避けたのに、離れられない
李俊が、ずっと怒っている。
「三娘、また宥めに行くのォ?」
「またって言うな!」
顧大嫂が笑った。
「でも、朝から三回は話しかけてるじゃないか」
「回数を数えないで!」
孫二娘が肩へ抱きついてくる。
「怒ってる相手は宋江なんだろォ?」
「そうよ! だから余計に面倒なの!」
「三娘が怒られてるわけじゃないのに?」
「放っておいたら本当に殴りに行きそうなの!」
顧大嫂が少し考える。
「じゃあ、止める方法は?」
「話を聞く!」
「それでも駄目ならァ?」
「もっと話を聞く!」
孫二娘がにやっとした。
「三娘、ずいぶん献身的だねェ」
「うるさい!」
……今日は、李俊を宥めるだけで終わる気がしない。
淮西へ向かう途中、幕舎の中は妙に静かだった。
外では兵達が動き、馬の鳴く声も荷を運ぶ音も聞こえている。
それなのに、ここだけ少し遠く感じる。
理由は分かっていた。
アタシの向かいに座っている李俊が、さっきからずっと不機嫌だからだ。
「……まだ怒ってる?」
「怒ってねえ」
「その顔で!?」
李俊は答えず、卓上の水を一口飲んだ。
玉楼は傍に控えている。
孫二娘と顧大嫂もいるけれど、二人とも完全に面白がっていた。
「三娘ォ、もう一回聞いてみたら?」
「何をよ?」
「『まだ怒ってる?』ってェ」
「聞いたでしょ!」
顧大嫂が腕を組む。
「でも怒ってないらしいじゃないか?」
「信じてるの!?」
李俊の眉間には、さっきから見事な皺が寄っている。
怒っている相手がアタシじゃないのは分かっていた。
田虎を捕らえた途端、朝廷から王慶討伐を命じられた。
それを宋江は受け入れ、ほとんど間を置かず淮西へ向かうと決めた。
李俊が腹を立てているのは、そこだ。
「田虎が終わったばかりよ。アタシだって休みたいと思ってる」
「なら、何で宋江は断らねえ」
「それをアタシに聞かれても!」
「遼を追ってる途中で戻れと言われりゃ戻る。田虎を討てと言われりゃ討つ。終わったら次は王慶だ。あいつはいつまで朝廷の言いなりになるつもりだ」
「分かる! 分かるから!」
アタシは身を乗り出した。
「でも、ここでアンタが宋江に殴りかかったら話がもっとややこしくなるから!」
「殴るとは言ってねえ」
「顔が言ってる!」
孫二娘が横から抱きついてきた。
「三娘、他人の怒りを受け止めるの上手くなったねェ」
「誰のせいよ!」
「アタイじゃないよォ?」
「目の前の男よ!」
言った瞬間、静かになった。
李俊がこっちを見る。
顧大嫂は口元を押さえ、孫二娘はものすごく嬉しそうな顔をした。
「ほらァ、自分から言った」
「違う! そういう意味じゃない!」
「どういう意味だい?」
「大嫂まで参加しないで!」
玉楼だけが真顔で李俊を見ている。
「李俊殿。三娘様が困っておられますので、少々お怒りを収めていただけますでしょうか?」
「玉楼!」
助け舟なのか槍なのか分からない。
李俊が息を吐いた。
「三娘に怒ってるわけじゃねえ」
「知ってる」
「お前がまた引っ張り回されるのが気に入らねえんだ」
その言葉だけは、すぐに返せなかった。
胸の奥が少し熱くなる。
「……アタシは林冲についていくって決めたの」
「ああ」
「宋江についていくって意味じゃない。それも分かってるでしょ?」
李俊は何も言わない。
「だから、今は行く。でも、アタシだって何でも言うこと聞けばいいなんて思ってない。アンタが怒るのも分かってるから……」
そこで言葉に詰まった。
何でアタシがこんなに必死に宥めてるのよ。
孫二娘が耳元で囁く。
「好きな男だからじゃない?」
「聞こえてる!」
李俊まで少し笑った。
やっとだ。
その顔を見たら、こっちまで力が抜けた。
「もう……ずっとその顔しててよ」
「どの顔だ?」
「今の!」
「無茶言うな」
「アンタにだけは言われたくない!」
幕舎を出る頃には、李俊の機嫌も少し戻っていた。
アタシはそのまま瓊英のところへ向かった。
右腕の腫れはだいぶ引いている。
それでも石礫の感触だけは、まだ身体に残っていた。
矢なら飛んでくる向きを捉えた瞬間に身体が勝手に動くのに、瓊英の石は見えたと思った時にはもう近い。
遅れたと思って早く動けば、今度は先に外される。
玉楼に相談すると、答えは簡単だった。
「瓊英殿に教えていただいてはいかがでしょう?」
負けた相手に教わる。
以前のアタシなら、たぶん嫌がった。
でも今は、それで強くなれるなら別にいいと思える。
瓊英は頼むとすぐに頷いた。
「最初は、刀を抜かないでください」
「見るだけ?」
「はい、ただし石だけを追わないでください」
瓊英が小石を手に取る。
肩が僅かに動いた。
次の瞬間、石が頬の横を抜ける。
反射で手が出たけれど、完全に遅い。
「今のでございます」
「分かってる……」
「石を斬ろうとなさるから遅れます。石が通る場所へ、身体を残さなければよいのです」
簡単そうに言わないでほしい。
次は早く動きすぎた。
瓊英はそれを見て、投げる瞬間をずらす。
石が袖へ当たった。
「痛っ!」
後ろで孫二娘が笑う。
「予期不安が強いと、刺激が来る前から反応しちゃうんだよォ」
「実演中に心理学ぶつけないで!」
「分かりやすい教材だねェ」
「アタシを教材にするな!」
顧大嫂まで笑っている。
玉楼だけは真剣だった。
「三娘様。今は手が先に出ております。わたくしなら、先に足を外します」
「分かった。もう一回」
次の石では瓊英の手だけを見ず、身体が投げる動きへ入ったところで半歩ずれる。
石は脇を抜け、今度は当たらなかった。
「今の!」
思わず振り返ると、孫二娘が拍手していた。
「一回だよォ」
「分かってる!」
その日の稽古は、それ以上続けなかった。
淮西へ向かう間、宿営するたび少しずつ繰り返した。
石礫そのものを完全に避けられるようにはならない。
それでも、飛んできたものへ手を合わせるより、その攻撃が通る場所から先に身体を外す方が早いと分かってきた。
そして、瓊英との稽古を終えたある夕方――
李俊が一人で川沿いにいた。
近くに兵はいない。
「また怒ってる?」
「お前、俺を見るたびそれだな」
「だって顔が!」
「宋江を見た後だからだ」
「分かりやすい!」
隣に立つ。
夕暮れの水面がゆっくり流れていた。
「李俊」
「何だ?」
「アタシ、ちゃんと戻るから」
「……ああ」
「だから、そんなに心配しなくていい」
「してねえ」
「してるでしょ」
今度は否定しなかった。
アタシは少し笑った。
「アンタも戻ってきてよ。約束した舟、まだ乗ってないんだからさあ」
李俊がこっちを見る。
「覚えてたのか?」
「忘れるわけないでしょ」
「なら戻れ」
「だから戻るって」
「絶対だぞ」
「しつこい!」
その顔が近づいた。
アタシも逃げなかった。
誰もいないのを確かめたのは、どっちが先だったか分からない。
唇が触れる。
ほんの少しだけ。
離れた時、李俊が笑った。
「これで戻る理由が増えたな?」
「……卑怯」
「何が?」
「何でもない!」
顔が熱い。
誰も見ていない。
よかった。
本当に、よかった。
「三娘ォ!」
遠くから孫二娘の声がして、アタシは飛び上がった。
「何でいるの!?」
「いないよォ! 呼んだだけェ!」
「紛らわしい!」
李俊が腹を抱えて笑っている。
もう知らない……
数日後、山南州が見えた。
城門の前には王慶軍が陣を敷き、槍と盾を並べて道を塞いでいる。
林冲の隊が止まった。
李俊とはここで持ち場が分かれる。
馬を進める直前、目が合った。
何も言わない。
でも分かる。
無事で戻れ。
アタシも同じことを思いながら、玉楼の隣へ馬を寄せた。
「右を開くわ」
「では、わたくしが入ります。その次は交代いたしましょう」
「お願い」
後ろでは紅玉が兵を整え、孫二娘と顧大嫂が隊列の乱れを見ている。
林冲の号令が飛んだ。
アタシと玉楼は同時に馬腹を蹴る。
敵の槍列へ入る直前、アタシが盾兵を引きつけた。
玉楼の槍が横から伸びて隙間をこじ開ける。
今度は玉楼が前へ出る。
アタシがその脇を抜く。
どちらが前でもいい。
空いた方が入り、もう一人が次を開ける。
敵兵の槍が伸びた。
いつもなら、刀で合わせていた。
でも今は違う。
槍先を追わない。
その攻撃が通る場所から、半歩だけ外れる。
切先が頬の横を抜けた。
そこへ刀を返す。
敵兵が崩れる。
「三娘様」
「分かってる!」
玉楼と位置を入れ替える。
次の敵を玉楼が止め、アタシが斬る。
そのまま中央へ食い込んだ時、王慶軍の中から一騎が前へ出た。
大柄な馬に重い鎧。
手には長槍を持っている。
「我が名は――段五!」
真正面から来る。
速い。
しかも重い。
双刀で受けた瞬間、腕が痺れた。
段五は力任せに押し込み、そのまま馬ごと潰そうとしてくる。
アタシは刀を滑らせ、力を横へ逃がした。
槍先が頬を掠める。
熱が走る。
二撃目。
今度は槍先を見ない。
段五の身体が沈み、馬が踏み込む。
石礫の時と同じだ。
来るものを追えば遅れる。
通る場所に残らなければいい。
半拍だけ先に外れた。
槍が空を抜ける。
段五の目が開く。
その懐へ入った。
右の刀で鎧の脇を裂き、返した左でさらに斬る。
段五が馬上から崩れ落ちた。
敵兵がざわめく。
玉楼が隣へ入り、追いすがる兵を槍で払った。
「掴まれましたね」
「まだよ」
瓊英の石なら、次も避けられるとは限らない。
でも、負けた時の感覚が無駄ではなかったことは分かる。
後ろから孫二娘の声が飛んだ。
「三娘ァ! 頬切れてるよォ!」
「掠っただけ!」
「李俊に何て言うのォ?」
「今それ言わないで!」
顧大嫂の笑い声まで聞こえた。
「帰ったらまた宥めるんだね!」
「戦場で予定を増やさないで!」
林冲が追撃を命じる。
アタシは玉楼と並び、崩れた敵陣の先を見る。
帰ったら李俊に何て言おう。
掠っただけ。
本当にそれだけ。
……たぶん、また宋江への怒りと一緒に何か言われる。
その時は、また宥めればいい。
今度は誰もいないところで。
そう考えたら、少しだけ笑ってしまった。
アタシは馬腹を蹴る。
山南州の城門は、まだ閉じている。
でも、さっきより少しだけ近く見えた。
玉楼でございます。
三娘様は、瓊英殿から教わった動きを戦場でお使いになりました。
「ちゃんと身になってたねェ」
「一回で全部覚えたわけじゃないけどね」
顧大嫂様が頬を指します。
「で、その傷は?」
「掠っただけ!」
孫二娘様が笑いました。
「三娘、それ李俊にも同じ説明するのォ?」
「するけど!」
「信じてもらえるかねぇ?」
「何で大嫂まで疑うの!?」
三娘様は段五を討ち取られました。
それでも、ご自身ではまだ足りないと思っておられるようです。
「玉楼、今のは良かったよね?」
「はい」
「じゃあ言って!」
「まだ伸びますね」
「そっち!?」
山南州は、もう目の前でございます。
次は城門を開ける番です。




