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沈黙の湧金門

「……夜の西湖ってのは嫌だねぇ」

孫二娘が、鍋の湯気を見ながら呟く。

顧大嫂が酒を煽った。

「何があったか、見えないからね」

外では、夜風が吹いていた。 兵達の声も少ない。

皆、どこか耳を澄ませている。

でも、聞こえるのは風の音だけだった。

孫二娘が、鍋をかき混ぜる。

「張順のヤツなら大丈夫、って言いたいんだけどねぇ」

「言えない時もある」

顧大嫂が短く返す。

孫二娘は、少しだけ黙った。

「……嫌な言い方するねぇ」

「本当の事だよ」

鍋の音だけが、小さく響く。

やがて、孫二娘が肩をすくめた。

「あいつ、水の中なら魚みたいなもんなんだろ?」

「だから怖いんだよ」

顧大嫂が盃を置く。

「魚みたいな男が戻らないなら、水の中で何かあったって事だ」

また、沈黙が落ちる。

外で、馬が一度だけ嘶いた。

孫二娘が、無理に笑った。

「で、その中で扈三娘は陸で大騒ぎかい」

「囮だからねぇ」

「分かってるよ」

孫二娘が鍋を混ぜる。 「でも、あの子は待ってるより騒ぐ方が向いてる」

顧大嫂が鼻を鳴らした。

「じっとしてたら、余計な事を考えるからね」

「それは、あたしらも同じだけどさ」

二人とも、少しだけ笑った。

でも、すぐに静かになる。

孫二娘が、ぽつりと言う。

「李俊、顔が固かったねぇ」

顧大嫂は頷いた。

「水軍の男が、あの顔をするんだ」

「良い知らせじゃないね」

孫二娘は、鍋の火を少し弱めた。

「……嫌だねぇ」

「嫌だねぇ」

外では、まだ風が鳴っていた。

杭州の夜は、明ける気配がなかった。

張順は、水辺へ立つと、静かに夜の杭州を見上げた。

城壁は、まだ遠い。

でも、水路の灯りだけは暗い水面へ細く伸びている。

風が吹く。

湿った空気が、水面を撫でた。

童威が、最後に縄を確認している。

童猛は、舟を岸へ寄せ直していた。

李俊は、何も言わない。

ただ、水路の先の西湖を見ている。

張順が、小さく肩を回した。

「流れは悪くねぇ」

独り言みたいな声だった。

アタシは、その背中を見る。

いつも通りに見える。

でも、 今までの戦とは違う。

前へ突っ込めば良い訳じゃない。

杭州は、銭塘江や西湖が戦場だ。

その時――

張順が、そのまま静かに水路へ足を踏み入れた。

夜の水が、小さく揺れる。

冷たいはずなのに、 張順は顔色一つ変えない。

腰まで入る。

胸まで沈む。

やがて、水面へ溶けるみたいに姿が低くなった。

最後に、こちらを振り返る。

そして、小さく笑った。

次の瞬間――

張順の姿が、夜の水の中へ消えた。


水面だけが、しばらく揺れていた。

人の声はなく、水を掻く音もない。

本当に、そこに人がいたのか分からなくなるくらい、静かだった。

童威が、縄を握ったまま息を殺す。

童猛も、舟の縁へ手を掛けたまま動かない。

李俊は西湖の方を見たままだった。

アタシは、夜の水を見る。

嫌な静けさだった。

戦場の静けさとは違う。

槍も、矢も、馬の蹄もない。

ただ、水だけがある。

でも、その中に張順がいる。

見えない場所で、ひとりで進んでいる。

「……あれで、行けるの?」

思わず、声が出た。

童威がこちらを見る。

少しだけ笑った。

「張順兄貴なら、行けます」

迷いのない声だった。

童猛も頷く。

「水の中なら、あの人は魚みてぇなもんです」

魚――

そう言われても、アタシには分からない。

水の中で息を殺し、暗い城へ向かう。

見張りに見つかれば一巻の終わり。

流れに呑まれても終わり。

水門に仕掛けがあっても終わり。

なのに、あの男は笑って潜っていった。

アタシは、拳を握った。

陸の上で敵を斬る方が、まだ楽だと思う。

敵が見えるし、刃が届く。

生きるか死ぬかが、自分の腕に掛かってくる。

でも、今は違う。

待つしかない。

水面を見て、息を殺して、張順が戻るのを待つしかない。

「焦るな」

李俊の声がした。

低く、静かな声だった。

「水の中の戦は、待てぬ者から死ぬ」

アタシは、李俊を見る。

その横顔は、闇夜の中でも妙に落ち着いていた。

張順を信じている。

童威と童猛も信じている。

そして、水そのものを見ている。

「……慣れてるのね」

「慣れたくて慣れた訳じゃない」

李俊は、わずかに目を細めた。

「だが、水の中は嘘をつかん。焦った人間だけを、まず沈めてくる」

その言葉に、胸の奥が重くなる。

水面は暗く、張順の姿は、もうどこにもない。

杭州の城壁だけが、遠くに黒く立っていた。


水面は、何も答えなかった。

暗いまま、静かなまま。

張順が潜っていった場所だけが、最初から何もなかったみたいに戻っている。

アタシは、そこから目が離せなかった。

戻ってくる……

ずっとそう思ってた。

張順なら必ず戻ってくる。

童威も童猛も、そう信じていた。

李俊も、何も言わない。

だから、アタシも待った。

でも――

水面は揺れない。

小さな波だけが、岸へ寄せては消えていく。

「……遅い」

童猛が、呟いた。

その声で、空気が変わった。

童威の手が、縄を握り直す。 李俊の目が、わずかに細くなる。

アタシは、皆に聞いてみる。

「いつも、こんなものなの?」

誰も、すぐには答えなかった。

その沈黙が、答えみたいだった。

遠くで、城壁の灯りが一つ揺れる。

風のせいか。

人が動いたのか。

誰にも分からない。

でも、嫌な感じがした。

李俊が、静かに言う。

「動くな」

その声は、今までより低かった。

「こちらから騒げば、張順の道を潰す」

「でも……」

童猛が言いかけて、歯を噛んだ。

水の中は見えない。

何が起きているのか分からない。

助けに行くべきなのか。

待つべきなのか。

そもそも、生きているのか。

何も分からない。

アタシは拳を握った。

こんな戦、嫌だ。

敵が見えない。

声も届かない。

刀も届かない。

ただ、仲間が戻らない気がする……

それだけで、胸の奥が冷たくなっていく。

水面は、まだ静かだった。


風が、止んだ。

さっきまで揺れていた水面が、急に静かになる。

嫌な静けさだった。

童威が、ゆっくり顔を上げる。

童猛も、水路の先を睨んだまま動かない。

アタシには分からない。

でも、二人には何か見えていた。

「……兄貴?」

童猛が、小さく呟く。

返事はない。

その時だった。

遠くの城壁で、灯りが一つ増えた。

次に、また一つ。

黒かった水路の先へ、ぼんやりと橙色が浮かび始める。

童威の顔色が変わった。

「まずい……」

李俊が、静かに立ち上がる。

その目だけが、急に鋭くなっていた。

「音を立てるな」

低い声だった。

次の瞬間――

遠くで、微かに銅鑼の音が鳴った。

甲高い音が、夜の水を震わせる。

一、二度鳴って止まる。

でも、それだけで不安が的中した事が分かる。

杭州側は気づいていた……

アタシの背筋が凍る。

「見つかったの……?」

童猛が、歯を食いしばる。

「まだ分からねぇ……!」

でも、その声には焦りが混じっていた。

水面は暗いまま。

張順は、多分もう戻らない。

なのに、城だけが目を覚まし始めていた。


李俊は、何も言わなかった。

ただ、水路から目を離した瞬間、そのまま踵を返す。

「李俊?」

アタシが呼んでも、止まらない。

足早に岸を離れ、そのまま宿営地の方へ向かっていく。

童威と童猛も、すぐ後を追った。

二人の顔から、もう余裕は消えている。

アタシと玉楼も、慌てて後を追いかけた。

夜の宿営地は静かだった。

でも、その静けさが逆に嫌だった。

まだ大騒ぎにはなっていない。

梁山泊側は、張順が戻っていない事を知らない。

知っているのは、 今、水辺にいたアタシ達だけだ。

李俊は、そのまま幕舎の帷幕を乱暴に開けた。

中では、朱武が地図を見ていた。

顔を上げる。

「どうしました?」

李俊は、短く答えた。

「杭州側にバレた」

その瞬間、幕舎内の空気が変わる。

朱武の目が細くなる。

「張順が?」

李俊は、すぐには答えなかった。

その沈黙だけで、十分だった。

アタシの胸の奥が、嫌な音を立てる。

朱武が、静かに地図へ目を落とした。

「湧金門か……」

誰も、軽口を叩かない。

外では、夜風が帷幕を揺らしていた。

でも、もうさっきまでの静かな夜じゃない。

方臘軍が、こちらへ気付き始めている。


朱武は、しばらく地図を見ていた。

やがて、指先を湧金門から少し離す。

「水軍は、今すぐ動かしません」

童猛が唇を噛む。

朱武は続けた。

「ですが、敵の目を西湖側から外す事は出来ます」

アタシは顔を上げた。

「陸で騒ぎを起こすのね」

「はい」

朱武は、別の門を指した。

「こちらへ少数で近付きます。攻め込む必要はありません。見張りに見せるだけでいい。方臘軍が陸側へ兵を振れば、その分、湧金門の警戒は薄くなる」

李俊が低く言う。

「その隙に、確認に出る」

童威と童猛が同時に顔を上げた。

「俺達が行きます」

童威の声は、震えていなかった。

童猛も頷く。

「兄貴を見つける。生きてるなら連れて帰る。駄目なら……」

そこで言葉が止まった。

幕舎の中が、また静かになる。

駄目なら――

その先を、誰も口にしなかった。

朱武は、静かに頷いた。

「確認です。救出ではありません。無理に捜せば、戻れる者まで戻れなくなります」

童猛は悔しそうに拳を握った。

それでも、何も言い返さなかった。

アタシは地図を見下ろす。

紙の上では、道も水路も細い線でしかない。

でも、その線のどこかに、張順がいる。

生きているのか。

もう手遅れなのか。

それすら分からない。

李俊が、こちらを見る。

「陸は任せる」

短い言葉だった。

アタシは、息を吸った。

水の中では何も出来ない。

でも、陸なら動ける。

「分かった」

アタシは頷いた。

「敵の目、こっちへ引っ張ればいいのね」

玉楼が、静かに槍を持ち直す。

「私も参ります」

朱武が地図の上へ手を置いた。

「大きく攻めてはいけません。近付いて、見せて、すぐ退く。目的は勝つ事ではなく、敵を動かす事です」

分かっている。

でも、胸の奥は冷たいままだった。

勝つ為の策じゃない。

張順が、まだ帰ってくるかもしれない。

その少ない可能性を残す為の策だった。

夜風は、少し冷たくなっておりました。

ですが、幕舎の中は妙に蒸していました。

孫二娘殿が鍋をなさっているからでしょうか?。

張順殿は戻って来ない。

杭州側は動き始めている。

それでも、戦は止まりません。

兵達も、静かでした。

その中で――

孫二娘殿と顧大嫂殿だけは、鍋を囲んでおられます。

「で?」

孫二娘殿が、湯気を覗き込みながら言いました。

「扈三娘、結局また前へ出るんだって?」

顧大嫂殿が酒を煽ります。

「出るだろうねぇ」

「止めなかったの?」

その言葉で、お二人の視線がこちらへ向きました。

私は、少しだけ間を置きます。

「……止まりませんので」

孫二娘殿が吹き出しました。

「諦め早いねぇ!」

顧大嫂殿も肩を揺らします。

「まぁ、玉楼が一番分かってるか」

私は否定しません。

実際――

扈三娘様は、待つのが苦手です。

何も出来ない時間が長いほど、前へ出ようとされる。

今回も、きっと同じでした。

その時、 外から急に声が飛び込みました。

「玉楼ー!!」

「矢、足りないー!!」

幕舎の空気が、一瞬だけ止まります。

孫二娘殿が、鍋を混ぜながら笑いました。

「ほら、もう走ってる」

顧大嫂殿も鼻を鳴らします。

「さっきまで張順の話してた奴とは思えないねぇ」

私は、小さく息を吐きました。

「……無理に動いておられるのです」

少しだけ、空気が静かになります。

孫二娘殿が、ゆっくり鍋を混ぜました。

「まぁ、止まったら考えちまうか」

顧大嫂殿も、盃を回しながら頷きます。

「考えると、潰れてしまう夜もある」

私は、返す言葉がありませんでした。

外では、まだ風が鳴っています。

杭州の夜は、長いままでした。

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