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守れるものは、まだある

王慶討伐戦は終わった。

なのに、アタシだけ終わってない。

「三娘ォ、事情聴取のお時間だねェ」

孫二娘が肩へ腕を回してきた。

「何の!?」

顧大嫂が笑う。

「奚勝の本隊まで行った件じゃないかい?」

「もう帰ってきたでしょ!」

「生存者バイアスって知ってるゥ?」

「心理学で逃げ道塞ぐな!」

孫二娘が、さらに身体を寄せてくる。

「大丈夫だよォ。李俊にはアタイ達から正確に説明してあげるからァ」

「それが一番怖い!」

顧大嫂が頷いた。

「安心しな。玉楼もいる」

「証人増やすな!」

――そして一か月後。

今度は、張清の様子がおかしかった。

王慶討伐戦が終わっても、すぐに静かにはならなかった。

むしろ、終わった後の方が面倒だった。

捕虜は多い。

負傷兵はもっと多い。

南豊府の中では火の手がまだ残り、武器を捨てずに立て籠もる兵までいる。王慶を捕まえたからといって、太鼓を鳴らして全員解散、なんて話にはならない。

そしてアタシには、城内の後始末より先に片づけなきゃいけない問題があった。

「……何の話だ?」

振り返ると、李俊がいた。

ついさっきまで王慶軍と斬り合っていたのに、今は別の意味で逃げたい。

「いや、別に大した話じゃないっていうか……」

「奚勝の本隊まで突っ込んだ話だねェ」

孫二娘が横からアタシの肩へ腕を回した。

胸が当たる。

「ちょっと、近い!」

「三娘ォ、隠し事は心理的負荷が大きいんだよォ。ここは全部吐いた方が健全だねェ」

「心理学を尋問に使うな!」

反対側では顧大嫂が腕を組み、妙に楽しそうな顔をしている。

「袁朗とも正面からやり合ったね」

「それは向こうから来たの!」

「段三娘とも斬り合いましたね」

玉楼まで普通に加わった。

「それも向こうから!」

「では、奚勝殿の本隊へ入った件は?」

「……アタシから行きました」

玉楼は黙って頷いた。

何、その確認終了みたいな顔。

李俊は怒鳴らない。

ただ、こっちを見ている。

その方が怖い。

「でもちゃんと帰ってきたでしょ!」

耐えられなくなって先に言うと、李俊の眉がわずかに動いた。

「結果の話をしてるんじゃない」

「結果、大事じゃない?」

「生きて戻ったから言えてるだけだ」

ぐうの音も出ない。

すると玉楼が、一歩だけ前へ出た。

「ただ、三娘様は以前とは違います」

助け船だ。

アタシは玉楼を見る。

こういう時、本当に相棒がいて良かったと思う。

「袁朗との戦いでは、わたくしと紅玉殿、それに林冲様の隊の位置を確かめてから動いておられました。段三娘との戦いでも同様でございます」

玉楼はこちらを見ることなく説明している。

アタシが言いたかったことを、アタシより正確に言ってくれる。

やっぱり頼りになる。

「奚勝の時は?」

李俊が聞いた。

玉楼が止まった。

「……あの時は、まだ発展途上でございました」

裏切ってはいない。

でも守ってもくれなかった!

孫二娘が肩へ回した腕にさらに力を入れる。

「三娘ォ、人は都合の悪い記憶ほど再構成しやすいからねェ」

「アタシの記憶を勝手に改竄扱いするな!」

顧大嫂がとうとう吹き出した。

「まあ、前よりマシになったってことでいいじゃないか」

「マシって何!?」

「褒めてるよ」

「雑!」

李俊だけは笑っていなかった。

しばらくアタシを見た後、視線が玉楼へ移り、それから紅玉、孫二娘、顧大嫂へと動く。

アタシが最近やるようになったことを、李俊までやっている。

周りを見ている。

そのことに気づいた瞬間、胸の奥が少しだけざわついた。

「前へ出るなとは言わん」

アタシは李俊を見る。

「……うん」

「お前がそういう武将なのは知ってる」

止められなかったことに、思った以上に安心した。

李俊は、アタシを心配する。

でも、心配だからって戦場から降ろそうとはしない。

日月双刀を取り上げて、安全なところに閉じ込めようともしない。

「見るようになったのも分かった」

「見てるよ。前よりは」

「なら、忘れるな」

李俊の目がまっすぐアタシを捉える。

「行ったら、戻れ」

その言葉は、前にも聞いた。

戻ってこい。

あの時、アタシも返した。

アンタもね、と。

「李俊もね」

「戻る」

返事が早いし、迷いもしない。

その返事だけで胸の内側が熱くなるのが、なんか腹立つ。

アタシばっかり気にしているみたいじゃない……

「三娘ォ」

耳元で孫二娘の声がした。

嫌な予感しかしない。

「今、顔赤いよォ?」

「うるさい!」

「相互好意が成立してる場合、短い言葉でも報酬価値が上がりやすく――」

「最後まで言ったら本気で投げる!」

「怖ァい!」

口ではそう言いながら、全然離れない。

むしろ頬まで寄せてきた。

「近いって!」

「三娘ォ、アタイには『戻れ』って言ってくれないのォ?」

「毎回勝手について来るでしょ!」

「それはそう」

即答だった。

顧大嫂が李俊の肩を叩いた。

「まあ、あんたも大変だね」

「なんで李俊に同情するの!?」

「見てれば分かるよ」

「玉楼!」

「わたくしは中立でございます」

「さっきアタシの戦歴を提出してた人が言う!?」

「事実の共有と敵対行為は別でございます」

もう誰も味方じゃない。

そう思って李俊を見ると、口元が少し緩んでいた。

笑ってる。

「李俊!」

「何だ」

「何でもない!」

腹が立つ。

でも、無事だった。

本当に、それだけで良かった。

王慶を捕まえて、こうして目の前にいる。

あの時、川辺で増やされた「戻る理由」が、ちゃんとここに立っている。

その後は、嫌でも現実へ戻された。

南豊府の通りには負傷兵が溢れ、顧大嫂は担架を運ぶ兵達へ怒鳴っていた。

「そっちじゃないよ! 重傷者を先に出しな! 武器なんか後で拾える!」

孫二娘も瓦礫へ腰を掛け、通りかかった兵へ容赦なく声を飛ばしている。

「勝ったからってぼんやりするんじゃないよォ。終戦直後は注意力が落ちるんだからねェ。踏まれて死んだら笑えないよォ!」

笑えない。

本当に笑えない。

紅玉は負傷兵の手当を手伝っていた。

手際が良いわけではなく、血のついた布を持つ指も時々震えている。

それでも、紅玉は目を逸らさない。

少し前なら、血を見ただけで顔を青くしていたかもしれない。

今は、何を渡せばいいか、誰を先に寝かせるべきか、自分で周りを見て動いている。

玉楼は、アタシが何か言う前に負傷兵の列を見た。

「三娘様、こちらは顧大嫂様にお任せしてよろしいかと。東側の火がまだ完全には消えておりません」

「分かった。そっち見る」

「では、わたくしは左から回ります」

言い終わる前に、もう歩き出している。

「返事待たないじゃない!」

「三娘様なら来られますので」

「信用の使い方が雑!」

そう言いながら、アタシも反対側へ走った。

こういうのが、最近増えた。

アタシが全部を見つけなくても玉楼が拾い、玉楼が先に動けば、アタシにも次に何をすればいいか分かる。

どちらかが後ろへ回れば、もう片方が前を見る。

それは戦場じゃなくても同じだった。

夜になっても、南豊府の空には煙が残った。

寇烕の毒煙ではない。

燃え残った木や荷車、崩れた家から上がる煙だった。

遠くで捕虜をまとめる声がする。

泣いている者もいれば、その向こうではもう笑っている者もいる。

戦が終わった後の音だった。

段三娘の声も、まだ残っていた。

兄を返せ。

返せるものなら返したかった。

でも、戦場で斬ったものは戻らない。それは分かっているからこそ、あの声は消えなかった。

翌日からも戦後処理は続いた。

各地に残っていた王慶軍が降り、捕虜が集められ、負傷兵が後方へ送られる。

朝廷へ出す報告も、どこかで山ほど作られているらしい。

アタシの仕事じゃない。

宋江や呉用や朱武達がどうにかする。

アタシが書くなら、李師師への手紙くらいだ。

王慶を捕らえたことや、瓊英が無事だったこと、それに紅玉が以前よりずっと戦場を見られるようになったことを、師師には書きたかった。

宋江は、まだ完全には復調していないらしい。

王慶捕縛を聞いた時は、かなり安堵した顔をしたそうだ。

その話を聞いて、胸の中に冷たいものが浮かんだ。

倒れたままでいればよかったのに……

そこまで思ったわけじゃない。

たぶん……

未だに王英に結婚させられそうになったことも消えない。

王慶を倒したからって、梁山泊の中にあるものまで綺麗になったわけじゃない。

それでも今は、同じ旗の下にいる。

それだけだった。

ひと月後――

梁山泊軍は東京近郊へ戻った。

戻ったら少しくらい休めると思っていた。

甘かった。

「終わっても休めないじゃない!」

軍営へ着いた途端、報告だの負傷者の整理だの恩賞だの、今度は別の仕事が始まった。

孫二娘が後ろから抱きついてくる。

「だから言っただろォ。梁山泊だよ? 休ませる気なんてないねェ」

「暑い! あと重い!」

「あらァ? どこが重いのか詳しく聞こうかねェ?」

「聞かなくていい!」

顧大嫂が荷を下ろしながら笑った。

「休みたいなら、倒れる前に座っときな。倒れてからじゃ遅いよ」

「それ休暇じゃなくて救護だから!」

紅玉まで笑っている。

その時、紅玉が軍営の奥へ目を向けた。

「張清様の幕舎、あちらでしたよね?」

王慶討伐の後、張清から使いが来ていた。

アタシと玉楼、それから紅玉にも話があるという。

孫二娘がようやく腕を離す。

「三娘ォ、今度は人の幕舎で暴れちゃ駄目だよォ?」

「何と戦うのよ!」

「石?」

「本人がいるから!」

顧大嫂達の笑い声を背中で聞きながら、アタシ達は張清の幕舎へ向かった。

幕舎の前では、張清が待っていた。

でも、変だった。

手を組んでは解き、また組んでいる。

石礫を投げる時はあれだけ迷わない男が、今日は明らかに落ち着いていない。

「来たか」

「何よ、改まって?」

「いや、その……中へ入ってくれ」

珍しく歯切れが悪い。

幕をくぐると、瓊英が座っていた。

背筋は伸びているのに、いつもの張り詰めた鋭さがない。

玉楼が瓊英の顔を見た。

次に張清を見る。

そして、静かに頭を下げた。

「……おめでとうございます」

「え?」

アタシだけ分かっていなかった。

瓊英の頬が赤くなる。

張清が頭を掻いた。

「まだ安定しているとは言えないそうだ。だから、大きく触れ回る話でもないんだが……」

そこまで聞いて、ようやく繋がった。

「……そういうこと?」

張清が頷く。

「そういうことだ」

瓊英は目を伏せた。

「ご心配をお掛けします」

「心配はするでしょ。でも、謝ることじゃないわよ」

瓊英が顔を上げた。

張清の表情も少し緩んだが、すぐに戻る。

「問題は、これからだ。俺は梁山泊に残る」

次に何を命じられるか分からない。

でも、梁山泊がこのまま静かになるとは誰も思っていない。

「瓊英を軍の中で連れ回すわけにはいかん」

瓊英が口を開こうとすると、張清は首を振った。

「お前が強いのは分かっている。強いとか弱いとか、そういう話じゃない」

瓊英は黙り、やがて頷いた。

「分かっております」

「だから護衛をつけたい。腕が立つ男なら用意できる。だが、身の回りまで男ばかりに任せるわけにはいかん」

張清がそう言った瞬間、アタシは紅玉を見た。

紅玉も気づいたらしい。

目が大きくなる。

「紅玉」

「は、はい」

「瓊英の護衛、アンタに任せるわ」

驚きは消えない。

でも、逃げる顔ではなかった。

「私で、よろしいのでしょうか?」

「アンタだから任せるの」

紅玉は黙った。

「私は……まだ、未熟です」

「知ってる」

「戦場でも、怖いと思うことがあります」

「それも知ってる」

「それでも、ですか?」

「それでも」

紅玉は瓊英を見た。

その次に張清。

最後にアタシを見る。

以前なら、アタシが言ったから引き受けたかもしれない。

今は違う。

自分で考えている。

「……お守りいたします」

声は震えていなかった。

瓊英が頭を下げる。

「ありがとうございます」

張清も大きく息を吐いた。

「助かる」

玉楼がそこで口を開く。

「ただし、紅玉殿お一人へ任せきりにするのは避けるべきかと存じます」

アタシが考えるより先だった。

やっぱり同じところを見ている。

張清も頷く。

「俺もそう思っている。一人、頼れそうな官軍の将を知っている」

「誰?」

「韓世忠だ」

聞いたことのない名前だった。

「信用できるの?」

「少なくとも、変な男ではない」

「評価が雑じゃない?」

玉楼は思い当たるらしい。

「官軍の中でも、かなり腕の立つ方だと聞いております」

紅玉も考えてから頷いた。

「私一人でお守りするより、その方の屋敷にいた方が確実だと思います」

その答えを聞いて、アタシも頷いた。

「じゃあ、その韓世忠に頼みましょう」

張清はすぐ手配すると答えた。

瓊英は腹の辺りへ手を添えている。

まだ見た目では何も分からない。

でも、そこにはもう新しい命がある。

戦が終わった後に、命の話をしている。

段三娘の目も、袁朗の重さも、寇烕の煙も消えていない。

戦場で奪われたものは返せない。

それでも、生き残った者には、まだ守れるものがある。

紅玉が瓊英を見る。

その横顔は、前より大人びて見えた。

前へ出るだけが、戦うことじゃない。

誰かの側に残って守ることも、きっと同じだ。

「紅玉」

「はい」

「頼んだわよ」

紅玉は、真っ直ぐアタシを見た。

「はい」

短い返事だった。

でも、それで十分だった。

三娘様が、紅玉殿へ瓊英殿を任されました。

以前なら、ご自分で守りに行こうとなさったでしょう。

「成長したねェ、三娘ォ」

孫二娘様が感心した直後、顧大嫂様が笑いました。

「でも本人に言ったら調子に乗るよ?」

「分かるゥ」

「聞こえてるんだけど!?」

三娘様が振り返ります。

「わたくしは何も申しておりません」

「玉楼、その顔で逃げないで!」

孫二娘様が三娘様へ抱きつきました。

「まあまあ。今度は紅玉の番だよォ」

「何の番よ?」

それは、わたくしにもまだ分かりません。

ただ――

紅玉殿が向かう先には、韓世忠殿がおられます。

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