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戻る場所は、残っている

「三娘ォ、最近ちょっと敵将に名指しされすぎじゃない?」

孫二娘に言われて、アタシは固まった。

「アタシだって好きで指名されてない!」

「有名税ってやつだねェ」

「この時代にそんな税ないでしょ!」

横で顧大嫂が腕を組む。

「でも実際、奚勝んとこへ突っ込んで、袁朗とやり合って、今度は段三娘だろ? 目立ってんのは間違いないね」

「整理しないで! 急に戦績一覧みたいになるから!」

孫二娘が妙に真面目な顔をした。

「反復接触効果ってのがあってねェ」

「敵将との接触回数を増やして好感度上げようとするな!」

「今回は兄の仇だけどねェ?」

「最悪の好感度じゃん!」

顧大嫂が笑った。

「まあ、安心しな。次は王慶本人かもしれないよ」

「やめて!」

――ところが、その王慶は……

もう、逃げる準備を始めていた。

刃が走った。

段三娘の身体が大きく揺れ、赤い軍装が裂けた。

血が飛ぶ。

馬が悲鳴のように嘶いたが、それでも彼女は落ちなかった。

「ぁ……ッ!」

槍を離さない。

崩れかけながらも、まだアタシを睨んでいる。

その目だけは、最後まで消えなかった。

やがて指から槍が滑り、段三娘の身体が馬上で大きく傾く。

重い音が地面へ落ちた。

「段三娘様が……!」

王慶軍の一角から悲鳴が上がった。

彼女の後ろにいた兵達が動揺し、後退する者や武器を捨てる者まで出始める。

ただ、まだ全部が崩れたわけじゃない。

寇烕の毒煙は残り、南豊府の城門も閉じている以上、王慶軍には戦える兵がいる。

アタシは地面に倒れた段三娘を見た。

目は閉じていなかった。

最後まで、アタシを睨んだままだ。

『兄を返せ!』

その声が耳に残っている。

返せない。

段五は生き返らないし、アタシが討ったことも変わらない。

敵で、討たなければこちらが討たれていたことも分かっている。

それなのに、胸の奥には少し重いものが残った。

「三娘様」

玉楼が馬を寄せてきた。

槍を構えたまま周囲を見ながら、アタシの顔へ視線を移す。

「お怪我は?」

「……大丈夫」

すぐに答えたつもりだったけれど、少し遅れた。

玉楼はそれ以上聞かなかった。

ただ段三娘へ一度だけ目を向け、それから前へ戻す。

紅玉も黙っている。

孫二娘だけが、アタシの横へ馬を寄せた。

「三娘ォ」

「何?」

「今は考え込む時間じゃないよォ?」

いつもの軽さはなかった。

「分かってる」

「なら前見な」

その声で、アタシも南豊府へ顔を戻した。

毒煙は薄れていたが、まだ低い場所を這っている。

炎も消え切っていない。

喬道清が風を動かすたびに煙の層が裂け、そこへ瓊英の石礫が飛び込んでいく。

乾いた音がした。

寇烕の手から剣が跳ねた。

「ぐっ……!」

もう一撃。

今度は肩へ入る。

「また当てた……」

思わず声が出た。

孫二娘がちらりとこちらを見る。

「敵だった時より嬉しそうだねェ?」

「味方の石は最高!」

「切り替え早いねェ」

「今それ言う!?」

寇烕が怒声を上げた。

「黙れ! 殺せ!」

王慶軍が前へ押し出そうとする。

でも、煙が裂けたことで梁山泊軍の視界は戻っていた。

林冲が蛇矛を上げる。

「前へ!」

盾兵が押し出し、その後ろから槍兵が続く。

騎兵も開いた場所へ入り始めた。

寇烕は剣を拾い直そうとした。

その前へ、喬道清が出る。

道士姿のまま煙の中を進み、片手で印を切った。

風が強くなる。

赤黒い煙が左右へ押し分けられ、寇烕の姿だけがむき出しになる。

「貴様……!」

「妖術に頼りすぎたな」

喬道清の剣が抜かれた。

一閃。

寇烕の身体が止まる。

次の瞬間、黒衣が裂けて血が噴き、膝から崩れ落ちた。

赤黒い煙も、主を失ったみたいに薄れていく。

そこで初めて、南豊府前の王慶軍全体が揺れた。

段三娘を失った一角だけじゃない。

毒煙で正面を支えていた寇烕まで倒れたことで、前線そのものをまとめ直す声が消えていく。

城門へ戻ろうとする兵が後ろの味方とぶつかり、前へ出ようとする者も立ち止まる。

命令は飛んでいるのに、もう同じ方向へ動けていない。

林冲が叫んだ。

「押せ!」

梁山泊軍が一斉に前へ出る。

盾で押し、槍で割り、開いた場所へ騎兵が入る。

森側から回り込んでいた別働隊も近づき、王慶軍は正面と横から押され始めた。

南豊府の城門へ兵が殺到する。

「開けろ!」

「入れろ!」

「押すな!」

叫び声だけが重なり、誰も全体を見ていない。

アタシは日月双刀を握り直した。

腕にはまだ段三娘の槍を受けた痺れが残っている。

玉楼が横に並んだ。

「進まれますか?」

「行くわ」

紅玉も後ろで頷く。

孫二娘が鼻を鳴らした。

「終わりが見えた時ほど、逃げる奴は何するか分からないよォ」

「分かってる」

今度は前だけを見ない。

玉楼と紅玉の位置を確かめ、後ろから押してくる味方の流れまで拾う。

戻る場所も、ちゃんと残っている。

「前へ!」

玉楼と同時に馬を出した。

狭まりかけた敵の隙間へ、アタシが先に入る。

右から来た槍を日月双刀で流すと、玉楼の槍が反対側から敵兵の進路を塞いだ。

「左!」

「承知しております!」

「もう動いてるじゃない!」

「返事は必要でございます!」

「今それやる!?」

後ろから孫二娘が笑った。

「息合ってるねェ!」

「実況しないで!」

紅玉が後ろを押さえ、逃げようとした敵兵を城門側へ追い込む。

林冲隊の圧も続く。

やがて城壁の上で王慶軍の旗が一本倒れた。

続いてもう一本が落ち、代わりに梁山泊の旗が上がる。

それを見た兵達が、次々に武器を捨て始めた。

南豊府が崩れる。

その時、後方から伝令が駆け込んできた。

「報告!」

戦場の音を割る声だった。

「王慶、城外へ逃走した模様です!」

林冲が振り向く。

「どこへ向かった!」

伝令が息を切らしながら答える。

「水路です!」

水路――

その言葉を聞いた瞬間、林冲の目が細くなった。

「……李俊か」

アタシも清江の方角を見る。

逃げるなら水路。

そして、水路には李俊がいる。

胸の奥に、変な安心が落ちた。

王慶がどんな船を用意していようが、あの人なら見逃さない。

そう思えるくらいには、もう李俊のことを知っている。

玉楼がこちらを見た。

「ずいぶん安心しておられますね?」

「だって李俊だし」

「左様でございますか」

「何、その顔!」

「何も申しておりません」

後ろから孫二娘が身体を寄せてくる。

「三娘ォ、顔がもう全部言ってるよォ」

「また顔!?」

顧大嫂まで笑った。

「王慶より、そっちの方が分かりやすいねぇ」

「今、戦の最中だから!」

林冲が短く命じた。

「南豊府を押さえろ。残兵を制圧する」

頭領達が散り、伝令が走る。

梁山泊軍が城内へ入ると、そこもひどく乱れていた。

逃げる兵と降伏する兵が入り混じり、民は戸口を閉ざしている。

燃え残った荷車や倒れた旗の間から、怒鳴り声と泣き声が聞こえた。

戦は終わりかけている。

でも、終わりかけた時ほど秩序が崩れる。

顧大嫂がすぐに兵達を怒鳴りつけた。

「勝手な真似するんじゃないよ! 捕虜をまとめな! 火を広げるな!」

その声で近くの兵が動きを取り戻す。

孫二娘も負傷者の間を歩きながら、道を空けさせていた。

「ほら、そこ塞いだら担架が通れないよォ。自分で歩ける奴は端へ寄んな!」

紅玉は倒れた兵へ水を渡している。

玉楼はアタシの横から離れなかった。

「三娘様」

「何?」

「先ほどから、水路の方ばかりご覧になっております」

「見てない!」

「三度ほど」

「数えないで!」

孫二娘が遠くから笑う。

「李俊待ちだねェ!」

「違う!」

……違わないけど。

南豊府の城壁に梁山泊の旗が上がった。

城内の抵抗は、さらに弱くなる。

終わる。

今度こそ、本当に。

そう思いたい。

でも、王慶が逃げ切れば戦は続く。

どこかで兵を集め直すかもしれないし、また誰かが死ぬ。

だから誰も、まだ勝ったとは言わなかった。

夕刻。

水路側から一騎の伝令が駆け込んできた。

馬が止まり切る前に声が飛ぶ。

「報告!」

周囲の頭領達が一斉に振り向く。

「王慶、捕縛されました!」

一瞬、意味が入ってこなかった。

伝令は息を切らしながら続ける。

「逃走用の船へ乗り込もうとしたところを、水夫に化けて潜んでいた李俊殿が捕縛!」

周囲から大きく息が漏れ、膝をつく兵や空を仰ぐ者の中には、ようやく笑顔を見せる者もいた。

紅玉が呆然と呟く。

「……終わったんですね」

孫二娘がにやりとする。

「三娘ォ」

「何よ?」

「やっぱり捕まえたねェ、李俊」

「……うん」

答えた途端、自分でも分かるくらい頬が緩んだ。

顧大嫂が見逃すわけがない。

「いい顔するじゃないか」

「今それ言わなくていい!」

玉楼まで静かに頷く。

「安心なさいましたね?」

「そりゃするでしょ!」

王慶を捕らえたから。

それだけ。

……たぶん。

アタシは空を見上げた。

まだ煙が残っている。

でも、それは寇烕の毒煙じゃない。

燃え残った木や土から上がる、ただの煙だった。

段三娘の目は、まだ頭から離れない。

袁朗の重さも、李懐が討たれた声も消えてはいない。

それでも、戦場の音は少しずつ遠くなっていた。

倒れた者も、捕らえられた者もいる。

その中で、アタシはまだ生きてここにいる。

日月双刀を鞘へ戻すと、小さな金属音が鳴った。

そこでようやく、身体の奥に溜まっていた息が抜けた。

やっと、王慶討伐戦が終わった……

王慶討伐戦は終わりました。

ですので、次に確認すべきことがございます。

「李俊殿には、どこまでお話ししましょうか?」

「全部だねェ」

孫二娘様が即答なさいました。

「待って!?」

三娘様が振り返ります。

顧大嫂様まで指を折り始めました。

「奚勝んとこへ突っ込んだ件、袁朗と正面からやった件、段三娘と斬り合った件――」

「なんで報告事項が増えてんの!?」

「事実でございますので」

「玉楼まで敵!?」

「認知的不協和を避けるためにも、情報は正確な方がいいねェ」

「心理学で追い詰めないで!」

その時でした。

背後から、聞き覚えのある声がしました。

「……何の話だ?」

三娘様のお顔から、笑みが消えました。

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