見えるから、止まれない
最近、身体が勝手に先へ出る。
「三娘ァ、それ格好いい言い方してるけど、要するに止まれないんだろォ?」
「要約が雑!」
顧大嫂が腕を組む。
「だったら玉楼に縄でも持たせとくかい?」
「馬じゃないんだけど!」
「でも昨日、槍で止められてたじゃないか」
「見てたの!?」
孫二娘が楽しそうに抱きついてきた。
「興奮状態だと、行動の切り替えが遅れることもあるんだよォ」
「今、アタシで講義しないで!」
「じゃあ実践編にする?」
「もっと嫌!」
顧大嫂が笑う。
「まあ、止まれなくなったら玉楼がいるさ」
「それで安心していいのかな!?」
……その時は、まだ笑っていられた。
隊列が、またゆっくり動き出す。
倒れた斥候を道端に残し、梁山泊の軍は西へ進んだ。
風が草を揺らすたび、さっきまで鼻についていた血の匂いが少しずつ薄れていく。
アタシは馬を進めながら、斥候戦のことを考えていた。
敵が逃げる前に、逃げ道が分かった。
玉楼と紅玉を置く場所も、考え込む前に口から出た。
全部が見えたわけじゃない。
それでも、昨日より早かった。
玉楼が隣で前を向いたまま言う。
「……速くなっておりますね」
「半拍?」
「はい」
それだけで意味は分かった。
後ろを進んでいた紅玉が首を傾げる。
「半拍って、そんなに違うものなんですか?」
玉楼は少し考えた。
「戦場では、生死が入れ替わる程度には」
紅玉が黙った。
「説明が怖いのよ」
思わず口を挟むと、玉楼はこちらを見る。
「三娘様には、ちょうどよろしいかと」
「何でアタシだけ!?」
紅玉が笑いを堪えた。
少し前までなら、こういう時に笑う余裕もなかったかもしれない。
アタシは手綱を握り直した。
先日まで届かなかった場所へ、少しずつ身体が届き始めている。
でも、まだ完全じゃない。
その時、前方で洞簫が鳴った。
林冲の隊が止まり、空気が変わる。
道はいつの間にか狭くなっていた。
左右には低い岩場が迫り、その間を深い草が埋めているため、人を隠す場所には困らない。
玉楼が辺りを見回した。
「……好ましくない地形でございますね」
「同感」
紅玉も表情を固くする。
林冲はすぐには進ませなかった。
風だけが岩の間を抜けていく。
静かだ。
静か過ぎる。
アタシは右手を刀へ置いた。
何かが来る、と考えたわけじゃない。
岩場の上で鳥が一斉に飛び立ち、その下の草が風とは違う揺れ方をした。
「止まって!」
声が出たのと、アタシが馬を引いたのはほとんど同時だった。
直後、岩場の奥から矢が降ってきた。
前列へ突き刺さり、悲鳴と馬のいななきが重なる。
「伏兵!」
林冲の声が響いた。
「列を崩すな!」
次の矢を探そうとして、アタシは岩の上ばかりを見るのをやめた。
瓊英に言われたことを思い出す。
飛んできたものだけを追うな。
周りを見ると、右手の草が一度沈み、何人分もの影が動いた。
「玉楼、右!」
「承知いたしました!」
玉楼が馬を出す。
次の瞬間、草の奥から王慶軍の兵が飛び出してきた。
こちらが気づいていないと思っていたのか、前へ飛び出した男の顔が一瞬だけ固まる。
玉楼の槍が、その突進を真正面から止めた。
アタシは反対側へ回り込み、玉楼へ向いた敵の脇へ入る。
双刀を返すと一人が崩れ、次の男は玉楼が止めたところをアタシが抜く。
その次は逆だった。
アタシが刀で槍を逸らしたところへ、玉楼の穂先が入る。
「右、まだ来ます!」
紅玉の声が飛ぶ。
見れば、さっき玉楼が開けた場所のさらに奥で草が揺れている。
今度は人数が多い。
「紅玉、後ろを締めて! 抜けた奴だけ止めて!」
「はい!」
紅玉は前へ出ようとせず、後続との間へ馬を置いた。
その判断を確認した途端、アタシの身体はもう前へ向いていた。
草を割って出てきた敵兵へ踏み込み、槍を構え切る前に斬る。
その奥でも草が動き、次に出てくる場所と、そこへ入るための隙間まで目に入った。
「三娘様!」
玉楼の声が背中へ飛んだ。
「前へ出過ぎでございます!」
聞こえている。
でも、目の前でまた草が揺れた。
今なら先に入れる。
馬腹を蹴る。
岩場の間へ踏み込んだ瞬間、上で何かが光った。
矢尻だった。
気づいた時には、すでに弓が引かれている。
避けられる。
そう思って身体を外そうとした瞬間、横から槍の柄が馬の胸前へ差し込まれた。
馬が止まる。
矢が鼻先をかすめ、そのまま後ろの岩へ突き刺さった。
「何するの!?」
怒鳴って横を見ると、玉楼だった。
「止めました」
「見れば分かる!」
「三娘様は、見えているからこそ進まれ過ぎております」
その間にも上の弓兵が次の矢をつがえる。
玉楼が槍を上げた。
「わたくしが上を押さえます。三娘様は下を」
「……分かった!」
腹は立つ。
でも、正しい。
アタシがさらに奥へ入れば、後ろとの距離が開く。
見えている一人を斬れても、その先で囲まれたら意味がない。
玉楼が斜面へ向かい、弓兵の狙いを散らす。
アタシは道へ戻った。
ちょうど王慶軍の兵が前列へ食い込もうとしている。
今度は追わない。
出てくる場所を塞ぐ。
刀を横へ払い、敵を道の中央へ押し返すと、林冲の兵がそこへ入った。
「押し返せ!」
蛇矛が振るわれ、王慶軍の列が崩れる。
左右から出ていた伏兵も、奇襲が失敗したと分かると勢いを失った。
紅玉が逃げようとした一人の進路を塞ぐ。
「深く追わないで!」
アタシが叫ぶ前に、紅玉はもう馬を戻していた。
「分かっています!」
「……言う前にできるようになったじゃない」
少し嬉しい。
その横を玉楼が戻ってきた。
「三娘様も、言われる前に止まれるようになってくださいませ」
「今それ言う!?」
「今だからでございます」
本当に容赦がない。
やがて林冲の号令で兵が左右の岩場を押さえ、残っていた伏兵も引きずり出された。
抵抗は長く続かなかった。
戦いが終わると、さっきまで耳を埋めていた怒号が嘘みたいに薄くなる。
アタシは馬を道へ戻した。
身体はまだ前へ行きたがっている。
草が揺れるだけで目が向き、岩の陰が動いたように見えるだけで手が刀へ伸びかける。
玉楼が隣へ来た。
「少し、お休みくださいませ」
「動いてた方が消える気がするのよ」
「それは、休まない方の言い分でございます」
「最近ほんと厳しい!」
後ろから紅玉が小さく笑った。
その日の野営は、開けた平地に決まった。
近くには浅い川が流れ、周囲を見渡しやすい。
兵達は馬を繋ぎ、火を起こし、普段より多くの見張りを外周へ送っていた。
アタシは馬から降りた途端、身体の重さに気づいた。
戦っている最中は何ともなかったのに、止まった途端に疲れが押し寄せてくる。
「三娘ァ」
後ろから腕が回ってきた。
「うわっ!」
「そんな驚くゥ?」
「今は後ろから来ないで!」
孫二娘がそのまま肩へ顎を乗せる。
「なるほどねェ。まだ過覚醒気味かァ」
「何それ?」
「危険が過ぎても、身体が警戒を切れない状態。音とか動きに反応しやすくなるんだよォ」
顧大嫂も向かいへ座った。
「要するに、戦が終わっても身体だけ戦ってるってことかい?」
「大雑把だけど、そんな感じだねェ」
「そっちの説明の方が分かりやすい」
「三娘ォ?」
「心理学者が怖い!」
孫二娘が頬をつまんできた。
「痛い痛い!」
「反応は正常だねェ」
「診断方法がおかしい!」
玉楼が火の向こうから口を挟む。
「本日は、反応が速過ぎました」
「またそれ?」
「はい」
即答だった。
紅玉も薪を置きながら、少し迷ってから言う。
「でも……本当に速かったです。私、追いつけないと思いました」
その言葉で、笑いが少し止まった。
アタシは火を見る。
「自分でも分かってる。前より先に動ける」
だから伏兵にも気づけたし、段五にも勝てた。
でも今日、玉楼が止めなかったら、アタシは岩場の奥まで一人で入っていた。
見えるから行ける。
行けるから、止まらない。
それは強くなったのとは、少し違う気がする。
孫二娘が盃へ酒を注いだ。
「判断が速くなるのと、止まらなくなるのは別物だよォ。興奮が強い時ほど、次の行動へ切り替えるのが難しくなることもある」
「つまり?」
「三娘、今ちょっとブレーキが弱い」
「急に分かりやすい!」
顧大嫂が笑う。
「だったら玉楼を横につけとけばいいじゃないか」
「わたくしはそのつもりでございます」
「本人抜きで安全装置にしないで!」
「三娘様が止まられれば必要ございません」
「正論で追い込むな!」
笑い声が火の周りへ広がった。
けれど、笑っていても身体の奥に残る感覚は消えない。
アタシは盃を持ち、少しだけ揺れる酒を見る。
「……どこまで行くのか、自分でも分からないのよ」
今度は誰も笑わなかった。
その時、遠くで洞簫が鳴った。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
玉楼が顔を上げる。
顧大嫂の手が止まり、孫二娘も肩から離れた。
夜警の合図じゃない。
外周の見張りから、声が飛んだ。
「動きあり!」
アタシの手が、考えるより先に刀へ伸びる。
張り詰めた空気が、夜の平地をゆっくり流れていった。
玉楼でございます。
ようやく野営まで辿り着きました。
「今日はもう寝てもいいんじゃないかい?」
顧大嫂様の言葉に、孫二娘様が首を振ります。
「三娘が寝ると思うゥ?」
「寝るわよ!」
少し離れたところから三娘様の声が飛んできました。
「聞こえておりましたか」
「聞こえるように言っただろォ」
「確信犯!?」
顧大嫂様が笑います。
「じゃあ李俊でも呼んで寝かしつけてもらうかい?」
「何でそうなるの!?」
三娘様がこちらへ来るより先に、洞簫が鳴りました。
孫二娘様の笑顔が消えます。
「……今度は、心理学じゃなさそうだねェ」
はい……
どうやら今夜も、眠れそうにございません。




