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見えたから、行った

最近、見える場所が増えた。

「三娘ァ、それで昨日も前へ出たんだろォ?」

「ちゃんと戻ったでしょ!」

顧大嫂が腕を組む。

「戻ったから正解、って話じゃないんだよ」

「分かってる!」

孫二娘が肩へ抱きついてきた。

「判断が当たると、次も行けるって思いやすくなるんだよォ」

「今それ言う!?」

「成功体験って怖いねェ」

「アタシを教材にするな!」

顧大嫂が笑う。

「じゃあ今日は?」

「見えても、すぐ行かない!」

「本当に?」

「……たぶん」

「もう怪しいねェ」

その時、前方で銅鑼が鳴った。

……うん。 今日は、たぶん大丈夫。

銅鑼が、再び鳴った。

響きが西京前の空へ長く流れ、一度噛み合った梁山泊軍が、今度は王慶軍を押し返し始める。

左右から挟まれた敵の勢いは目に見えて鈍り、揺れる旗の下で兵の流れが少しずつ乱れていた。

怒号と刃のぶつかる音が、平地いっぱいに広がっていく。

アタシは馬上から、その動きを追った。

循環八卦。

八陣。

……やっぱり分からない。

朱武が何を考えて、どの旗をどこへ動かしているのか、全部頭で追えと言われても無理だ。

でも、流れだけなら見える。

押されていた場所が噛み合い、分散した兵が戻ると、左右へ流された列が別の場所で敵の退路を塞いでいく。

ただの押し合いじゃない。

軍全体が大きな手みたいに動いて、王慶軍の形を少しずつ握り潰している。

玉楼が槍を構えた。

「来ます!」

声が終わるより早く、王慶軍の中から別の隊が突き出した。

さっきまで濁った水みたいに広がっていた一角が急に細まり、一本の槍になってこちらへ伸びてくる。

迷いがない。

こちらの継ぎ目を狙っている。

紅玉が息を呑んだ。

「まだあるんですか、これ……!」

「陣形って面倒!」

思わず叫ぶと、少し後ろから孫二娘の声が飛んできた。

「三娘ォ、理解を諦めるの早くないかァ?」

「遼で十分努力したの!」

顧大嫂まで笑っている。

「だったら今回は身体で覚えな!」

「そっちの方が怖いわ!」

林冲が蛇矛を持ち直した。

敵の突撃を見据えたまま、ただ一言告げる。

「前へ出る」

それだけで林冲隊が動いた。

今まで耐えていた兵が一気に前へ流れ込み、盾を上げた列の後ろから槍が突き出される。

林冲自身も先頭へ入った。

蛇矛が横へ走り、王慶軍の突撃隊の頭を乱す。

そこへ梁山泊の兵が食い込んだ。

「三娘様、参ります」

玉楼が馬を出す。

「分かってる!」

アタシも続いた。

紅玉は少し後ろへ位置を取り、こちらが開けた場所を埋める。

敵が槍を出し、馬が踏み込み、兵の肩が上がる、その直前まで見える。

でも、それだけを追ったら駄目だ。

前へ出れば横が空き、横へ寄れば後ろが遅れる。

一人で入り過ぎれば、戻る場所そのものが消える。

昨日の紅玉の顔が浮かんだ。

『三娘様が、どんどん先へ行ってしまうように見えたのが、怖かったです』

アタシは手綱を少しだけ引いた。

身体は前へ出たがっている。

それを一度止めた。

右には玉楼がいて、紅玉は少し後ろに控え、林冲隊も横から敵を押している。

ここなら戻れる。

「……よし」

玉楼がこちらを見る。

「何が、よし、なのでございますか?」

「ちゃんと止まった!」

「褒めていただく前提でしょうか?」

「少しくらい褒めて!」

そんなやり取りをしている間にも、王慶軍は押し込んでくる。

けれど、その奥に一か所だけ妙な場所があった。

兵が動いているのに、そこだけ動かない。

旗の下にいる馬上の男を中心に、周囲の兵が流れ、進む方向を変えている。

……あれだ。

理由を言えと言われても困る。

名前も知らない。

それでも、あそこを斬れば目の前の流れが切れる。

身体が前へ傾いた。

「三娘様」

玉楼の声が鋭く飛ぶ。

玉楼が止めようとしているのは分かっているし、普通なら待つべきだ。

昨日も散々怒られたばかりだけれど、今は少しだけ状況が違う。

アタシは敵だけを見ず、左右を確認した。

「玉楼、左を塞いで!」

「三娘様」

「紅玉は後ろ! 深く追わないで!」

紅玉が一瞬だけ迷い、それでもすぐに答える。

「はい!」

左から二騎が回り込もうとした。

その進路へ玉楼が先に入った。

槍が一人の武器を跳ね上げ、そのままもう一人の馬を外へ押し出す。

道が開いた。

玉楼が作った。

戻る場所も、まだ残っている。

だから行く。

「今だけ!」

馬腹を蹴った。

王慶軍の兵が振り向き、槍を構える。

遅い。

踏み込みながら穂先の外へ出て、双刀を返す。

一人が馬上から崩れた。

さらに前へ入ると盾兵が重なるが、左から追いつこうとした敵は玉楼が押さえている。

アタシ一人で開けた道じゃない。

なら、迷うな。

盾の縁を斬り上げ、できた隙間へ馬をねじ込む。

敵兵の顔が歪んだ。

その向こうで、馬上の男がこちらを見る。

初めて表情が変わった。

「奚勝様!」

誰かが叫んだ。

奚勝――

詳しく知らなくても、それで十分だった。

こいつが、この一角を動かしている。

奚勝が剣を抜く。

アタシはもう懐へ入っていた。

右の刀で剣を外し、左を脇腹へ走らせる。

刃が鎧を噛んだ。

硬い感触のあと、血が散る。

奚勝が身体を捻った。

まだ落ちない。

なら、もう一度。

返した刃が肩口から胸へ入った。

奚勝の身体が馬上で傾き、そのまま地面へ落ちる。

王慶軍の旗が大きく揺れた。

「奚勝様が討たれた!」

声が走った瞬間、今まで押していた敵の足が止まる。

横へ流れていた兵は行き先を失い、後ろの列まで詰まり始めた。

流れが切れた。

アタシが斬った場所へ、今度は梁山泊軍が入る。

林冲の蛇矛が敵列を割り、その後ろから兵が一気になだれ込んだ。

玉楼も隣へ追いつく。

「三娘様!」

怖い……

ものすごく怒ってる。

「あとで!」

「当然でございます!」

今はそれだけで済んだ。

済んでない気もするけど、考えるのは後!

紅玉も無事に戻ってきている。

「三娘様、今の……!」

「無事!?」

「私は無事です!」

「じゃあいい!」

「よくありません!」

玉楼と紅玉が同時に言った。

何でそこだけ息ぴったりなの!?

奚勝を失った王慶軍では、前へ出ようとする兵と退こうとする兵がぶつかり、横へ逃げようとした者まで巻き込まれていった。

林冲が蛇矛を掲げる。

「押せ!」

梁山泊軍が前へ出る。

騎馬が裂いた場所へ盾兵が入り、その後ろから長槍や鉤槍を持った兵が押し寄せた。

一度できた足場が、今度は崩れない。

城門前まで押し込まれた王慶軍が踏み止まろうとするが、林冲隊がその列をさらに割る。

「門を破れ!」

丸太を担いだ兵が走った。

城壁から矢が降り、石まで落ちてくる。

盾がそれを受け、負傷した兵が引きずられて後ろへ運ばれる。

そのさらに後ろでは孫二娘と顧大嫂が走り回っていた。

「そこ詰めるんじゃないよォ! 怪我人は右へ!」

「歩ける奴は自分で行きな! 寝るのは後だ!」

孫二娘がこちらを見つけた。

「三娘ォ! 生きてるゥ?」

「見れば分かるでしょ!」

「李俊に報告する時の確認だよォ!」

「何で報告するの!?」

顧大嫂が笑った。

「奚勝の本隊へ突っ込んだって言えば、いい顔するだろうねぇ」

「絶対言わないで!」

「じゃあ自分で言うかい?」

「もっと嫌!」

その瞬間、城門へ丸太が叩きつけられた。

轟音に会話が吹き飛ぶ。

もう一撃。

城門が軋んだ。

さらに兵達が踏み込み、三度目の衝撃で木が大きく割れる。

金具が弾けた。

そして――城門が破れた。

梁山泊軍が雪崩れ込む。

悲鳴と怒号に乱れた銅鑼の音まで重なり、逃げる王慶軍を追って兵が西京へ流れ込んでいった。

アタシは馬上から、その大きな流れを見た。

循環八卦も八陣も六花の陣も、結局最後までちゃんと説明できる気はしない。

でも、分かったことはある。

朱武が形を作り、林冲が機を待つ間、孫二娘と顧大嫂が後ろを崩さず、紅玉が空いた場所を塞ぎ、玉楼が道を作った。

その中で、アタシは入るべき場所へ入った。

一人で勝ったんじゃない。

一人で西京を落としたわけでもない。

それでも、あの一瞬だけはアタシが入ったから切れた。

西京は落ちた。

そう思った途端、それまで身体の奥へ押し込めていた熱が、少し遅れて震えに変わった。

城内では逃げ遅れた兵を捕らえ、負傷者を運び、火が上がった建物へ水を運んでいる。

騒ぎは終わっていない。

それでも、勝敗そのものはもう決していた。

アタシが馬を降りると、玉楼が無言で近づいてきた。

……来た。

紅玉が自然な動きで孫二娘の後ろへ移動する。

「何で隠れるの!?」

「巻き込まれたくありません!」

「正直!」

孫二娘は完全に面白がっている。

玉楼がアタシの前で止まった。

「……何を考えておられたのですか?」

アタシは視線を逸らす。

「いや……何か、見えたから」

「見えたから、奚勝の本隊へ入られたのですか?」

「……はい」

即答してしまった。

玉楼が額を押さえる。

「敵陣の奥でございます」

「うん」

「周囲には護衛もございました」

「いたわね」

「普通は行きません」

「……そうね」

孫二娘が吹き出した。

「三娘ァ、今日は素直だねェ!」

「今、口を挟まないで!」

玉楼はこちらを見た。

「もし囲まれていたら、どうなさるおつもりだったのですか」

答えられない。

戻る場所も、玉楼と紅玉の位置も確認していた。

それでも、どこか一つ読み違えていたら、たぶん戻れなかった。

玉楼が息を吐いた。

「わたくしが左を押さえられなければ、どうされました?」

「……行かなかった」

「本当ですか?」

「たぶん」

「三娘様」

「ごめん!」

孫二娘が肩を震わせる。

顧大嫂まで戻ってきて、呆れた顔をした。

「西京は落ちたけど、アンタまで落ちたら何にもならないよ?」

「落ちてない!」

「落ちかけてたんだよ」

反論できなかった。

玉楼はしばらく黙っていた。

やがて、その表情から怒りが少しだけ抜ける。

「……ご無事で、良かったです」

その声を聞いた瞬間、今さら身体の奥が冷えた。

見えたから行き、行けると思ったから踏み込んだ。

実際に届いたとしても、戻れなければそこで終わりだった。

李俊の顔が頭をよぎる。

『戻れ』

あの時、そう言われた。

戻るって、答えた。

……今日のこと、絶対に知られたくない。

孫二娘がにやっと笑った。

「三娘ァ?」

「何」

「今、李俊の顔が浮かんだねェ?」

「浮かんでない!」

「顔」

「また顔!?」

顧大嫂が笑う。

「玉楼だけじゃ済まないねぇ」

「だから言わないでって!」

紅玉が孫二娘の後ろから顔を出した。

「三娘様……次は、行く前に教えてください」

「戦場で?」

「せめて、目で」

思わず黙った。

玉楼が頷く。

「それでしたら、わたくしも先に動けます」

「半拍先に?」

「はい」

「最近それ便利に使ってない!?」

孫二娘が笑いながら抱きついてくる。

「まァ、生きて戻ったんだから今日はそれでいいじゃないかァ」

「急に優しい!」

「李俊に怒られる分までアタイが怒る必要ないしねェ」

「優しくなかった!」

皆が笑った。

アタシも、ようやく少しだけ笑えた。

西京の城内にはまだ煙が残っている。

血と燃えた木の匂いの中で、梁山泊の旗が少しずつ増えていく。

西京は落ちた。

でも、戦はまだ続く。

見えるものが増えたからこそ、入れる場所だけじゃなく、戻る場所まで見失っちゃいけない。

アタシはもう一度前を向いた。

生き残った…… 戻って来られた…… なら、次も進める――

玉楼でございます。

西京は落ちました。

ですが、三娘様には別のお話がございます。

「玉楼、まだ怒ってるのォ?」

「当然でございます」

顧大嫂様が笑います。

「奚勝の本隊まで行ったからねぇ」

「戻ってきたじゃない!」

三娘様が反論なさいます。

孫二娘様がにやりとしました。

「じゃあ李俊にも、そう説明するゥ?」

「絶対言わないで!」

「何でだい?」

「面倒になるから!」

なるほど、ご自覚はあるようです。

顧大嫂様が腕を組みます。

「で、誰が李俊に言う?」

「誰も言わないで!」

「アタイは口が軽いよォ」

「自白するな!」

西京は落ちました。

次に落ちるのが、三娘様の言い訳でなければよいのですが……

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