武は、地図へ視線を落としたまま言う。

「張順殿の件だけではありません。敵も、こちらが次を仕掛けると見ています」

戦は止まらない。

張順が戻らなくても、 杭州はそこにある。

城壁も、 兵も、 水路も。

全部、何も変わらないままだった。

アタシは、拳を握る。

胸の奥は、まだ冷たい。

でも――

止まっている暇なんて無かった。

夜は、まだ明けておりませんでした。

ですが、幕舎の中には、もう誰も眠る空気がありません。

兵達の足音、鎧の音、遠くで鳴る怒声。

杭州へ来てから、静かな夜の方が少なくなっていました。

その中で――

孫二娘殿と顧大嫂殿だけは、妙にいつも通りでした。

「で?」

孫二娘殿が鍋を覗き込みながら笑う。

「扈三娘、帰って来て早々、また前向いてたんだって?」

顧大嫂殿が酒を煽る。

「前向いてない時の方が珍しいだろ」

「違いない」

私は、少しだけ黙りました。

すると、孫二娘殿が肩を揺らします。

「玉楼も大変だねぇ」

「普通、あの空気なら少しは沈むよ?」

顧大嫂殿も鼻を鳴らしました。

「張順が戻らないんだ」

「兵達だって、かなり空気悪い」

「なのに、扈三娘は城壁前で鬨の声だろ?」

「元気過ぎるんだよ、あれ」

私は小さく息を吐きます。

「……無理に動かれているのだと思います」

少しだけ、空気が止まりました。

孫二娘殿が、鍋を混ぜる手を止めます。

「まぁ、だろうねぇ」

顧大嫂殿も、静かに頷きました。

「止まったら、考えちまうタイプだ」

私は否定しません。

多分……

その通りだからです。

その時でした。

外から、急に扈三娘様の声が飛び込みます。

「玉楼ー!!」

「矢、抜いといてー!!」

孫二娘殿が吹き出しました。

「全然止まってないじゃん!」

顧大嫂殿も肩を揺らします。

「しかも人使い荒いねぇ!」

私は、小さく頭を下げました。

「……行って参ります」

孫二娘殿が笑いながら手を振ります。

「頑張れ、静かな苦労人」

顧大嫂殿も続けました。

「出来れば寝かせてやんな」

私は少しだけ間を置きます。

「……善処します」

その瞬間、外からまた声が飛びました。

「聞こえてるわよー!!!」

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