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生路探索

「……地味ってのは、便利な言葉だねぇ」

孫二娘が、鍋を混ぜながら呟く。

顧大嫂が酒を煽った。

「目立たない奴ほど、変な場所へ入ってくからね」

外は、まだ夜明け前だった。 独松関の山は暗い。

風だけが、木々を揺らしている。

孫二娘が、鍋の湯気を見つめる。

「時遷に白勝、また消えたんだろ?」

「しかも“静か過ぎる”とか言いながら戻ってったらしいねぇ」

「嫌な話だねぇ」

顧大嫂が鼻を鳴らした。

「静かな場所ってのは、大体ロクな事にならないんだよ」

少し沈黙。

鍋の煮える音だけが、小さく続く。

やがて、孫二娘が肩をすくめた。

「でも、顧大嫂も大概だよねぇ」

「止める前に奥へ消えたんだろ?」

「止まって考えてたら、先に道が閉じるからね」

顧大嫂は、平然と言った。

「独松関みたいな場所は、“行ける時に行く”しかないんだよ」

風が吹く。

焚き火の火が、小さく揺れた。

孫二娘が、苦笑する。

「で、その間、扈三娘は?」

顧大嫂が少し笑った。

「凄い顔してたよ」

「止めたいけど、止められない顔」

「似合わないねぇ」

二人とも、小さく笑う。

でも、その笑いも長くは続かなかった。

遠くで、鳥が一度だけ鳴く。

孫二娘が、鍋を混ぜる手を少し止めた。

「……帰る道、探してるんだよねぇ」

顧大嫂は、焚き火を見たまま答える。

「前へ進むだけじゃ、もう足りないからさ」

空気が、少し静かになる。

独松関の夜は、 まだ完全には明け切っていなかった。

夜明け前の山道で、顧大嫂が荷を締めていた。

火は落としてある。

明かりも少ない。

それでも、あの人だけは妙にはっきり見えた。

背に負う荷は軽い。

武器も、目立つ物は持っていない。

まるで、戦へ行くのではなく、隣の村へ用事に行くみたいな顔をしていた。

「……どこへ行くのよ」

アタシが声を掛けると、顧大嫂は振り返った。

驚いた顔はしない。

最初から見つかると思っていたみたいに、鼻を鳴らす。

「見りゃ分かるだろ。出るんだよ」

「どこへ」

「敵の裏だよ」

あまりにも普通に言うので、一瞬、返す言葉が遅れた。

玉楼が、隣で僅かに息を呑む。

「顧大嫂殿、お一人で?」

「一人で行く訳ないだろ」

そう言って、顧大嫂は顎で林の中を示した。

暗がりの中に、数人の影がある。

足音を殺した男達。

その手前で、孫二娘が腕を組んで立っていた。

「アンタも行くの?」

アタシが聞くと、孫二娘は口の端を上げた。

「行きたいのは山々だけどね。アタイは残るよ。負傷者と飯場を空にする訳にゃいかないからねぇ」

顧大嫂が笑う。

「そういう事だ。向こうは私が行く。こっちは二娘が締める」

朱武の指示だと分かる。

前へ出る者が減った。

頭領も兵も減った。

なら、真正面から押すだけでは足りない。

そう判断して、動き出した。

顧大嫂は、腰の紐を強く結び直す。

「独松関は、正面から噛み付くだけじゃ骨が折れる。なら、噛む場所を変えるしかないだろ」

「……裏道があるの?」

「あるかどうかを見に行くんだよ」

平然と言う。

その声が、妙に頼もしくて、少し腹が立った。

「危ないわよ」

「危なくない所なんか、もう残ってるのかい」

返せなかった。

顧大嫂は、アタシを見た。

その目は笑っていない。

「アンタは前に立ちな。扈三娘」

低い声だった。

「前で立つ奴が居ないと、兵はもっと沈む。裏は私らが見る」

風が、山道を抜けた。

火の消えた灰が、少しだけ舞う。

アタシは拳を握る。

何か言わなきゃいけない気がした。

止める言葉でも、頼む言葉でもない。

でも、喉の奥で詰まった。

顧大嫂は、それを見て、少しだけ笑った。

「そんな顔すんな。死にに行くんじゃないよ」

そして、背を向ける。

「生きて帰る道を探しに行くんだ。ゆっくり待っときな。」


顧大嫂達の姿は、すぐ林の奥へ消えていった。

足音も、話し声もしない。

最初から居なかったみたいに、山道はまた静かになる。

風だけが吹いていた。

孫二娘は、その闇をしばらく見ていた。

やがて、鼻を鳴らす。

「……相変わらず、せっかちなババアだよ」

口調は軽い。

でも、視線は笑っていなかった。

アタシは聞く。

「止めなかったの?」

「止めろと言って、止まるタマかい」

即答だった。

玉楼が、隣で笑うのを我慢している。

確かに、その通りだった。

顧大嫂は、多分――

止める止めないの前に動く。

危ないと分かっていても、 侵入出来そうな場所を見つけたら先に入る。

そういう女だった。

孫二娘が肩を回す。

「ま、アタシも人の事は言えないけどねぇ」

そう言いながら、周囲へ視線を向けた。

飯場の火は小さい。

負傷兵のうめき声も、あちこちから聞こえる。

昼間より、ずっと増えていた。

孫二娘の顔から、笑いが少し消える。

「……こっちも忙しくなるよ」

低い声だった。

アタシは黙ったまま山道を見る。

暗くて、何も見えない。

でも、その奥へ顧大嫂達は入っていった。

「生きて帰る道を探しに行く」

あの言葉が、妙に耳へ残る。

方臘討伐が始まってから、 ずっと“前へ進む”話ばかりだった。

勝つ為、抜ける為、押し切る為。

でも今、初めて。

“帰る為の道”

を探しに行く者が居る。

風が吹く。

冷えた空気が、頬を抜けた。

その時――

山の奥から、小さく鳥が飛び立つ音がした。

玉楼が顔を上げる。

孫二娘も、すぐ音のした方を見る。

夜明け前の山は静かだ。

だからこそ、少しの音でも妙に響く。

アタシは、無意識に双刀へ手を掛けた。

孫二娘が、低く呟く。

「……速いねぇ」


孫二娘の視線が、暗い山の奥へ向いたままだった。

鳥の羽音は、もう消えている。

でも、山の空気だけが少し変わっていた。

風が止まる。

妙に静かだった。

その時――

林の奥から、小さく影が走ってくる。

速い。

でも、慌ててはいない。

玉楼が、先に槍へ手を掛けた。

アタシも双刀を抜きかける。

次の瞬間、影が叫ぶ。

「味方だ!」

時遷だった。

木々の間から滑るみたいに現れる。

後ろには白勝も居た。

息は切れている。

でも、二人とも怪我は無い。

孫二娘が眉を吊り上げる。

「早ぇよ。もう戻ったのかい」

時遷は、その場で膝へ手をついた。

「戻ったんじゃねぇ」

短く息を吐く。

「見つけた」

空気が変わる。

アタシは前へ出る。

「何を」

白勝が、声を潜めた。

「水路だよ!水路!」

山風の音だけが、周囲を抜ける。

時遷が続けた。

「関の裏側へ繋がってる。狭ぇけど、人は通せる」

孫二娘の目が細くなる。

「……本当かい」

「だから戻ったんだよ」

時遷は、汗を拭いながら笑った。

でも、その笑い方には余裕が無い。

白勝が周囲を気にしながら言う。

「ただ、敵も気付いてるかもしれねェぜ」

「見張りが増えてた。奥で動いてる音もした」

顧大嫂は居なかった。

アタシはすぐ聞く。

「顧大嫂は」

時遷と白勝が、一瞬だけ顔を見合わせる。

「別行動だ」


時遷は、周囲を気にしながら声を潜めた。

「水路は細ぇ。だが、人を通すだけなら十分だ」

白勝も何度も頷いている。

「奥の岩場の下に隠れてやがる。昼なら見逃すかもしれねぇけど、夜なら入れる」

孫二娘の目が細くなる。

「兵は何人通せる」

「一気には無理だ」

時遷が答えた。

「けど、少人数なら動ける。裏へ出られる」

玉楼が、静かに口を開く。

「……関門を開ける為ですか」

白勝が、すぐ頷いた。

「それもある。あと、水だ」

アタシは眉を寄せる。

「水?」

時遷が地面へ枝を走らせる。

暗い土の上へ、簡単な形を書いた。

「独松関の裏は、崖ばっかじゃねぇ。水路と溜まり場がある」

「水は、あそこ頼りだ」

孫二娘が、小さく舌を鳴らした。

「なるほどねぇ……」

前へ押し切るだけじゃない。

水路を抜け、中に侵入する。

今の梁山泊は、 そういう戦い方を始めていた。

アタシは、林の奥を見る。

顧大嫂はまだ戻らない。

でも、不思議と、 あの人が簡単に捕まる姿は想像出来なかった。

玉楼が低く聞く。

「顧大嫂殿は、どこまで入られたのですか」

時遷が、苦い顔をする。

「……見張りの動き見た瞬間、もっと奥へ行くってよ」

白勝が肩を竦めた。

「止める前に消えてた」

孫二娘が鼻で笑う。

「だから言ったろ。せっかちなんだよ」

でも、その声の奥には、 少しだけ張ったものが混ざっていた。

風が、また山道を抜ける。

夜明けが近い。

空が、少しだけ薄く白けていた。


時遷は、地面へ描いた水路の線を指でなぞった。

「ここだ」

枝の先が、細い岩場の横で止まる。

「狭ぇけど、二人並ばなきゃ通れる」

白勝も頷く。

「問題は、その先だ」

孫二娘が腕を組む。

「見張りかい」

「いや……音だな」

時遷が、眉を寄せた。

「水路の先、妙に静かなんだ」

風が吹く。

誰も、すぐには口を開かなかった。

静か過ぎる。

それは時々、人を安心させるより先に、不気味に感じさせる。

白勝が声を潜める。

「灯りは見えた。でも動きは少ねぇ。けど……兵は居るはずなんだが?」

玉楼が、ゆっくり視線を落とした。

「待ち伏せ……?」

「かもしれねぇ」

時遷が短く答える。

「だから、俺達も戻る」

アタシは顔を上げた。

「戻るって……中へ?」

「顧大嫂だけ奥へ行かせたままには出来ねぇだろ」

白勝が苦い顔で続ける。

「水路を見つけたまではいい。けど、奥が静か過ぎる。あれは気味が悪い」

孫二娘が、じっと二人を見た。

「行けるのかい」

時遷は鼻で笑った。

「行けなきゃ、ここまで戻って来ねぇよ」

そう言うと、地面の線を足で消した。

白勝も腰の紐を締め直す。

もう、長く話す気は無い顔だった。

アタシは、何か言いかける。

でも、止めた。

コイツらも、止めても、止まる連中じゃない。

時遷は林の奥へ目を向ける。

「夜明けまでに戻らなきゃ、こっちで動けと、朱武に伝えろ」

「分かったわ」

答えると、時遷が少しだけ笑った。

「頼むぜ、扈三娘」

そして、白勝と並んで、また林の闇へ消えた。

足音はすぐに無くなる。

本当に、闇に溶けるみたいだった。

孫二娘が呟く。

「……地味な連中ほど、こういう時に腹が据わってるねぇ」

風が、また山道を抜ける。

空は、かなり白け始めていた。

独松関の夜は、朝が近付いても静かなままでした。

風だけが、山を抜けていきます。

兵達も、ほとんど眠っておりません。

焚き火の前で座り込む者。

武具を抱えたまま動かない者。

皆、次に何が起きるのかを待っている様でした。

その中で――

孫二娘殿と顧大嫂殿だけは、いつも通り鍋を囲んでおられます。

「で?」

孫二娘殿が、鍋を混ぜながら笑いました。

「扈三娘、“止めたいけど止められない顔”してたんだって?」

顧大嫂殿が酒を煽ります。

「してたねぇ」

「珍しいねぇ」

「自分が行く側の顔しか、普段しないからさ」

私は、少しだけ黙りました。

確かに……

扈三娘様は、いつも前へ出られる方です。

危ない場所へ入る者を、止める側ではなく――

一緒に飛び込む側でした。

その時、外から急に声が飛び込みます。

「玉楼ー!!」

「時遷達、まだ戻ってないー!?」

孫二娘殿が吹き出しました。

「本人が一番落ち着いてないじゃん!」

顧大嫂殿も肩を揺らします。

「待つ側に向いてないんだよ、あの子は」

私は、小さく息を吐きました。

「……今回ばかりは、待つしかありませんので」

少しだけ、空気が静かになります。

鍋の湯気が、ゆっくり揺れました。

孫二娘殿が、小さく呟きます。

「前へ出るより、待つ方がキツい夜もあるんだねぇ」

顧大嫂殿も、焚き火を見たまま頷きました。

「しかも、帰り道探してる連中だからね」

その言葉の後だけ、誰もすぐには喋りませんでした。

外では、風がまだ山を抜けています。

独松関の夜は、 まだ終わっておりませんでした。

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