闇夜の偵察
「……暑苦しい男ばっか集まったねぇ」
孫二娘が、鍋を混ぜながら呟く。
顧大嫂が酒を煽った。
「熱いのは独松関だけで十分なんだけどねぇ」
外では、まだ銅鑼の音が山へ響いていた。
低く、嫌な音が止まらない。
孫二娘が、鍋の湯気を見つめる。
「で?」
「董平、また無茶してたんだろ?」
「してたねぇ」
顧大嫂が鼻を鳴らした。
「片腕吊ったまま、“まだ行ける”って顔してたよ」
「色男ってのは、何でああ無駄に丈夫なんだろうねぇ」
「丈夫じゃなきゃ、とっくに死んでるさ」
二人とも、小さく笑う。
でも、その笑いも長くは続かなかった。
風が吹き、熱い空気が、鍋の湯気を揺らす。
孫二娘が、苦笑混じりに言う。
「しかも厲天閏相手だろ?」 「ああいう、“待ってる敵”は嫌なんだよ」
顧大嫂も、焚き火を見たまま頷く。
「熱くなった方から死ぬ場所だからねぇ」
少し沈黙が流れる。
鍋の煮える音だけが、小さく続く。
やがて、孫二娘が口の端を上げた。
「で、その中で扈三娘は?」
顧大嫂が吹き出す。
「“無茶し過ぎ”って即答してたよ」
「言ったんだ?」
「言ってたねぇ」
二人とも、今度は少し長く笑った。
孫二娘が、肩を揺らしながら続ける。
「アンタ、自分も大概なのにねェ」
「人の事言えないだろうに」
「うるさいわね!」
アタシは思わず睨む。
でも、二人は全然止まらない。
顧大嫂が、酒を持ったままニヤつく。
「でも、“生きて帰って来て”って顔してたよ」
「顔に出過ぎなんだよ、この子は」
熱気の中で、少しだけ空気が軽くなる。
でも――
遠くで、また銅鑼が鳴った。
その瞬間、笑いが少し止まった。
独松関を思い出す音だった。
孫二娘が、鍋を混ぜる手を止める。
「……抜け道、見つかるといいけどねぇ」
顧大嫂は、焚き火を見たまま呟く。
「見つからなきゃ、また正面だ」
その言葉の後だけ、誰もすぐには喋らなかった。
独松関の熱は、夜になっても、 人の気持ちまで逃がしてくれそうにない……
夜の熱気を押し分けるみたいに、幕舎の帷幕が乱暴に開いた。
「暑ッっちぃな、この中!」
最初に入って来たのは、鄧飛だった。
汗で赤髭を濡らしながら、不機嫌そうに肩を鳴らしている。
そのまま幕舎の中を見回し、
「うわ、空気まで重てぇ」
と露骨に顔をしかめた。
後ろから周通が入って来る。
「昼間アレ見りゃ、そりゃこうなるだろ」
軽口を叩きながらも、目だけは笑っていなかった。
さらに欧鵬に李忠。
四人が入っただけで、幕舎の空気が少し狭く感じる。
元々広くない。
そこへ、血と薬と汗の臭いまで籠もっている。
董平は、包帯を巻かれた左腕を机へ乗せたまま、面倒臭そうに顔を上げた。
「……何だ、ゾロゾロと」
「偵察だとよ」
周通が肩を竦める。
「俺達、夜の山登りらしいぜ」
「楽しそうじゃねぇか」
董平がニヤつく。
でも、その顔色は良くない。
血を流した後だ。
玉楼は、それを見て少し眉を寄せていた。
林冲が呟く。
「遊びじゃない」
その一言で、幕舎が静かになる。
朱武が地図を広げる。
「独松関は正面から押せない様です。ならば、周りに抜け道が無いか見直しましょう」
鄧飛が鼻を鳴らす。
「昼に嫌ってほど見たぜ。狭い、熱い、逃げ場が無ぇ」
「だから見るのです」
朱武が口を挟んだ。
「“どこかにあるはず”をです」
欧鵬の目が細くなる。
朱武は地図を指でなぞった。
「狭い道なので、攻めあぐねて当然です」
誰も反論しなかった。
事実だからだ。
倒れた兵、崩れた馬、逃げ場を失って押し合う後列。
独松関は、兵を斬る前に“潰して”いた。
李忠が、低く唸る。
「……あの厲天閏って奴も、それを分かって動いてる」
「ええ」
玉楼が静かに答えた。
「あの将は、“押せる場所”でしか前へ出ませんでした」
アタシは、その言葉に昼の光景を思い出す。
黒い明光鎧。
熱気の向こうで、静かに槍を構える姿。
無理に追って来ない。
でも、退く相手には容赦なく槍を入れる。
嫌なヤツだった。
強いだけじゃない。
“独松関そのもの”が、厲天閏の味方をしているみたいだった。
幕舎の外で、風が鳴る。
でも、涼しくはならない。
昼の熱が、岩肌にも空気にも残ったままだった。
朱武は、地図へ指を置いたまま続ける。
「独松関は、一本道に見えて完全な一線ではありません。山肌に沿って折れています」
周通が、地図を覗き込みながら眉を寄せた。
「つまり?」
「死角です」
朱武の指が、細い線を叩く。
「厲天閏は、こちらを正面から押し潰していますが、逆に言えば“正面しか見せていない”可能性がある」
欧鵬が、小さく唸る。
「横道か」
「あるかもしれません」
朱武は言葉を選ぶ。
「ただし、人が通れる保証は無い。獣道程度の可能性もあります」
「でも、無いよりマシだろ」
鄧飛が腕を組む。
「このまま真正面から潰し合うよりはな」
董平が、机へ肘をついたまま鼻を鳴らした。
「チッ……結局、正面は俺達が受けるんだろ」
「受けるだけではありません」
林冲が低く返す。
「見る。待つ。崩れる場所を探す」
短い言葉だった。
でも、それが独松関では一番難しい。
押される。
熱が籠もる。
前の兵が倒れる。
そうなると、人は“今すぐ押し返したく”なる。
昼の董平みたいに。
アタシは、包帯の巻かれた左腕を見る。
董平は気付いていたらしく、ニヤついた。
「何だよ」
「……別に」
「言いたい事あんなら言え」
「無茶し過ぎ」
即答してしまった……
周通が吹き出す。
鄧飛も笑う。
でも、董平本人だけは不満そうに顔を歪めた。
「前に出なきゃ潰れてただろうが」
「それはそう」
アタシは否定しない。
実際、董平が前へ出なければ、もっと崩れていた。
でも――
「だからって、片腕になってまで踏ん張る?」
「死んでねぇだろ」
「まだですね」
玉楼が、小さく口を挟む。
その瞬間、董平が嫌そうな顔をした。
「お前まで言うのかよ……」
「止めても止まられないでしょうから」
玉楼は静かに返す。
「せめて、生きて帰って来て下さい」
幕舎が少し静かになった。
董平は、しばらく何も言わなかった。 やがて、鼻を鳴らす。
「……努力はする」
「信用ならねぇなぁ」
周通が笑う。
空気が、ほんの少しだけ軽くなる。
でも、独松関の重さまでは消えない。
朱武が、再び地図へ視線を落とした。
「周通は見張り。鄧飛、欧鵬は北側の山肌を」
「李忠は?」
鄧飛が聞く。
朱武が少しだけ迷う。
その前に、林冲が言った。
「李忠は周通と行け」
「見張り役かよ」
「暴れるからだ」
即答だった。
周通が腹を抱えて笑う。
李忠は露骨に顔をしかめた。
「信用無ぇなァ……」
「あるなら、最初から単独で出してる」
林冲の返しは容赦が無い。
でも、李忠も反論し切れない顔をしていた。
実際、昼の独松関を見た後だ。
勢いだけで踏み込めば死ぬ。
それくらいは、皆もう分かっている。
その時――
幕舎の外で、遠く小さく銅鑼が鳴った。
独松関側の夜番交代だろう。
音が、山へ反響する。
静かなのに、不気味だった。
玉楼が、小さく呟く。
「……威嚇ですかね」
「当然だ」
林冲が立ち上がる。
白い披風が、熱気の中で揺れた。
「向こうも、こちらを見ている」
幕舎を出る頃には、夜はすっかり深くなっていた。
でも、独松関の熱だけは残っている。
風が吹いても、生温い。
汗が肌へ貼り付く。
周通達は、そのまま闇の中へ消えていった。
笑ってはいた。
でも、背中の空気は軽くない。
向こうも見ている――
林冲の言葉が、まだ耳に残っていた。
アタシは、小さく息を吐きながら、自分の幕舎へ戻る。
帷幕を払った瞬間――
「遅い!」
怒鳴り声が飛んだ。
思わず顔をしかめる。
中では、孫二娘が腕を組んで座っていた。
汗で額の髪が張り付いている。
隣には顧大嫂。
こっちはこっちで、妙に空気が濃い。
「アンタ達まで何で熱気出してんのよ……」
「出るだろ、この暑さ!」
孫二娘が机を叩く。
「飯運んでるだけで汗が止まんないんだよ!」
「負傷兵も増えてるしねぇ」
顧大嫂が、疲れた様に肩を回した。
でも、その手は止まっていない。
包帯を畳み、水桶を確認し、薬を分けている。
戦場の後始末側の手だった。
アタシは、その横へ腰を下ろす。
「そっちも大変そうね」
「そりゃそうさ」
顧大嫂が鼻を鳴らす。
「前が潰れりゃ、こっちは負傷兵で埋まるんだよ」
その言葉が、妙に独松関そのものだった。
前が詰まる。
後ろも詰まる。
全部が逃げ場を失っていく。
孫二娘が、水を一気に飲み干す。
「しかも、今日は董平まで血まみれだろ。あの色男、死ぬ気かい」
「まだ生きてるわよ」
「“もう”って顔してたじゃないか」
ギクリとした。
顧大嫂が吹き出す。
「浮気かい」
「別にそんなんじゃ――」
「アンタ、顔に出るんだよ」
孫二娘がニヤつく。
「戦場じゃ気張ってるクセに、変な所で分かりやすいねぇ」
「うるさい」
思わず睨む。
でも、孫二娘は楽しそうだった。
その顔を見て、少しだけ肩の力が抜ける。
昼の独松関は、人を黙らせる。
熱、血、押し潰される音。
あの山道にいると、頭の中まで詰まっていく。
だから、多分――
こういう馬鹿話をしている方が、まだ息が出来た。
顧大嫂が、ふと真顔になる。
「……でも、嫌な所だねぇ」
幕舎が少し静かになった。
アタシは頷く。
「厲天閏が、全部分かって動いてる」
「強いのかい?」
「強い」
即答だった。
「しかも、“どこで押せば潰れるか”を知ってる」
顧大嫂の顔から笑いが消える。
孫二娘も、机へ肘をついた。
「真正面から行く場所じゃないね」
「だから今、抜け道探してる」
「見つかると思う?」
その問いに、すぐ答えられなかった。
分からない。
でも、見付からなければ、また正面から削り合う事になる。
あの熱の中で。
あの狭い道で。
顧大嫂が、小さく息を吐いた。
「……生きて帰って来な」
その言い方は、妙に静かだった。
前線へ出る人間じゃない。
でも、“帰って来ない奴”を何度も見て来た女の声だった。
独松関の夜は、風が吹いても涼しくなりませんでした。
熱が、山へ籠もっているのです。
岩も、空気も、兵達の顔も、 昼の戦をまだ引きずっておりました。
その中で――
孫二娘殿と顧大嫂殿だけは、相変わらず鍋を囲んでおられます。
「で?」
孫二娘殿が、鍋を混ぜながら笑いました。
「扈三娘、“無茶し過ぎ”って董平に言ったんだって?」
顧大嫂殿が酒を煽ります。
「言ってたねぇ」
「自分も似た様なモンなのに?」
「だから面白いんだろ」
二人とも、小さく笑いました。
ですが、その笑いも長くは続きません。
外では、また銅鑼の音が山へ響いていたからです。
低く、嫌な音でした。
孫二娘殿が、鍋の湯気を見つめながら呟きます。
「董平、完全に厲天閏へ噛み付く顔してるんだろ?」
顧大嫂殿も、焚き火を見たまま頷きました。
「真正面から行く男ほど、ああいう敵を嫌がるからねぇ」
私は、少しだけ目を伏せます。
厲天閏殿は、“押せる場所” を知っておられる方でした。
だからこそ、独松関の様な地形では恐ろしい。
熱くなった側へ、静かに槍を差し込んで来る。
そういう将でした。
その時――
幕舎の外から、急に扈三娘様の声が飛び込みます。
「玉楼ー!!」
「銅鑼の音、地味にイラつくー!!」
孫二娘殿が吹き出しました。
「分かるけどねェ!」
顧大嫂殿も肩を揺らします。
「眠らせる気無いんだろうさ」
私は、小さく息を吐きました。
「……向こうも、こちらを潰しに来ているのでしょう」
少しだけ、空気が静かになります。
鍋の湯気が、ゆっくり揺れました。
孫二娘殿が、ぽつりと呟きます。
「独松関って、“山”っていうより、“待ってる口”みたいだねぇ」
顧大嫂殿も、静かに頷きました。
「油断した奴から呑まれる場所だよ」
誰も、すぐには喋りませんでした。
遠くで、また銅鑼が鳴ります。
低い音が、夜の山をゆっくり転がっていきました。
独松関は、まだ誰も帰してくれそうにありませんでした。




