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残火の宿営

「……静かになっちまったねぇ」

孫二娘が、鍋を混ぜながら呟く。

顧大嫂が酒を煽った。

「独松関、派手に燃えた割にね」

孫二娘が煽る。

「燃やしたのは、アンタだろ!!」

外では、焚き火が小さく揺れていた。

勝った後の宿営地なのに、妙に声が少ない。

兵達も、笑っていなかった。

孫二娘が、鍋の湯気を見つめる。

「厲天閏までやられちまったんだ」

「そりゃ方臘軍も逃げるさ」

「こっちも、減ったけどね」

顧大嫂の声は、妙に乾いていた。

少し沈黙。

鍋の煮える音だけが続く。

やがて、孫二娘が肩をすくめた。

「でも林冲、凄かったらしいねぇ」

「白馬で真正面から突っ込んだんだろ?」

顧大嫂が鼻を鳴らす。

「あの人、静かな顔してやる事が怖いんだよ」

「違いない」

二人とも少し笑う。

その後、孫二娘が苦笑した。

「で、その後の扈三娘は?」

顧大嫂が酒を置く。

「疲れてる顔してたよ」

「珍しいねぇ」

「いや、身体は疲れてるんだろうさ」

顧大嫂は、焚き火を見ながら続けた。

「でも、あの子は止まると先を考えちまう」

「杭州だねぇ」

「杭州だねぇ」

空気が、少し静かになる。

遠くで、負傷兵の呻き声が聞こえた。

孫二娘が、鍋を混ぜながら小さく笑う。

「まぁでも、まだ飯は食ってたんだろ?」

「食ってたねぇ」

「なら、まだ大丈夫か」

顧大嫂が、鍋へ木杓子を突っ込む。

「食えなくなったら、本当に危ない」

「それは分かる」

二人とも、小さく笑った。

でも、その笑いも長くは続かなかった。

焚き火の火が、小さく爆ぜる。

顧大嫂が、ぽつりと呟く。

「……次は、もっと減るよ」

鍋の湯気だけが、静かに夜へ溶けていった。

ここは、もう崩壊しかけていた。

火はまだ消えていない。

煙の中を、方臘軍が後ろへ流れていく。

抵抗していた兵も、 今は退路へ向かって走り始めていた。

その中で、二頭の馬が暴れる。

乗り手を失った軍馬だ。

玉楼が、すぐ動いた。

倒れた敵兵の槍を弾きながら、手綱を掴む。

「扈三娘様!」

アタシも、すぐ隣の馬へ飛び付いた。

鞍へ身体を引き上げる。

久しぶりに、高さが戻る。

視界が開けた。

その瞬間――

煙の向こうで、怒鳴り声が響く。

「止まるな!! 門を守れ!!」

一人の将が、退きかけた兵を率いて、抜け出そうとしていた。

長槍を振り回しながら、 混乱した兵をまとめようとしている。

玉楼が、すぐ槍を向けた。

「前へ出ます!」

アタシは、馬を蹴った。

熱気を裂きながら、一気に突っ込む。

将も、こちらへ気付いた。

「貴様ら――」

「俺の名は、張――ッ!」

遅い。

馬上から、日刀を振り下ろす。

張韜が、慌てて槍を上げた。

火花が散る。

その瞬間、 横から玉楼の槍が走った。

張韜の身体が、大きく揺れる。

馬が暴れ、 そのまま地面へ叩き落とされた。

周囲の兵達の顔色が変わる。

もう、止まらない。

方臘軍は、 慌てて蜘蛛の子を散らす様に逃げ始めた。


関を抜けた先の山道は、まだ煙の匂いが残っていた。

方臘軍は、もう形を保っていない。

武器を捨てて逃げる者。

負傷した仲間を引きずる者。

馬だけを走らせる者。

もう、隊列なんて形をしていなかった。

アタシと玉楼は、その流れを追って馬を走らせる。

「前です!」

玉楼が、山道の先を穂先で差した。

煙の向こう。

まだ、まとまって動く人の塊が見える。

厲天閏だ。

後ろを気にしながら、兵をまとめて退いている。

速い。

逃げるだけじゃない。

まだ“部隊”の形を残したまま退いていた。

アタシは、思わず舌打ちする。

「しぶといわね……!」

でも、その時――

さらに前方で、怒号が響いた。

「止まれェッ!!」

白馬だ。

煙を裂く様に、一気に前へ出る。

林冲だった。

蛇矛が、朝の光を弾く。

厲天閏側も、すぐ槍を向ける。

だが、間に合わない。

林冲の白馬が、そのまま真正面から突っ込んだ。

兵が弾け飛ぶ。

次の瞬間――

厲天閏が、自ら長槍を構える。

火花が散り、馬がぶつかる。

山道の空気が、一気に張り詰めた。

アタシは、少し後ろからその光景を見る。

追い付けない。

でも、目が離せなかった。


林冲の白馬が、真正面から山道を抉る様に突き進む。

厲天閏が振り返り、長槍を構え直す。

後ろへ退きながらも、完全には戦う気を失っていない。

敵兵達も、必死に道を空けていた。

山道は狭い。

だからこそ、逃げ切るには誰かが、止めなきゃいけない。

次の瞬間――

蛇矛と長槍が、真正面からぶつかった。

火花が散り、馬が嘶く。

周囲の兵が、思わず足を止めた。

厲天閏の槍は速い。

そして、重い。

でも――

林冲は、真正面から押し返した。

白馬が、一歩前へ出る。

それだけで、空気が変わった。

厲天閏の槍筋が、僅かに浮く。

次の瞬間、素早く蛇矛が隙間へ滑り込む。

厲天閏の目が、初めて揺れる。

弾こうとしても、間に合わない。

蛇矛が、鎧ごと深く裂いた。

血飛沫が、朝の山道へ散る。

馬が、大きく嘶く。

周囲の兵達が、息を呑む。

林冲は止まらない。

そのまま白馬を前へ出し、蛇矛を振り払った。

厲天閏の身体が、山道へ叩き落とされる。

煙の残る山道で、 勝負は、一瞬で決まった。


厲天閏の身体が、山道へ転がり落ちる。

周囲の方臘兵達が、一瞬だけ動きを止めた。

誰も、すぐには声を出せない。

さっきまで、 あの背中を追って退いていた。

まだ逃げ切れると思っていた。

でも――

白馬の前に立った瞬間、 全部が終わった。

林冲は、蛇矛をゆっくり振り払う。

血が、山道へ散った。

白い披風が、朝の風に揺れる。

その姿を見た瞬間、 方臘軍の空気が崩れた。

「に、逃げろ!!」

「将軍が……!」

今度こそ、完全な潰走だった。

兵達が、一斉に山道を逃げ始める。

武器を捨てる者。

仲間を突き飛ばす者。

狭い山道で、人がぶつかり合う。

もう、止まらない。

アタシは、馬上からその流れを見る。

長かった独松関の戦いが、 ようやく終わろうとしていた。

でも――

胸の奥には、 勝った時の軽さみたいなものが、余り残っていない……


宿営地は、妙に静かだった。

勝ったはずなのに、騒ぐ者が少ない。

焚き火の前へ座り込んだまま動かない兵。

黙って武具を拭く者。

傷口へ布を巻き直している者。

皆、生き残れたという顔をしていた。

アタシは、幕舎の外で腰を下ろす。

腰を下ろした途端、身体が急に重くなった。

汗と煙の匂いが、まだ肌へ残っている。

玉楼が、水桶を持って戻って来た。

「少しは休まれて下さい」

アタシは、小さく息を漏らす。

「杭州、よね……次」

玉楼は頷いた。

「はい」

短い返事だった。

でも、その一言だけで十分だった。

もう終わりが近い。

だから、寧ろ嫌な感じもする。

梁山泊は、また人が減った。

頭領も……

兵も……

前に向かう者ほど減っていく。

焚き火が、小さく爆ぜる。

その音を聞きながら、アタシは空を見上げた。

夜空は妙に静かだった。


焚き火の数は、前より減っていた。

広い宿営地なのに、妙に隙間が多い。

独松関を抜けた。

それでも、戻って来なかった者達が居る。

アタシは、焚き火の側へ置かれた槍や鎧を見る。

持ち主の居ない武具が、少しずつ増えている。

その時――

少し離れた焚き火の向こうで、怒鳴り声が響く。

「だから傷口を掻くんじゃないよ!」

孫二娘だ。

負傷兵の頭を、遠慮無く叩いている。

叩かれた兵が、情けない声を上げた。

その横では、顧大嫂が鍋を掻き回していた。

「騒ぐ元気があるなら食っときな!」

木椀が、次々兵へ押し付けられていく。

相変わらず口は荒い。

でも、兵達は大人しく従っていた。

玉楼が、小さく息を漏らす。

「……あちらは、いつも通り元気ですね」

アタシは、少しだけ口元を緩めた。

「まぁ、止まったら死ぬ連中だし」

実際、その通りなんだと思う。

独松関で、 皆かなり疲れている。

それでも、 飯を作る者がいる。

傷を見る者がいる。

叫んででも、人を動かす者がいる。

だから、まだ梁山泊は動いている。

焚き火を見ながら、アタシは小さく息を吐いた。

火は暖かい。

でも、独松関の炎を見た後だと、 妙に落ち着かなかった。


焚き火の向こうで、孫二娘がまた誰かを怒鳴っている。

「だから勝手に酒ばっか飲むんじゃないよ!」

木椀が、兵の頭へ飛んだ。

叩かれた兵が、慌てて椀を拾う。

その横で、顧大嫂は鍋へ水を足していた。

湯気が、夜気へ混ざっていく。

アタシは、その光景をぼんやり見ていた。

玉楼が、小さく呟く。

「……あのお二人との縁も、随分長くなりましたね」

アタシは、焚き火を見たまま呟く。

「まぁ、簡単に死ぬ感じしないし……」

実際、そう思う。

孫二娘も、顧大嫂も、 最前線で派手に武器を振り回すタイプじゃない。

でも、 ああいう連中がいなくなると、 梁山泊は急に回らなくなる。

飯が止まる。

怪我人が増える。

宿営地が荒れる。

誰かが怒鳴って回さなきゃ、 もう今の梁山泊は動けない。

独松関で、それがよく分かった。

焚き火が、小さく爆ぜる。

遠くでは、まだ負傷兵の呻き声が聞こえていた。

杭州へ行ったら、 多分、もっと増える。

アタシは、無意識に拳を握る。

生き抜かなきゃいけない。

自分だけじゃない。

生き残ってるみんなで――

焚き火の火は独松関の炎より、ずっと小さくて落ち着きます。

宿営地には、まだ煙の匂いが残っていました。

兵達も静かです。

勝った直後の空気とは、思えませんでした。

その中で、 孫二娘殿と顧大嫂殿だけは、鍋を囲んでおられます。

「で?」

孫二娘殿が、鍋を混ぜながら笑いました。

「扈三娘、結局また無茶してたんだって?」

顧大嫂殿が酒を煽ります。

「いつもの事だろ」

「いや、今回は馬まで奪ってたらしいよ?」

「あの状況で徒歩の方が嫌だねぇ」

二人とも、小さく笑いました。

ですが、その笑いも長くは続きません。

外では、負傷兵の呻き声が続いています。

孫二娘殿が、鍋の湯気を見ながら呟きました。

「独松関、終わったんだねぇ」

顧大嫂殿も、少しだけ黙ります。

「終わったよ」

「その代わり、かなり減った」

私は、焚き火を見つめます。。

戻って来なかった方々。

置かれたままの武具。

空いた場所。

静かな宿営地ほど、 そういうものが目立ちます。

その時、 孫二娘殿が、こちらを見ます。

「玉楼は?」

「杭州、嫌な感じする?」

私は、少しだけ間を置きました。

「……はい」

顧大嫂殿が鼻を鳴らします。

「珍しく即答だねぇ」

「水辺が増えると、見えない場所も増えますので」

孫二娘殿が、小さく肩をすくめました。

「待つ戦は、嫌だねぇ」

「嫌だねぇ」

少し沈黙。

その後、外から急に扈三娘様の声が飛び込みます。

「玉楼ー!!」

「何か食べるものー!!」

孫二娘殿が吹き出しました。

「食欲はあるねェ!」

顧大嫂殿も肩を揺らします。

「まだ大丈夫そうだねぇ」

私は、小さく息を吐きました。

「……多分」

その言葉の後だけ、少し静かになりました。

焚き火の火が、小さく揺れます。

杭州は、もう近くまで来ていました。

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