灼熱の山道
「で?」
孫二娘が、鍋を混ぜながら笑う。
「今度は、“李俊と別れた瞬間に暑苦しい山へ放り込まれた回”なんだって?」
顧大嫂が酒を煽った。
「しかも、“嫌な予感しかしない松”まで生えてたらしいねぇ」
「本当に嫌だったのよ!!」
即座に声が飛ぶ。
孫二娘が吹き出した。
「出たよ!!」
「今回は始まる前から嫌がってる!!」
「だって見たでしょ!?」
また外から返って来る。
「一本道なのよ!?」
「岩だらけなのよ!?」
「暑いのよ!?」
顧大嫂が肩を揺らした。
「うわ、“三拍子揃った嫌な戦場”だ」
小さな笑いが広がる。
鍋の煮える音だけが、静かに続いていた。
アタシは思わず額を押さえる。
「しかも李俊は杭州なのよ」
「はいはい」
孫二娘が頷く。
「またそこかい」
「だって向こうは舟よ?」
「こっちは山よ?」
「知らないよ」
顧大嫂が即答した。
「自分で選んだんだろ」
「選んでないわよ」
「一路軍と合流したんだろ?」
「そうよ」
「じゃあ仕方ないじゃないか」
「違うのよ!!」
笑いが広がる。
湿った風が、静かに吹き抜けた。
その時――
孫二娘が、わざとらしく首を傾げる。
「でもさ」
「張清と董平が居たんだろ?」
アタシは頷く。
「居たわね」
「元気そうだった?」
「元気だった」
「じゃあ安心じゃないか」
少しだけ間が空く。
アタシは火を見る。
乾いた山道。
照り返す岩。
大きな一本松。
それから――
張清の顔。
「……だから余計に嫌だったのよ」
ぼそっと呟く。
顧大嫂が眉を上げる。
「何でだい」
「元気だったから」
「意味が分からないねぇ」
孫二娘も首を傾げる。
アタシは、小さく息を吐いた。
「こういう時って」
「元気な奴から前へ行くのよ」
一瞬だけ静かになる。
顧大嫂が酒を置いた。
「まあ、それはそうだね」
「でしょ」
アタシは頷く。
「しかも董平は。脳筋だし」
「張清も大概だし」
「しかも二人とも“行くな“って言うと、余計行くのよ」
孫二娘が吹き出した。
「アンタもだろ!!」
「アタシは違うわよ!!」
「どこがだい!!」
鍋の湯気が揺れる。
笑い声も広がる。
でも――
少しして、その笑いも静かになった。
アタシは遠くを見る。
独松関。
熱気の向こう。
一本松の向こう。
まだ敵の姿は見えない。
でも、居る。
そんな場所だった。
「……嫌な場所だったわ」
小さく呟く。
孫二娘も、今度は笑わなかった。
顧大嫂も黙る。
暑さ。
狭い道。
隠れる岩。
見えない敵。
山道は、それだけで人を疲れさせる。
そして――
そういう場所ほど、
戦は長引く。
夜は、何も答えない。
ただ静かなまま――
独松関へ続く灼熱の一本道と、
その先で待っていた鬨の声だけを、
湿った風の中へ、静かに残しているみたいだった。
蘇州城の火は、夜明け近くになっても消えていなかった。
城内のあちこちで、まだ煙が上がっている。
二路軍の幕舎にも、血と煤の匂いが残っていた。
卓を囲む頭領達も、流石に疲れた顔をしている。
その中で、費保達だけは妙に落ち着いていた。
「派手にやったなぁ」
狄成が、酒を飲みながら笑う。
「アンタもね」
アタシが返すと、狄成は楽しそうに肩を揺らした。
倪雲は、卓へ肘を乗せながら鼻を鳴らす。
「蘇州まで落とすとはな」
「祭りが効いた」
李俊が短く答える。
費保は、そのやり取りを黙って聞いていた。
やがて、静かに口を開く。
「……これで終わりじゃねぇんだろ」
幕舎が、少し静かになる。
誰も否定しない。
方臘の城はまだ残っている。
戦は、終わっていない。
費保が、小さく笑った。
「やっぱりな」
その顔は、呆れているみたいでもあった。
朱武が、地図へ視線を落としたまま言う。
「ですが、今回の協力は非常に助かりました」
「礼なら要らねぇよ」
費保は、すぐ返す。
「言ったろ。俺達は宋に義理立てしてる訳じゃねぇ」
林冲が、腕を組んだまま費保を見る。
「なら、何故手を貸した」
費保は、一瞬だけ黙った。
それから、ゆっくり笑う。
「……気に入らねぇからさ」
「方臘も」
「宋も」
幕舎の空気が、少し止まる。
だが、誰も笑わなかった。
太湖の人間らしい答えだった。
蘇州を離れてから、道は少しずつ分かれ始めていた。
水路を往く者。
山道へ向かう者。
同じ梁山泊軍でも、進む先は一つじゃない。
朝靄の残る水辺で、舟が並んでいる。
童猛達は、もう荷を積み終えていた。
杭州方面へ向かう舟だ。
李俊は、岸辺で最後に地図を見ていた。
その横顔を見ながら、アタシは馬上で息を吐く。
「アンタ、先に杭州に向かうのね」
「ああ」
李俊は短く答えた。
「杭州側の様子を見ておきたい」
「水路を押さえる」
太湖の風が吹く。
もう、蘇州の火の匂いは薄れていた。
代わりに、山の冷たい空気が近付いている。
独松関……
あまり良い名前には聞こえない。
李俊が、ようやくこちらを見る。
「そっちは?」
「一路軍と合流」
「そのまま独松関よ」
少しだけ沈黙が流れる……
波の音だけがする。
李俊は、小さく笑った。
「嫌な道だな」
「アンタが行かないくらいにはね」
そう返すと、李俊は肩を揺らした。
でも、その笑いは長く続かなかった。
舟へ乗る前。
李俊が、ふと足を止める。
それから、振り返らないまま言った。
「……死ぬなよ」
短い声だった。
でも、妙に残る。
アタシは少しだけ目を細める。
「そっちこそ」
李俊は、もう振り返らなかった。
舟が、水を裂いて離れていく。
アタシは、それを少しだけ見送る。
その先には、杭州。
――アタシ達の前には、山道が待っていた。
蘇州を離れてから、道の空気が変わった。
水の気配が遠くなる。
代わりに、乾いた土と、焼けた岩の匂いが近くなる。
暑い。
風はある。
でも、涼しくない。
山肌を撫でた熱気が、そのまま身体へまとわり付いてくる。
鎧の下に汗が溜まり、喉が乾く。
「……水路の方が、まだマシだったわね」
思わず呟くと、玉楼が隣で小さく頷いた。
「李俊様は、こちらには向かないですね」
「でしょうね」
あの人は、杭州方面へ向かった。
水路を見て、次の動きを探る為だ。
アタシ達は、逆に山へ入っている。
進むほどに、道は狭くなっていった。
馬を並べるには窮屈で、荷車も思うように進まない。
前が詰まれば、後ろも止まる。
兵達の足取りも重い。
暑さだけじゃない。
山道そのものが、こちらの動きを鈍らせている。
やがて、独松関から数里の宿営地が見えてきた。
そこには、既に一路軍の旗が立っていた。
張清が、こちらに気付いて手を上げる。
「よう、元気か?」
いつもの調子だった。
その後ろには、董平もいる。
二人とも笑っている。
でも、鎧には砂埃が付き、額には汗が浮いていた。
ここは、もう蘇州とは違う。
祭りの灯も、太湖の波の音も無い。
あるのは、熱と岩と、動きにくい山道だけだった。
アタシは、宿営地の奥を見た。
遠くの道の途中に、大きな一本松が立っている。
妙に目立つ松だった。
道を見下ろすように、枝を広げている。
その向こうに、独松関がある。
まだ戦は始まっていない。
でも、嫌な場所だという事だけは、もう分かっていた。
宿営地の中も、熱気が籠もっていた。
焚き火の煙、汗の匂い、乾いた土埃……
兵達は、水を回し飲みしながら地面へ座り込んでいる。
誰も大声では喋らない。
暑さだけで、体力が削られていく。
アタシは、張られた天幕の一つへ入った。
中には、既に何人か頭領が集まっている。
卓の上には、独松関周辺の地図が広げられていた。
張清が、水の入った器を片手に笑う。
「蘇州は派手だったらしいな」
「祭りの最中だったからね」
アタシが答えると、董平が肩を揺らした。
「そりゃあ混乱する」
でも、その笑いも長くは続かない。
卓の奥で、呉用が地図へ指を置く。
「問題は、ここからです」
指先が、山道をなぞる。
細い。
蘇州までとは違う。
「独松関へ続く道は狭く、荷車も並べません」 「無理に押し込めば、途中で詰まります」
玉楼が、小さく眉を寄せる。
「伏兵向きですね」
「ああ」
張清が、軽く頷いた。
「しかも暑い」
「上から石でも落とされたら面倒だぞ」
董平が鼻を鳴らす。
「だったら、正面から潰すだけだ」
その言葉に、何人かが苦笑した。
でも、完全には笑えない。
朱武が、そのまま続ける。
「現在、関を守っているのは、呉昇、蔣印、衛亨の三将」
「まだ大軍ではありません」
アタシは、地図の先を見る。
その奥。 道の途中には、あの一本松が描かれていた。
妙に大きく印が付いている。
張清が、それに気付いて笑う。
「目立つ松だろ?」
「嫌でも見える」
アタシは、小さく息を吐いた。
見えている。
でも、その向こう側は、まだよく見えない。
独松関は、熱気の奥で静かに待っていた。
翌日は、陽が高くなる前から、もう暑かった。
宿営地の空気が重い。
兵達も、朝から水を探している。
アタシは、張清達と共に独松関前の道を見に出ていた。
山道は、昨日よりさらに嫌な形に見える。
曲がる。
狭まる。
岩壁が迫る。
その途中に、あの一本松が立っていた。
近くで見ると、余計に大きい。
枝が道へ覆い被さるみたいに伸びている。
董平が、馬上から鼻を鳴らした。
「邪魔な松だな」
「切っていたら、邪魔しに来るわね」
アタシは、周囲を見ながら答える。
実際、隠れる場所はいくらでもある。
岩陰、木陰、曲がった山道。
上から見られている気配さえした。
張清が、少し目を細める。
「……居るな」
「見えるの?」
アタシが聞くと、張清は肩を竦めた。
「いや。こういう場所は、大体居る」
軽く言っている。
でも、笑ってはいなかった。
その時――
前方の岩陰から、突然、銅鑼が鳴った。
山へ反響する。
次の瞬間、道の奥から鬨の声が上がった。
「いたぞォッ!」
岩陰から、兵が一気に現れる。
先頭には、三騎の将。
「呉昇か」
董平が槍を持ち直す。
その横で、張清が小さく笑った。
「話が早いな」
灼熱の山道で、独松関攻略戦が始まった。
夜は、相変わらず静かでした。
銅鑼もありません。
馬の嘶きも、怒号もありません。
あるのは、湿った風と、鍋の煮える音だけです。
その中で――
孫二娘殿と顧大嫂殿は、今日も鍋を囲んでおられました。
蘇州を落としても鍋。
独松関の軍議をしても鍋。
もしかすると、このお二人は「とりあえず鍋を囲めば何とかなる」と思っておられるのかもしれません。
――閑話休題
「で?」
孫二娘殿が、鍋を混ぜながら笑います。
「今度は、“嫌な予感しかしない場所へ行ったら、本当に敵が居た回”だったんだって?」
顧大嫂殿が酒を煽りました。
「しかも、“絶対居る”って言った直後に銅鑼が鳴ったらしいねぇ」
幕舎の外から、すぐ声が飛びます。
「だって居たのよ!!」
孫二娘殿が吹き出しました。
「当たり前だろ!!」
「独松関なんだから!!」
「そうじゃないのよ!!」
また外から返って来ます。
「居ると思った場所に!」
「ちゃんと居たの!!」
顧大嫂殿が肩を揺らしました。
「うわ、“伏兵に感動してる人”だ」
小さな笑いが広がります。
鍋の煮える音だけが、静かに続いていました。
私は、その湯気を見ながら小さく目を伏せます。
独松関は、蘇州とは全く違いました。
祭りもありません。
灯も少ない。
あるのは、熱と岩と、狭い山道だけです。
私は静かに口を開きました。
「……敵が居る事よりも」
「敵が見えない事の方が厄介だったのでしょう」
孫二娘殿が、少しだけ笑いを止めます。
「伏兵向きだったって事かい?」
私は頷きました。
「はい」
「道は狭い」
「岩陰も多い」
「上からも見下ろせる」
「待ち伏せには適した場所でした」
湿った風が、静かに吹き抜けます。
その時――
顧大嫂殿が、急にニヤつきました。
「で?」
「玉楼は最初から嫌な顔してたんだろ?」
外が、一瞬だけ静かになります。
それから――
「……していたかもしれません」
ぼそっと返事を返しました。
孫二娘殿が腹を抱えて笑います。
「してたんだ!!」
「絶対してたんだ!!」
また外から声が飛びました。
「この人ね!!」
「一本道見た瞬間から警戒してたのよ!!」
「怖いのよ!!」
顧大嫂殿が酒を吹きかけます。
「うわ、“景色より先に退路を見る侍女”だ!!」
「旅行が全然楽しめないねぇ!!」
笑い声が広がりました。
ですが――
その笑いも、少しずつ静かになっていきます。
鍋の湯気が、夜へ溶けました。
私は、小さく息を吐きます。
「……ですが」
「本当に気になったのは」
「あの一本松だったのでしょう」
孫二娘殿も、顧大嫂殿も何も言いません。
私は静かに続けます。
「あれは目立ち過ぎました」
「道の目印になります」
「敵も味方も見るでしょう」
少し間を置きます。
「だからこそ」
「その先が見えない事が、不気味だったのです」
湿った風が、静かに幕舎を揺らしました。
外から、小さく声が返って来ます。
「……そうなのよ」
少し間が空きます。
「何か居る気しかしなかったの」
私は頷きました。
「はい」
「そして実際に居ました」
孫二娘殿が吹き出します。
「結論が雑だねェ!!」
顧大嫂殿も笑いました。
「でも間違ってないさ」
その言葉で、小さな笑いが戻ります。
私は、その声を聞きながら静かに目を伏せました。
独松関の戦は始まったばかりです。
蘇州の様な奇襲でもありません。
祭りの混乱もありません。
狭い道。
暑さ。
そして待ち構える敵。
これから先は、少しずつ削られる戦になるのでしょう。
夜は、何も答えません。
ただ静かなまま、少しずつ――
熱気に揺れる一本松と、
その向こうで待っていた独松関の鬨の声だけを、
湿った風の中へ、静かに残している様でした。




