見えてきたのに、分からない
昨日から、妙に先が見える。
「三娘ァ、それ便利じゃない?」
「便利で済ませていいの!?」
顧大嫂が腕を組んだ。
「次に誰が来るか分かるなら、賭けでもするかい?」
「戦場で賭場を開くな!」
孫二娘が肩へ抱きついてくる。
「予測が当たると、自信も強くなりやすいんだよォ」
「急に心理学で不安にさせないで!」
「じゃあ外れたら?」
「それも怖い!」
顧大嫂が笑った。
「結局、見えても見えなくても騒ぐんだね」
「アタシだって混乱してるの!」
……問題は、見えることじゃない。
これが誰の感覚なのか、アタシにも分からないことだった。
山南州の城門が開いた。
重い音を立てながら、ゆっくりと。
王慶軍はもう止められなかった。
崩れた兵は城内へ逃げ込み、別の者は外へ散ろうとする。
けれど、そのどちらも遅い。
城外には折れた槍と倒れた兵が残り、踏み荒らされた土へ血が黒く沈んでいた。
アタシは馬を止めた。
息が熱い。
戦が終わったはずなのに、身体の奥だけがまだ戦場にいる。
玉楼が隣へ並ぶ。
槍先には血が残り、紅玉も少し遅れて後ろで馬を止めた。
顔色は良くない。
それでも、城外に残ったものから目を逸らしてはいなかった。
城門の向こうへ梁山泊の兵が流れ込み、あちこちから勝鬨が上がる。
「山南州、陥落!」
歓声が重なる。
でも、少し遠い。
アタシは手綱を握ったまま、自分の右手を見る。
さっきまで、敵の動きが妙にはっきり見えていた。
槍先だけじゃない。
肩が沈む瞬間も、馬が踏み込む前の揺れも、次の一撃へ移る僅かな間も、勝手に目へ入ってきた。
だから、来るより先に身体が動いた。
考えてから避けたんじゃない。
避けたあとで、何をしたのか分かった。
「……何なのよ、これ?」
漏れた声に、玉楼がこちらを見る。
そこへ林冲が馬を寄せてきた。
蛇矛を下げたまま、アタシ達の前で止まる。
「よくやった」
「そんなことないわ」
思わず首を振る。
段五を討ち、敵陣も崩した。
それでも、素直に「勝った」と喜ぶには、身体の感覚が変だった。
玉楼が静かに口を挟む。
「三娘様の働きが大きかったことは事実でございます」
「扈三娘様、本当に凄かったです」
紅玉まで真っ直ぐ言ってくる。
「二人とも、今は褒めなくていいから」
「では後ほど改めて」
「予約しなくていい!」
紅玉が少しだけ笑った。
その笑いで、ようやく身体の力が少し抜けた。
その夜、幕舎の外では勝鬨と笑い声がまだ続いていた。
孫二娘が酒瓶を抱えて入ってきたのは、玉楼が鎧を外し終えた頃だった。
顧大嫂も後ろからついてくる。
「三娘ォ、生きてるかい?」
「見れば分かるでしょ」
「今日は途中から、ちょっと人間離れしてたからねェ」
「褒めてる?」
「観察結果」
「一番嫌なやつ!」
顧大嫂が卓へ盃を置いた。
「で、何人斬ったんだい?」
「覚えてない」
「そりゃ重症だね」
「何で!?」
孫二娘が向かいへ座り、酒を注ぐ。
「戦ってる最中の記憶が飛んでるなら心配だけど、そうじゃないんだろォ?」
アタシは盃へ伸ばしかけた手を止めた。
「飛んでない。むしろ逆」
四人の視線が集まる。
「分かり過ぎたのよ」
自分でも変な言い方だと思った。
「槍がどこから来るかだけじゃなくて、相手が踏み込む前に、次にどこへ出るのかが何となく見えた。
身体も、それに合わせて先に動いた」
孫二娘の顔から笑いが少し消える。
「怖かったァ?」
「分からない」
少し考えてから、正直に続けた。
「怖いって思う前に終わってた。斬ったあとで、今の何だったんだろうってなるの」
顧大嫂は何も言わない。
紅玉も、さっきまでの興奮を引っ込めて聞いている。
玉楼だけが、しばらくアタシの手を見ていた。
やがて盃を置く。
「……以前の三娘様に、少し似ておりました」
孫二娘が眉を上げた。
「以前?」
「玉楼」
止めるように呼ぶと、玉楼は一度こちらを見た。
それでも、言葉を引っ込めなかった。
「本日の踏み込みや間合いの取り方でございます。わたくしが以前より存じ上げていた三娘様に、似たところがございました」
胸の奥が妙にざわつく。
この身体は、アタシがここへ来る前から扈三娘だった。
馬にも乗れた。
刀も使えた。
知らないはずの動きを、身体だけが知っていることは前からあった。
でも、それを真正面から考えるのは避けてきた。
「じゃあ、戻ったってこと?」
アタシが聞くと、玉楼は首を振った。
「そうとは申し上げられません。以前の三娘様は、瓊英殿の石礫をご存じありませんでした」
「……そうね」
瓊英の石には、身体もついてこなかった。
だから教わった。
教わったことで、今まで身体にあったものと、新しく覚えたものが噛み合ったのかもしれない。
孫二娘が盃を揺らす。
「技能の自動化ってのはあるよォ。繰り返した動作が、いちいち意識しなくても出るようになる。昔から身体に入ってた動きと、今回覚えた避け方がつながった可能性はあるねェ」
「心理学で説明できるの?」
「全部は無理」
「急に頼りない!」
「何でも心理学で片付けたら、それこそ怪しいだろォ?」
それはそうだ。
顧大嫂が酒を飲みながら笑う。
「だったら、今すぐ答えを出さなくてもいいじゃないか」
「大嫂が一番まともなこと言った」
「殴るよ?」
「何で!」
幕舎に笑いが戻った。
それで少し救われた。
分からないものは、まだ分からないままでいい。
それでも、使えるなら使うという考え方が、今のアタシには一番合っていた。
翌朝、山南州を出た。
城門の前には昨日の戦の跡が残っている。
けれど隊列はもう次へ向かって動き始めていた。
西京はまだ先だ。
孫二娘が馬を寄せてくる。
「眠れたァ?」
「少しは」
「考え込んでた顔だねェ?」
「朝から観察しないで」
「じゃあ別の話する?」
「何?」
孫二娘がにやっとする。
「昨日、李俊に頬の傷見せたァ?」
「朝からその話!?」
顧大嫂が後ろで笑った。
「どうせ『掠っただけ』って言ったんだろ?」
「何で分かるのよ!」
「顔」
「また顔!」
少し離れた隊列に李俊の姿が見えた。
ちょうどこちらを向く。
頬の傷へ目が行った気がして、アタシは反射で顔を背けた。
孫二娘が肩を揺らす。
「三娘ォ、分かりやすすぎるよォ」
「前見て!」
「はいはい」
からかわれているうちに、胸の奥に残っていた妙な重さも少し薄れた。
半日ほど進んだ頃、前方の斥候が急いで戻ってきた。
林冲の前で報告すると、隊の速度が落ちる。
「前だ」
林冲の声が飛ぶ。
低い丘の向こうに、数騎の人影が見えた。
王慶軍の斥候だ。
向こうもこちらへ気づき、馬首を返しかけている。
林冲は短く命じた。
「逃がすな」
斬れ、ではない。
逃がすな。
その言葉を聞いた瞬間、昨日とは違うものが目へ入った。
敵の馬が向いている先と、丘の傾き。
その先には道へ戻れる場所があり、反対側には林がある。
正面へ逃げれば、こちらの騎馬に追いつかれる。
なら、散る。
「玉楼、左を塞いで!」
「承知いたしました」
「紅玉は右! 追わなくていい、逃げ道を潰して!」
「はい!」
アタシは正面へ出た。
三人で同じ相手へ突っ込む必要はない。
左は玉楼に任せられるし、今なら紅玉にも右を預けられる。
丘を越えた瞬間、敵の斥候が散った。
予想通りだった。
左へ逃げた一騎の前へ玉楼が回り込み、槍を突き込まずに馬の進路を塞ぐ。
敵が慌てて向きを変えたところへ後続が追いついた。
右では紅玉が先回りする。
以前なら敵へ向かってそのまま斬り込んでいたかもしれない。
今日は違った。
「斬らなくていい!」
声を飛ばすと、紅玉は馬を横へ流し、林へ向かう道だけを塞いだ。
敵兵が焦って馬首を返す。
そこへ後続の騎兵が入る。
紅玉は深追いせず、すぐにこちらへ戻ってきた。
「戻りました!」
「それでいい!」
正面の一騎が槍を構えた。
アタシは切先ではなく、男の身体がどちらへ逃げようとしているかを見る。
次の瞬間、相手が右へ馬を振った。
そこへ先に入る。
刀を一閃すると、斥候が馬上から崩れた。
残った一騎が林へ走る。
追おうとした時、左から玉楼がもう動いていた。
「さすが!」
「お任せくださいませ」
林の手前へ回り込み、退路を塞ぐ。
逃げ場を失った敵兵は、後続に囲まれた。
ほどなく戦いは終わった。
アタシは馬を止め、息を整える。
昨日は、敵の攻撃が通る場所から身体を外した。
今日は、その先へ逃げる敵より先に味方を置いた。
同じものではない。
でも、どこか似ている。
来てから動くのでは遅い。
次に何が起きるかを見て、その場所へ半拍だけ先に入る。
玉楼が隣へ戻ってくる。
「お見事でした」
「まだよ」
言ってから、自分で笑った。
最近こればっかりだ。
紅玉も戻ってくる。
息は少し上がっていたが、目はしっかり前を向いていた。
「紅玉」
「はい」
「今の良かったわ。斬りに行かずに塞いだのも、深く追わなかったのも」
紅玉の顔がぱっと明るくなりかけ、慌てたように引き締まる。
「ありがとうございます!」
後ろから孫二娘の声が飛んだ。
「三娘ァ、人を褒めるの上手くなったねェ!」
「今それ言う!?」
顧大嫂も笑う。
「次は李俊を褒める練習かい?」
「何でそこにつながるのよ!」
笑い声の向こうで、林冲がこちらを見た。
一度だけ頷く。
そして、前方へ視線を戻した。
捕らえた斥候から得た話では、西京へ近づくほど王慶軍の動きが慌ただしくなっているらしい。
まだ城は見えない。
それでも、向こうもこちらを待っている。
アタシは手綱を握り直した。
身体に残っているものが誰のものなのか、まだ分からない。
でも、今どう使うかを決めるのはアタシだ。
「行くわよ」
玉楼と紅玉が頷く。
隊列は、さらに西京へ向かって進んでいった。
玉楼でございます。
本日は、三娘様から左を任されました。
「玉楼、嬉しそうだねェ」
「当然でございます」
顧大嫂様が笑います。
「前なら三娘が全部追いかけてたじゃないか?」
「否定できないねェ」
「二人とも聞こえてる!」
三娘様の声が飛んできました。
孫二娘様が肩をすくめます。
「しかも紅玉まで右に置いたよォ」
「任せられると判断なさったのでしょう」
「成長したねぇ」
「わたくしも同感でございます」
「何で本人抜きで講評してるの!?」
どうやら、こちらも聞こえていたようです。
西京までは、まだ道がございます。
ですが三娘様は、以前より少し広く戦場をご覧になっております。




