戻る場所を見てから
最近、前へ出る前に後ろを見るようになった。
「三娘ォ、ようやくブレーキ覚えたねェ」
「人を暴走機関車みたいに言うな!」
顧大嫂が笑う。
「玉楼がいないと止まらなかったじゃないか」
「そこは否定しづらい!」
孫二娘が肩へ抱きついてきた。
「実行機能が育ってきたってことだよォ」
「アタシ、今まで何で動いてたの!?」
「勢い?」
「心理学どこ行った!」
顧大嫂が前を指した。
「で、戻る場所は確認したのかい?」
「ちゃんと見るわよ!」
その時、一路軍の旗が見えた。
……その中に、李俊がいた。
荊南州近くの平地には、既に一路軍の幕舎が並んでいた。
遠目でも分かるほど兵の数は多いのに、陣全体を覆う空気は重かった。
二路軍が近づくにつれて向こうの兵達もこちらを見始め、伝令が行き交う間にも、薬を煎じる匂いが風に乗って流れてくる。
西京を落としたこちらとは、まるで違う。
負傷兵も多い。
玉楼が一路軍の陣を見ながら呟いた。
「……かなり疲れておりますね」
紅玉も心配そうに辺りを見回す。
「宋江様の病が、そこまで響いたのでしょうか」
孫二娘が肩をすくめた。
「大将が寝込めば、周りだって落ち着かないさ。本人の病気だけで済まないのが集団ってもんだよォ?」
林冲は何も言わず、一路軍から出てくる人影を見ていた。
アタシもそちらへ目を向ける。
頭領らしい男達が何人か近づいてくる。
その中に、見慣れた顔があった。
李俊――
見つけた瞬間、向こうもこちらに気づいた。
目が合う。
あ――
と思った時には、李俊の足が速くなっていた。
「三娘!」
「……何よ?」
すぐ目の前まで来る。
李俊はアタシの顔を見て、次に腕や肩へ視線を走らせた。
「無事か?」
やっぱり、それだった。
「見れば分かるでしょ。無事よ」
そう答えた途端、腕を掴まれた。
「え?」
身体が引かれる。
次の瞬間には、李俊の胸へ抱き寄せられていた。
「ちょっ……!」
人がいる。
ものすごくいる。
林冲もいるし、玉楼も紅玉もいる。
孫二娘と顧大嫂なんて、絶対にあとで面倒なことを言う顔をしている。
なのに、李俊は離さなかった。
「李俊、人いる!」
「知るか」
「知って!」
腕に力が入る。
さっきまで言おうと思っていた文句が、そこで止まった。
「……無事ならいい」
耳元へ落ちた声に、胸の奥が変なふうに縮む。
本当に心配してたんだ。
そう分かったら押し返せなくなって、アタシも少しだけ身体の力を抜いた。
後ろから孫二娘の声がする。
「三娘ォ、いい雰囲気のところ悪いんだけどォ?」
嫌な予感しかしない。
「何?」
「奚勝の本隊まで突っ込んだ話、今する?」
アタシは李俊の胸から勢いよく顔を上げた。
「今それ言うな!」
李俊の腕が止まる。
「……何の話だ?」
「何でもない!」
顧大嫂が笑った。
「敵陣の奥まで行っただけだよ」
「大嫂!」
李俊がゆっくりこちらを見る。
さっきまで安堵していた顔が、別のものへ変わっていく。
「三娘」
「いや、あれはちゃんと戻る場所を確認して――」
「あとで聞く」
「その言い方怖い!」
孫二娘が楽しそうに抱きついてきた。
「三娘ォ、お説教第二部だねェ」
「増やすな!」
玉楼は何も言わなかった。
ただ、少し満足そうだった。
何で!?
合流後、梁山泊軍は再び南へ動き始めた。
宋江の熱は下がりつつあるらしい。
それでも一路軍の疲労は簡単には消えず、兵達は静かなまま紀山方面へ向きを変えていった。
平地を離れるほど、道は狭くなっていく。
遠くには山が霞み、その手前を深い森が覆っていた。
玉楼が前を見る。
「ここからは、平地とは勝手が違いますね」
紅玉が少し嫌そうな顔をする。
「見えない場所が多いですね……」
孫二娘が笑った。
「山じゃ、見えてる場所だけ信用する方が危ないよォ?」
その言葉通りだった。
紀山へ入ると、左右はすぐ木々に埋め尽くされた。
長かった隊列も細く伸び、斥候は前だけでなく森の中へ何度も入っていく。
それだけじゃない。
歩兵まで、少しずつ道を外れていた。
朱武の指示なのだろう。
林冲本隊は山道を進み、その両側から別の兵が森へ消えていく。
西京みたいに正面で大軍同士が噛み合う戦じゃない。
見えていない場所にも、味方の流れがある。
アタシは枝の向こうを見た。
何がどう配置されているのか、やっぱり全部は分からない。
でも、紀山そのものを少しずつ囲もうとしていることだけは感じた。
やがて前方の列が止まった。
林冲が顔を上げる。
木々の隙間から、山肌に張り付くような砦が見えた。
大きくはない。
けれど、狭い山道を完全に塞いでいる。
木柵の上には見張り台が立ち、攻め手へ落とすつもりなのか、石まで積まれていた。
高い位置には弓兵も並んでいる。
紅玉が眉を寄せる。
「……真正面から行きたくないですね」
「珍しく意見が合った」
孫二娘が鼻を鳴らした。
「ここへ正面から突っ込むのは、心理学以前に馬鹿だねェ」
「そこは心理学使わないんだ」
「便利だけど万能じゃないよォ?」
林冲もすぐには兵を進めなかった。
その時、森の奥から怒号が上がった。
続いて銅鑼が鳴る。
砦の弓兵が一斉に横を向いた。
「森だ!」
「横から来たぞ!」
砦側が騒ぎ始める。
紅玉が目を見開いた。
「もう戦ってるんですか!?」
森へ入っていた別働隊が、砦の横腹へ攻めかかったらしい。
正面は動いていない。
でも、見えない場所ではもう始まっている。
弓兵は森へ向く者と正面へ戻ろうとする者に分かれ、命令を待つ兵まで出始めた。
流れが乱れる。
そう思った瞬間、砦の門が開いた。
重い音が山道へ響く。
中から一騎が出てきた。
馬も大きいが、その背にいる男はさらに巨大に見えた。
厚い鎧に包まれ、手にした得物まで重そうだ。
砦の兵が叫ぶ。
「袁朗様が出られたぞ!」
その名が広がると、乱れていた兵達の動きが変わった。
逃げかけていた者が止まり、正面へ戻ろうとする。
あの男が出ただけで、崩れかけた流れが繋がり直している。
林冲が蛇矛を構えた。
玉楼も槍を握り直す。
紅玉が息を整えた。
孫二娘から笑みが消える。
袁朗は山道を下ってくる。
逃げるためじゃない。
こっちを正面から押し潰すつもりだ。
アタシの身体が前へ出かけた。
その瞬間、紅玉の言葉を思い出す。
『次は、せめて目で』
アタシが横を見ると、玉楼がいる。
目が合ったのは一瞬だけだったが、玉楼は小さく頷いた。
後ろには紅玉がいて、林冲隊も押し出せる位置にある。
戻る場所はある。
今度は、それを確認した。
「行くわ」
「参ります」
玉楼も同時に馬を出した。
袁朗が得物を振り上げる。
真正面から来る。
速さで押す相手じゃない。
見えていても、避けなければそのまま潰される重さだ。
アタシは日月双刀を重ねて受けた。
衝撃が両腕を貫く。
「っ!」
馬が横へ滑った。
重い。
今までの相手とは違い、受けた瞬間から手が痺れる。
袁朗はそのまま次へ繋いできた。
玉楼が横から槍を入れる。
袁朗が得物を返し、玉楼の槍を弾いた。
「三娘様、右へ!」
言われる前に身体を外す。
袁朗の一撃が地面を叩き、石が跳ねた。
アタシが踏み込む。
袁朗はすぐにこちらへ向き直る。
隙がない。
流れを読んでも、その流れごと力で押し返してくる。
「何なの、こいつ!」
孫二娘の声が後ろから飛んだ。
「三娘ォ、真正面で勝とうとすんなよォ!」
「分かってる!」
分かっているけど、簡単じゃない。
袁朗が前へ出るたび、山道そのものが狭くなる。
アタシと玉楼が左右へ分かれても、一人で両方を押さえ込んでくる。
その時、紅玉が後ろから踏み込んだ。
「私も行きます!」
狙ったのは袁朗本人じゃない。
馬の横だ。
袁朗が反応し、身体をわずかに捻る。
正面の圧が揺れた。
ほんの一瞬だったが、それで十分だった。
アタシが玉楼を見ると、もう動いている。
玉楼の槍が袁朗の得物を外へ押し、アタシは反対から懐へ入る。
日月双刀を返した。
一刀目が鎧を裂く。
袁朗の身体が揺れた。
それでも倒れない。
得物を戻そうとする。
玉楼がさらに槍を押し込んだ。
「三娘様!」
「分かってる!」
紅玉は追わず、袁朗の馬が逃げる側だけを塞いでいる。
戻る場所も残っている。
今度は、一人で入っていない。
アタシが左の刀で袁朗の腕を外し、右を胸元へ走らせる。
同時に玉楼の槍が脇から入った。
袁朗の巨体が大きく傾く。
それでも最後まで得物を離さなかった。
この男が立っている限り、後ろの兵も立つ。
だから――ここで終わらせる。
アタシと玉楼が同時に踏み込んだ。
日月双刀と槍が、袁朗へ届く。
巨体が馬上から崩れ、山道へ重い音を立てて落ちた。
虎威将・袁朗が倒れた。
砦側の声が消える。
ほんの一瞬だった。
その直後、森の奥から梁山泊軍の怒号が上がる。
横腹を攻めていた別働隊も押している。
林冲が蛇矛を掲げた。
「進め!」
止まっていた兵達が一斉に前へ出る。
砦側はもう立て直せない。
アタシは痺れる両腕を意識しながら息を吐き、横を見る。
玉楼がいて、その後ろには紅玉もいる。
今度は、誰も置いていかなかった。
玉楼がこちらを見る。
「今回は、戻る場所をご覧になっておられましたね」
「でしょ?」
「ですが、袁朗へ向かわれる前に一言あってもよかったかと」
「目で言った!」
紅玉が後ろから口を挟む。
「私は分かりました!」
「ほら!」
玉楼が少し考える。
「では、今回は半分だけ褒めます」
「半分!?」
孫二娘が笑いながら寄ってくる。
「三娘ォ、成長したねェ」
「そこは素直に褒めてよ!」
「あとで李俊にも教えてあげるよォ?」
「それは絶対やめて!」
笑い声の向こうで、砦へ梁山泊の旗が近づいていく。
袁朗は倒した。
でも、紀山全体の戦いは続いている。
アタシは痺れの残る手で双刀を握り直した。
戦は、まだ終わっていない。
玉楼でございます。
袁朗は倒しましたが、三娘様にはまだ戦いが残っております。
「三娘ォ、李俊には誰から説明するゥ?」
「説明しなくていい!」
顧大嫂様が笑います。
「今回はちゃんと玉楼と一緒だったんだろ?」
「そうよ! むしろ褒められるところ!」
わたくしは少し考えました。
「半分は」
「何で半分なの!?」
孫二娘様が三娘様の肩へ抱きつきます。
「じゃあ残り半分は李俊に判定してもらおうかねェ」
「余計な審査員を増やすな!」
顧大嫂様が頷きました。
「さっき人前で抱き締めてたくらいだ。心配してくれるさ」
「それを今掘り返すな!」
どうやら袁朗より、こちらの方が手強そうでございます。




