生路侵攻
「……アンタ、本当に止まらなかったんだねぇ」
孫二娘が、鍋を混ぜながら呟く。
顧大嫂が酒を煽った。
「火なんて、止まったら終わりだからね」
「言ってる事が山賊なんだよ」
「山賊だろ、アタシら」
二人とも、小さく笑う。
でも、外ではまだ煙の匂いが残っていた。
独松関の山は、夜明けを過ぎても黒く燻っている。
孫二娘が、鍋の湯気を見つめる。
「しかし、裏から入るとかねぇ」
「正面で抜けないなら、穴探すしかないさ」
顧大嫂が鼻を鳴らした。
「昔の梁山泊なら、そのまま正面から頭ぶつけてた」
少し沈黙が流れる。
鍋の煮える音だけが、小さく続いた。
やがて、孫二娘が小さく肩をすくめる。
「董平とか、絶対そっちだよねぇ」
「張清もだね」
「狭い水路より、真正面から突っ込む方が似合う」
顧大嫂は、盃を回したまま外を見る。
「でも、もうそういう戦い方じゃなくなったんだよ」
空気が、少し静かになる。
遠くで、木が爆ぜる音がした。
孫二娘が、苦笑混じりに言う。
「で、その中で扈三娘は?」 「また先頭だったんだろ?」
顧大嫂が吹き出した。
「双刀背負って岩穴潜ってたらしいよ」
「似合わないねぇ!」
「本人も嫌だったろうさ」
二人とも少し笑う。
でも、その後だけ、また静かになった。
顧大嫂が、焚き火を見ながら呟く。
「怖くても、行かなきゃならない時がある」
孫二娘は、鍋を混ぜる手を少し止めた。
「……独松関、そんな戦だったねぇ」
煙の匂いが、まだ風へ残っている。
独松関は、まだ完全には冷えていなかった。
朱武は、燃える山奥を見たまま口を開いた。
「正面の兵も騒ぎ始めています」
玉楼が眉を寄せる。
「敵が裏へ回った?」
「半分は火です。半分は混乱でしょう」
朱武は短く答えた。
「今、独松関の中で“何が起きているか”を、向こうも掴み切れていないでしょう」
だからこそ、崩れる。
火災は、人を焦らせる。
しかも裏側だ。
正面だけ見ていた兵ほど、混乱する。
朱武は、地図の代わりに山道へ視線を向けた。
「今なら、水路側から中へ入れます」
孫二娘が鼻を鳴らす。
「派手にやったもんだねぇ」
「顧大嫂殿らしい手です」
朱武の声は静かだった。
でも、その静けさの奥に、 少しだけ張っていたものが緩んでいる。
アタシは、燃える山を見る。
火は、まだ広がっていた。
黒煙が、白ばんだ空へ混ざっていく。
玉楼が尋ねる。
「先行しますか」
朱武は頷いた。
「正面が完全に立て直される前に、中へ人を送り込みたい」
時間は無い。
敵も馬鹿じゃない。
混乱が収まれば、 すぐ水路も塞ぎに来る。
だから今しかない。
アタシは、双刀を握ったまま前を見る。
独松関の空気が変わっている。
押しても抜けなかった独松関が、 今だけ少し軋んでいた。
朱武は、こちらに向かって振り返る。
「先行は少数で行きます」
玉楼が頷く。
「水路が狭い以上、その方が自然でしょう」
「はい」
朱武は続けた。
「行くのは、動ける者だけです」
負傷兵は無理だ。
重装も通りにくい。
人数を詰め込めば、逆に止まる。
今必要なのは、 勢いじゃない。
潜入する事だ。
孫二娘が、鼻を鳴らす。
「まるで強盗だねぇ」
「実際、潜り込むのですから」
朱武の返事は淡々としていた。
でも、 その声には妙な現実味があった。
もう、 堂々と正面から押し切れる段階じゃない。
だから裏へ回る。
そこまで梁山泊は疲弊していた。
アタシは、燃える山の奥を見る。
煙はまだ止まらない。
こだまも続いている。
でも、その騒ぎの奥で、 顧大嫂達はまだ動いているはずだった。
玉楼が、槍を持ち直す。
「扈三娘様」
視線が合う。
「行きましょうか」
アタシは、双刀を握り直した。
怖くない訳じゃない。
水路の先に何があるのか、 まだ誰も分かっていない。
でも――
「行くわよ」
口に出した瞬間、 少しだけ腹が決まった。
朱武が、小さく頷く。
「では、夜明け前に動きます」
空は、もうかなり白い。
暑くて長い夜が、 ようやく終わり始めていた。
夜明けの光は、まだ山の奥まで届いていなかった。
独松関の空気は、煙と熱で濁っている。
裏側で上がった火は、完全には消えていないらしい。
時折、黒煙が白んだ空へ細く伸びていた。
アタシは、水路の入口を見下ろす。
狭い――
岩と岩の間へ、無理矢理穴を通したみたいな道だった。
ここを抜ける。
正面から押しても崩れなかった独松関へ、 今度は裏から入る。
玉楼が、低い声で言う。
「先に数人だけ通します」
アタシは頷く。
「詰まれば終わるわね」
「はい。静かに進みます」
静かに。
その言葉が、妙に嫌だった。
今までの梁山泊なら、 もっと違った。
叫びながら突っ込む者が居た。
真正面から槍を振るう者が居た。
でも、もう居ない。
董平も……
張清も……
あの人達は、 こういう狭い穴を潜るより、 真正面から敵陣へ突っ込む方が似合う連中だった。
アタシは、小さく息を吐く。
玉楼が、こちらを見る。
「扈三娘様」
「分かってる」
止まっても仕方ない。
今は、生きて抜ける道へ入るしかない。
アタシは、双刀を背へ回した。
岩肌へ手を付く。
冷たい。
でも、その先からは、 まだ火の匂いが流れて来ていた。
岩の隙間へ身体を押し込むと、すぐ空気が変わった。
冷たい。
外の熱が、急に遠くなる。
水が、足元を細く流れている。
暗いし、狭いし、湿っている。
背中へ回した双刀が、時々岩へ当たった。
音が響く。
アタシは、思わず動きを止める。
玉楼が、すぐ後ろで小さく囁いた。
「大丈夫です」
声も小さい。
この水路では、大声そのものが危険だった。
前を行く男達も、ほとんど喋らない。
ただ、足場だけを探して進んでいる。
岩肌へ手を付く。
ぬるついていた。
少し力を抜けば、そのまま滑り落ちそうだった。
水の滴る音だけが、妙に近い。
その時――
前を進んでいた兵が、急に止まる。
全員の動きが止まった。
空気が張る。
アタシは、息を潜めたまま前を見る。
暗闇の奥。
微かに、灯が揺れていた。
誰か居る。
しかも近い。
玉楼の声が、背後でさらに低くなる。
「……見張りですかね?」
分からない。
でも、こんな場所で灯を持つ理由なんて、多くは無かった。
その時――
水路の奥から、小さく咳き込む音が聞こえた。
一度。
それから、もう一度。
苦しそうだった。
灯が揺れる。
影が、壁へ身体を預けた。
立っているのも辛そうだった。
アタシは、玉楼へ小さく顎を引く。
止まるな。
玉楼も、静かに頷いた。
前の兵達が、音を殺しながら動き始める。
水音へ紛れるみたいに、 ゆっくり、 ゆっくり前へ進む。
咳は、まだ続いていた。
でも、こっちへ来る気配は無い。
今なら抜けられる。
アタシは、息を殺したまま、水路の奥へ身体を滑らせた。
水路を抜けた瞬間、空気が変わった。
熱い――
煙の匂いが、一気に鼻へ入ってくる。
アタシは、思わず顔をしかめた。
裏側の火は、まだ完全に消えていなかった。
木が爆ぜる音、怒鳴り声、銅鑼を叩く音。
独松関の裏側は、まだ混乱の中にあった。
アタシ達は、岩陰へ身体を寄せる。
時遷が、すぐこちらへ走って来た。
煤だらけだった。
「こっちだ」
声も低い。
でも、妙に急いでいる。
白勝も、少し後ろから現れた。
「あんまり長くは保たねぇぞ」
その言葉の通りだった。
さっきまで右へ左へ走り回っていた敵兵達も、 少しずつ落ち着き始めている。
火はまだ広がっている。
でも、 混乱だけで関が落ちる訳じゃない。
立て直される前に、 中を崩さなきゃいけない。
玉楼が、周囲を見回す。
「顧大嫂殿は」
時遷が、短く顎を振った。
「あっちで、まだ暴れてる」
次の瞬間――
少し離れた場所で、 また火が上がった。
敵兵の怒鳴り声が重なる。
白勝が、苦い顔で笑う。
「本当に止まらねぇな、あの人」
アタシは、燃える裏側を見た。
火の向こうで、 まだ顧大嫂が動いている。
なら、 こっちも止まれない。
アタシは、双刀を握り直した。
時遷は、岩陰から素早く周囲を確認した。
「正面側の兵も動き始めてる」
白勝が、舌打ち混じりに続ける。
「火だけで止まってくれりゃ楽なんだがな」
そんな甘い話じゃない。
独松関は、まだ死んでいなかった。
銅鑼の音が、また山へ響く。
今度は近い。
敵も、少しずつ立て直し始めている。
玉楼が、低く聞いた。
「門は?」
時遷が、すぐ奥を指差した。
「まだ閉じてる。だが、裏側の通路は開き始めてる」
火を消す為だ。
水桶を運ぶ兵。
負傷者を下げる兵。
混乱したまま走る兵。
統率は崩れ切っていない。
でも、 完全にも戻っていない。
今なら、まだ割り込める。
アタシは、関の裏側を見る。
火の粉が、白み始めた空へ舞っていた。
その向こうで、 また怒鳴り声が上がる。
顧大嫂だ。
声だけで分かった。
白勝が、呆れた顔で笑う。
「下手な男より元気じゃねぇかな、あの人」
でも、その騒ぎのおかげで、 敵の視線はまだ散っている。
今しかない――
時遷が、小さく手を振った。
「こっちだ。門の内側まで行ける」
アタシ達は、燃えた木材と煙の間を縫う様に走り始めた。
独松関の火は、夜になっても完全には消えておりませんでした。
風が吹く度に、焦げた木の匂いが宿営地まで流れて来ます。
兵達も静かでした。
勝った後というより、ようやく座れた……
そんな空気に近かった気がします。
その中で――
孫二娘殿と顧大嫂殿だけは、相変わらず鍋を囲んでおられました。
「で?」
孫二娘殿が、鍋を混ぜながら笑います。
「扈三娘、本当に岩穴潜ったんだって?」
顧大嫂殿が酒を煽りました。
「双刀背負ったままねぇ」
「絶対、途中で引っ掛かってただろ」
「でも先頭だったらしいよ」
二人とも、小さく笑います。
ですが、その笑いも長くは続きません。
外では、まだ負傷兵の呻き声が聞こえていました。
孫二娘殿が、鍋の湯気を見ながら呟きます。
「独松関、変な戦だったねぇ」
顧大嫂殿も、少しだけ黙りました。
「正面から押し切る戦じゃなかったからね」
「昔の梁山泊なら、もっと無茶してた」
私は、焚き火を見つめます。
燃えた関。
狭い水路。
裏側からの潜入。
確かに、今までの梁山泊とは違う戦い方でした。
その時、孫二娘殿がこちらを見ます。
「玉楼は?」
「怖かった?」
私は、少しだけ考えました。
「……はい」
顧大嫂殿が、少し吹き出します。
「今日は素直だねぇ」
「狭い場所は、逃げ場がありませんので」
孫二娘殿が、小さく肩をすくめました。
「しかも前が扈三娘だろ?」
「止まる気が無い方ですので」
「違いない」
二人とも、小さく笑います。
その後、外から急に扈三娘様の声が飛び込みました。
「玉楼ー!!」
「肩痛ーい!!」
孫二娘殿が吹き出します。
「岩に引っ掛けたんじゃないの!?」
顧大嫂殿も肩を揺らしました。
「だから似合わないって言ったんだよ」
私は、小さく息を吐きます。
「……見て参ります」
焚き火の火が、小さく揺れました。
独松関の熱は、まだ完全には抜け切っていない様でした。




