生路潜行
「……アンタ、もう半分“夜盗”だねぇ」
孫二娘が、鍋を混ぜながら呟く。
顧大嫂が酒を煽った。
「今さら気付いたのかい」
「毒流して、火まで付けてるじゃないか」
「勝つ為だよ」
二人とも、小さく笑う。
でも、外ではまだ独松関の煙が空へ残っていた。
夜明けを過ぎても、山の奥だけ赤黒く燻っている。
孫二娘が、鍋の湯気を見つめる。
「しかし、見張りに痺れ薬流すとはねぇ」
「真正面からやって、勝てる相手じゃなかったからね」
顧大嫂の声は、妙に静かだった。
少し沈黙が流れる。
鍋の煮える音だけが、小さく続いた。
やがて、孫二娘が苦笑する。
「昔の梁山泊なら、そこまで頭使う前に突っ込んでたろ?」
「だから減ったんだよ」
顧大嫂が、焚き火を見たまま返す。
「真正面から死ねる連中は、もう大分減っちまった」
空気が、少し静かになる。
遠くで、木の爆ぜる音がした。
孫二娘が、小さく肩をすくめる。
「董平なら、“毒?面倒臭ぇ!”とか言って突っ込んでそうだねぇ」
「張清もだろ」
「似合うねぇ」
二人とも、少しだけ笑った。
でも、その笑いも長くは続かなかった。
顧大嫂が、盃を回しながら呟く。
「綺麗な戦だけで勝てるなら、誰も苦労しないよ」
孫二娘は、鍋を混ぜる手を少し止める。
「……独松関、そんな場所だったねぇ」
風が吹く。
焦げた匂いが、鍋の湯気へ混ざった。
独松関は、まだ静かに燃え続けていた。
林の奥は、夜明け前でも暗かった。
顧大嫂は、濡れた岩へ手を付きながら前へ進む。
水の音が近い。
細い。
だが、流れている音だ。
時遷の言っていた水路だ。
足場は悪い。
少し踏み外せば、そのまま下へ落ちそうだった。
後ろを付いて来る孫新達も、ほとんど喋らない。
音を立てれば終わる。
全員、それが分かっていた。
顧大嫂は、一度だけ立ち止まる。
前を見る。
岩の隙間の向こう。 微かに灯が揺れていた。
「……居るねぇ」
小さく呟く。
見張りだ。
数は多くない。
だが、動きが少ない。
まるで、 “来る場所” を分かっているみたいに。
顧大嫂は目を細めた。
嫌な静けさだった。
普通なら、 夜明け前はもっと気が緩む。
眠気も出る。 声も漏れる。
でも、今は違う。
静か過ぎる。
孫新が、小さく囁く。
「戻るか……?」
顧大嫂は、鼻で笑った。
「ここまで来てかい」
そう言いながら、腰を落とす。
岩陰へ身体を寄せ、 水路の先をじっと見る。
風が抜けた。
その瞬間――
灯の向こうで、槍の石突が地面を打つ音がした。
一つじゃない。
二つ。
顧大嫂の目が細くなる。
「……やっぱり居るねぇ」
顧大嫂は、灯の向こうを見たまま、懐へ手を入れた。
小さな包みがある。
油紙で何重にも巻いた、軽い包みだった。
孫新が、それを見て眉を寄せる。
「……おい」
「声を上げるんじゃないよ」
顧大嫂は、目を動かさないまま言った。
水が、岩の下を細く流れている。
この水は、水路へ混じる。
見張りの兵の側を抜け、 関の内側へ入り、 溜まり場へ落ちる。
時遷が見つけた道は、 人だけを通すものじゃなかった。
水も通す。
なら、使える。
顧大嫂は、包みを指で押さえる。
「正面から噛み付くだけじゃ、こっちが先にやられっちまうよ」
孫新は、尋ねる。
「毒か」
「痺れる方だよ」
顧大嫂は短く返した。
「こうでもしなけりゃ、勝てないよ」
孫新は黙った。
綺麗な手ではない。
だが、今さら綺麗な戦を探せる場所でもなかった。
顧大嫂は、灯の動きを見た。
見張りは二人。
その奥に、もう一つ影がある。
水を見ている。
やっぱり、気付いている。
完全には抜けない。
なら、抜ける形を変えるしかない。
顧大嫂は、孫新へ小さく顎を引いた。
「合図したら、石を落としな」
「音を立てるのか」
「向こうへ目を向けさせるだけだよ。大きくやるんじゃない」
孫新が頷く。
顧大嫂は、岩陰に身体を沈めた。
指先で油紙を解く。
中の粉は、夜明け前の薄い光でも白く見えた。
水の流れが、すぐ下にある。
息を止める。
一瞬だけ、扈三娘の顔が頭をよぎった――
前に立ちな。
そう言ったのは自分だ。
なら、自分は裏側で手を打つ。
泥を被る者が居なければ、前に立つ者も潰れる。
顧大嫂は、粉を水へ落とした。
白い筋が、細く流れに溶けていく。
すぐに見えなくなった。
孫新が、離れた場所で小石を落とす。
乾いた音が、岩場の向こうで跳ねた。
見張りの一人が振り返る。
もう一人も、槍を持ち直した。
顧大嫂は動かない。
水だけが、静かに流れていった。
見張りの兵は、しばらく岩場の向こうを睨んでいた。
穂先が動く。
だが、こちらへ来る気配は無い。
小石の音だけでは、流石に決め切れないらしい。
顧大嫂は、岩陰へ伏せたまま息を殺す。
水は流れている。
白い筋は、もう見えない。
全部、下へ落ちた。
後は待つしかない。
孫新も、じっと動かなかった。
夜明け前の空気は冷たい。
だが、背中には嫌な汗が滲んでいる。
時間だけが、妙に長かった。
やがて――
見張りの一人が、小さく顔をしかめる。
もう一人も、喉を押さえた。
「……なんだ?」
声が低い。
だが、はっきり聞こえた。
顧大嫂の目が細くなる。
まだ倒れない。
でも、効き始めている。
兵の一人が、水桶へ手を伸ばした。
その瞬間、身体が揺れる。
槍が岩へ当たり、乾いた音が響いた。
「お、おい……」
もう片方が支えようとする。
だが、その腕も妙に鈍い。
顧大嫂は、低く呟いた。
「……上手くいったかねぇ」
孫新が頷く。
後ろの男達も、静かに腰を浮かせた。
まだ騒ぎにはなっていない。
だが、長くは保たない。
空は、もうかなり白い。
夜が終わる前に抜けなければ、 全部が手遅れになる。
顧大嫂は、水路の先へ視線を向けた。
「行くよ」
低い声だった。
そのまま、岩陰から滑るように前へ出る。
顧大嫂達は、水路を抜ける。
濡れた岩肌を滑る様に進み、 崖裏の狭い通路へ身体を押し込んだ。
関の裏側は、思っていた以上に狭い。
荷、水桶、薪、積まれた藁。
正面へ兵を集める為か、 裏側は最低限の人間しか居なかった。
だが――
その分、火が回れば早い。
顧大嫂は、周囲を見回した。
「……なるほどねぇ」
小さく笑う。
孫新が低い声で聞く。
「やるのか」
「ここまで来て、手ぶらで帰れるかい」
顧大嫂は、近くの油壺へ目を向けた。
飯場用だ。
火の側には、乾いた薪も積まれている。
夜明け前で空気は湿っている。
だが、火種が広がれば止まらない。
顧大嫂は、後ろの男達へ小さく指を振った。
「派手に行くよ」
低い声だった。
「点けて、撒き散らせ」
男達が頷く。
火が一つなら消される。
だが、 あちこちで同時に上がれば、 人は必ず散る。
顧大嫂は、火打石を取り出した。
乾いた音。
小さな火種が藁へ落ちる。
煙が細く上がった。
別の場所でも、また一つ。
さらに奥でも、小さな火が灯る。
まだ叫び声は無い。
だが、 気付いた時には遅れる。
顧大嫂は、水路の奥を見た。
「正面だけ見てりゃいい戦なら、楽だったろうにねぇ」
次の瞬間――
奥で、誰かの怒鳴り声が上がった。
火が、一気に広がり始める。
怒鳴り声は、一つでは終わらなかった。
「火だ!」
「裏だ! 裏が燃えてるぞ!」
関の裏側で、一気に人の声が跳ねる。
積まれていた藁へ火が移る。
乾いた音を立てながら、炎が走った。
油壺を倒すと、火が、地面を舐める様に広がっていく。
見張りの兵達も、完全に混乱に陥った。
さっきまで静かだった場所が、 嘘みたいに騒がしくなる。
顧大嫂は、柱の影から周囲を見る。
「上手くいったねぇ」
孫新が頷いた。
「正面へ回す兵が減る」
「それだけじゃないよ」
顧大嫂は、水路の奥を見据えた。
「人間、火が出ると“燃えてる場所”を見る」
つまり、 正面から目が剥がれる。
その隙が出来る。
奥では、兵達が怒鳴り合っていた。
桶を運ぶ者。
火を踏み消そうとする者。
どこが燃えているのか分からず走る者。
統率が崩れている。
顧大嫂は、小さく息を吐いた。
「……今だねぇ」
後ろの男達へ手を振る。
「水路側を開けな!時遷達が通れる様にしとくよ」
男達が頷き、すぐ動く。
孫新が低く聞いた。
「お前は?」
顧大嫂は、燃え始めた裏側を見ながら笑った。
「まだ足りないだろ」
その目は、もう完全に“場を壊す側”の目だった。
火の粉が、夜明け前の空へ舞い上がる。
独松関の裏側で、 静かだった戦が、一気に形を変え始めていた。
山の奥が、急に赤くなった。
最初は、小さい灯みたいに見えた。
でも違う。
一つじゃない。
暗かった独松関の裏側で、火が次々と立ち上がっている。
アタシは思わず顔を上げた。
「……始まった」
玉楼も、すぐ山の奥を見る。
夜明け前の白み始めた空へ、火の粉が舞っていた。
次の瞬間――
遅れて、人の叫び声がこだまする。
静かだった山が、一気に騒がしくなる。
孫二娘が、低く笑った。
「派手にやったねぇ……」
でも、その目はいつもと違った。
アタシは、燃える山の奥を見つめる。
顧大嫂。
時遷。
白勝。
今、あの火の向こうで動いている。
正面から押しても抜けない。
だから、裏から手を回す。
その時――
後方から、足音が近付いてくる。
振り返ると、朱武だった。
顔色は余り良くない。
でも、目だけは鋭かった。
朱武は、燃え始めた山の奥を見る。
一瞬だけ、小さく息を漏らす。
「……上手くいった様です」
そして、すぐアタシを見る。
「扈三娘殿」
声が低い。
「動けますか」
山の向こうでは、まだこだまが続いていた。
関が揺れている。
今なら、いける。
アタシは、双刀を握り直す。
独松関の煙は、夜になっても消え切っておりませんでした。
風が吹く度に、焦げた匂いが宿営地へ流れて来ます。
兵達も静かでした。
勝った後というより、ようやく腰を下ろせた……
そんな空気の方が近かった気がします。
その中で――
孫二娘殿と顧大嫂殿だけは、相変わらず鍋を囲んでおられました。
「で?」
孫二娘殿が、鍋を混ぜながら笑います。
「扈三娘、まだ煤だらけなんだって?」
顧大嫂殿が酒を煽りました。
「髪の先まで真っ黒だったねぇ」
「火の中を走り回ってたからだろ」
「しかも岩穴まで潜ってる」
二人とも、小さく笑います。
その時、 外から扈三娘様の声が飛び込みました。
「玉楼ー!!」
「肩、まだ痛いー!!」
孫二娘殿が吹き出します。
「ほら、生きてる生きてる」
顧大嫂殿も肩を揺らしました。
「元気だけはあるねぇ」
私は、小さく息を吐きます。
「……元気というより、無理をされているのだと思います」
少しだけ、 空気が静かになりました。
孫二娘殿が、鍋を混ぜる手を止めます。
「まぁ、そうだろうねぇ」
顧大嫂殿も、焚き火を見ながら頷きました。
「止まると、色々見えちまう夜だからね」
私は、返す言葉がありません。
独松関では、 戻って来なかった方も多い。
置かれたままの武具。
空いた場所。
負傷兵の呻き声。
静かな夜ほど、そういうものが目に付きました。
その時、 また外から声が響きます。
「玉楼ー!!」
「煤、全然落ちなーい!!」
孫二娘殿が、腹を抱えて笑いました。
「だから山賊焼だって言ったろ!」
顧大嫂殿も、珍しく声を出して笑います。
私は、小さく頭を下げました。
「……行って参ります」
焚き火の火が、小さく揺れます。
独松関の熱は、まだ皆の中へ残ったままでした。




