後から前から
宣州を出てから、みんな妙に後ろを気にするようになった。
「三娘ォ、さっきから振り返り過ぎじゃないかい?」
「奇襲されたばっかなんだから当然でしょ!」
孫二娘が面白そうに笑う。
「過覚醒だねェ。危険刺激に注意が向きやすくなってる」
「戦場で診断しないで!」
顧大嫂まで後ろを見た。
「でも、前も見とかないと危ないよ」
「分かってる! 前も後ろも見るの!」
「忙しい女だねぇ」
「誰のせいよ!」
孫二娘が水路の方へ顎を向ける。
「李俊まで見てるしねェ」
「それは別件!」
二人が笑った、その直後だった。
前方で、兵達の足が止まる。
……今度は前?
そう思ったアタシは、まだ知らなかった。
本当に来るのは――後からだった。
宣州を発った二路軍は、再び水陽江沿いを進み始めていた。
だが、空気は以前より重い。
兵の数が減ったことを、誰も口には出さなかった。
言葉にした途端、曹正や鄭天寿、王定六がもう隊列のどこにもいないことを、認めるしかなくなりそうだった。
水路側では李俊の船団が並走し、兵糧や矢を積んだ船の間に、まだ歩けない負傷兵を乗せた船も混じっている。
水軍がいなければ、この遠征はとっくに止まっていた。
アタシは河岸の道を進みながら、何度目か分からないくらい水面へ目をやった。
「三娘ォ」
すぐ後ろから孫二娘の声が飛んでくる。
「何よ?」
「紅玉の話、まだ途中だったねェ」
「……覚えてたの?」
「心理職は、露骨な話題回避くらい見逃さないよォ」
「アタシをクライエントにしないで!」
顧大嫂が横から口を挟む。
「で、本当は何で置いてきたんだい?」
逃げられなかった。
アタシは前を向いたまま答える。
「紅玉は強いよ。でも、まだ早い。宣州みたいな場所へ連れて来るには」
孫二娘は笑わなかった。
「だから瓊英の護衛かい?」
「戦いから遠ざけたいわけじゃないの。瓊英のところなら役目もあるし、経験も積める。それに――」
宣州で倒れた三人が頭をよぎり、そこで口を閉じた。
孫二娘が小さく息を吐く。
「囲って隠す気じゃないなら、それでいいさァ」
「アンタ、昨日からそこ聞きたかったの?」
「三娘ォは守るって決めると、たまに抱え込み過ぎるからねェ」
「心理学で人の欠点を刺さないで!」
「心理学じゃなくても分かるよ」
顧大嫂まで即答した。
味方がいない。
しかも、その直後に水面へ視線を戻したのが悪かった。
「三娘ォ」
「今度は何?」
「さっきから水軍ばっかり見てないかい?」
「見てない!」
「否認が速いねェ」
「今の話と繋げないで!」
顧大嫂が噴き出した。
「李俊の船だけ見分けられるんじゃないのかい?」
「見分けられるけど、それは指揮官として必要だから!」
「へえ」
二人同時に笑うな。
前を行く玉楼まで、ほんの少しだけ口元を緩めた気がする。
「玉楼まで笑った!?」
「気のせいでございます」
絶対違う。
けれど、その程度のやり取りで近くの兵達の顔が少し上がるなら、悪くはないとも思った。
宣州を出てから、誰もが必要以上に黙っている。
河岸道の片側には崖が迫り、反対側には林が続いていた。
枝が揺れるたびに何人もの兵がそちらを見る。
宣州までに食らった奇襲が、まだ身体から抜けていないのだ。
玉楼が方天画戟を持ったまま、林へ視線を向ける。
「……静かですね」
「静か過ぎる」
こんな場所で何も起きない方が気味が悪いうえ、湖州への道はまだ長かった。
水路側から李俊の声が飛んできた。
「前、何かいるぞ!」
前列がざわめき、盧俊義と林冲が馬を進める。
兵達も一斉に槍を握り直した。
また来る。
その緊張が隊列を走り抜け、二路軍の足が止まった。
アタシも日月双刀へ手を掛ける。
伏撃かと思った。
けれど、河岸道の先に並んでいたのは兵ではない。
泥に汚れた荷を抱えた老人や女、子供達だった。
怪我をした男が肩を借り、幼い子供が母親の着物を掴んだまま泣いている。
逃げてきたのだ。
二路軍の兵達は、すぐには近寄らなかった。
敵かどうかを先に見てしまう。
戦場に慣れたというより、疑わなければ生き残れなくなっている。
「突っ立ってんじゃないよ!」
顧大嫂の怒鳴り声が飛んだ。
「水だ! 怪我人から先に回しな!」
その一声で、止まっていた兵がようやく動き出す。
孫二娘も馬を降りながら舌打ちした。
「ガキまでいるじゃないか……三娘ォ、水袋そっち!」
「はいはい!」
「返事は一回!」
「何でアタシが怒られてるの!?」
妖艶なお姐さんは戦場でも容赦がない。
アタシが渡した水袋を、孫二娘は泣いている子供の母親へ押し付けた。
「少しずつ飲ませな。いきなり全部飲ませるんじゃないよォ」
顧大嫂も年寄りの前へしゃがみ込み、水を差し出している。
声は相変わらず乱暴なのに、相手が受け取るまで無理に掴ませようとはしなかった。
それでも民達は怯えていた。
梁山泊の旗を見ても安心した顔をしない。
方臘軍ではないと分かっても、武器を持った兵そのものが怖いのだろう。
戦が進むほど、こうして家を捨てて逃げる人間が増えている。
どちらが勝つかなんて、この人達にはもう関係ないのかもしれない。
民の中にいた男が、ようやく口を開いた。
「湖州は……もう駄目です……」
盧俊義と林冲が振り向く。
男は二人の鎧を見ただけで肩を震わせた。
「あなた方が近くへ来たと知って、方臘軍が村から食べ物を持っていくようになりました。逆らった者は……」
そこで言葉が切れた。
後ろでは、痩せた子供が咳き込んでいる。
アタシは何も言えなかった。
梁山泊軍が進めば、その先で方臘軍も戦うための兵糧を集める。
こっちだって、同じことを全くしていないとは言えなかった。
正しい方に立っているつもりでも、結局腹を減らすのは別の誰かだ。
水陽江だけが、何事もないように流れている。
「湖州までは、あとどれくらいだ」
盧俊義が尋ねると、男は怯えたまま答えた。
「このまま進めば……二日ほどです……」
林冲が崖と林を見回し、朱武も地形を確かめながら眉を寄せる。
「この辺りで長く止まる方が危険でしょう。湖州まで急ぎたいところですが、隊列が保つかどうか」
「水の上も同じだ」
李俊が船の舳先から答えた。
「負傷兵と補給を抱えたまま走らせりゃ、どっかが沈む。だが、ここで錨を下ろすのも気に入らねぇ」
アタシはその声に顔を上げた。
李俊と目が合う。
「何だ?」
「何でもない!」
「また生存確認か?」
「今は違う!」
孫二娘がすかさず割り込む。
「『今は』だってさァ」
「拾わなくていいから!」
顧大嫂が笑い、李俊まで口の端を上げた。
何で戦場のど真ん中で四方から攻撃されなきゃいけないのよ。
その瞬間だった。
後方から悲鳴が上がった。
林の枝が大きく揺れ、続けて矢が飛び出す。
「敵襲――!!」
怒号が河岸道を走った。
前じゃない。
後ろだった。
立ち止まった補給隊へ矢が降り、兵糧を積んだ荷車の馬が暴れる。
兵達が盾を上げるより早く、林から方臘軍の兵が飛び出してきた。
「後衛を立て直せ!」
林冲が馬を返して蛇矛を振るうと、飛び込んできた敵兵が二人まとめて弾き飛ばされた。
ほぼ同時に、水路でも叫び声が上がる。
林の陰に隠れていた小舟が一斉に漕ぎ出し、李俊達の船団へ張り付こうとしていた。
鉤縄が飛び、火矢が船腹へ突き刺さる。
「火を消せ! 鉤を切れ!」
童威が怒鳴り、童猛が斧で縄を叩き切る。
避難民の悲鳴が重なった。
「民を伏せさせな!」
顧大嫂が盾を拾いながら叫ぶ。
孫二娘は子供を抱え込んだ母親を荷車の陰へ押し込み、その前へ立った。
「三娘ォ、そっちは任せたよ!」
「アンタも前に出過ぎないで!」
「誰に言ってんだい!」
「妖艶な独身のお姐さん!」
「今それ関係ある!?」
あるかどうかは知らない。
でも、返事が来たならまだ大丈夫だ。
アタシは馬を返した。
後方では荷車が倒れ、兵糧袋が道へ転がっている。
敵は明らかにそこを狙っていた。
玉楼がアタシの右へ並ぶ。
「三娘様、荷車まで参ります」
「分かった。アタシが先に開ける!」
敵兵が狭い道を塞ぐ。
アタシは馬を蹴り、最初の槍を双刀で外へ流した。
その懐へ入り込んで腕を斬り、身体が傾いたところを馬ごと抜ける。
横から伸びた二本目の槍は、玉楼の方天画戟がまとめて絡め取った。
「そこ!」
「はい!」
玉楼が柄を返して敵兵を河岸側へ押し込み、空いた場所へアタシが飛び込む。
アタシが近距離を崩せば玉楼の長い得物が後ろを薙ぎ、玉楼が敵の槍を外へ払えば、その内側へアタシが入る。
考えて合わせている暇なんてなかった。
もう身体の方が相棒の動きを知っている。
「三娘様、左から来ます!」
「見えてる!」
「では右を頂きます」
「早い早い!」
方天画戟が唸り、荷車へ取り付こうとした敵兵をまとめて押し退けた。
林から放たれた矢が、アタシの頬の横を抜ける。
「危なっ!」
玉楼が馬を寄せ、方天画戟の柄で次の一射を弾いた。
「助かった!」
「では前を」
「はい!」
何でアタシまで返事が丁寧になってるの。
荷車へ辿り着いた時、別の兵糧袋が河岸へ転がり落ち、方臘軍の兵が一斉に群がった。
「近付けさせるな!」
林冲の怒声とともに蛇矛が敵を散らす。
敵は二路軍そのものを正面から潰すつもりではない。
補給を断ち、ここで少しでも足を鈍らせて、湖州へ着く前にこちらを弱らせるつもりなのだ。
嫌な戦い方だった。
そして、効く。
水路で火の手が上がった。
補給船の帆の端へ火矢が刺さっている。
「李俊!」
思わず名前が出た。
李俊は敵の小舟へ飛び移り、鉤縄を投げた兵を水陽江へ叩き落としていた。
「こっち見てる暇があんなら陸を見ろ!」
「生きてるならいい!」
「確認済みかよ!」
「更新したの!」
こんな時に何を言ってるんだ、アタシは。
けれど、李俊の声が返ってきたことで胸の奥の詰まりが一つ取れた。
李俊は刀を振ったまま童威へ叫ぶ。
「舟を寄せろ! 陸を射る!」
援護に回った舟が一気に河岸へ寄り、弓兵が林へ向けて弦を引いた。
「放て!」
水上から斜めに矢が飛び込み、林際へ出ていた方臘軍の兵が次々と崩れる。陸から押していた林冲隊も、その隙を逃さず前へ出た。
ようやく、敵の勢いが少し鈍る。
でも――まだ終わっていなかった。
三娘様は、最近わたくしへの返事が妙に素直でございます。
「三娘ォ、さっき玉楼に『はい!』って返事してたねェ」
「戦闘中だったの!」
顧大嫂殿が笑いました。
「そのうち『承知いたしました』とか言い出すんじゃないかい?」
「言わない!」
「では、練習なさいますか?」
「玉楼まで乗らないで!」
孫二娘殿が楽しそうに頷きます。
「長く一緒にいる相手の話し方が移ることはあるからねェ」
「心理学でアタシを玉楼化しないで!」
玉楼化とは何でしょう?
ですが、言葉より先に動きが合うようになったのは事実でございます。
三娘様が踏み込めば、わたくしがその外を払う。
わたくしが道を開ければ、三娘様が迷わず入る。
そして敵が退き始めた時、林の奥から――もう一度、枝の折れる音がいたしました。




