アンガーマネジメント
焦挺、陶宗旺、宋万が死んだ翌日――なぜか頭領全員が集められた。
「三娘ォ、今日はアンガーマネジメントやるよォ」
「戦争中に!?」
顧大嫂が腕を組む。
「二娘、それ食えるのかい?」
「食い物じゃない!」
「じゃあ酒かい?」
「何で飲み物になるのさァ!」
「敵を殴れば怒りなんて収まるだろ?」
「それを止めるためにやるんだよォ!」
アタシは嫌な予感しかしなかった。
「……で、誰が一番怒ってるの?」
孫二娘が、笑顔でこっちを見る。
「三娘ォ」
「何で即答なの!?」
その夜――
公認心理師・臨床心理士資格保有者による、梁山泊頭領全員参加のカウンセリングが始まった。
夜になっても、軍営の空気は重かった。
潤州攻略は失敗し、焦挺、陶宗旺、宋万が死んだ。
正面から押し続ければ、また誰かが倒れる。
それでも潤州を前にして何もしないわけにはいかない。
皆が同じところで煮詰まっていたのだと思う。
だから夕餉の後、閻婆惜が孫二娘を呼び止めた時も、最初は方臘軍の話だと思っていた。
「二娘。お願いがございます」
「何、姉ちゃん?」
「頭領の皆様を、一度見ていただけませんか」
孫二娘の顔から笑いが消えた。
「……三人死んだから?」
「はい、怒っておられる方も、自分を責めておられる方もいらっしゃいます。このまま次の軍議へ入れば、判断に影響するかもしれません」
「姉ちゃん、それアタイに振る?」
「公認心理師と臨床心理士の資格を両方持っていた妹が目の前におりますので」
「前世の資格を宋代で正式業務に使わせる姉がいる!?」
「適材適所でございます」
「便利な言葉だねェ!」
アタシが吹き出すと、閻婆惜がこっちを見る。
「三娘様も対象でございます」
「何で!?」
「むしろ最優先かもしれません」
「先輩!?」
顧大嫂まで笑った。
「そりゃいい。三娘は昨日から難しい顔してるからね」
「アタシだけ患者扱いしないで!」
「患者じゃないよォ」
孫二娘が、いつものようにアタシの肩へ腕を回す。
「カウンセリング受ける奴が全員病気なわけじゃないからねェ。そこ大事」
急に専門家へ戻るな……
その夜、大きな幕舎に頭領達が集められ、玉楼のような副官も必要に応じて同席していた。
宋江も呉用も林冲もいる。
李俊は少し後ろに座り、玉楼は当然のようにアタシの隣へ来た。
何が始まるのか分からず、皆の顔に微妙な警戒が浮かんでいる。
孫二娘は中央に立つと、ぐるりと見回した。
「はい、今日は軍議の前に、心理カウンセリングとアンガーマネジメントやるよォ」
沈黙した。
顧大嫂が最初に口を開く。
「二娘、その何とかって言葉、全部分からないんだけど?」
「そこからァ!?」
「宋の人間に何を期待してるんだい?」
「正論!」
アタシも思わず笑った。
孫二娘は額へ手を当てたものの、すぐに切り替えた。
「簡単に言えばねェ、今の自分がどうなってるか確認して、怒りや悲しみにそのまま手綱を渡さないための時間だよォ」
顧大嫂が頷く。
「最初から馬で言えばいいじゃないか」
「アタイの専門性がどんどん宋代仕様になるんだけどォ」
幕舎のあちこちから笑いが漏れた。
昨日までは、笑うこと自体をためらっているような空気だった。
孫二娘もそれを見ていたが、笑わせ続けようとはしなかった。
「最初に言っとくねェ。焦挺達が死んで、腹が立つのは当然。悲しいのも、怖いのも普通だよォ。今夜眠れないかもしれないし、飯が入らない奴もいるだろうねェ」
誰かが視線を落とした。
林冲は腕を組んだまま、孫二娘の話を聞いている。
「でも、そこで『明日は絶対に潤州を落とす』『死んでも前へ出る』ってなるのは別の話。感情があることと、感情に作戦を決めさせることは同じじゃないよォ」
顧大嫂が腕を組む。
「敵を殴りたいのは?」
「正常」
「よし」
「だから今すぐ殴りに行っていいとは言ってない!」
「面倒だねぇ」
「人間の心ってそういうもんだよォ!」
少し空気が緩んだところで、孫二娘がこっちを見た。
来た――
絶対来ると思った。
「三娘ォ」
「何?」
「焦挺達を助けられたかもって考えた?」
返事が遅れた。
それだけで十分だったらしい。
孫二娘が頷く。
「やっぱりねェ」
「……少しくらい考えるでしょ」
岩が落ちる前に気づけなかったのか、陶宗旺のところへもっと早く行けなかったのか。
宋万が押し上げる前にも、何か出来たんじゃないかと思ってしまう。
「三娘ォ、助けたかったのと、実際に助けられたのは別だよォ。今そこを一緒にすると、自責だけ膨らむから」
「分かってる」
「分かってる奴ほど言うんだよねェ、それ」
「心理職うざい!」
「褒め言葉として受け取っとくよォ」
玉楼が横で笑っている。
「玉楼まで笑わないで!」
「申し訳ございません。ですが、孫二娘殿のお話には納得しております」
裏切られた……
孫二娘は今度は林冲を見る。
「林冲は、退却をもっと早く出せたと思ってる?」
幕舎が少し静かになった。
林冲はしばらく答えず、やがて腕を解いた。
「考えた」
「だよねェ」
「だが、あの時点では押せるとも見ていた」
「そこまで含めて覚えとけばいいよォ。後から結果だけ見て、全部自分の失敗にしないこと」
林冲は一度だけ頷いた。
宋江も黙って聞いている。
孫二娘は誰か一人を責めることも、無理に話させることもしなかった。
話したくないなら話さなくていい。
ただ、眠れない状態が続く者や、食事が取れない者、何度も戦場の光景が浮かんで動けなくなる者は、孫二娘か周囲へ知らせるようにと言った。
最後に閻婆惜が確認する。
「二娘、これで軍議へ入っても?」
「今日のところはねェ。でも姉ちゃん、全員一回やったから終わりじゃないよォ」
「承知しております」
「分かってるならいいけど」
顧大嫂が感心したように二人を見る。
「姉妹で仕事すると真面目なんだねぇ」
「普段は何だと思ってんのさァ?」
「掛け合いばっかりしてる姉妹」
「誰のせいだと思ってる!?」
そのまま軍議へ移った。
中央では呉用が潤州周辺の地図を広げ、宋江の脇では閻婆惜が報告を整理している。
林冲もさっきより顔を上げていた。
呉用が地図へ手を置く。
「正面への攻城戦は、想定以上に損耗が大きい。このまま長期戦となれば、こちらの兵糧も無視できません」
林冲が尋ねる。
「向こうはどうしている?」
「城内に蓄えはあるでしょう。しかし、全てを賄えているとは考えにくい」
そこまで聞いたところで、李俊が身を乗り出した。
「……なら、俺らの出番だな」
アタシは顔を上げる。
李俊は潤州の脇を通る水路を指でなぞった。
「奴ら、水路から糧秣を入れてやがる」
「見たのか?」
「水軍舐めんな」
林冲へ返した声に、先日の怒気はなかった。
もう戦を見ている。
「攻城してる間にも船が入ってた。多くはねぇが、水門は閉じっぱなしじゃない。糧秣船を使えば中へ潜れる」
呉用が李俊を見る。
「船を奪い、敵方の者に化けるということですか?」
「そういうこった」
危ない。
正面から城壁へ突っ込むのとは違うけれど、見破られたら逃げ場がない。
思わず口が動いた。
「アタシも――」
隣から視線を感じる。
玉楼だった。
何も言わない。
なのに分かる。
「……行かないわよ?」
「まだ何も申し上げておりません」
「顔が言ってた!」
李俊までこっちを見る。
「お前が来たら目立つ」
「分かってる!」
「ならいい」
「もうちょっと言い方ないの!?」
孫二娘が後ろで笑った。
「三娘ォ、任せるのも立派な対処行動だよォ」
「カウンセリング終わったんじゃないの!?」
でも、ここは李俊の領分だった。
アタシが日月双刀を持って乗り込めば解決する話じゃない。
それから二日、李俊達は夜になるたび水路へ出た。
潤州へ入る糧秣船の時間や荷印だけでなく、帆の汚れ方や荷の積み方まで見て戻ってくる。
「そこまで見るの?」
「偽物が綺麗な帆張ってたら、それだけで怪しまれる」
「……細かい」
「細かくねぇ奴から沈むんだよ」
さらっと言われた。
何か格好いいのが腹立つ。
玉楼が横で頷いている。
「理に適っております」
「玉楼まで李俊の肩持つの?」
「正しいものは正しいのでございます」
黒と白の白い方が冷たい……
次の糧秣船が現れたのは、その夜だった。
月は雲に隠れ、水路の先に二つの灯りだけが浮かんでいる。
アタシと玉楼は岸に残り、李俊達の小舟が闇へ滑り出すのを見送った。
櫂の音はほとんど聞こえない。
二つの灯りへ近づいたと思った時、短い水音がして片方が消え、少し遅れてもう一つも見えなくなった。
それだけだった。
しばらくすると灯りが戻り、二隻の糧秣船が何事もなかったように潤州へ向かい始める。
「……見事でございますね」
玉楼が呟いた。
「うん」
水の上では、李俊達の方がずっと上手だ。
分かっている。
それでも、遠ざかる灯りから目を離せなかった。
「三娘ォ、眉間」
「今はいいの!」
「まだ何も言ってないよォ?」
「絶対言うでしょ!」
後ろで顧大嫂が笑う。
やがて潤州の水門が見えてきた。
篝火を持つ人影が、糧秣船へ近づいていく。
船が止まった。
遠すぎて声までは聞き取れない。
ここからでは何も出来ない。
日月双刀へ触れたところで、李俊には届かない。
任せるしかなかった。
水門の向こうから怒鳴り声が響く。
玉楼も黙って船を見ている。
篝火がもう一つ増え、李俊達の船へ近づいていった。
そして――
船は、まだ動かなかった。
李俊殿の船が水門の前で止まってから、三娘様は、瞬きも忘れたように水門を見つめておられます。
孫二娘殿が横から覗き込みました。
「三娘ォ、それ見過ぎだよォ?」
「見てない!」
顧大嫂殿が笑います。
「じゃあ何を睨んでるんだい?」
「水門!」
「その向こうに李俊がいるねぇ」
「それは関係ない!」
孫二娘殿が頷きました。
「否認だねェ」
「診断するな!」
「診断じゃなくて観察」
「今日それ何回目!?」
わたくしは黙って水門を見ました。
三娘様が李俊殿を心配していることなど、今さら誰に隠せるのでしょう?
ただ――笑っていられたのは、そこまででございました。
水門の向こうで、篝火が増えました。
そして、李俊殿の船は動きませんでした。




