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返せないもの

最近、敵将を倒すたびに嫌な予感がする。

「三娘ォ、それ学習したってことじゃない?」

「何を!?」

顧大嫂が笑う。

「恨まれるってことをさ」

「成長判定そこなの!?」

孫二娘が肩へ抱きついてきた。

「身内を殺された怒りって、理屈で簡単に消えるもんじゃないよォ」

「急に重くしないで!」

「じゃあ軽くするかい?」

「できるの!?」

顧大嫂が首を傾げる。

「仇討ちに来たら、謝る?」

「戦場でどう謝れっていうのよ!」

その時は、まだ冗談だった。

――本当に、妹が来るまでは……

砦側の兵の声が、消えた。

袁朗の巨体が山道へ崩れ落ちた場所を、敵兵達が見つめている。

木柵の上にいた弓兵も、門から出かけていた兵も、森へ向きかけていた者も動かなかった。

あの男が前へ出たから、崩れかけた砦は立ち直った。

そして、その袁朗が倒れた。

それだけで、敵の中から次の動きが消えている。

玉楼が槍を構えたまま砦を見た。

「……支えを失いましたね」

「うん」

アタシも息を整えながら頷いた。

腕はまだ痺れている。

でも、ここで止まっている場合じゃない。

その沈黙を切り裂くように、森の奥から叫び声が上がった。

「李懐様が討たれた!」

敵側の声だった。

次の瞬間には怒号と悲鳴が重なり、砦の奥が一気に乱れ始める。

森へ入っていた梁山泊軍が、そのまま敵の指揮所へ食い込んだらしい。

紅玉が目を見開いた。

「総大将まで……」

孫二娘が肩をすくめる。

「そりゃ、もう保たないねェ。前で袁朗が倒れて、奥じゃ李懐までやられたんだろォ?」

玉楼が静かに頷いた。

「正面と奥の両方を失えば、兵をまとめ直す者がおりません」

言葉通りだった。

敵兵は木柵へ戻ろうとして味方とぶつかり、武器を捨てる者まで出始めている。

誰かが声を張り上げていたが、もうその命令に従う者は少ない。

林冲が蛇矛を上げた。

「進め!」

号令と同時に、梁山泊兵が山道へ押し出した。

盾が先頭に並び、その後ろから槍兵が続く。

森側の別働隊も奥から圧を掛け、紀山の砦は二方向から潰されていった。

アタシは馬を進めながら、横の玉楼を見る。

「今回は、ちゃんと戻ったでしょ?」

「袁朗を倒した直後に申されても、評価は変わりません」

「半分は褒めたじゃない!」

「残り半分は李俊殿にお任せいたします」

「やめて!」

孫二娘が後ろから身体を寄せてきた。

「三娘ォ、さっき抱き締められたばっかりなのに、もう怒られる予定が増えたねェ?」

「増やしてるのアンタ達でしょ!」

顧大嫂が笑った。

「まあ、無事だから言える話だよ」

それを言われると弱い。

李俊の腕の感触が、急に蘇った。

『……無事ならいい』

あんな顔をされた直後に、また敵将へ突っ込んだと知られたら何を言われるか……

……あとで聞く、って言ってたし。

忘れてないよね。

いや、忘れてて……

そんな願いはたぶん通らないまま、梁山泊軍は紀山を抜けた。

そこから先も戦は続いたが、抵抗は明らかに細くなっていた。

街道を塞ぐ小部隊や森へ潜む伏兵、小砦へ籠もる守備兵とは何度もぶつかったものの、紀山ほど強く止められることはない。

紅玉が馬を並べながら前方を見た。

「以前より、敵が少ないですね?」

孫二娘が鼻を鳴らす。

「本拠に集めてるんじゃないかねェ。散らして負けるより、最後にまとめて殴る方がまだマシだろォ?」

玉楼も同じ考えらしい。

「王慶軍に残された選択肢は多くありません。南豊府へ兵を寄せているのでしょう」

アタシもそう思った。

最初の頃みたいに、各地へ兵を置いて余裕を見せる段階は終わっている。

前を塞ぐ敵が減るほど、終わりが近い。

兵達も分かっているのか、疲れているはずなのに足取りが少しずつ変わっていた。

やっと終わる。

ここを越えれば、王慶の本拠だ。

誰も大声では言わないが、隊列の中へそんな期待が混じっている。

やがて、遠くに南豊府の城壁が見えた。

城外には王慶軍の旗が立ち、その前へ最後の防衛線らしい陣が広がっている。

林冲の横を伝令が駆け抜けた。

「王慶軍、南豊府前方に布陣!」

続けて別の声が飛ぶ。

「寇烕隊も確認!」

その名が聞こえた直後、敵陣の奥から赤黒い煙が立ち上った。

最初は火事かと思った。

でも、違う。

煙は上へ昇らず、地面を這いながらこちらへ流れてくる。

前列の馬が暴れ、兵達が咳き込み始めた。

「毒煙だ!」

誰かが叫ぶ。

さらに地面の一部へ火が走った。

乾いた草へ燃え移った炎が煙と混ざり、前方の視界を一気に奪っていく。

紅玉が口元を袖で覆った。

「これは……!」

孫二娘も笑っていない。

「最後に嫌なの出してきたねェ」

煙の奥から男の笑い声が響いた。

黒衣に赤い飾りを付け、剣を掲げている。

毒焔鬼王・寇烕――

「焼け焦げろ! 梁山泊!」

赤黒い煙がさらに広がり、前列の隊形が崩れかける。

見えない。

息ができない。

これじゃ前へ出るどころじゃない。

林冲が兵を下がらせようとした、その横から一騎が進み出た。

喬道清だった。

道士姿のまま馬を止めると、煙の流れを見つめている。

玉楼が小さく呟いた。

「喬道清殿……」

本人は答えず、両手で印を結んだ。

最初に起きた風は弱かった。

けれど、次の瞬間には枝葉が大きく揺れ、地面を這っていた煙が横へ流れ始める。

寇烕の笑い声が止まった。

「貴様……!」

喬道清はさらに印を切る。

「妖術で惑わすか。ならば、こちらも術でお返し致そう」

風が強くなると煙が裂け、その向こうから南豊府の城壁と王慶軍の旗が姿を現した。

「今です!」

張清の声が飛んだ。

ほとんど同時に、石礫が煙の切れ間を走った。

乾いた音が響き、寇烕の手が跳ねる。

「ぐっ……!」

瓊英だった。

二投目は肩へ当たった。

寇烕の身体が揺れる。

紅玉が目を丸くする。

「今の隙間を……?」

アタシも思わず瓊英を見る。

速いだけじゃない。

煙が裂ける瞬間まで待って、見えた場所へ通している。

……やっぱり、あの石は嫌だ。

味方になってて本当に良かった。

寇烕が怒鳴った。

「殺せ!」

王慶軍が前へ出る。

けれど、さっきまで煙に止められていた梁山泊軍も、もう崩れていなかった。

林冲が蛇矛を掲げる。

「前へ!」

盾兵が押し出し、その後ろから槍兵と騎兵が続く。

毒煙で途切れかけた戦場の流れが、もう一度南豊府へ向かって動き始めた。

アタシも馬腹を蹴ろうとした。

その時、王慶軍の中から妙な一騎が飛び出してくる。

赤い軍装の女だった。

槍を構えたまま他の兵には目もくれず、こちらへ一直線に走ってくる。

敵兵が叫んだ。

「段三娘様だ!」

続いて、別の声が上がる。

「兄君の仇を討たれるぞ!」

そこで分かった。

山南州でアタシが討った段五の妹だ。

段三娘の槍先がこちらへ向く。

「扈三娘!」

怒声が平地へ響いた。

「兄の仇――ここで討つ!」

玉楼がすぐに馬を寄せる。

「三娘様」

止める声ではなかった。

でも、いつでも入れる位置にいる。

アタシは一度だけ玉楼を見た。

「大丈夫」

「……無理はなさらぬよう」

「分かってる」

後ろから孫二娘の声が飛ぶ。

「三娘ォ、今の返事、信用度低いよォ!」

「今それ言う!?」

段三娘がもう目の前まで来ている。

「兄貴を討ちやがって……貴様だけは、生かして帰さないよ!」

怒りだけで突っ込んでいるわけじゃない。

槍筋は鋭く、呼吸も乱れていない。

本気で、アタシを殺しに来ている。

アタシは日月双刀を構え直した。

「……来なさい」

そして、声を張る。

「アタシが一丈青・扈三娘よ!」

段三娘の槍が伸びる。

速い。

アタシは馬を半歩ずらし、左の刀で穂先を流した。

火花が散り、すれ違いざまに右の刀を返す。

段三娘は身体を沈めて避け、そのまま馬首を返した。

振り向いた時には、もう次の突きが来ている。

日月双刀で受けると、腕へ衝撃が走った。

女だからどうこうなんて話じゃない。

戦場で生き残ってきた武将の槍だ。

「貴様だけは!」

段三娘がさらに踏み込む。

荒れているように見えて、槍は崩れていない。

怒りをそのまま力へ変えている。

アタシは受け流しながら間合いを測った。

周囲では梁山泊軍と王慶軍がぶつかり続け、炎と毒煙の残りが風に巻かれている。

それでも段三娘は戦場全体ではなく、アタシとの距離だけを見ていた。

槍が唸る。

身体を沈めて穂先を外し、そのまま懐へ入ろうとする。

段三娘の目が見開かれた。

けれど、退かない。

槍を押し込むようにして間合いを潰し、馬ごとぶつかってきた。

日月双刀と槍が絡み、柄で押し込まれる。

近い。

段三娘の顔が、すぐそこにある。

「返せ……!」

さらに力が掛かる。

「兄を返せ!」

その声が耳を打った。

返せない。

段五は敵で、討たなければこちらが討たれていたことも分かっている。

それでも、その声は刃より少し重かった。

ほんのわずかに、アタシの動きが止まりかける。

段三娘はそこへ力を込めた。

でも、その力も乱れた。

アタシは左の刀で槍を外へ流す。

段三娘の身体が開く。

右の刀を振ると、刃が鎧を裂いて血が飛んだ。

「まだぁッ!」

段三娘は馬ごとぶつかる勢いで槍を横へ振る。

アタシが上体を沈めると、穂先が髪を掠めて通り過ぎた。

まだ速いが、最初より動きは荒れている。

王慶軍に後がなく、周囲まで押されていることへの焦りが出ているんだ。

それでも段三娘は退かない。

「死ねぇぇぇッ!」

真正面から槍が来た。

アタシは交差させた双刀で受け止める。

金属音が弾けた。

腕へ衝撃が走り、馬の脚が土を削る。

その一撃を受けた瞬間、段三娘の槍がほんのわずかに止まった。

見えた。

今度は、身体だけじゃない。

玉楼が横でこちらを見ている。

紅玉は後方を押さえ、孫二娘もさらに後ろにいる。

戻る場所はある。

だから、行ける。

アタシは馬腹を蹴り、段三娘の懐へ入った。

相手の目が見開かれる。

――アタシは、そのまま右の刀を振り抜いた。

玉楼でございます。

段三娘様は、三娘様だけを見ておられました。

「玉楼、入らなくていいのかィ?」

孫二娘様が尋ねます。

「今は、まだ」

顧大嫂様が笑いました。

「ずいぶん我慢強くなったねぇ」

「三娘様がこちらをご覧になりましたので」

少なくとも、今回は一人ではございません。

「でも三娘ォ、ああいう顔すると全部自分で背負うよォ?」

「聞こえてる!」

戦っている御本人から声が飛んできました。

「聞こえる余裕はあるみたいだねぇ?」

「では、もう少し任せましょう」

「勝手に判定するな!」

その直後、三娘様の右の刀が走りました。

さて――届いたのでしょうか?

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