冷たい願い
宋江が倒れたらしい。
「三娘ォ、今ちょっと悪いこと考えただろォ?」
「考えてない!」
顧大嫂がこっちを見る。
「じゃあ、その顔は何だい?」
「また顔!?」
孫二娘が楽しそうに肩へ抱きついてきた。
「抑えようとした思考ほど浮かびやすくなることもあるんだよォ」
「今それ説明しないで!」
「じゃあ何を考えた?」
「聞くな!」
顧大嫂が笑う。
「まさか、このまま寝ててくれって?」
「言うなって!」
……図星だった。
死んでほしいわけじゃない。
でも、しばらく動かないでいてほしい。
そんなことを、アタシは確かに願ってしまった。
戦は止まらない
西京陥落後の整理が始まっていた。
梁山泊軍の兵達は負傷者を運び、残った火を消しながら、城内に散った武器と敗残兵を次々に集めていた。
六花の陣を破り、奚勝を討ち、城門まで突破した。
勝った。
それなのに、アタシにはどうしても終わった感じがしない。
壊れた城門の近くへ腰を下ろすと、ようやく身体の重さに気づいた。
さっきまでは馬腹を蹴り、敵陣の奥へ入り、目の前に開いた場所だけを追っていたのに、今は腕も足も鉛みたいだった。
玉楼が水袋を持って近づいてくる。
「どうぞ」
「……ありがとう」
大人しく受け取った。
玉楼の顔は静かだったけれど、怒りが完全に消えたわけではない。
「本当に、無茶をなさらないでくださいませ」
「分かってるって」
後ろにいた紅玉が、すぐに首を振る。
「三娘様、それ昨日も聞きました」
「紅玉まで厳しくなってない?」
「見ている方は怖いんです」
孫二娘が笑いながら瓦礫へ腰を下ろした。
「無茶する奴は、大体『そんなつもりじゃなかった』って言うんだよォ」
「まだ言ってない!」
「顔に書いてあるねェ」
「また顔!?」
顧大嫂は少し離れた場所で兵に指示を出していたが、こちらへ目だけを向けた。
「勝ったからいい、戻ったからいいって話じゃないよ。次も戻れるとは限らないんだからね」
「はいはい」
「その返事が一番信用ならないねぇ」
反論しようとして、やめた。
実際、奚勝のところまで入れたのは、アタシ一人の力じゃない。
玉楼が左を塞ぎ、紅玉が戻る場所を守り、林冲隊が敵を押し込んでいたから届いた。
そこを一つでも読み違えていたら、戻れなかった。
分かっている。
……たぶん。
「三娘ォ」
孫二娘が、いつの間にかすぐ横へ寄っていた。
「近い!」
「反省してるか確認してんのォ」
「顔で?」
「うん」
「便利すぎない!?」
肩へ腕まで回してくる。
どんどん遠慮がなくなってない、この人。
その時だった。
城門の外から、馬蹄の音が近づいてくる。
身体が反応しかけたが、今度は刀へ手を伸ばす前に止めた。
一騎ではない。
けれど、敵が押し寄せる数でもない。
「伝令ですね」
玉楼も気づいていた。
城内の兵達が顔を上げる。
ほどなく先頭の一騎が壊れた城門を抜け、広場へ駆け込んできた。
「報告!」
声が城内へ響く。
「一路軍より急使! 宋江様、病に倒れられました!」
それまで動いていた空気が、一瞬だけ止まった。
盧俊義がすぐに伝令の方へ向かい、朱武も後を追う。
「容体は?」
「高熱とのことです。詳しいことは、まだ分かっておりません」
「いつからだ」
「数日前より、と」
朱武の表情が変わった。
ついさっきまで西京をどう治めるかという話だったのに、もう次の問題が入り込んでくる。
本当に待ってくれない。
アタシは水袋を握った。
宋江が倒れた。
そう聞いて、最初に浮かんだのは心配じゃなかった。
――いっそ、このまま寝込んでいてくれればいいのに……
そう思ってしまった。
一瞬だけじゃない。
考え直しても、完全には消えない。
王英のこともある。
梁山泊で見てきたこともある。
招安を受け、遼へ行き、田虎を討ち、終わったと思えば今度は王慶。
李俊が腹を立てていた理由も、アタシにはよく分かる。
『あいつはいつまで朝廷の言いなりになるつもりだ』
あの時の李俊の顔まで思い出した。
……今はそっちまで思い出さなくていい。
死ねばいい、とまでは思わない。
そこまで思っているつもりはない。
でも、宋江が動けなければ、少なくとも誰かに「次へ行け」と言われて、そのまま皆を引っ張っていくことはできない。
そんなことを考えている自分を、好きにはなれなかった。
玉楼がこちらを見る。
「三娘様」
「何?」
「何か、お考えですね」
「何でもない」
「そうでございますか?」
信じていない。
紅玉もこっちを見ている。
孫二娘まで覗き込んできた。
「三娘ァ、今ちょっと悪い顔してるよォ」
「放っといて!」
「否定しないんだねェ」
「そこ拾わないで!」
盧俊義と朱武の話は早かった。
「私は一路軍へ向かう」
盧俊義が決めると、朱武もすぐに続いた。
「私も同行いたします。こちらの配置は残る者へ引き継ぎましょう」
西京を落としたばかりなのに、兵達はまた動き出した。
城内の守備を決め、残存兵を押さえ、負傷者と兵糧を整理しながら、伝令が何度も城内を走る。
勝った後の方が忙しいんじゃないの、これ?
林冲は城門の近くで指示を受けると、必要な兵だけを残して隊をまとめ直していた。
アタシ達に休めという命令は出た。
出たけれど――
「何をもって休みとするのでございましょう?」
玉楼が真顔で言った。
「寝ることじゃない?」
「三娘様は昨夜ほとんど寝ておられません」
「そこ戻る!?」
孫二娘が抱きついてくる。
「今日はアタイが寝かしつけてあげようかァ?」
「何でアンタが!?」
顧大嫂が鼻で笑った。
「李俊に頼めば一発じゃないかい?」
「何の一発よ!」
言ってから、自分で変な意味に聞こえた。
孫二娘の目が光る。
まずい……
「三娘ォ?」
「何も言うな!」
「まだ何も言ってないよォ?」
「その顔が言ってる!」
玉楼が顔を覆い隠した。
紅玉だけが意味を分かっていない顔をしている。
お願いだから、そのままでいて。
盧俊義と朱武は、その日のうちに一路軍へ向かった。
アタシ達は西京へ残り、城の整理と休息を命じられた。
数日は本当に戦わなかった。
ただし、休めたかと言われると微妙だ。
壊れた城門は応急の柵で塞がれ、焼けた建物から瓦礫が運び出され、負傷者の呻き声も少しずつ減っていった。
アタシの身体に残っていた妙な軽さも、ようやく薄れてきた。
草が揺れるたびに視線が飛ぶことも減った。
その代わり、止まっていると余計なことを考える。
李俊、今頃どうしてるんだろ。
同じ王慶討伐にいる以上、そう遠くにはいないはずなのに、軍が分かれていると顔を見る機会は少ない。
奚勝のところへ突っ込んだ話は、まだ知られていない。
……よね?
孫二娘がいる。
顧大嫂もいる。
玉楼は言わないと思う。
紅玉も、たぶん。
問題は最初の二人だ。
「三娘ォ」
「うわっ!」
真後ろから抱きつかれた。
「何で分かった顔してるのォ?」
「アンタのせいよ!」
「何が?」
「絶対、李俊に余計なこと言うでしょ!」
孫二娘は少し考えるふりをした。
「頼まれたら言うかもねェ」
「誰に頼まれるの!?」
「本人?」
「言うな!」
顧大嫂が近くで荷を見ながら笑った。
「そんなに困るなら、自分から話せばいいじゃないか」
「それが一番嫌なの!」
「どうせ『掠っただけ』『ちょっと奥まで行っただけ』って言うんだろ?」
「何で台詞まで分かるのよ!」
「顔」
「もう顔やめて!」
そんなことをしているうちに、西京を発つ朝が来た。
城内は早くから、また慌ただしくなっていた。
兵糧と馬が集められ、武器の点検を終えた兵が次々に隊列へ入っていく。
玉楼が幕舎の外へ出てきた。
「荊南州方面への合流が決まりました」
「一路軍と?」
「はい、宋江様の容体も落ち着いたとのことです」
「……そう」
残念……
そう思った。
今度は、かなりはっきり。
玉楼がアタシを見る。
「何?」
「何も申し上げておりません」
「その顔やめて!」
「三娘様ほど分かりやすくはございません」
「それ褒めてないよね!?」
紅玉が荷を抱えて出てくる。
「また移動なんですね……」
孫二娘も欠伸をしながら歩いてきた。
「本当に休ませる気がないねェ」
顧大嫂が荷紐を締める。
「止まったら置いていかれるよ」
「それ、休みじゃないから!」
今度はちゃんとツッコんだ。
林冲隊も準備を終え、西京を発った。
城門を抜けると、数日前まで血と煙に覆われていた城が少しずつ背中へ遠ざかっていく。
長い隊列は土煙を引きながら南へ伸びた。
兵達には疲労も傷も残っているが、それでも足を止める者はいない。
玉楼が周囲を見ながら言った。
「思ったより、士気は落ちておりませんね」
「考える暇がないからじゃない?」
後ろから紅玉が頷く。
「次が来るの、早すぎますよね……」
孫二娘が笑う。
「考え過ぎると足が止まるからねェ。戦場じゃ、それも困る」
軽い声だったけれど、内容は笑えなかった。
道沿いには人影の少ない村が続く。
畑は荒れ、柵の倒れた家もあった。
王慶軍がやったのか、別の兵が通った跡なのか、それすら分からない。
アタシ達はその横を進む。
立ち止まれない。
数日後、荊南州が近づくにつれて斥候と伝令の数が増えていった。
一路軍との距離が縮まっている。
林冲隊の兵も口数を減らし、装備を何度も確かめている。
戦うためではなく、合流するための行軍だ。
なのに、戦場へ近づく時と同じ空気がする。
遠くに旗が見えた。
紅玉が身を乗り出す。
「……あれ、一路軍ですか?」
玉楼も目を細めた。
林冲が前方を見たまま答える。
「恐らくな」
隊列の速度が落ちる。
アタシも旗を見る。
あそこに宋江がいる。
そして――李俊もいるかもしれない。
急に別の意味で胸が重くなった。
奚勝の話――
誰もしてないよね?
孫二娘が隣へ馬を寄せる。
「三娘ォ」
「何?」
「顔」
「まだ何も言ってないでしょ!」
孫二娘が楽しそうに笑った。
荊南州方面の空は曇っている。
宋江は倒れ、また起き上がろうとしている。
梁山泊軍は再び一つになろうとしていた。
戦は止まらない。
そして、流れはまた変わろうとしていた。
玉楼でございます。
西京で数日休んだはずなのですが、三娘様は出立が決まってから妙に落ち着きません。
「三娘ォ、さっきから前ばっかり見てるねェ」
「進行方向なんだから当たり前でしょ!」
顧大嫂様が笑います。
「一路軍がいるからじゃないかい?」
「それも当たり前!」
孫二娘様が、にやりとなさいました。
「じゃあ李俊がいなくても同じ?」
「何でそこで限定するの!?」
三娘様のお顔が、少し赤くなりました。
「玉楼、何とか言って!」
「もうすぐ合流でございますね」
「そっちじゃない!」
顧大嫂様が前方の旗を指します。
「ほら、見えてきたよ」
三娘様が黙りました。
どうやら次に忙しくなるのは、戦場だけではなさそうでございます。




