分からないけど、見えてきた
アタシは、陣形が苦手だ。
「三娘ァ、遼でも散々聞いたじゃないか」
「聞いたから分かるとは限らないの!」
顧大嫂が笑う。
「九宮だの八卦だの、名前は覚えてるじゃないか」
「名前だけね!」
孫二娘が肩へ抱きついてきた。
「記憶の保持はできてるよォ」
「心理学で慰めないで!」
「じゃあ理解は?」
「聞くな!」
顧大嫂が前を指す。
「で、今度のあれは何だい?」
「知らない!」
「即答だねぇ」
「でも嫌な形なのは分かる!」
その直後、朱武が言った。
――六花の陣、と。
朝靄が、平地を薄く覆っていた。
火はすっかり小さくなり、見張りの兵が静かに交代していく。
夜明け直後の野営地はまだ半分眠っていて、馬が白い息を吐く向こうから、朝餉の支度を始める音が聞こえていた。
アタシは浅い川で顔を洗った。
冷たい水を浴びれば少しは眠気が来るかと思ったけれど、頭は妙に冴えたままだった。
昨夜はほとんど眠れていないのに、身体まで軽い。
それが、かえって気持ち悪い。
「……お休みになられていませんね」
振り返らなくても玉楼だと分かった。
「少しは寝たわよ」
「どの程度でしょうか?」
「目を閉じた時間ならある」
「それは睡眠とは申しません」
「厳しい!」
玉楼は何も言わない。
でも、完全に見抜いている顔だった。
紅玉が薪を抱えて戻ってきた。
「もう少ししたら朝餉だそうです」
周囲では兵達も動き始め、火を起こし直したり馬の様子を確かめたりしながら、出立に備えて鎧を締め直している。
昨日の伏兵を抜けてから、誰も完全には気を緩めていなかった。
西へ進むほど、王慶軍の気配が濃くなる。
それは地図を見なくても分かる。
アタシが川から立ち上がった時、朝靄の向こうで草が揺れた。
視線が勝手にそちらへ向く。
ただの風だった。
「……まだ残ってる」
身体の中に残った感覚は消えるどころか、少しずつ馴染み始めている。
それが良いことなのかは、まだ分からない。
朝餉を終えると、梁山泊軍は再び西へ動き出した。
野営地は瞬く間に片付けられ、残ったのは踏み荒らされた草と灰ばかりになる。
アタシ達も馬へ乗り、林冲の隊列へ戻った。
一路軍は宛州へ向かい、アタシ達のいる二路軍は西京を目指す。
しばらくは誰も無駄口を叩かなかった。
……いや。
一人だけいた。
「三娘ォ、昨日ほんとに寝たのォ?」
後ろから孫二娘の声が飛んでくる。
「寝たって言ってるでしょ!」
「睡眠不足は判断力に影響するよォ?」
「朝から心理学で攻撃しないで!」
「心配してるんだけどねェ」
「その割に楽しそう!」
顧大嫂が隣で笑った。
「眠くなったら李俊の所で寝かせてもらえばいいじゃないか」
「何でそうなるの!?」
「眠れない理由がそっちかと思ってねぇ」
「違う!」
反射で否定してから、昨夜とは別の意味で顔が熱くなる。
川辺――
誰もいないことを確かめてから近づいた顔。
『これで戻る理由が増えたな?』
……朝から思い出すな、アタシ!
孫二娘が馬を寄せてくる。
「三娘ォ?」
「何よ」
「今、李俊のこと考えた?」
「何で分かるの!?」
「顔」
「また顔!?」
前を進んでいた玉楼が振り返った。
「皆様、そろそろお静かに」
「はい……」
これ以上続けると紅玉まで覚えそうなので、素直に黙ることにした。
やがて前方の騎馬が速度を上げた。
斥候だった。
林冲の前で馬を止め、何かを告げる。
隊列の空気が変わった。
林冲は報告を聞き終えると、前を見たまま告げる。
「進むぞ」
斥候が再び駆け出した。
アタシも目を凝らす。
朝靄は少しずつ晴れていた。
その向こうに、巨大な影が浮かび上がってくる。
西京の城壁だった。
紅玉が息を呑む。
「……あれが、西京」
「そうみたいね」
玉楼も目を細める。
「王慶軍にとって、容易に捨てられる場所ではございません」
その言葉通り、西京の前にはすでに王慶軍が陣を敷いていた。
数も多い。
ただ、最初に目についたのは兵の多さではなかった。
形がおかしい。
六つの塊が花びらみたいに配置されているのに、間隔は揃っていない。
前へ張り出した場所もあれば、妙に引いている場所もあり、隙に見えるところの奥には別の列が控えていた。
紅玉が眉を寄せる。
「……何ですか、あれ」
「聞かないで」
「まだ何も言ってません」
「陣形の名前を聞かれそうな気がしたの!」
嫌な記憶が蘇る。
遼だ。
九宮八卦陣と言われて分からず、河洛四象陣が出てきても数字が増えたことしか分からず、その後に循環八卦陣まで追加された。
最後まで分かったことは一つしかない。
陣形の名前は、聞いても分からない。
玉楼が西京前を見ながら言う。
「三娘様、あちらの形は――」
「待って。説明するなら幼児向けでお願い」
「幼児でも、もう少し理解するかと」
「ひどくない!?」
林冲も蛇矛を手にしたまま敵陣を見ていた。
いつもならもっと早く指示を出すのに、今回は動かない。
それだけで面倒な相手だと分かる。
ほどなく後方から伝令が来た。
「林冲殿! 朱武殿がお呼びです。各隊の頭領方は本陣へ!」
林冲が頷き、馬を返す。
「行くぞ」
アタシ達も続いた。
本陣には既に各隊の頭領が集まり、中央には西京周辺の地図が広げられていた。
朱武はその前に立っている。
「相手は六花の陣を用いております」
来た――
名前が付いた。
もう嫌な予感しかしない。
朱武は羽扇の先で敵陣を示した。
「各部が互いを支え、こちらが一角へ入れば別方向から包む構えです。正面から噛み合えば、容易には抜けられません」
盧俊義が腕を組む。
「ならば、こちらも受けるか?」
「はい」
朱武が駒を動かした。
「まずは循環八卦で受けます」
「またそれ!?」
声が出た。
全員の視線が集まる。
朱武までこちらを見る。
アタシは咳払いした。
「……ごめん。遼で聞いた名前だったから」
孫二娘が肩を震わせている。
「三娘ォ、覚えてたじゃない」
「名前だけね!」
忘れるわけがない。
遼征伐では、知らない陣法の名前が出てくるたびに頭の中へ疑問符が増えた。
循環八卦まで来た時には、もう何が循環して何が八卦なのか考えること自体を諦めた覚えがある。
朱武は少しだけ笑った。
「今回は敵の陣へ合わせるために用います」
「説明されても分からない自信がある!」
「三娘、それ自慢にならないよォ?」
顧大嫂まで笑っている。
朱武は慣れた様子で話を続けた。
「敵には、こちらを崩せると思わせます。食い付かせた後、八陣へ変化させます」
「増えた!」
「三娘ォ!」
「だって増えたじゃない!」
遼の時と同じだ。
陣の名前が増えるほど、アタシの理解は遠ざかる。
ただ、今回は少しだけ違った。
朱武が動かす駒を見ても理屈は分からないのに、どこへ敵を引き込みたいのかだけは、ぼんやり見える。
どこを空け、どこを塞ぎ、どこへ相手を進ませようとしているのか。
昨日の斥候戦で見たものを、大勢の兵でやろうとしている。
そう考えると、ほんの少しだけ形になった。
「……要するに、嵌めるのかい?」
孫二娘が先に言った。
朱武が頷く。
「簡単に言えば」
「最初からそう言いなよォ」
「それだけでは兵が動きません」
「軍師って面倒だねェ」
「アンタが雑なのよ!」
顧大嫂が地図を覗き込む。
「それで、アタイらは?」
朱武が答えた。
「負傷者の流れを止めぬようお願いいたします。崩れたように見せる場面がございますので、本当に崩れた者と意図して下がる者を混ぜないように」
顧大嫂の顔から笑いが消える。
「そりゃ大事だねぇ」
孫二娘も頷いた。
前で敵を斬るだけが戦じゃない。
押された兵が恐慌を起こせば、演技だった撤退が本当の敗走になる。
そこを二人が支える。
朱武は林冲へ目を向けた。
「林冲殿の隊は、変化の合図まで動かずに。敵の突き出した一角が止まったところを裂いてください」
「承知した」
林冲はそれだけ答えた。
軍議が終わり、本陣を出る。
西京前では王慶軍の六花の陣がまだこちらを待っていた。
アタシは馬へ乗りながら、もう一度その形を見る。
分からない。
遼の時と同じだ。
でも、まったく同じでもない。
以前は名前を聞いても、目の前の兵がどう動くのかまで結びつかなかった。
今は理屈が分からなくても、空いている場所を見ると、そこへ誰かが入りそうだと感じる。
閉じる場所も、なんとなく分かる。
「三娘様」
玉楼が隣へ来た。
「何?」
「陣法がお分かりになりましたか?」
「全然」
「安心いたしました」
「何で!?」
「突然、軍師になられては困りますので」
「ならないわよ!」
後ろで紅玉が笑った。
その時、西京前の王慶軍が動き始めた。
六つの塊がゆっくり押し出される。
こちらでも旗が振られ、兵の列が位置を変えていく。
循環八卦。
名前はやっぱり分からない。
けれど、軍全体が大きな渦を作るように動いていることだけは見えた。
王慶軍の一角が速度を上げる。
梁山泊軍の前列へ食い込み、兵が押され始めた。
紅玉が身を乗り出す。
「押されてます!」
実際、そう見える。
前列が下がり、王慶軍がさらに奥へ入ってくる。
アタシも馬を出しかけた。
玉楼の手が伸び、手綱を押さえる。
「まだでございます」
「分かってる」
昨日なら、本当に分かっていたか怪しい。
今日は林冲を見る余裕があった。
動いていない。
なら、まだだ。
王慶軍がさらに押し込み、梁山泊軍の列が左右へ割れた。
一瞬、本当に崩れたように見えた。
けれど、昨日までのアタシなら見落としていたものが目に入る。
逃げているはずの兵の向きが揃っていた。
旗も倒れていない。
流れながら、形を保っている。
「……逃げてない」
玉楼が頷く。
「はい」
次の瞬間、銅鑼が鳴った。
左右へ流れていた梁山泊軍が向きを変え、深く入り込んだ王慶軍の一角を挟み始める。
紅玉が目を見開いた。
「うわ……」
「嵌めた」
今度はアタシにも分かった。
循環八卦の理屈じゃない。
目の前の流れが変わったからだ。
敵が前へ出過ぎた。
後ろが詰まり、左右も閉じ始めている。
その中に一か所だけ、まだ噛み合っていない場所があった。
旗が揺れ、その下で兵の間隔が開く。
林冲の蛇矛が上がった。
「今だ!」
アタシと玉楼が同時に馬腹を蹴った。
どちらが先でもない。
同じ場所が見えていた。
王慶軍の槍兵がこちらへ向きを変える前に、アタシがその脇へ入り、玉楼は反対側へ回る。
アタシが刀で穂先を外したところへ玉楼の槍が入り、玉楼が止めた敵を今度はアタシが抜く。
「紅玉、後ろを塞いで!」
「はい!」
紅玉は追わなかった。
逃げようとした兵の前へ出て、道だけを潰す。
それでいい。
今までなら、目の前の槍を見ていた。
少し前から、肩や足まで見えるようになった。
今日は、その向こうが見える。
敵兵がどこへ逃げ、味方がどこから入り、その間のどこが詰まって一瞬だけ開くのかまで、少しずつ繋がって見える。
全部じゃない。
でも、繋がり始めている。
「左!」
アタシが叫ぶと、玉楼はもう動いていた。
「承知しております!」
「だったら返事いらなくない!?」
「必要でございます!」
戦場でまで律儀!
敵の一角へ林冲隊が雪崩れ込み、蛇矛が進路を切り開いていく。
王慶軍の旗が大きく揺れた。
後方で別の銅鑼が鳴り、梁山泊軍全体の形がまた変わる。
循環八卦から八陣へ。
そう説明された。
やっぱり名前は分からない。
それでも、遼の時とは違う。
九宮八卦だろうが河洛四象だろうが、あの頃のアタシには「何かすごい陣形」までしか分からなかった。
今は、その中で人がどう動くのかを少しだけ拾える。
軍師にはなれない。
なる気もない。
でも、自分が入る場所なら分かる。
敵の槍が伸びてくる。
その一本だけを追わず、後ろを見る。
次の兵が詰まっている。
右は玉楼がいる。
左から林冲隊が入る。
なら――ここ。
半歩ずらし、槍を外す。
双刀を返した。
敵兵が崩れ、その後ろの列まで乱れる。
玉楼が横から押さえた。
「三娘様、前へ!」
「分かってる!」
二人で裂け目へ入る。
紅玉は後ろを守り、孫二娘と顧大嫂はさらにその後方で崩れかけた兵を戻している。
誰か一人で戦っているんじゃない。
それまで分からなかった大きな陣形の中で、アタシ達も一つの流れになっていた。
やがて王慶軍の旗が一本、地へ倒れた。
その瞬間、六花の一角に大きな揺れが走る。
押し込んでいたはずの兵達が退こうとするが、後ろが詰まって動けない。
梁山泊軍がそこへ食い込む。
西京の城壁は、まだ遠い。
それでも、王慶軍の陣に初めてはっきりした裂け目が生まれた。
アタシは馬上で息を吐く。
循環八卦だの八陣だの、やっぱり説明しろと言われたら無理だ。
遼の時から、その辺は何も変わっていない。
でも、分からないままでも見えるものが増えた。
押されていた場所が噛み合い、逃げ道に見えたところが閉じ、隊列の継ぎ目が一瞬だけ開く。
そこへ、アタシ達が入る。
名前を知らなくても戦える。
ただし――今度は、その先まで見え過ぎないようにしなきゃいけない。
昨日、玉楼に止められたばかりだ。
アタシはちらりと隣を見る。
玉楼もこちらを見た。
「進み過ぎないでくださいませ」
「まだ何もしてない!」
「先に申し上げております」
「半拍先に注意するのやめて!」
玉楼の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
その向こうで、王慶軍の六花が再び動き始める。
割れた一角を埋めるように、別の花びらがこちらへ向きを変えていた。
アタシは刀を握り直す。
西京攻略は、まだ始まったばかりだった。
玉楼でございます。
本日の三娘様は、敵の継ぎ目へ迷わず入られました。
「随分見えるようになったねェ」
孫二娘様が笑います。
「ええ、ただし見え過ぎると進み過ぎます」
「まだ言うの!?」
少し離れた所から三娘様の声が飛んできました。
顧大嫂様が肩をすくめます。
「玉楼が隣にいりゃ大丈夫だろ?」
「そのつもりでございます」
「また安全装置扱い!?」
孫二娘様が楽しそうに頷きました。
「三娘には外付けの実行機能が必要なんだよォ」
「アタシの脳を勝手に増設しないで!」
それでも、本日は止まるべき所で止まられました。
問題は――次もそうとは限らないことでございます。




