沈む船には、乗らない
王慶討伐が終わったので、アタシは一つ学んだ。
梁山泊で「終わった」と思ってはいけない。
「三娘ォ、それは学習性無力感に近づいてるよォ」
孫二娘が肩へしなだれかかってきた。
「誰のせいだと思ってるの!?」
顧大嫂が横から笑う。
「朝廷じゃないかい?」
「正論で殴らないで!」
孫二娘が頬を寄せてくる。
「でも安心しなァ。次の命令が来る確率を最初から高く見積もれば、予期不安は――」
「安心の仕方が最悪!」
「じゃあ、今のうちに休む?」
「休む!」
顧大嫂が首を振った。
「無理だね」
「なんで!?」
その直後――
宋江の幕舎から、呼び出しが来た。
――そして告げられた。
次は、方臘だった。
張清の幕舎を出ると、使いの者が来た。
「林冲様が、宋江様の幕舎まで来いとお呼びです」
さっきまで新しい命の話をしていたのに、今度は宋江から呼び出し。
嫌な予感しかしない。
「三娘ォ、顔に出てるよォ」
いつの間に来たのか、孫二娘が後ろから肩へ腕を回してきた。
「重い!」
「あらァ? さっきも言ってたけど、どこが重いのか具体的に――」
「聞いてない!」
顧大嫂が笑いながら荷を抱えて通り過ぎる。
「呼び出しなら早く行きな。宋江を待たせて、また面倒が増えても知らないよ」
「今以上に増えるの!?」
「梁山泊だからねェ」
孫二娘と顧大嫂が同時に頷いた。
嫌な説得力だった。
アタシは孫二娘の腕を外し、玉楼と共に宋江の幕舎へ向かった。
中には宋江、呉用、林冲、李俊がいる。
他にも何人かの頭領が座っていたが、誰一人として笑っていなかった。
李俊と目が合う。
ついさっき「戻れ」と言われたばかりなのに、その顔はもう戦場に戻った時のものだった。
呉用が口を開く。
「朝廷より、新たな詔が下りました」
その言葉だけで、胸の奥が冷える。
新たな詔――
聞いただけで帰りたくなる言葉だった。
「方臘討伐です」
その瞬間、幕舎の空気が止まり、誰かが息を呑む音がした。
アタシもすぐには動けなかった。
――方臘?
また戦なの?
王慶が終わったばかりなのに……
また南へ行って、また誰かが死ぬの?
隣を見ると、玉楼も表情を消している。
李俊の口から、乾いた息が漏れた。
笑ったようにも聞こえたけれど、目は笑っていなかった。
「……まだ行けと言うのか?」
呉用は答えない。
「王慶が終わったばかりだぞ。兵は減った。傷も癒えていない。それでも、まだ行けと?」
「勅命です」
李俊の目が変わった。
「勅命、勅命と、それで何人死なせる気だ」
声を荒らげたわけではない。
それでも幕舎の中にいた全員が李俊を見た。
「兄弟を連れて戻ったと思えば、また次だ。終わりがねぇ。朝廷は俺達を使い潰す気だろうが」
アタシは何も言えなかった。
紅玉を残し、瓊英を守らせることも決めた。
やっと一人を戦場から離せたと思ったばかりなのに、前にいる人間はまた別の戦へ送られる。
呉用が李俊を見る。
「受けねば、我ら全てが再び逆賊となります」
「戻ればいい」
今度こそ、幕舎が凍った。
李俊は止まらない。
「朝廷へ首を差し出し続けるくらいなら、ここで旗を返しても同じだ。やるなら――」
「李俊」
林冲が口を挟んだ。
大きな声ではなかった。
でも、李俊は止まった。
林冲は蛇矛も持たず、ただ座っている。
それでも戦場で命令を出す時と同じ目をしていた。
「そこから先は言うな」
李俊が林冲を見る。
「林冲殿も分かってんだろ?」
「分かっている」
即答だった。
「なら――」
「分かっているから止めている。今ここで口にすれば、戻れなくなる」
二人の視線がぶつかる。
李俊は林冲を信頼している。
林冲も、李俊を敵として見ていない。
だからこそ、これ以上は進ませないのだと分かった。
しばらくして、李俊が舌打ちする。
「……もう戻れないところまで来てると思うがね」
「それでもだ」
林冲は目を逸らさなかった。
宋江が、そこで立ち上がった。
王慶戦で倒れた身体は、まだ完全には戻っていない。
立っているだけでも以前より重そうに見える。
「李俊」
「アンタは、本気で行く気か?」
宋江はすぐには答えなかった。
やがて、小さく息を吐く。
「勅命だ」
李俊の顔から、完全に笑みが消えた。
「またそれか?」
「ここで逆らえば、梁山泊は終わる。これまで死んだ兵達も、全て逆賊として扱われる」
「だから、残った奴まで死ねってのか?」
宋江は答えなかった。
答えられないのだと思う。
李俊が吐き捨てるように言った。
「……兄弟を生かす気があるなら、止まれ」
その言葉だけが、幕舎の奥へ残った。
外へ出ても、誰もすぐには喋らなかった。
軍営では人が行き交い、王慶戦から戻ったばかりの兵が荷を運んでいる。
さっきまでなら、それを見ても「ようやく帰った」と思えた。
今は違う。
全部が、次の戦の準備に見える。
「……扈三娘」
後ろから呼ばれて振り向く。
李俊だった。
さっきまでの怒りは表に出ていない。
それでも、目の奥に残ったものまでは消えていなかった。
玉楼が半歩前へ出る。
李俊が苦笑する。
「そんな顔すんな。今さら暴れねぇよ」
「信用していないわけではございません」
「じゃあ、その位置は何だ?」
「習慣でございます」
李俊がアタシを見る。
「いい副官だな」
「でしょ?」
思わず胸を張ると、玉楼が小さく息を吐いた。
「褒められたのは、わたくしでございます」
「細かい!」
李俊の口元が、ほんの少し緩んだ。
それだけで少し安心してしまう。
玉楼は何も言わず、数歩だけ離れた。
聞こえないほどではない。
でも、二人で話せるくらいの距離。
本当に、こういうところまで分かってる。
李俊がこちらを見る。
「……お前も、思っただろ?」
何を、とは聞かなかった。
答えられない。
でも、黙っているだけで伝わったらしい。
「終わらねぇんだよ」
李俊は軍営の外へ目を向ける。
「王慶が終わって、やっと一息つけると思った。兄弟を連れて戻っても、次の戦でまた減る。その繰り返しだ」
アタシは李俊の横顔を見る。
疲れている。
戦うことそのものではなく、終わらないことに疲れている。
「俺ぁ、水の上で生きる方が性に合ってんだ」
「知ってる」
「陸の上で死ぬなんざ真っ平ごめんだ」
「それも分かる」
李俊がこちらを見る。
アタシは聞いた。
「……離れる気?」
李俊は答えなかったが、否定もしなかった。
それだけで十分だった。
胸の奥に小さな痛みが走る。
李俊は逃げたいんじゃない。
生きたいんだ。
それは、アタシと同じだった。
風が吹いて、軍旗が鳴る。
李俊が口を開いた。
「沈むと分かってる船に――」
聞きたくなかった。
アタシは一歩踏み込み、李俊の胸元を掴んだ。
「……三娘?」
その続きを、唇で塞いだ。
一瞬、李俊の身体が固まる。
すぐに背中へ腕が回ってきた。
強く抱き寄せられて、さっきまで幕舎の中で朝廷に噛みついていた男とは思えないくらい、触れ方だけが優しい。
唇が離れても、アタシは胸元を掴んだままだった。
「……続き、言わないで」
「沈むとか言うなってか?」
「それもある。でも、そういう意味じゃない」
李俊が黙る。
「アンタ、戻るって言ったでしょ」
「言った」
「だったら戻ってきてよ。アタシも戻るから」
自分で言ってから、胸がうるさくなった。
でも、引っ込める気はなかった。
李俊の腕が、もう一度背中へ回る。
今度はアタシからも抱きついた。
「……人いるけど?」
「知るか」
「この前と同じこと言ってる!」
「何の話だ」
「こっちの話!」
李俊が笑った。
今度は、ちゃんと笑っていた。
少し離れてから、アタシは言う。
「全部終わったら、呼びに来てよ」
李俊の表情が止まる。
「どこにいても?」
「水の上でも、どこでも」
少し長い沈黙の後、李俊がアタシの頭を抱えるようにして、もう一度引き寄せた。
「生きてりゃな」
「だから、そういうの言うな!」
胸を殴ると、李俊はまた笑った。
方臘討伐の準備は、驚くほど早く進んだ。
まるで最初から次の命令まで決まっていたみたいだった。
兵達は王慶戦の疲れを残したまま、武具や兵糧を整え、馬を休ませながら南へ向かう準備を進めていく。
孫二娘がその光景を眺めながら、アタシへ寄り掛かった。
「三娘ォ、集団全体が疲れてる時に次の課題を入れると、判断力も感情の制御も落ちやすいんだけどねェ」
「朝廷に講義してきてよ」
「アタイ、権力者相手に心理教育する趣味ないよォ?」
顧大嫂が鼻で笑う。
「だったら三娘にくっついてないで荷物運びな」
「これは三娘ォの精神的安定のためだよォ」
「暑いから逆効果!」
二人がいる間だけは笑えたものの、軍営全体からは明らかに笑い声が減っていた。
皆も分かっているのだと思う。
これは勝った軍が次の戦へ向かう空気ではなく、終わりの見えない戦へまた押し出されようとしている空気だった。
出立前日――
準備はすでに終わり、馬も兵糧も武具も揃っていた。
あとは出るだけだからこそ、軍営ではかえって人の声が減っている。
アタシは玉楼と軍営の外れを歩いていた。
「扈三娘様」
呼ばれて振り返ると、紅玉がいた。
その少し後ろには瓊英もいる。
紅玉は朴刀を携え、もう戦列にいた時とは違う立ち方をしていた。
護衛の顔だ。
「どうしたの?」
紅玉が答える前に、瓊英が口を開く。
「私が連れて参りました。このまま、お見送りもせずに出立させるのは嫌でしたので」
「瓊英様……」
紅玉が困ったように瓊英を見る。
「何て言えばいいのか、分からなくて……」
以前なら、無理に笑って何か言おうとしたかもしれない。
今は迷っていることを隠さない。
瓊英が紅玉を見る。
「残ることもまた役目です」
紅玉は黙った。
アタシも、少し前のこの子を思い出す。
アタシ達の後ろを必死に追い掛け、戦場で置いていかれないよう食らいついていた。
でも、もう違う。
今の紅玉なら、誰かの側に残って守れる。
「アンタには、アンタの戦がある」
紅玉の目が揺れる。
「任せたわよ」
しばらく、紅玉は動かなかった。
やがて、強く頷く。
「……はい!」
その返事は、もう前とは違っていた。
三娘様と李俊殿が抱き合っておられました。
わたくしは、少し離れてお待ちしていただけでございます。
「見てたんだねェ?」
孫二娘様が笑います。
「護衛ですので」
「キスまで?」
顧大嫂様まで乗ってこられました。
「不可抗力でございます」
「玉楼! そこ詳しく説明しなくていいから!」
三娘様のお顔が赤くなります。
孫二娘様が、すぐに抱きつきました。
「三娘ォ、安心しなァ。恋愛行動としては非常に分かりやすかったよォ」
「分析するな!」
「で、どっちから?」
「聞くな!」
そして方臘討伐を前に、宋江様は一人の女性を呼ばれました。
――閻婆惜殿でございます。




