置いていかないでください
王慶討伐が終わったと思ったら、次は方臘。
「三娘ォ、人間は強いストレスが続くと、次に悪いことが起きても驚きにくくなるんだよォ」
「それ、慣れちゃ駄目なやつでしょ!」
顧大嫂が荷を担ぎながら笑った。
「でも三娘、最近は勅命って聞いても叫ばなくなったじゃないか」
「成長みたいに言わないで!」
「学習の成果だねェ」
「学習性無力感じゃないでしょうね!?」
孫二娘がアタシの肩へ腕を回す。
「大丈夫だよォ。今回はアタイにも楽しみがあるから」
「何?」
「姉ちゃんが来るんだ」
「へえ、姉ちゃん……」
そこで止まった。
「……誰の?」
孫二娘が笑った。
「アタイの」
――その姉ちゃんが、閻婆惜だった。
方臘討伐の準備が進む中、その女は軍営へやって来た。
閻婆惜。
宋江の妻で、梁山泊の金や物、人の出入りまで見ている女だということは知っている。
けれど、どうして今になって前線へ来るのかまでは知らなかった。
梁山泊の経営、誰がやるのよ。
そう思っていると、隣にいた孫二娘が妙に嬉しそうな顔をした。
「姉ちゃんが来たんだ」
「えっ?」
聞き間違えたと思った。
「姉ちゃん?」
「うん、閻婆惜。アタイの姉ちゃんだよォ」
「えっ!?」
思わず孫二娘と閻婆惜を見比べる。
いやいやいや。
「ちょっと待って。どう見てもアンタの方が年上でしょ!」
「今の身体はねェ」
「しかも名字違うじゃん!」
「それも今の名前だろォ?」
「説明が一段飛んでる!」
孫二娘は楽しそうに笑いながら、当然のようにアタシの肩へ腕を回してきた。
「三娘ォ、家族関係を外見だけで判断するのは認知のショートカットだよォ」
「姉妹関係の説明で心理学使うな!」
近くで荷を見ていた顧大嫂が吹き出した。
「二娘の姉なら、そりゃ大変そうだね」
「何で姉ちゃんの方を心配するのさァ?」
「お前の姉をやってたんだろ?」
「それはそう」
納得するんだ。
そんなやり取りをしている間に、閻婆惜がこちらへ来た。
孫二娘がアタシから離れる。
珍しい。
そのまま閻婆惜の前へ行くと、二人は少しだけ見つめ合った。
「姉ちゃん」
「二娘」
それだけだった。
抱きつくわけでも、泣くわけでもない。
でも、孫二娘の顔がいつもと違う。
アタシへ絡んでいる時の妖艶なお姐さんでも、心理学用語を振り回して遊んでいる時でもなかった。
少しだけ、妹の顔になっていた。
閻婆惜も同じだった。
「相変わらずで安心しました」
「会って一言目がそれなのォ?」
「三娘様へ抱きついているところを見れば、十分かと」
「姉ちゃんまで言うの!?」
「事実ですので」
顧大嫂が腹を抱えて笑った。
アタシも笑いかけて、途中で止まった。
閻婆惜が、今度はこっちを見ている。
何だろう。
妙に長い。
「……何?」
「少々、確認したいことがございます」
「何を?」
閻婆惜は答えず、玉楼へ視線を向けた。
玉楼はアタシの隣へ半歩寄る。
いつもの位置だ。
「三娘様に関することであれば、わたくしも同席いたします」
「構いません。ただし、少々奇妙な話になります」
「三娘様の周囲では、珍しいことではございません」
「玉楼、それどういう意味!?」
閻婆惜の口元がわずかに動いた。
笑った?
その表情に、何か引っかかった。
でも、分からない。
軍営の端まで移動すると、閻婆惜は周囲に誰もいないことを確かめた。
それから、いきなり言った。
「秘書室」
身体が止まった。
玉楼だけが首を傾げている。
「……は?」
「やはり」
「ちょっと待って」
胸の奥が一気に騒がしくなった。
今の言葉を、この時代で聞く理由がない。
「何でアンタがそれ知ってるの?」
閻婆惜は、今度はもう少し具体的に聞いた。
「以前、会社の秘書室で働いておられませんでしたか?」
そこまで言われたら、誤魔化しようがなかった。
机や書類、鳴り続ける内線電話が頭の中へ戻ってくる。
前の人生で毎日見ていた景色だった。
「……いたけど?」
閻婆惜が息を吐いた。
その仕草と、妙に丁寧なくせに確認を始めると相手を逃がさない話し方には、覚えがあった。
「……先輩?」
「はい」
「えええっ!?」
今度は本気で声が出た。
玉楼が驚いて一歩近づく。
「三娘様?」
「いや、違う、違わないんだけど!」
閻婆惜を見る。
顔は全然違う。
当たり前だけど。
「分かるわけないでしょ!」
「わたくしも確信するまで時間が掛かりました」
「普通に何度も同じところにいたじゃん!」
「三娘様があまりにも三娘様でしたので」
「だからそれ何!?」
少し離れたところで孫二娘が笑っている。
「三娘ォ、姉ちゃん昔からそういう言い方するだろォ?」
「アンタ知ってたなら言ってよ!」
「聞かれなかったからねェ」
「姉妹揃ってそういうところある!」
閻婆惜は咳払いしてから、もう一度アタシを見る。
「水滸伝については?」
「名前くらいなら聞いたことあるような……でも、内容は知らない」
閻婆惜の表情が変わった。
ほんの一瞬だった。
でも、玉楼も気づいたらしい。
「何か問題がございますか?」
「いいえ……今は、それで十分でございます」
「アタシには全然十分じゃない!」
閻婆惜は答えなかった。
代わりに玉楼が、真面目な顔で尋ねる。
「三娘様」
「何?」
「ひしょしつ、とは軍の部署でございますか?」
「違う!」
孫二娘が耐えきれずに笑い出した。
閻婆惜まで顔を背けている。
「先輩、笑ってるでしょ!」
「申し訳ございません」
絶対に思ってない。
その後、閻婆惜が方臘討伐へ同行する理由も聞いた。
宋江が呼んだらしい。
李俊が詔を聞いた時、朝廷へかなり危ないところまで言った。
それを受けて、宋江も梁山泊の中が今までとは違うことを感じたのだろう。
遠征軍の金と物だけじゃなく、人の動きまで見られる者が必要になった。
そこで選ばれたのが閻婆惜だった。
「梁山泊の方は大丈夫なの?」
「李瑞蘭へ任せてございます」
「全部?」
「わたくしの副官です。ここまで何のために鍛えてきたとお思いですか?」
言い切った……
そこまで信用できる人がいるなら、閻婆惜が前線へ出られるのも分かる。
「二娘も来ておりますし」
閻婆惜が妹を見る。
「姉ちゃん、アタイは別に保護対象じゃないよォ?」
「存じております」
「即答ォ?」
「むしろ三娘様の方を心配しております」
「何で!?」
孫二娘がまた肩へ抱きついてきた。
「姉ちゃん、三娘ォは大丈夫だよ。最近はちゃんと戻る場所を見るようになったからねェ」
「何その報告!」
閻婆惜はその言葉を聞いて、少し考え込んだ。
その日の夕方。
今度は閻婆惜から、アタシと李俊が呼ばれた。
幕舎へ入ると、李俊はもう来ていた。
「何これ?」
机の向こうには閻婆惜が座り、その横には李俊がいる。
そして何故か、アタシだけが真ん中だった。
嫌な配置だ。
「三者面談?」
「その表現で構いません」
「アタシは構う!」
李俊が眉を寄せる。
「何だ、それ?」
「説明すると長いから気にしないで」
閻婆惜は李俊へ向き直った。
「李俊様、本日はお願いがございます」
李俊の顔から笑いが消えた。
「何だ」
「先ほど確認が取れました。三娘様は、わたくしが以前勤めていた場所の後輩でございます」
「先輩と後輩ね」
アタシが補足する。
李俊は一度こっちを見ると、あっさり頷いた。
「そうか」
「驚かないの!?」
「梁山泊にいて、今さら何に驚けってんだ」
反論できなかった。
確かに、梁山泊は大体おかしい。
閻婆惜は続ける。
「この方は、以前から一人で抱え込む癖がございました」
「先輩!」
「自分で処理できると思うと、周囲へ知らせる前に動くところも」
「昔の勤務評定を李俊に開示しないで!」
李俊がアタシを見る。
「変わってねぇな」
「アンタまで納得するな!」
閻婆惜は完全に無視した。
「ですので、李俊様」
そこで声が変わった。
ふざけた空気が消える。
「改めて、扈三娘をお願いいたします」
アタシは固まった。
「待って……何でアタシが引き渡されてるの?」
「少々お静かに」
「本人いるんだけど!」
李俊は笑わなかった。
閻婆惜を真っ直ぐ見ている。
「止めてください、とは申しません」
閻婆惜は静かに続けた。
「この人は、止めても行きますから」
「知ってる」
「即答しないで!」
「でしたら、戻してください」
今度は、アタシも黙った。
戻す――
李俊が何度も言ってきた言葉だった。
行くな、ではない。
行ったなら、戻れ。
閻婆惜は、その約束を知らない。
それなのに同じところへ辿り着いた。
李俊が短く答える。
「戻す」
閻婆惜はそれだけで頷いた。
「ありがとうございます」
「ただし」
李俊が続ける。
「俺も離れるかもしれん」
「存じております」
李俊の目が細くなる。
「宋江から聞いたのか?」
「いいえ、あれだけ大勢の前で仰れば、気づかない方が難しいかと」
「……そりゃそうか」
「ですから、もう一つお願いがございます」
閻婆惜が李俊を見る。
「離れる時が来ましたら、この子を置いていかないでください」
「先輩!」
「では三娘様へ確認いたします」
嫌な予感……
「李俊様が梁山泊を離れる時、三娘様はどうなさいますか?」
李俊までこっちを見る。
二人で見るな……
「……呼びに来てって、もう言った」
閻婆惜が李俊を見る。
「だそうでございます」
「知ってる」
「何で二人とも落ち着いてるの!?」
李俊の口元が少し緩む。
「言われるまでもねぇよ。置いてく気はない」
顔が熱くなった。
絶対、今赤い。
閻婆惜は満足そうに頷いた。
「でしたら、結構でございます」
「何、この保護者面談!」
「元先輩面談でございます」
「もっと嫌!」
幕舎の外から笑い声がした。
嫌な予感がして幕を開ける。
孫二娘と顧大嫂がいた。
「何でいるの!?」
「姉ちゃんが三者面談するって言うからねェ」
「聞いてた!?」
「全部じゃないよォ」
顧大嫂が笑う。
「で、嫁入りの話はまとまったのかい?」
「違う!」
孫二娘が嬉しそうに抱きついてくる。
「三娘ォ、顔真っ赤だよォ」
「暑いだけ!」
「夕方だよォ?」
「うるさい!」
背後で李俊が笑っている。
閻婆惜まで笑っていた。
前の人生で繋がっていた人達が、こんなところでまた繋がった。
孫二娘にとっては姉ちゃんで、アタシにとっては職場の先輩。
そんな人が、今は閻婆惜として目の前にいる。
しかも、その先輩は最後にアタシの戻る場所まで確認していった。
夜になると、軍営の灯りが一つずつ消えていった。
方臘討伐の準備は終わっている。
横では玉楼が武具を確認していた。
アタシが寝台へ横になっても、なかなか眠れない。
李俊の言葉が残っていた。
置いてく気はない。
思い出すだけで胸の辺りがうるさくなる。
「三娘様」
玉楼がこちらを見る。
「眠れませんか?」
「ちょっとだけ」
「わたくしもでございます」
顔を見合わせると、自然に笑えた。
明日も玉楼と一緒に行くし、李俊もいる。
孫二娘や顧大嫂に加えて、今度は閻婆惜まで来た。
何が待っているかは分からない。
それでも、戻る場所はもう見えている。
あとは、出立の朝を待つだけだった。
閻婆惜殿を交えた、三娘様と李俊様の三者面談が終わりました。
「玉楼、あれ三者面談じゃなくて婚約確認じゃないかい?」
「顧大嫂殿、まだ何も決まっておりません」
孫二娘殿が笑います。
「でもォ、『置いてく気はない』まで言ったんだよォ?」
「聞いていたのでございますか?」
「姉ちゃんの妹だからねェ」
「理由になっておりません」
三娘様が真っ赤になりました。
「玉楼まで参加しないで!」
「わたくしは事実を確認しているだけでございます」
「それが一番嫌!」
顧大嫂殿が肩を揺らします。
「じゃあ次は祝言だね」
「方臘が先だから!」
その言葉で、笑いが止まりました。
翌朝、わたくしたちは南へ向かいます。
そして――最初の死者は、敵ではございませんでした。




