聖公万歳
出立前なのに、誰も景気のいい話をしていない。
「三娘ォ、集団ってのは空気を読むからねェ。誰かが黙ると、周りも黙りやすくなるんだよォ」
「今それ解説する?」
顧大嫂が荷を担ぎながら笑った。
「じゃあ二娘が騒げば、みんな元気になるんじゃないかい?」
「アタイ一人で軍全体の雰囲気を変えろって?」
「いつも三娘にはそれくらい絡んでるだろ」
「比較対象がおかしい!」
孫二娘が当然のようにアタシへ腕を回す。
「三娘ォ、今日はちゃんと周り見なよォ」
「分かってるって!」
「敵もねェ」
「そっちが本命でしょ!」
その時のアタシは、まだ知らなかった。
――方臘軍が、どんな目でこちらを見ていたのか。
出立の朝……
軍営は、まだ薄暗かった。
夜が完全に明ける前から兵達は動き始め、馬の吐く息に荷車の軋む音が重なる。
鎧を直す音や、声を抑えて言葉を交わす気配も聞こえていたが、王慶討伐へ向かった時のような浮ついた騒がしさはなかった。
今度こそ功を立てるだとか、次も勝てるだとか、そんな話をする者もいない。
勅命だから、南へ行く。
ただ、それだけだった。
アタシは馬の手綱を握りながら、隣に立つ玉楼を見る。
玉楼はいつも通り髪を整え、槍も既に準備している。
それでも、目元にはわずかに疲れが残っていた。
「三娘様」
呼ばれて顔を向けると、玉楼は一度口を閉じてから言った。
「……どうか、ご無理だけはなさいませんよう」
止めたいわけじゃないし、止めてもアタシが行くことを、この人は誰より分かっている。
それでも言わずにはいられなかったらしい。
「玉楼こそね」
答えると、玉楼がわずかに目を見開いた。
「何よ、その顔」
「いえ……」
「置いていかれるみたいな顔しないでよ。玉楼も来るんだから」
一瞬の間が空き、やがて玉楼の表情が緩んだ。
「……はい」
その返事を聞いたところで、背後から腕が伸びてきた。
「三娘ォ」
「朝から抱きつくな!」
孫二娘が当然のように背中へ身体を預けてくる。
「出陣前のスキンシップは不安を軽減する可能性があるんだよォ?」
「今作った理論じゃないでしょうね!?」
「失礼だねェ。社会的接触が安心感に影響する研究は――」
「戦場へ行く直前に講義を始めないで!」
顧大嫂が荷を馬へ括りながら笑った。
「二娘は元気だねぇ。昨日、姉ちゃんに会ったからじゃないかい?」
「多少はねェ」
「妹になった途端に機嫌が良くなってない?」
「アタイは普段から機嫌いいよォ?」
「人に絡んでる時だけだろ」
「顧大嫂ォ?」
二人が始めたので放っておく。
その向こうを李俊が歩いていた。
水軍の兵へ何か指示を出してから、不意にこちらを見る。
目が合った。
昨日の言葉が、いきなり頭の中へ戻ってくる。
――置いてく気はない。
朝から思い出させないでよ。
たぶん李俊は何も知らない。
こっちの顔を見て少し眉を寄せると、顎で馬を示した。
ちゃんと乗れ、くらいの意味だろう。
アタシも軽く手を上げて返した。
それだけなのに、さっきまでより胸の辺りが気になる。
「三娘ォ、今のアイコンタクトについて心理学的に解説しようかァ?」
「しなくていい!」
「見てたのかい、二娘」
「視線行動は重要だからねェ」
「アンタは前見て!」
遠くで号令が飛んだ。
そこで冗談は終わった。
鐙へ足を掛けて鞍へ上がると、冷たい金具の感触が足裏から伝わってくる。
玉楼も隣で馬へ乗り、隊列の先では林冲が既に蛇矛を携えていた。
南へ続く道の先には方臘がいる。
どれほどの戦になるのか分からないまま、それでも軍は動き始めた。
林冲隊に続いて馬を進めると、玉楼もぴたりと横へつく。
風を受けた軍旗が、大きく揺れた。
――また、戦へ行く。
誰も口にはしなかったが、その思いだけは軍全体に沈んでいるように感じられた。
南へ進むにつれて、道の様子が少しずつ変わっていった。
土から乾いた色が減り、吹いてくる風にも湿り気が混じる。
森は深くなり、道幅まで狭くなっていくため、長い隊列は自然と速度を落とした。
「……空気が変わりましたね」
玉楼が木々の向こうを見ながら言う。
「うん、王慶のところとも違う」
湿気が肌へまとわりつき、遠くまで見通せない森が道の両側へ迫っている。
敵が隠れる場所なら、いくらでもあった。
林冲も同じことを考えたらしく、斥候の数を増やしている。
前方から戻る者と、新たに送り出される者が何度も行き交った。
その時、先頭近くで馬が激しく嘶いた。
隊列が止まる。
アタシはすぐに手綱を締め、玉楼も槍へ手を伸ばした。
何かが来たわけではない。
しばらくして戻ってきた斥候の顔を見た時、それより嫌なものだと分かった。
兵は馬を降りるなり林冲の前へ駆け寄った。
「道の先に……死体がございます」
ざわめきが広がりかける。
林冲が問い返した。
「誰だ?」
斥候は一度息を整えてから答えた。
「我らの斥候です」
湿った風が木々の間を抜ける。
背中へ嫌な汗が流れた。
「案内しろ」
林冲が馬を進める。
アタシと玉楼も続き、数人の兵とともに森の奥へ入った。
ぬかるんだ土が蹄へ絡み、進むたびに湿った音を立てる。
鳥の声まで少なく、軍の本隊から離れるにつれて静けさが妙に濃くなっていった。
少し進んだところで、臭いが変わった。
血だ。
玉楼の表情が締まり、アタシも日月双刀の柄へ手を添える。
案内していた斥候が足を止めた。
「……こちらです」
木の根元に、一人の兵が倒れていた。
梁山泊の斥候だった。
喉を裂かれ、鎧まで大きく壊されている。
周囲の土には争った跡が残っていたが、それにしては抉れ方がおかしかった。
林冲が馬を降り、地面へ視線を落とす。
アタシも近づいた。
兵の目は開いたままで、敵を見て逃げようとしたものの間に合わなかった、そんな最期だったように見えた。
「……何だ、これ?」
後方にいた兵の声で、全員の視線が動く。
少し離れたところに太い木があった。
その幹に、何かが突き刺さっている。
近づいて確認する。
矢じゃない。
槍でもない。
――人の腕だった。
切り落とされた腕が、肩口を外側へ向けたまま木の幹へ深く打ち込まれている。
血はまだ乾き切っておらず、幹を伝って黒ずんだ跡を残していた。
誰もすぐには喋らなかった。
玉楼が腕ではなく、その周囲へ視線を走らせる。
「……威嚇ですね」
林冲も何も答えない。
ただ、森の奥を見た。
方臘軍はもうこちらを知っており、しかも怯えて待っているわけではない。
それを見せつけるために、わざわざ腕を木へ打ち込んだのだ。
そう理解した途端、さっきまでとは別の寒気が背中を走った。
森を抜けてからも、兵達の口数は戻らなかった。
やがて道は大きな川沿いへ出て、その向こうに城壁が見えてくる。
潤州だった。
水路を押さえる要所だけあって、城壁には既に多くの兵が並び、弓を持つ者の姿も目立つ。
旗は風を受けて連なり、城門の周囲にも動揺は見えなかった。
梁山泊軍が近づくことを、最初から分かっていたらしい。
林冲が城壁を見上げた。
「……徹底しているな」
「完全に籠城するつもりでございますね」
玉楼が答える。
アタシも同じところを見ていた。
王慶軍の城へ迫った時とは明らかに違い、慌てて守りを固めた感じがない。
逃げる準備をしている様子も見えず、最初からここで梁山泊軍を止めるつもりで待ち構えている。
その時、城壁の上で太鼓が鳴った。
腹へ響く音に続いて、兵達が一斉に声を上げる。
「聖公万歳!!」
怒号が川沿いへ広がった。
梁山泊の兵達まで顔を上げる。
ただ士気が高いだけじゃない。
あの声には、自分達が正しいと本気で信じている人間特有の熱があった。
玉楼が城壁を見たまま言う。
「……厄介でございますね」
「うん」
今まで戦ってきた敵にも勇敢な兵はいたが、これは少し違う。
死ぬことまで含めて信じている相手なら、崩れるきっかけそのものも違う。
嫌な予感は、その日のうちに当たった。
潤州への最初の攻城は昼過ぎに始まり、盾兵を先頭に攻城梯子を運ぶ兵達が城壁へ迫った。
後方から援護の矢が放たれるが、潤州側はほとんど乱れない。
城壁から矢と石が落ちてくる。
さらに油まで撒かれ、火が梯子へ移った。
取り付いていた兵が悲鳴を上げながら落ちても、後ろの兵は進むしかない。
そこで止まれば、城壁の射手に狙われ続ける。
アタシと玉楼も前線へ入った。
飛んできた矢を刀で逸らすと、ほぼ同時に玉楼の槍が別の一本を払い落とす。
「右!」
「承知しております!」
返事をした時には、もう玉楼が右側へ動いていた。
「やっぱり先に動いてるじゃない!」
「返事は必要でございます!」
「今それ言う!?」
こんなところまでいつも通りだった。
けれど、その直後に城壁際から焦挺の怒声が聞こえた。
敵兵を押し返しながら、倒れかけた梯子を支えている。
「上がれぇッ!」
兵が梯子へ殺到する。
その上から、大きな岩が落ちた。
焦挺が顔を上げる。
間に合わなかった。
岩が地面を叩き、巻き上がった土煙の中へ焦挺の姿が消える。
誰かが名前を叫んだ。
それでも戦場は止まらない。
少し離れた場所では、陶宗旺が攻城兵をまとめていた。
「梯子を掛けろ! 止まるな!」
城壁から放たれた矢が一本、二本、三本と陶宗旺の身体へ刺さる。
それでも前を向いた。
四本目が喉を貫いた。
陶宗旺の身体が大きく揺れ、そのまま梯子の下へ崩れ落ちる。
「……っ」
玉楼が息を詰めた。
今度は別の場所から怒声が飛ぶ。
宋万だ。
梁山泊でも古くからいる頭領が兵を押し上げている。
「押せぇ!」
その声を狙ったように矢が降った。
一本が宋万の額を貫く。
身体が止まり、続けて放たれた矢がさらに突き刺さった。
宋万はその場で膝をついた。
周囲の兵が助けようとするが、城壁からまた声が落ちてくる。
「聖公万歳!!」
方臘軍の勢いは落ちるどころか、こちらの死を見て、さらに声が大きくなっている。
林冲が蛇矛を振った。
「退け!」
号令が伝わり、梁山泊軍は盾を前へ出しながら後退を始めた。
続ければ、もっと死ぬ。
誰の目にも分かる退却だった。
アタシも息を切らしながら馬のいる方へ下がる。
玉楼は隣にいる。
ちゃんといる。
それを確認してから振り返った。
煙と血の臭いが混じる向こうで、潤州の城壁は、まだ立っている。
方臘軍の士気も、全く下がっていなかった。
潤州の城壁は、落ちませんでした。
「玉楼、三娘の顔がずっと怖いんだけど?」
「顧大嫂殿、それは焦挺殿達を見た直後ですので」
孫二娘殿が三娘様の肩へ腕を回します。
「三娘ォ、ちゃんと隣を確認してたねェ」
「アンタまで見てたの!?」
「行動の変化は観察対象だからねェ」
「研究対象みたいに言うな!」
顧大嫂殿が笑いました。
「でも玉楼がいたのを見て安心したんだろ?」
三娘様が黙ります。
わたくしも、何も申しませんでした。
その日の戦で三人が倒れ、それでも潤州は残りました。
そして敵は、まだ笑っているようにさえ見えました。
――次に落ちるのが城とは限りません。




