灼熱の攻城
「……嫌な山ってのは、朝になっても嫌なままだねぇ」
孫二娘が、鍋を混ぜながら呟く。
顧大嫂が酒を煽った。
「しかも今日は、随分殺気立ってるんだろ?」
外では、朝から銅鑼の音が鳴っていた。
低く、重い。
山そのものが唸っているみたいな音だった。
孫二娘が、鍋の湯気を見つめる。
「で?」
「昨日は落石。今日は騎兵かい」
「しかも一本道よ」
アタシは、水を飲みながら吐き捨てる。
「広がれない。逃げられない。止まれば後ろが詰まる」
顧大嫂が鼻を鳴らした。
「嫌がらせみたいに、ちゃんと噛み合ってるねぇ」
二人とも、小さく笑う。
でも、その笑いは軽くない。
独松関は、“強い奴が強いまま暴れられる場所” じゃなかった。
“強い奴を、潰れる場所へ誘い込む山” だった。
アタシは、水を一気に飲み干した。
でも、全然足りない。
飲んでも飲んでも、身体の奥が熱い。
孫二娘が、こっちを見てニヤつく。
「で?」
「一本松、そんな嫌だったのかい」
「嫌よ」
即答してしまった。
「見えてるだけで、“ここ通れ”って言われてる感じするの」
顧大嫂が吹き出す。
「分かるねぇ」
「山賊の関所ってより、“鍋の蓋”みたいなんだよ」
「しかも閉まりかけてる蓋だ」
風が吹く。
でも、全然涼しくない。
鍋の湯気が、熱気へ溶けていく。
その時――
孫二娘が、急に真顔になった。
「で、今日出て来た若いのは?」
「真っ直ぐだった」
アタシは、黒い甲冑の若武者を思い出す。
「勢いで押し潰そうとして来る感じ」
「考える前に突っ込んで来るタイプ」
「アンタと一緒だねェ」
「うるさいわね」
思わず睨む。
顧大嫂が、少しだけ笑った。
「でも、そういうのはまだ分かりやすい」
アタシは、小さく頷く。
「ええ」
「嫌なのは、“待ってるヤツ”よ」
その瞬間、 二人の笑いが少し止まった。
遠くで、また銅鑼が鳴る。
低い音が、 朝の山をゆっくり転がっていく。
孫二娘が、鍋を混ぜる手を止めた。
「……で、後ろの見張りも増えてたんだろ?」
「ええ」
玉楼が、小さく頷く。
「一本道で挟まれれば、逃げ場が無くなります」
顧大嫂が、焚き火を見たまま呟いた。
「独松関って、“前だけ見てる奴”から死ぬ場所なんだねぇ」
誰も、すぐには喋らなかった。
熱気だけが、朝になっても、 山の中へずっと残っていた。
その時――
外から、急ぐ足音が近付いて来る。
伝令だった。
汗だくのまま、帷幕を開く。
「扈三娘様!」
「前方より報告です!」
幕舎の空気が、少し張る。
アタシは立ち上がった。
「何?」
兵が、息を切らしたまま答える。
「独松関側、城門が開き始めています!」
孫二娘が、小さく舌打ちした。
「朝から元気だねぇ……」
顧大嫂は、もう笑っていない。
焚き火の火だけが、静かに揺れていた。
翌朝になっても、暑さは変わらなかった。
陽が昇る前から、空気が重い。
兵達も、既に疲れた顔をしている。
水を飲む量が増えていた。
それでも、独松関へ向かわない訳にはいかない。
梁山泊軍は、朝から山道へ兵を送り始めていた。
荷車が軋む。
石を運ぶ者。
盾を前へ出す者。
矢を束ねる者。
一本道だからこそ、少しずつ前へ送るしかない。
アタシは、馬上からその流れを見ていた。
遠く――
あの一本松が、今日も道の途中へ立っている。
嫌な木だった。
見えているだけで、道が狭く感じる。
張清が、隣で汗を拭った。
「昨日より暑くないか?」
「最悪ね」
思わず即答する。
董平は、既に前方を睨んでいた。
「今日は籠城崩しか」
「簡単には開けませんよ」
玉楼が静かに返す。
実際、昨日だけで充分だった。
独松関側は、一本道を使うのが上手い。
押し込めば詰まる。
止まれば潰される。
しかも、上まで危険だ。
その時――
前方から、銅鑼の音が鳴った。
独松関側だった。
山へ反響する。
次の瞬間、一本松の向こう側から、無数の旗が揺れ始めた。
銅鑼の音が、何度も山へ反響する。
城壁の上で、旗が揺れていた。
赤、黒、黄色――
熱気で揺らめいている。
「随分、居るな……」
張清が、少し顔をしかめた。
昨日より明らかに数が多い。
独松関側も、完全に籠城へ切り替えたらしい。
やがて、前方の梁山泊兵が止まり始める。
道が細い。
前列が止まれば、後ろも詰まる。
「止まるな!」
「投石器を前へ回せ!」
怒号が飛ぶ。
でも、山道そのものが重かった。
投石器の車輪が岩へ引っ掛かる。
兵同士が肩をぶつける。
汗が流れる。
空気まで粘ついているみたいだった。
アタシ達も、少しずつ前へ進む。
一本松の横を通り過ぎる。
近くで見るほど、嫌な木だった。
枝が、山道へ覆い被さるみたいに広がっている。
その向こう側――
ようやく、独松関の城壁まで来た。
岩肌へ食い込むみたいに築かれている。
高い。
しかも、狭い山道の真正面だ。
「真正面から行くしかない訳ね……」
思わず呟く。
玉楼が、小さく頷いた。
「迂回出来る場所がありません」
その時、城壁側で鬨の声が上がった。
次の瞬間――
上から、大量の石が落ち始めた。
石が、雨みたいに落ちてきた。
「逃げろォ!」
怒号が飛ぶ。
でも、一本道だ。
避ける場所が無い。
岩が、兵達に直撃する。
盾ごと潰される音が響いた。
「うわァァッ!」
悲鳴。
投石器を押していた兵達も、次々に崩れていく。
車輪が止まる。
後ろが詰まる。
「止めるな!」 「前へ回せ!」
梁山泊側も怒鳴り返す。
だが、落石は止まらない。
城壁の上では、敵兵達が次々と岩を押し落としていた。
狭い山道へ、正確に叩き込んでくる。
アタシは、馬を下げながら上を見る。
高い。
しかも近い。
城壁そのものが、頭の上へ覆い被さってくるみたいだった。
董平は、それでも前へ出ている。
「ビビるなァ!」
落ちてくる石の間を、無理矢理押し進んでいく。
その横で、張清が石礫を投げ返した。
城壁の上で、敵兵が一人倒れる。
でも、すぐ湧いてくる。
「キリが無いな……!」
張清が舌打ちする。
その時だった。
鈍い音と共に、前方の投石器へ巨大な岩が直撃した。
木が砕け、車輪が吹き飛ぶ。
押していた兵ごと、山道へ転がっていく。
一本道が、一気に塞がる。
「ッ……!」
空気が止まりかける。
その瞬間――
独松関の城壁上から、再び銅鑼が鳴り響いた。
砕けた投石器が、山道を塞いでいた。
車輪が外れ、木材が折れ、押していた兵達まで倒れ込んでいる。
一本道が、完全に詰まりかけていた。
その上から、まだ岩が落ちてくる。
「どけ!」
「道を空けろ!」
怒号が飛び交う。
でも、狭い。
負傷兵を下げるだけでも時間が掛かる。
後ろでは、兵達が押し合い始めていた。
止まれば、全部詰まる。
その空気が、山道全体へ広がっていく。
アタシは、思わず上を睨んだ。
城壁の上では、敵兵達が次の岩を運んでいる。
終わる気配が無い。
董平が、なおも前へ出ようとした。
「まだ押せる!」
だが、その瞬間――
後方から、低い声が響いた。
「退け」
空気が、一瞬止まる。
兵達が振り返る。
白い披風。
蛇矛を持ったまま、林冲が山道の中央へ馬を進めていた。
「これ以上は詰まる」
「負傷兵を下げろ」
「投石器は捨てるな。道を空けて引け」
迷いが無い、短い指示だった。
玉楼が、すぐ兵達へ声を飛ばした。
「退け!」
「動ける者から下がれ!」
張清も、舌打ちしながら馬を返す。
「……流石に無理か」
董平だけは、不満そうに城壁を睨んでいた。
でも、林冲は視線を動かさない。
独松関を、真正面から見据えている。
熱気の向こう……
一本松の先で、城壁の旗が揺れていた。
梁山泊軍が山道を下がり切った頃には、陽はかなり傾いていた。
それでも、熱気はまだ残っている。
兵達は、水を浴びるみたいに飲みながら地面へ座り込んでいた。
落石で潰れた投石器も、ようやく後ろまで運び出され始めている。
幕舎の中も、空気が重かった。
卓の上には、独松関周辺の地図。
一本松の印が、嫌に目立って見える。
董平は、不機嫌そうに腕を組んだままだった。
「あと少しは押せた」
「無理です」
玉楼が、即座に返す。
「あのまま攻めれば、兵達を浪費するだけです」
董平は舌打ちした。
でも、反論はしない。
実際、誰も分かっていた。
独松関は、正面から押すだけでは落とせない。
その時だった。
幕舎の外で、急ぐ足音が響く。
次の瞬間、梁山泊兵が飛び込んできた。
「報告!」
汗だくのまま、息を切らしている。
「独松関へ、杭州から援軍です!」
幕舎の空気が止まる。
呉用が、静かに顔を上げた。
「……誰です?」
兵は、息を整える暇も無く答えた。
「厲天閏」
「杭州四将の一人です!」
その名前が出た瞬間、 空気が少し変わった。
朱武が、わずかに眉を寄せる。
「最悪の場合、挟撃されますね……」
張清も、笑みを消していた。
「厄介なのが来たな」
アタシは、地図の奥を見る。
一本松。
その向こう。
熱気の中で、独松関はまだ静かだった。
翌朝、独松関の空気は昨日までと少し違っていた。
銅鑼の音が増えている。
城壁の上を動く兵の数も多い。
旗も増えていた。
赤、黒、黄色―― 熱気の向こうで、何本も揺れている。
「増えてるわね……」
アタシが目を細めると、張清が小さく頷いた。
「ああ」
「昨日より明らかに多い」
一本道の山道を、梁山泊軍は慎重に進んでいた。
今日は無理に押していない。
盾を前へ出し、落石へ備えながら少しずつ距離を詰めている。
でも、空気が違う。
城壁の上から見下ろしてくる視線に、妙な圧があった。
その時だった。
独松関側の城門が、ゆっくり開き始める。
兵達の空気が変わる。
「出て来るぞ!」
怒号。
次の瞬間、城門の奥から騎兵が現れた。
先頭には、一騎の若い将。
黒い甲冑。
長槍を構えたまま、山道を真っ直ぐ下ってくる。
その後ろでは、城壁上の兵達が鬨の声を上げていた。
「厲将軍の御舎弟だ!」
「道を開けろォ!」
若武者は、止まらない。
灼熱の一本道を、そのまま駆け下りてくる。
まるで、 こちらを押し返す為だけに出て来たみたいだった。
張清が、わずかに槍を持ち直す。
「……勢いが違うな」
その時――
玉楼が、小さく後ろを振り返った。
「……妙ですね」
「何が?」
アタシが聞くと、玉楼は眉を寄せたまま答える。
「後方の見張りが増えています」
確かに、山道の後ろ側でも、梁山泊兵達が妙に騒がしい。
林冲が、後方へ数騎を回していた。
一本道。
逃げ場の無い山道。
もし、ここで後ろまで塞がれたら――
その考えが浮かんだ瞬間、 厲天祐が、槍を掲げて怒鳴った。
「梁山泊覚悟ッ!!」
声が、灼熱の山へ反響した。
独松関の朝は、夜より静かでした。
銅鑼の音だけが、山へ低く響いています。
風は吹いているのに、涼しくはありません。
岩へ籠もった熱が、そのまま空気へ残っているのでしょう。
兵達も、疲れた顔をしておりました。
水を抱えて座り込む者。
盾へ寄り掛かったまま動かない者。
皆、“次はどこで押し潰されるのか” を考えている様な顔です。
その中で――
孫二娘殿と顧大嫂殿だけは、相変わらず鍋を囲んでおられました。
「で?」
孫二娘殿が、鍋を混ぜながら笑います。
「扈三娘、“待ってるヤツが嫌”とか言ってたんだって?」
顧大嫂殿が酒を煽りました。
「言ってたねぇ」
「珍しいじゃないか」
「あの子、基本、自分から突っ込む側だろ?」
私は、少しだけ目を伏せます。
「……だからこそ、でしょう」
鍋の煮える音だけが、小さく続きました。
「独松関は、前へ出るほど苦しくなる場所です」
「狭い」
「熱い」
「止まれない」
私は、小さく息を吐きます。
「そして、向こうはそれを理解した上で待っています」
孫二娘殿が、少しだけ真顔になりました。
「嫌だねぇ」
顧大嫂殿も、焚き火を見たまま頷きます。
「熱くなった方から呑まれる」
その時――
幕舎の外から、急に扈三娘様の声が飛び込みました。
「玉楼ー!!」
「一本松、見てるだけでイラつくー!!」
孫二娘殿が吹き出します。
「もう松に負け始めてるじゃん!」
顧大嫂殿も肩を揺らしました。
「その内、“切り倒す!”とか言い出すよ」
私は、小さく息を吐きます。
「……言いかねませんね」
少しだけ、空気が軽くなりました。
ですが――
遠くで、また銅鑼が鳴ります。
低く、重い音でした。
孫二娘殿が、鍋を混ぜる手を止めます。
「……朝から城門開けるって事は、向こうもやる気だねぇ」
顧大嫂殿も、静かに頷きました。
「独松関、まだ全然終わらせる気が無いねぇ」
誰も、すぐには喋りませんでした。
熱気だけが、朝になっても、 山の中へずっと残っていたのです。




