渡海の誘い
「で?」
孫二娘が、鍋を混ぜながら笑う。
「今度は、“三日待てと言われて不機嫌になった回”なんだって?」
顧大嫂が酒を煽った。
「しかも相手はちゃんと作戦立ててるのに、一人だけ“長い”って言ってたらしいねぇ」
「長いのよ!!」
即座に声が飛ぶ。
孫二娘が吹き出した。
「三日だろ!?」
「三日よ!!」
「普通だよ!!」
「長いの!!」
顧大嫂が肩を揺らした。
「嫌だねぇ」
「戦場にいるくせに待機時間が嫌いな小彪将様だ」
小さな笑いが広がる。
鍋の煮える音だけが、静かに続いていた。
アタシは額を押さえる。
「だって仕方ないでしょ」
「湖州終わったばっかりなのに」
「次は蘇州よ?」
孫二娘が首を傾げる。
「だから休めばいいじゃないか」
「休んでたわよ」
「何してたんだい」
「地図見てた」
「休んでないねぇ」
顧大嫂が即答した。
「休んでないわね」
「休んでないねェ」
「休んでないです」
いつの間にか玉楼まで混ざっている。
「何でアンタまで!?」
笑いが広がった。
湿った風が、静かに吹き抜ける。
その時――
孫二娘が、わざとらしく首を傾げる。
「でもさ」
「費保達、ちゃんと協力してくれるんだろ?」
アタシは頷く。
「そうね」
「荷舟も用意する」
「火の合図も決める」
「祭りの日まで待つ」
顧大嫂が鼻を鳴らした。
「十分じゃないか」
「そうなのよ」
「じゃあ何が不満なんだい」
少し間が空く。
アタシは火を見る。
太湖、葦、静かな水面。
それから――
費保の言葉。
三日後……
「……待つだけだから」
ぼそっと呟く。
孫二娘が吹き出した。
「結局それかい!!」
「そうよ!!」
「待つだけが嫌なの!!」
「出たよ」
顧大嫂が肩を揺らす。
「病気だねぇ」
「留守番不適合症候群だ」
「そんな病気無いわよ!!」
鍋の湯気が揺れる。
でも――
少しして、その笑いも静かになった。
アタシは、小さく息を吐く。
「でもね」
孫二娘も顧大嫂も黙る。
「兵は休める」
「馬も休める」
「湖州で怪我した人達もいる」
湿った風が、静かに吹いた。
「だから」
「三日待つのは正しいのよ」
顧大嫂が頷く。
「分かってるんだねぇ」
「分かってるわよ」
アタシは苦笑する。
「好きじゃないだけ」
孫二娘が笑った。
「子供かョ!!」
「否定出来ないわね」
また小さな笑いが戻る。
外では、湖州攻略を終えた兵達の声が聞こえていた。
誰かは飯を食い、
誰かは眠り、
誰かは武器を手入れしている。
戦は、まだ終わっていない。
だからこそ――
今だけは、休まなければならない。
夜は、何も答えない。
ただ静かなまま――
三日後の火を待つ二路軍と、
待つのが嫌で仕方ないアタシだけを、
湿った風の中へ、静かに残しているみたいだった。
「証拠は」
低い声だった。
周囲の男達も、まだ刃を下ろさない。
葦の奥では、さらに人が動いている気配もある。
楡柳荘側も、本気で警戒していた。
李俊が、小さく息を吐く。
「疑うのは分かる」
そのまま、ゆっくり両手を見せる。
「今の江南で、簡単に人を信じる奴は長生き出来ねぇ」
中心にいた大男の目が細くなる。
アタシは、舟の揺れを抑えながら眉をひそめた。
「だったら、いつまでも刃を向けてないでくれる?」
「口は達者だな」
返ってきた声に、少しだけ空気が緩む。
だが、まだ終わらない。
男は、李俊をじっと見ていた。
「梁山泊なら、水軍か」
「ああ」
「誰の配下だ」
「混江竜、李俊本人だ」
その瞬間だった。
周囲の空気が、はっきり変わる。
葦の奥で、小さく声が上がった。
「……李俊?」
「梁山泊の水軍頭領か?」
男達が、互いに顔を見合わせる。
中心の大男も、ようやく朴刀を少し下げた。
「本当に梁山泊かよ……」
李俊が、苦く笑う。
「だから最初からそう言ってんだろ」
中心にいた大男が、ようやく刃を下ろした。
「……悪かったな」
鉤縄も外される。
舟の揺れが、少し落ち着いた。
男は、改めてこちらを見る。
「俺は費保だ」
後ろの男達も、それぞれ名乗った。
「倪雲だ」
「狄成」
「上青」
李俊が、小さく頷く。
「名前は聞いた事がある」
費保が、まだ少し警戒を残したまま聞く。
「お前ら、本当に方臘討伐に来てんのか」
「ああ」
李俊が答える。
「湖州城は落ちた。次は蘇州だ」
その言葉に、費保達の空気が少し変わる。
嬉しそうでもない。
安心した訳でもない。
むしろ、妙に複雑だった。
倪雲が、吐き捨てるみたいに言う。
「勝っても、どうせ最後は朝廷が無茶苦茶するだろ」
誰も否定しない。
江南の空気だった。
梁山泊の名は知られている。 だが、“招安された梁山泊”も知られている。
費保が、静かに口を開く。
「……使い潰されるぞ」
風が吹き、太湖の水が小さく揺れた。
「方臘を倒した後も、終わらねぇ」
「今度は別の戦へ回される」
「功を立てても、最後に笑うのは奸臣共だ」
李俊は、黙ったまま聞いている。
費保が、そのまま続けた。
「だったら――」
視線が、李俊へ向く。
「南へ行こうぜ」
葦が揺れる。
「海を渡ってよ」
「こんな国、捨てちまえば良いのさ」
空気が、少し止まる。
費保の目は、本気だった。
「暹羅でも何でも、何ならもっと南でもいい」
「水の上なら、俺達ゃどこでも生きられる」
「朝廷に首輪付けられて死ぬより、よっぽどマシだ」
李俊は、すぐには答えなかった。
ただ、静かな太湖を見ていた。
しばらく、誰も口を開かなかった。
葦が揺れる。
太湖の水だけが、静かに音を立てていた。
やがて、費保が小さく肩をすくめる。
「……まあ、今すぐ抜けろって話でもねぇ」
李俊が、ようやく視線を戻す。
費保は、そのまま続けた。
「ただ、蘇州だけは手ぇ貸してやる」
倪雲が頷く。
「方臘の連中が、この辺うろつかれるのも面倒だ」
「太湖は、俺達の縄張りだからな」
狄成が笑う。
上青も、葦の奥からこちらを見ていた。
李俊が、少しだけ笑う。
「助かる」
費保が、鼻を鳴らした。
「勘違いすんなよ」
「宋に義理立てしてる訳じゃねぇ」
「分かってる」
短いやり取りだった。
でも、その空気は悪くない。
アタシは、舟の縁へ肘を乗せたまま聞く。
「で、アタシは?」
その瞬間、費保達の顔から少し笑いが消えた。
太湖の風が、また静かに吹く。
「……ついて来るのか?」
空気が、少しだけ重くなる。
蘇州は、まだ先にあった。
費保は、蘇州の方角へ目を向けた。
「正面から行くなよ」
短い声だった。
李俊が眉を上げる。
「抜け道があるのか」
「水路がある」
「それと、荷を入れる門がある」
費保は、葦の奥を顎で示した。
「俺達が先に入る」
「夜になったら、内側から開けるぜ」
アタシは、少し目を細めた。
「また待つの?」
「待てるだろ?」
李俊が言う。
思わず顔が強張る。
玉楼が隣で、すぐに口を挟んだ。
「待てます」
「アンタが答えないでよ」
李俊が、少し笑った。
「湖州で上手く行った。蘇州でも、同じ手は使える」
「同じじゃねぇ」
費保が首を振る。
「蘇州は湖州より人の出入りが多いからな」
「だから、紛れるならこっちの方がやりやすい」
「しかも、俺達だぜ」
倪雲が肩をすくめる。
「まあ、慣れてる」
狄成が笑う。
「俺達の庭みたいなもんだ」
上青だけは、黙って蘇州の方を見ていた。
アタシは、太湖の水を見る。
また、夜を待つ。
また、誰かが中へ入る。
また、銅鑼が鳴るまで動けない。
「……分かったわよ」
そう答えると、費保が少しだけ笑った。
「話が早いな」
「早くしないと、気が変わるからね」
太湖の風が、葦を揺らした。
蘇州城は、まだ見えない。
でも、次の夜の事は、もう決まり始めていた。
費保は、蘇州の方角を見たまま言った。
「三日後の夜だ」
アタシは眉をひそめる。
「今夜じゃないの?」
「急げばいいってもんじゃねぇ」
費保が短く返す。
「蘇州は湖州よりでかい」 「人の出入りも多い」 「その分、紛れやすいが、しくじれば、すぐやられるぜ」
李俊が頷く。
「準備が要るか」
「ああ」
費保は、指を折るように続けた。
「荷舟を一つ用意する」
「米と塩を積む」
「俺達は水夫として入る」
「三日後の夜なら、荷の出入りが増える」
倪雲が横から言う。
「その日は祭りもある」
狄成が笑った。
「袖の下も効きやすいしな」
上青は、静かに蘇州の方を見ている。
費保が、こちらへ視線を戻した。
「合図は銅鑼じゃねぇ」
「火だ」
「火?」
「外門の上に、赤い火を二度」
「それが見えたら、二路軍を寄せろ」
アタシは、太湖の水面を見る。
三日も、また待つ。
今度は一晩じゃない。
三日も、何も出来ずに待つ。
「……長いわね」
玉楼が、すぐに言う。
「必要な時間です」
「分かってるわよ」
でも、気に入らない。
費保が少しだけ笑った。
「待てるんだろ?」
アタシは、睨み返した。
「待てるけど、好きじゃないのよ」
太湖の風が吹く。
蘇州城は、まだ遠い。
でも、次の夜襲は、もう形を持ち始めていた。
太湖を離れ、アタシ達は二路軍の宿営地へ戻る。
蘇州城は、まだ遠くに灯を浮かべていた。
幕舎の中は静かだった。
湖州を落とした直後とは思えないくらい、兵達は疲れ切っている。
それでも、完全には休めていない。
中央の幕舎へ入ると、朱武がすぐ顔を上げた。
「戻りましたか」
卓の上には、もう蘇州周辺の地図が広げられている。
林冲もいる。
他の頭領達も、何人か集まっていた。
アタシは、そのまま腰を下ろす。
「良い事があったわよ」
朱武が眉を動かす。
「何かありましたか?」
「楡柳荘の連中と会った」
李俊が答えた。
幕舎の空気が、少し変わる。
朱武が静かに頷く。
「太湖の水上勢力ですか」
「ああ」 「費保、倪雲、狄成、上青」
李俊が名前を並べる。
林冲が、腕を組んだまま聞く。
「敵か」
「違う」
李俊は首を振った。
「蘇州だけは手を貸すそうだ」
そのまま、 三日後の夜襲計画を説明していく。
荷舟偽装、祭りの日、水路潜入、火の合図。
朱武は、途中から完全に地図へ視線を落としていた。
「……成程ですね」
指が、蘇州の水路をなぞる。
「確かに、正面から攻めるより遥かに現実的です」
「だろ?」
費保達の言葉を思い出しながら、李俊が笑う。
だが、朱武はすぐ顔を上げた。
「ですが、潜入側が裏切れば終わります」
幕舎が、少し静かになる。
アタシは、すぐに答えた。
「多分、大丈夫よ」
「理由は?」
「方臘が嫌いそうだったから」
数人が、微妙な顔をした。
玉楼が、小さくため息を吐く。
「雑です」
「でも間違ってないでしょ?」
朱武は、少しだけ笑った。
「……確かに、間違ってはいませんね」
アタシは、地図の横へ視線を落とす。
三日。
長い。
でも――
三日だけど、兵達も少しは休めるはず……
実は、アタシが元気過ぎるだけなのかも――
夜は、相変わらず静かでした。
銅鑼もありません。
馬の嘶きも、怒号もありません。
あるのは、湿った風と、鍋の煮える音だけです。
その中で――
孫二娘殿と顧大嫂殿は、今日も鍋を囲んでおられました。
三日待機と聞いても鍋。
蘇州潜入の話を聞いても鍋。
もはや戦況より鍋の具材の方が重要なのかもしれません。
――閑話休題
「で?」
孫二娘殿が、鍋を混ぜながら笑います。
「今度は、“三日待てって言われて拗ねてた回”だったんだって?」
顧大嫂殿が酒を煽りました。
「しかも本人は“不満じゃない”と言い張ってるらしいねぇ」
幕舎の外から、すぐ声が飛びます。
「不満じゃないわよ!!」
孫二娘殿が吹き出しました。
「出たよ!!」
「一番不満そうな声!!」
「違うのよ!!」
また外から返って来ます。
「正しいのは分かってるの!!」
「でも長いの!!」
顧大嫂殿が肩を揺らしました。
「うわ、面倒臭いねぇ」
「理解してるのに納得してない奴だ」
小さな笑いが広がります。
鍋の煮える音だけが、静かに続いていました。
私は、その湯気を見ながら小さく目を伏せます。
三日という時間は、短くはありません。
ですが――
長いとも言い切れないのでしょう。
湖州城の戦で疲弊した兵。
傷付いた馬。
補給。
装備の修理。
次の戦へ向けた準備。
それらを整えるには、必要な時間だったはずです。
私は静かに口を開きました。
「……費保殿達の判断は正しかったのでしょう」
孫二娘殿が、少しだけ笑いを止めます。
「慎重だったって事かい?」
私は頷きました。
「はい」
「蘇州は湖州より大きい」
「人も多い」
「警戒も強い」
「急いで失敗するより、準備した方が良いのでしょう」
湿った風が、静かに吹き抜けます。
その時――
顧大嫂殿が、急にニヤつきました。
「で?」
「玉楼は三日待てるのかい?」
外が、一瞬だけ静かになります。
それから――
「……待てます」
ぼそっと返事を返しました。
孫二娘殿が腹を抱えて笑います。
「即答だ!!」
「さすが侍女だねぇ!!」
「待つのも仕事ですので」
また外から声が飛びます。
「この人ね!!」
「三日あったら三日分観察するのよ!!」
「怖いのよ!!」
顧大嫂殿が酒を吹きかけました。
「うわ、“暇になるほど周囲を調べ始める侍女”だ!!」
「休んでないじゃないか!!」
笑い声が広がります。
ですが――
その笑いも、少しずつ静かになっていきました。
鍋の湯気が、夜へ溶けます。
私は、小さく息を吐きました。
「……ですが」
「休む事も戦の一部なのでしょう」
孫二娘殿も、顧大嫂殿も何も言いません。
私は静かに続けます。
「戦場では前へ進む事ばかりが語られます」
「ですが」
「進む為には、止まる時間も必要です」
少し間を置きます。
「焦れば失敗します」
「疲れれば判断も鈍ります」
「だから」
「今は待つべきなのでしょう」
湿った風が、静かに幕舎を揺らしました。
外から、小さく声が返って来ます。
「……分かってるのよ」
少し間が空きます。
「嫌なだけで」
孫二娘殿が笑いました。
「やっぱり子供じゃないか」
顧大嫂殿も頷きます。
「元気なのは良い事さ」
その言葉で、小さな笑いが戻りました。
私は、その声を聞きながら静かに目を伏せます。
湖州城は落ちました。
ですが――
蘇州は、まだ先です。
太湖の水も、
費保殿達の火の合図も、
まだ訪れてはいません。
だからこそ今は、
兵達も、
馬達も、
そして扈三娘様も――
少しだけ休む時間なのでしょう。
夜は、何も答えません。
ただ静かなまま、少しずつ――
三日後の火を待つ二路軍と、
待つ事だけは最後まで好きになれない扈三娘様の姿を、
湿った風の中へ、静かに残している様でした。




