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静かな喪失

「……嫌な静けさだねぇ」

孫二娘が、鍋を混ぜながら呟く。

顧大嫂が酒を煽った。

「独松関は、静かな時ほどロクな事が無い」

外では、風だけが山を抜けていた。

銅鑼の音は、もう止んでいる。

でも――

止んだから安心出来る訳でもなかった。

孫二娘が、鍋の湯気を見つめる。

「董平、行っちまったんだろ?」

「止まる顔じゃなかったねぇ」

「張清まで付いてったよ」

顧大嫂は、焚き火を見たまま鼻を鳴らした。

「あっちは、“止めに行った”んだろうさ」

少しの沈黙が流れる。

鍋の煮える音だけが、小さく続く。

やがて、孫二娘が小さく肩をすくめた。

「でも、止める為に付いてって、帰って来ないんじゃ意味無いんだよねェ」

「戦ってのは、そういうもんだよ」

顧大嫂の声は、妙に静かだった。

「付き合った奴から、一緒に呑まれる」

風が吹き、焚き火の火が小さく揺れた。

孫二娘が、苦笑混じりに言う。

「で、その後の扈三娘は?」

顧大嫂が、呟く。

「泣いてたよ」

「珍しいねぇ」

「いや、泣くさ」

顧大嫂は、盃を回しながら続けた。

「董平だけなら、まだ怒鳴って終わりだったろうけどね」

「張清には、瓊英が居たからねぇ……」

その言葉の後だけ、 空気が少し重くなる。

遠くで、風が木々を鳴らした。

孫二娘が、鍋を混ぜる手を少し止める。

「……残されるヤツの顔、思い出しちまったんだねェ」

顧大嫂は、焚き火を見たまま頷いた。

「今回は、そこがキツいんだよ」

「死ぬだけじゃ終わらない」

静かな声だった。

鍋の湯気が、ゆっくり夜明け前の空へ溶けていく。

独松関の山は、まだ黒く黙ったままだった。

銅鑼の音は、止まらなかった。

一定の間隔で、 遠くの山から響いて来る。

鳴っているだけだ。

それだけなのに、妙に神経へ触る。

アタシは夜の山を睨んだまま、動けなかった。

何も見えない。

黒い山肌が、空を塞いでいるだけだ。

でも、あそこに董平達がいる。

そう思うだけで、胸の奥が落ち着かなかった。

孫二娘が、後ろで吐き捨てる。

「だから言ったんだよ。ああいう顔した男は止まんないって」

「止めても行っただろうね」

顧大嫂の声は低かった。

アタシは答えない。

分かっていたからだ。

董平は、周通がやられてから、ずっと何かが噛み合っていなかった。

厲天閏の名前を出す時だけ、空気が変わる。

あれは、焦りだ。

いや―― 半分、意地になっている。

その時、後ろで足音が止まった。

振り返ると、玉楼だった。

いつもの静かな顔だった。

でも、少しだけ目が鋭い。

「林冲様も気付かれました」

「……怒ってる?」

「怒るというより、読めていたのでしょう」

玉楼は、山を見たまま続ける。

「だからこそ、熱くなる李忠殿を周通殿へ付けたのだと思います」

アタシは小さく舌打ちした。

読めていた。

でも止め切れなかった。

独松関へ来てから、そんな事ばかりだ。

押される。

焦る。

前へ出ると殺される。

その流れへ、皆少しずつ呑まれている。

風が吹く。

でも、生温いままだった。

汗が引かない。

遠くで、また銅鑼が鳴る。

その直後に山の奥で、 何かがぶつかる音がした。

甲高い金属音。

一回だけ。

全員の顔が上がる。

夜の山は、また静かになった。

静か過ぎて、 さっきの音だけが、 どうしても耳へ残った。


夜が明けても、空気は全然軽くならなかった。

独松関の山肌は、朝日が差しても黒く見える。

熱も残っていた。

兵達の顔にも、疲れが張り付いたままだ。

アタシは、ほとんど眠れていない。

銅鑼の音は、夜明け前に止んでいた。

でも、その静けさの方が逆に嫌だった。

見張りの兵達も、落ち着かない顔で山を見続けている。

その時だった。

「戻ったぞ!」

前の方で声が上がる。

兵達が一斉に動いた。

空気が揺れる。

アタシも反射みたいに前へ出る。

山道の先から、人影が降りて来ていた。

鄧飛に欧鵬……

兵達もいる。

皆、汚れていた。

汗と土と血で、酷い有様だ。

でも――

数が少ない。

アタシの足が止まる。

人数だけじゃない。

探している顔が無かった。

張清がいない。

そして―― 董平も。

胸の奥で、嫌な音がした。

孫二娘も、それに気付いたらしい。

「……おい」

声が低い。

顧大嫂の顔からも、完全に笑いが消えていた。

戻って来た兵達は、誰もすぐに喋らない。

息を切らしたまま、 顔を伏せている。

その空気だけで、 嫌な予感が膨らんでいく。

アタシは、そのまま前へ出た。

「董平は?」

誰も答えない。

「張清は?」

鄧飛が、ゆっくり顔を上げる。

赤髭の下の顔色が悪い。

そして、 低く吐き出した。

「……二人とも、やられた……」


鄧飛の声が、そこで途切れた。

誰も、すぐには動かなかった。

二人とも、やられた……

その言葉だけが、朝の空気の中に落ちていた。

アタシは、最初に董平の顔を思い浮かべた。

片腕を吊ったまま、夜の山を睨んでいた横顔。

次に浮かんだのは―― 張清じゃなかった。

瓊英だった……

あの娘の顔が、頭の中へ来た。

石礫を投げる時の静かな目。 張清の隣に立っていた時の、少し柔らかい表情。

喉の奥が詰まる。

「……瓊英に」

声が、勝手にこぼれた。

孫二娘がこちらを見る。

顧大嫂も、何も言わなかった。

アタシは拳を握り、泣き崩れてしまった……

「何て言えばいいのよ……」

誰も答えない。

答えられる訳が無い。

戦場で人が死ぬ事くらい、分かっている。

分かっているつもりだった。

でも、張清はただの頭領じゃなかった。

瓊英の夫で、お腹の子の父親だった。

アタシに石礫を見せてくれた、あの人の隣にいた男だった。

その人が、帰って来ない。

そう思った瞬間、 独松関の熱とは違うものが、胸の奥に溜まっていく。

怒りなのか。

悔しさなのか。

怖さなのか。

分からない。

ただ、瓊英に顔向け出来ないと思った。

止められなかった。

周通も……

董平も……

張清も……

あの山へ、呑まれていった。

林冲が、問い質す。

「詳しく話せ」

その声で、ようやく空気が動いた。

鄧飛は、歯を食いしばったまま頷く。

「……董平が、先に出た。張清は止めに行ったんだと思う」

その一言で、胸がさらに重くなる。

止めに行った。

だったら、なおさらだ。

張清は、董平に付き合ったんじゃない。

止めようとして、巻き込まれたのかもしれない。

それでも、帰って来なかった。

アタシは、何も出来なかった――


顧大嫂が、先に動いた。

泣き崩れたアタシの横を通り過ぎ、戻って来た兵達の前にしゃがむ。

「傷を見せな」

落ち着いた声だった。

兵の一人が、震える腕を差し出す。

顧大嫂は布を裂き、手早く縛る。

「泣くのは後だ。水を飲め。倒れたら邪魔になる」

きつい言い方だった。

でも、その手は乱暴じゃない。

孫二娘も、舌打ちしながら水桶を引き寄せた。

「ほら、飲め! 吐いてもいいから飲め!」

怒鳴りながら、兵の口元へ水を押し付ける。

アタシは、まだ立てなかった。

瓊英の顔が消えない……

張清が帰って来ない……

董平も帰って来ない……

周通も、もう戻らない……

頭の中で、その事だけが何度も回る。

その時、顧大嫂がふと顔を上げた。

「……待ちな」

声が変わった。

皆の視線が向く。

顧大嫂は、戻って来た兵の足元を見ていた。

泥と血で汚れた靴。

その底に、乾いた土ではなく、湿った黒い泥が付いている。

顧大嫂の目が細くなる。

「アンタら、どこ通って戻って来た」

兵が、息を詰まらせる。

「北の……岩場の下を……」

「水があったのかい」

「いえ……ただ、草が濡れていて……細い獣道みたいな所が……」

朱武が、ゆっくり顔を上げた。

林冲も動かなかったが、目だけが鋭くなる。

顧大嫂は、兵の足をもう一度見た。

「正面の山道の土じゃないね」

その一言で、幕舎の空気が変わった。

アタシは、涙を拭う事も忘れて顧大嫂を見る。

顧大嫂は、淡々と言った。

「関所に続く道があるかもしれないねぇ」

誰もすぐには声を出さなかった。

独松関は、正面から押せば潰される。

でも―― 正面じゃない道があるなら――

林冲が、指示する。

「確かめろ」

顧大嫂は頷いた。

「アタシが行くよ。こういう道は、馬鹿みたいに鎧着て歩く奴には分からない」

孫二娘が鼻を鳴らす。

「誰が馬鹿だって?」

「アンタも含むよ」

「言いやがったな」

いつもの軽口だった。

でも、誰も笑わなかった。

笑えなかった。

それでも、空気がほんの少しだけ動いた。

潰されるだけだった独松関に、 初めて、こちらから触れられる場所が見えた気がした。


幕舎の空気は、まだ重かった。

張清と董平が帰って来ない――

その事実は、誰の頭からも消えていない。

でも、止まっている訳にもいかなかった。

朱武は、すぐに地図を広げ直していた。

林冲も、もう山の方を見ている。

独松関は、待ってくれない。

顧大嫂が、泥の付いた靴を指で触れる。

「この湿り方、沢沿いだねぇ」

「沢?」

孫二娘が眉を寄せる。

「山肌の水だよ。正面の道は踏み荒らされ過ぎて、もっと乾いてる」

戻って来た兵が、小さく頷いた。

「岩の裏で、少しだけ風も違いました……」

朱武の指が、地図の北側で止まる。

「水脈か」

林冲が短く聞く。

「人は通れるか」

兵は迷いながら答える。

「鎧を着たままでは厳しいかと……」

「十分だ」

朱武は何か思いついた様だった。

その瞬間、幕舎の空気がまた少し変わる。

真正面から馬で押す場所じゃない。

だからこそ、 通れる人間がいる。

顧大嫂が、鼻を鳴らした。

「ほら見な。デカい鎧は邪魔なんだよ」

孫二娘が笑いそうになったが、途中で止まる。

まだ、張清達の事が消えていない。

笑い切れない。

その時、朱武の声が飛んだ。

「時遷殿と白勝殿を!」

兵が走っていく。

アタシは、その名前で少しだけ顔を上げた。

真正面で押し潰される場所なら、 逆に、 ああいう連中の方が強い。

時遷は、壁でも崖でも登る。

白勝は、人の隙を嗅ぎ回る。

正面から斬り合う戦じゃない。

独松関は、そういう場所なのかもしれない。

また生温い風が吹く。

山は静かなままだ。

その静けさの奥に、 張清達が消えた夜が、 まだ残っている気がした――

独松関の夜は、妙に静かでした。

銅鑼の音も止み、風だけが山を抜けています。

ですが――

静かだからこそ、戻って来ない方の事ばかり頭へ浮かびました。

焚き火の前で動かない兵。

伏せたまま眠れない者。

皆、どこか山を気にしている様でした。

その中で、孫二娘殿と顧大嫂殿だけは、鍋を囲んでおられます。

「で?」

孫二娘殿が、鍋を混ぜながら私を見ました。

「扈三娘、まだ泣いてるの?」

顧大嫂殿が酒を煽ります。

「泣いてたねぇ」

「珍しいじゃん」

私は、少しだけ黙りました。

扈三娘様は、基本的には、泣く前に、前へ出られる方です。

怒る、走る、斬る。

無理やりでも動く。

そうやって止まらずに居られる方でした。

ですが――

今回は違いました。

私は、小さく息を吐きます。

「……瓊英様のお顔が浮かばれたのだと思います」

鍋の湯気が、ゆっくり揺れました。

孫二娘殿が、少しだけ真顔になります。

「張清だけじゃなく、そっちかい」

「はい」

顧大嫂殿も、焚き火を見たまま頷きました。

「残される側を見ちまってたんだねぇ」

誰も、すぐには喋りませんでした。

外では、風が木々を鳴らしています。

その時――

幕舎の外から、急に扈三娘様の声が響きました。

「玉楼ー!!」

「……何て言えばいいのよぉ……」

今度の声は、怒鳴っている訳ではありませんでした。

孫二娘殿が、鍋を混ぜる手を止めます。

顧大嫂殿も、静かに酒を置きました。

私は、小さく頭を下げます。

「……行って参ります」

孫二娘殿が、ぽつりと呟きました。

「泣ける内は、まだ大丈夫だよ」

顧大嫂殿も、小さく頷きます。

「本当に危ない時は、泣けなくなるからねぇ」

焚き火の火が、小さく揺れました。

独松関の夜は、まだ終わっておりませんでした。

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