湧金門潜入の夜
「……水軍の連中、静かだったねぇ」
孫二娘が、鍋を混ぜながら呟く。
顧大嫂が酒を煽った。
「そりゃそうさ」
「今回は“戻って来るか”の話だからね」
外では、水辺の風が鳴っていた。
杭州へ近付いてから、夜の音まで湿っている。
孫二娘が、鍋の湯気を見つめる。
「張順のヤツ、笑ってたんだろ?」
「笑ってたらしいねぇ」
「嫌だねぇ」
顧大嫂が鼻を鳴らした。
「ああいう軽口ってのは、大体“怖くない振り”だ」
少し沈黙。
鍋の音だけが、小さく響く。
やがて、孫二娘が肩をすくめた。
「でも、あの男、水の中だと本当に魚みたいだからねぇ」
「だから余計に怖いんだよ」
顧大嫂は、盃を回しながら続けた。
「陸の上なら、死ぬ時は見える」
「でも水の中は違う」
「沈むと、消える」
空気が、少し静かになる。
外で、小舟の縄が軋む音がした。
孫二娘が、無理やり笑う。
「で、その空気の中、扈三娘は“また潜るの?”って顔してた訳だ」
「顔に出過ぎなんだよ、あの子は」
「でも、多分」
孫二娘が鍋を混ぜる。
「本当は止めたかったんだろうねぇ」
顧大嫂は、少しだけ黙った。
「止めても行く奴は行く」
「……そうだねぇ」
「梁山泊、そういう奴ばっかだ」
二人とも、小さく笑う。
でも、その笑いも長く続かなかった。
孫二娘が、ぽつりと呟く。
「李俊、“死ぬなよ”って言ったんだろ?」
顧大嫂は頷いた。
「言っちまう時点で、嫌な予感してたんだろうねぇ」
風が吹く。
鍋の湯気が、ゆっくり揺れた。
杭州の夜は、まだ深いままでした。
杭州へ近付くにつれて、街道の横へ水路が増えていった。
独松関みたいな狭い山道じゃない。
でも、人の数が違う。
荷を抱えて逃げる民衆。
荷車を押す者。
子供の手を繋いで歩く者。
岸へ寄せられたまま、放置された小舟まで見える。
人の流れそのものが、ずっと揺れていた。
梁山泊軍が進む度に、その流れも動く。
アタシは、馬上からその光景を見る。
独松関を抜けた後なのに、兵達の顔はまだ重かった。
疲れている。
でも、止まれない。
玉楼が、前方を見ながら小さく呟く。
「……水辺が増えて来ましたね」
確かに、そうだった。
杭州へ近付くほど、水辺の匂いが濃くなる。
舟の数も増えていく。
荷を運ぶ大舟。
逃げる民を乗せた小舟。
岸沿いへ繋がれたまま揺れている船。
その中で、一隻だけ妙に落ち着いている舟が見えた。
縁へ腰を掛けた男が、こちらを見ている。
李俊だ。
水軍の連中も、すでに周囲へ集まり始めていた。
童威に童猛――
張順達の姿も見える。
李俊は、アタシ達を見るなり、小さく笑った。
「随分、辛気臭い顔してんな」
アタシは、思わず鼻を鳴らす。
「そっちこそ、魚の匂いしかしないじゃない」
李俊が肩を揺らした。
その横で、玉楼が小さく息を吐く。
「……合流出来ましたね」
独松関を抜けた後だからか、その一言だけで少し気が緩みそうになる。
でも、李俊はすぐ杭州の方へ視線を向けた。
「デカいぞ、ありゃ」
アタシも、遠くの城壁を見る。
杭州城の城壁は、遠目に見ても大きかった。
高いだけじゃない。
横に長い。
水辺ごと囲い込んでいるみたいに見える。
近付くほど、水路はさらに増えていく。
橋。
舟。
岸沿いの道。
全部が複雑に繋がっていた。
張順が、水面を見たまま小さく笑う。
「水辺が多いだけなら、こっちのもんなんだがな」
童威が岸へ目を向けた。
「舟を入れるにも、狭い所が多そうだ」
童猛も頷く。
「下手に入れば、閉じ込められる」
水軍の連中は、もう城より水路を見ていた。
アタシには、ただ広くて大きな城に見える。
でも、李俊達には違うのだろう。
どこを舟が通れるか。
どこまで入れるか。
どこから火が回るか。
そういうものを見ている。
玉楼が、静かに呟いた。
「独松関とは、まるで逆ですね」
アタシは頷く。
「あそこは狭過ぎたわ。ここは……広過ぎる」
李俊が、少しだけこちらを見た。
「中は街だからな……こっちの方が、迷いやすい」
笑っていない声だった。
杭州までは、もう少し……
それなのに――
嫌な感じだけは、もう近付いて来ていた。
夜の幕舎には、湿った空気が重く溜まっていた。
杭州へ近付いてから、ずっと水の匂いが消えない。
卓の上には、杭州周辺の簡単な見取り図が広げられている。
橋。
水路。
城門。
灯火に照らされた線を見ながら、呉用が静かに口を開いた。
「西湖側の湧金門を開けます」
幕舎の空気が、少し止まる。
呉用は、扇をゆっくり動かした。
「夜半、西湖から潜入します」
その瞬間、アタシは小さく眉を寄せた。
また、だ。
湖州でも見た。
蘇州でも見た。
夜に入り込む。
内側から開ける。
梁山泊は、もう何度も同じ事をやっている。
でも―― 杭州は違う。
広過ぎる。
水路も多過ぎる。
張順が、卓の向こうで静かに笑った。
「つまり、俺の出番って訳か」
呉用が頷く。
「水中から湧金門へ近付ける者は限られます」
李俊は、黙ったまま地図を見ていた。
童威と童猛も、笑っていない。
水軍側は、 “出来るかどうか” じゃなく、
“戻って来られるか”
を考えている顔だった。
アタシは、思わず口を開く。
「……また潜るの?」
張順が肩を揺らす。
「まぁ、水中なら俺の庭みたいなもんだ」
軽い言い方だった。
でも、その軽さが妙に嫌だった。
杭州の雰囲気は、今までの城とは違う。
広い。
深い。
入り組んでいる。
それに――
敵だって、もう梁山泊のやり方を知らない訳じゃない。
幕舎を出ると、夜の湿った風が肌へ張り付いた。
杭州へ近付いてから、夜でも空気が重い。
水辺の匂いが消えない。
遠くでは、まだ舟の音も聞こえていた。
アタシは、幕舎の外で立ち止まる。
玉楼も、静かに後ろへ続いて来た。
しばらく誰も喋らない。
焚き火の音だけが、小さく鳴っている。
やがて、玉楼が口を開いた。
「……心配ですか?」
アタシは、少し間を置いた。
「そりゃね」
張順は強い。
水中なら、誰より動ける。
それくらい、アタシでも分かる。
でも――
強いから、帰って来られるとは限らない。
湖州や蘇州とは違う。
杭州は広過ぎる。
敵も多い。
水路も複雑だ。
それに、梁山泊が“夜に入り込んで門を開ける”事くらい、もう敵だって分かっている気がした。
その時――
背後で、水を踏む音がした。
振り返る。
李俊だった。
暗い水辺の方から、ゆっくりこちらへ歩いて来る。
アタシは、思わず聞いた。
「……アレで良いの?」
李俊は、少しだけ目を細める。
「張順を行かせる事か?」
アタシは頷いた。
李俊は、しばらく黙ったまま水路の方を見る。
遠くで、小さく舟が揺れる音がした。
やがて、低い声で答える。
「アイツ以上に潜れる奴が居ねぇ」
“無理だから止める“じゃない。
“危ないから変える“でもない。
“張順が行くしかない”
そういう言い方だった。
アタシは、思わず眉を寄せる。
「でも――」
李俊が、小さく息を吐いた。
「分かってる」
その声は、思っていたより静かだった。
「だから嫌なんだよ」
水辺の夜は、妙に静かだった。
風はある。
舟も揺れている。
でも――
今までみたいな活気が無い。
その静けさが、逆に落ち着かなかった。
アタシは、水路の方を見る。
暗い水面が、灯りを細かく揺らしていた。
その向こうに、杭州がある。
巨大な城。
巨大な街。
そして、その中へ張順が入ろうとしている。
玉楼が、小さく周囲を見回す。
「……水軍の方々も、静かですね」
確かに、そうだった。
童威も童猛も、静かなものだった。
舟の確認をしている。
縄を見て、 櫂を見て、 水路を見ている。
笑っている者が少ない。
皆、分かっているのだろう。
今度の潜入は、 湖州や蘇州みたいに簡単じゃない。
その時――
水辺の方で、小さく水音がした。
張順だった。
もう半身裸になっている。
濡れた髪を後ろへ流しながら、こちらへ歩いて来た。
「何だ、そんな顔して」
アタシは、思わず眉を寄せる。
「アンタねぇ……」
張順は、軽く笑った。
「潜るだけだ」
軽い。
軽過ぎる。
でも、多分――
ああやって笑ってないと、駄目なんだろう。
張順は、水辺へ腰を下ろすと、そのまま静かに水面を見た。
夜の杭州城は、まだ遠い。
でも、水の上だと妙に近く感じる。
風が吹く度に、水面の灯りが細かく揺れた。
張順が、小さく息を吐く。
「流れは悪くねぇな」
童威が、すぐ横へしゃがみ込んだ。
「戻る時には変わってるかもしれねぇぞ」
張順が笑う。
「戻る前提かよ」
童猛が、鼻を鳴らした。
「帰って来ねぇと、李俊兄貴が面倒臭ぇ」
少しだけ、水軍側に笑いが漏れる。
でも、長くは続かなかった。
李俊だけは、黙ったまま杭州城の方を見ている。
アタシは、その横顔を眺める。
頑なな顔だった。
玉楼が、小さく呟いた。
「……覚悟は、決まっているのでしょうね」
アタシは、水面を見る。
暗くて、広い。
どこまで続いているのか、夜だと余計に分からない。
張順は、その水の中へ入っていく。
それが妙に嫌だった――
張順は、水面へ手を入れると、そのまま流れを確かめる様に指を動かした。
夜の水は冷たい。
でも、張順は気にした様子も無い。
童威が、舟の縁へ縄を掛け直している。
童猛は、静かに櫂を確認していた。
誰も、大きな声を出さない。
水音だけが、小さく続いている。
やがて、張順が立ち上がった。
「じゃ、行って来る」
軽い。
本当に、潜って戻って来るだけみたいな言い方だった。
アタシは、思わず口を開く。
「アンタねぇ……」
張順が笑う。
「そんな恐い顔すんなよ」
その時、李俊が低く口を開いた。
「張順」
張順が、ゆっくり振り返る。
李俊は、水辺へ立ったまま動かない。
しばらく何も言わなかった。
でも――
「死ぬなよ」
その一言だけだった。
張順は、一瞬だけ目を細める。
それから、いつもの調子で肩を揺らしながら、軽口を叩いた。
「誰に言ってんだよ」
でも、水軍の連中は誰も笑えなかったみたいだ――
夜の水辺は、昼より静かでした。
ですが――
静かな分だけ、人の気配が妙に心へ残ります。
舟の軋む音。
縄の擦れる音。
遠くで揺れる水音。
杭州へ来てから、皆、少しずつ眠りが浅くなっている気がしました。
その中で、 孫二娘殿と顧大嫂殿だけは、鍋を囲んでおられます。
「で?」
孫二娘殿が、鍋を混ぜながら笑いました。
「扈三娘、結局ずっと嫌そうな顔してたんだって?」
顧大嫂殿が酒を煽ります。
「珍しいねぇ」
「大体、あの子は“先に行く側”だから」
私は、少しだけ間を置きました。
「……今回は、水の中ですので」
孫二娘殿の手が、少し止まります。
「まぁ、だろうねぇ」
顧大嫂殿も頷きました。
「陸の上なら、自分で斬れる」
「でも、水の中は違う」
「待つしかないからねぇ」
鍋の湯気が、静かに揺れます。
その後、孫二娘殿が苦笑しました。
「で、張順は笑ってたんだろ?」
「はい」
「嫌だねぇ」
私は、水辺の方を見ます。
張順殿は、本当に軽く笑われていました。
ですが――
童威殿も、童猛殿も、李俊殿も、 誰も笑っておりませんでした。
その空気が、逆に怖かったのだと思います。
その時でした。
外から、急に扈三娘様の声が飛び込みます。
「玉楼ー!!」
「まだ起きてるー!?」
孫二娘殿が吹き出しました。
「本人は全然静かじゃないじゃん!」
顧大嫂殿も肩を揺らします。
「考え込む前に喋ってるねぇ」
私は、小さく息を吐きました。
「……止まると、不安になられるのでしょう」
少しだけ、空気が静かになります。
孫二娘殿が、鍋を混ぜながら小さく頷きました。
「分かるけどねぇ」
顧大嫂殿も、盃を回します。
「こういう夜は、余計な事ばっか浮かぶ」
私は、返す言葉がありませんでした。
外では、まだ水音が続いています。
杭州の夜は、まだまだ続きます。




