欠けた帰還
「……嫌な男に目ぇ付けられたねぇ」
孫二娘が、鍋を混ぜながら呟く。
顧大嫂が酒を煽った。
「独松関そのものが、牙剥いてる感じだよ」
外では、銅鑼の音が、また遠くで鳴っていた。
止まらない。
一定の間隔で、ずっと響いて来る。
孫二娘が、鍋の湯気を見つめる。
「周通、やられたんだろ?」
「しかも遺体も引いてこれなかった」
顧大嫂の声は低かった。
「厲天閏、分かってやってるねェ」
少し沈黙が流れる。
鍋の煮える音だけが、小さく続いた。
やがて、孫二娘が肩をすくめる。
「“ここまで来い”って見せて、来た所を殺す」
「趣味悪いねェ」
「趣味じゃないよ」
顧大嫂が、焚き火を見たまま返した。
「戦が上手いんだ」
風が吹き、焚き火の火が小さく揺れた。
孫二娘が、苦笑混じりに言う。
「で、その後の董平は?」
顧大嫂が鼻を鳴らす。
「分かりやすい顔してたよ」
「厲天閏しか見えてない顔?」
「そういう顔だねぇ」
二人とも、小さく笑う。
でも、その笑いはすぐ消えた。
遠くで、また銅鑼が鳴る。
孫二娘が、鍋を混ぜる手を少し止めた。
「……嫌なんだよねェ」
「ああいう、“待ってる敵”って」
顧大嫂も、静かに頷く。
「真正面で暴れる奴より、ずっと厄介だ」
「しかも、董平みたいなヤツほど引っ掛かる」
その言葉の後だけ、空気が少し重くなる。
風が、山を抜けた。
焦げた匂いが、鍋の湯気へ混ざる。
顧大嫂が、盃を回しながらぽつりと呟いた。
「……独松関、まだ誰か持ってく気だねぇ」
自分の幕舎に戻ってから、どれくらい経ったのか分からなかった。
眠れた訳じゃない。
ただ、座っていた。
孫二娘は途中で黙り込み、顧大嫂も手元の包帯を畳み終えると、水桶の残りを見ていた。
外では、時折、兵の足音が通る。
それだけで、皆の目が帷幕の方へ向いた。
誰も言わない。
でも、待っていた。
周通達が戻って来るのを……
「……遅くないかい」
孫二娘が、低く言った。
茶化す声じゃなかった。
アタシは答えなかった。
答えられなかった。
“向こうも、こちらを見ている“
林冲の言葉が、また頭の奥で鳴る。
その時だった。
外で、足音が乱れた。
一人じゃない。
でも、多くもない。
次の瞬間、幕舎の外から兵の声が飛んだ。
「扈三娘様! 林冲様より、急ぎ本営へとのことです!」
アタシは立ち上がった。
孫二娘も立つ。
顧大嫂が、水桶を押しやりながら顔を上げた。
「戻ったのかい」
兵は、一瞬だけ言葉を詰まらせた。
その間で、胸の奥が冷えた。
「……戻られました。ですが……」
それ以上は言わなかった。
言えなかったのだと思う。
アタシは帷幕を払って外へ出た。
夜気は、相変わらず生温い。
けれど、さっきより嫌な臭いがした。
血の臭いだった。
本営の幕舎へ近づくにつれて、人の気配が増えた。
でも、誰も騒いでいない。
それが、余計に悪かった。
叫び声が無い。
怒号も無い。
ただ、重い沈黙だけが幕舎の周りに落ちている。
中へ入ると、最初に鄧飛が見えた。
赤髭に、黒く乾き始めた血が絡んでいる。
肩で息をしていた。
欧鵬は片膝をつき、腕を押さえている。
李忠は立っていたが、怪我をしていた。
そして――
周通がいなかった。
アタシは、息を吸うのを忘れた。
林冲が、中央に立っていた。 白い披風は動かない。
朱武は地図の前で、唇を引き結んでいる。
玉楼も、すぐ隣にいた。
董平は、包帯の巻かれた腕を机に乗せたまま、黙って鄧飛達を見ていた。
いつもの舌打ちも無い。
アタシは、口を開く。
「……周通は?」
誰も、すぐに答えなかった。
その沈黙だけで、分かってしまいそうになる。
でも、分かりたくなかった。
鄧飛が、歯を食いしばる。
「……やられた」
声が、低かった。
「誰に」
分かっているのに、聞いた。
鄧飛の目が、血走ったままこちらへ向く。
「厲天閏だ」
幕舎の空気が、完全に止まった。
銅鑼の音が、遠くでまた鳴った気がした。
いや、鳴っていないかもしれない。
耳の奥で、勝手に響いただけかもしれない。
欧鵬が、押さえた腕から血を滲ませながら口を開いた。
「北側の山肌を見ていた。横道らしいものはあった。人が一人、やっと通れるくらいの細い道だ」
朱武の目が動く。
でも、何も言わない。
欧鵬は続けた。
「そこを確かめようとした時だ。上から石が落ちた」
「落石か」
林冲が短く聞く。
「違う」
李忠が、掠れた声で答えた。
「知らせだ。こっちが見られてるって知らせるための石だった」
その言葉に、背筋が冷えた。
玉楼が、静かに目を伏せる。
「威嚇では済まなかったのですね」
「済むかよ」
鄧飛が、低く唸った。
「周通が笑ったんだ。“随分親切な見張りだな”ってな。次の瞬間――」
そこで、声が詰まった。
鄧飛は、拳を握り締める。
「闇の向こうから、槍が来た」
誰も息をしなかった。
「見えなかった。いや、見えた時にはもう遅かった。長槍が、周通の喉を抜いてた」
アタシの指先が冷える。
あの周通が。
さっきまで笑っていた男が。
夜の山の中で。
「声も出なかった」
李忠が言った。
「本当に、一瞬だった」
欧鵬が歯を食いしばる。
「厲天閏は、俺達を追わなかった。周通を斬って、そこに立っていた」
「……立っていた?」
「そうだ」
鄧飛が顔を歪める。
「まるで、最初からここまで来いって言ってたみてぇに」
幕舎の中が、重く沈む。
正面だけじゃない。
夜でも、 山肌でも。
こちらが抜け道を探す事まで、読まれていた。
独松関そのものが、こちらの首筋に刃を当てている。
そんな感じがした。
董平が、ようやく口を開いた。
「……周通の遺体は?」
鄧飛の顔が、さらに歪んだ。
「持って帰れなかった」
沈黙が流れる。
「引こうとした。だが、矢が来た。上からだ。俺達が一歩戻ろうとするたびに、岩の上から矢が落ちた」
李忠が、震える息を吐く。
「奴は……厲天閏は、ただ見ていた」
ただ見ていた。
その言葉が、気持ち悪いくらい耳に残った。
追わない。
殺し切らない。
でも、こちらに分からせる。
ここから先へ入れば死ぬ、と。
林冲が、静かに言った。
「戻れただけで良い」
鄧飛が、ぎり、と歯を鳴らす。
「良くねぇだろ」
「良い」
林冲の声は低かった。
「全員を失うよりは、良い」
鄧飛は何か言い返そうとした。
でも、言えなかった。
分かっているからだ。
本当に、そうだからだ。
アタシは、何も言えなかった。
周通の軽口が、耳に残っている。
“俺達、夜の山登りらしいぜ“
あの声が、まだ幕舎のどこかに残っている気がした。
でも、もう戻って来ない。
顧大嫂の声が、胸の奥で重なる。
“生きて帰って来な“
その言葉は、もう間に合わなかった。
本営の幕舎を出た時、夜風が少しだけ強くなっていた。
でも、やっぱり生温い。
独松関の熱は、夜になっても死なない。
兵達も、ほとんど喋っていなかった。
誰もが、周通の名前を口にしない。
でも、皆知っている。
戻って来なかった事を……
アタシは幕舎の外で立ち止まる。
遠くの山肌は、闇に沈んでいる。
何も見えない。
なのに――
あそこから見られている気がした。
「……嫌な山」
無意識に零れる。
その時、後ろで布が鳴った。
振り返ると、董平が出て来ていた。
片腕を吊ったまま、苛立った顔をしている。
「傷口開くわよ」
「開きゃまた縫わせる」
「無茶苦茶ね」
「今さら、だろ」
董平は鼻を鳴らし、アタシの隣へ立った。
しばらく、二人とも山を見ていた。
夜の独松関は静かだった。
でも、その静けさが怖い。
昼間みたいに怒号が飛んでいる方が、まだマシだった。
董平が、低く言う。
「周通の野郎……」
そこで言葉が止まる。
続かなかった。
アタシも何も返せない。
周通は、さっきまで笑っていた。
それが急に消える。
独松関は、そういう場所だった。
「……厲天閏」
董平が、その名前を吐き捨てる。
「次は、逃がさねぇ」
その声は低かった。
昼みたいな怒鳴り方じゃない。
逆に、嫌だった。
アタシは横目で董平を見る。
「アンタ、変な気起こしてないでしょうね」
「何だそりゃ」
「単独で突っ込むとか」
董平が、少しだけ笑った。
でも、目は笑っていない。
「片腕でか?」
「アンタならやりそうなのよ」
否定が返って来ない。
その沈黙で、余計に嫌な感じがした。
遠くで、また銅鑼が鳴る。
独松関側だ。
一定の間隔で、ずっと鳴っている。
まるで、
“こっちは起きてるぞ”
とでも言うみたいに。
董平が舌打ちした。
「気に入らねぇ音だ」
「皆そう思ってる」
「違ぇよ」
董平は、山を睨んだまま言う。
「音じゃねぇ」
短い沈黙――
その横顔を見た瞬間、 胸の奥が少し冷えた。
この人、 もう厲天閏しか見えてない。
そんな感じがした。
独松関の夜は、銅鑼の音だけが生きている様でした。
風が吹く度に、山の奥から低い音が返って来ます。
止まらない。
まるで、“まだ終わっていない“と、ずっと言われ続けているみたいでした。
兵達も眠れておりません。
焚き火を見たまま動かない者。
槍を抱えたまま座っている者。
皆、山を気にしていました。
その中で――
孫二娘殿と顧大嫂殿だけは、相変わらず鍋を囲んでおられます。
「で?」
孫二娘殿が、鍋を混ぜながら笑いました。
「董平、もう厲天閏しか見えてない顔してたんだって?」
顧大嫂殿が酒を煽ります。
「してたねぇ」
「分かりやすい男だねェ」
「真っ直ぐ過ぎるんだよ」
私は、少しだけ黙りました。
董平殿は、元々、真正面から押し切る方です。
だからこそ――
独松関みたいな場所は、相性が悪いのでしょう。
見えない。
届かない。
待たれる。
そういう戦場でした。
その時、外から急に扈三娘様の声が飛び込みます。
「玉楼ー!!」
「董平、絶対また無茶する顔してたー!!」
孫二娘殿が吹き出しました。
「アイツも分かってるじゃん!」
顧大嫂殿も肩を揺らします。
「止められるなら、とっくに止めてるだろうけどねぇ」
私は、小さく息を吐きました。
「……厲天閏殿も、それを分かっているのでしょう」
少しだけ、空気が静かになります。
鍋の湯気が、ゆっくり揺れました。
孫二娘殿が、ぽつりと呟きます。
「嫌だねぇ」
「“相手の熱くなる場所”を待ってる敵ってのは」
顧大嫂殿も、焚き火を見たまま頷きました。
「独松関は、山そのものが罠みたいな場所だからねぇ」
誰も、すぐには喋りませんでした。
遠くで、また銅鑼が鳴ります。
低い音が、夜の山をゆっくり転がっていきました。
独松関の夜は、まだ誰も帰してくれそうにありませんでした。




