勝ったのに、休めない
瓊英にやられて、右腕がまだ痛い。
「三娘、今日は大人しくしてなよォ」
「してるでしょ!」
顧大嫂がこっちを見る。
「刀、握ろうとしてたじゃないか」
「確認しただけ!」
「何を?」
「握れるかどうか!」
孫二娘が楽しそうに抱きついてきた。
「それを無理って言うんだよォ」
「心理学関係ない!」
「今回は普通の観察だねェ」
「余計にイヤだわ!」
顧大嫂が城の方を見る。
「まあ、何日か休めばいいさ」
「そうそう。戦だって、ずっと続くわけじゃないよォ?」
……その言葉だけは、信じたかった。
今度こそ、少しくらい休めると思っていた。
両軍が睨み合ったまま、数日が過ぎた。
襄垣の城門は閉じたまま、こちらも無理には押し込めない。
前へ出れば瓊英の石礫が飛び、距離を取れば城側の兵が間合いを詰めてくる。
押しているはずなのに、流れがこちらへ来ない。
それが、何より気持ち悪かった。
アタシの右腕には、まだ腫れが残っている。
刀は握れるけれど、力を込めた途端、石が手元へぶつかった衝撃と肩へ食い込んだ痛みが戻ってきた。
玉楼が包帯を確かめながら眉を寄せる。
「三娘様、まだお使いにならない方がよろしいかと」
「握れるってば」
「握れることと、戦えることは別でございます」
「最近、玉楼が容赦ない……」
「必要でございますので」
反論の余地を全部潰してくる。
少し離れたところでは、紅玉が襄垣の城壁を見ていた。
「あの人、見えているのに近づけないんですね」
「そうね」
「怖いです」
素直な言葉だった。
アタシは少し考えてから答える。
「怖いままでいいわ。怖くないふりして前へ出る方が危ないから」
紅玉は小さく頷いた。
以前なら、怖いと言ったあとに俯いていたかもしれない。
今は城を見たまま、敵との距離を測っている。
少しずつだけど、変わっている。
その時、幕舎の外から孫二娘が戻ってきた。
「水は回してきたよォ。兵の顔色はあんまり良くないねェ」
顧大嫂も続いて入ってくる。
「当たり前さ。攻められないのに、気を抜くわけにもいかない。こういう睨み合いが一番疲れるんだよ」
「分かるわ」
腕を軽く曲げてみると、すぐ玉楼に見られた。
何も言われていない。
でも分かる。
「……動かしただけよ」
「わたくし、何も申し上げておりません」
「その顔で言ってる!」
孫二娘が横から抱きついてくる。
「三娘、無理してないって言い張る時ほど分かりやすいねェ」
「してない!」
「その返事がもう怪しいよォ」
顧大嫂まで頷いた。
「顔に出てるね」
「出てない!」
紅玉がこちらを見て、少し迷ったあと口を開く。
「……少しだけ」
「紅玉まで!?」
孫二娘が楽しそうに笑う。
「多数決だねェ」
「心理学者が多数決で診断するな!」
「診断じゃないよォ。観察」
余計に嫌だ。
でも、笑えるくらいには余裕が戻っていた。
襄垣の外では、大きな戦闘が起きないまま時間だけが過ぎていく。
こちらが動けば向こうも備え、こちらが止まれば向こうも止まる。
瓊英は無理に打って出ず、こちらも石礫の間合いへ兵を投げ込もうとはしなかった。
林冲も盧俊義も、焦って攻めるつもりはないらしい。
問題は、向こうが何を待っているかだった。
「瓊英が止めてるだけなのかな?」
アタシが城を見ながら言うと、孫二娘が肩へ顎を乗せてくる。
「三娘ォ、肩借りるよォ」
「もう乗せてるでしょ!」
「細かいこと気にするとストレス増えるよォ」
「原因が言うな!」
顧大嫂が城門を指した。
「二人とも、あれ見な」
襄垣の城門の上で動きがあった。
見張りの声が飛び、周囲の兵が一斉にそちらを見る。
閉じたままだった門が、ゆっくり開いていく。
「動いた」
玉楼がすぐ隣へ来た。
アタシも立ち上がる。
右腕に鈍い痛みが走ったが、今はそちらを気にしていられない。
門の奥から、二騎が進み出てきた。
先頭の一騎を見た途端、味方の陣がざわつく。
「張清?」
間違いない。
こちら側にいるはずの張清が、襄垣の中から出てきた。
しかも一人ではない。
隣には若い女がいる。
二人の間には白旗が掲げられていた。
「何で張清が城の中にいるの?」
「三娘が寝かされてた間に、色々あったみたいだねェ?」
孫二娘が妙な言い方をする。
「聞いてない!」
「寝てたからねェ」
「寝かされたの!」
玉楼が横で頷いた。
「はい、わたくしが寝かせました」
「そこ確認しなくていい!」
張清と女は、ゆっくりこちらへ近づいてくる。
女の腰には見覚えのある袋があった。
それを見た瞬間、右腕の奥が疼いた。
あの女だ。
丘の上から石を投げ、アタシを一歩も近づけさせなかった相手。
張清の隣の女が馬を止めた。
「戦は終わりです」
ざわめきが大きくなる。
女は臆する様子もなく、こちらを見渡した。
「田虎は捕らえられました。これ以上、襄垣で戦う理由はありません」
意味を飲み込むまで、少し時間がかかった。
田虎が捕まった。
つまり、本当に終わった。
「……いつ?」
思わず漏れた。
孫二娘が横を見る。
「三娘が寝てる間じゃない?」
「全部そこに集約しないで!」
あとで聞いた話では、張清と安道全が密かに襄垣へ入り、瓊英の内側へ食い込んでいたらしい。
そこから田虎を捕らえる流れまで一気に進み、アタシたちが城外で睨み合っている間に決着していた。
何それ?
「アタシたち、外で何してたの?」
「睨み合いだねェ」
「知ってる!」
「ちゃんと敵を外へ引きつけてたんだから無駄じゃないよ」
孫二娘が珍しく真面目に慰めてくる。
「その言い方だと余計に脇役感ある!」
顧大嫂が吹き出した。
女がこちらを見た。
視線が合う。
近くで見ると、思っていたより若い。
それでも、あの石を投げた時と同じ目をしている。
怯えていない。
アタシは右腕を押さえたまま尋ねた。
「……あなたなのね」
女は目を逸らさなかった。
「瓊英です」
やっぱり……
その名前を聞くと、身体の方が先に思い出した。
まともに勝てなかった。
姿は見えていたのに近づけず、最後には玉楼に引きずられて戦場を離れた。
悔しくないと言えば嘘になる。
けれど、瓊英がここで降ったなら、もうアタシが再戦する理由もない。
「見事だったわ」
瓊英の目がわずかに動く。
「こちらも、必死でした」
それだけだった。
勝ち誇りもしないし、謝りもしない。
たぶん、それでいい。
すると張清が妙に改まった顔をした。
「それと……瓊英は、俺の妻だ」
「は?」
アタシより先に孫二娘が反応した。
「展開早すぎないかァ?」
「二娘!」
「いや、だって数日前まで敵だったよォ?」
顧大嫂まで瓊英と張清を見比べている。
「石礫使い同士って、そういうもんなのかね?」
「どういうものよ!」
瓊英が少しだけ困った顔をした。
そこだけは、さっきまでの女将軍ではなく普通の若い娘に見えた。
田虎捕縛の知らせが広がると、襄垣の城門は完全に開かれた。
捕虜や物資の確認が始まり、使者が何度も行き来する。
田虎軍との戦が終わったことで、別方面を進んでいた宋江軍とも再び合流することになった。
久しぶりに見知った顔が増えていく。
その中に李俊を見つけた時、胸が少しだけ軽くなった。
向こうもアタシを見つけた。
真っ先に右腕へ目が行く。
来る。
絶対あれが来る。
李俊が近づいてきて、口を開いた。
「無事か?」
やっぱり!
「……腕以外は」
「なら無事じゃねえだろ」
「生きてるから無事!」
「基準を下げるな」
孫二娘がいつの間にか横にいる。
「三娘、嬉しそうだねェ?」
「どこが!?」
「顔」
「また顔!」
李俊まで少し笑った。
腹立つ〜……
でも、その顔を見たら本当に少し安心した。
田虎戦が終わった以上、しばらくは休める。
そう思った。
本当に、そう思った。
朝廷からの使者が到着したのは、その後だった。
勝利への恩賞が出ると聞いて兵たちの空気が明るくなる。
アタシにも褒美が渡されたけれど、右腕がまだ痛むせいか、手にした重さを素直に喜ぶ気にはなれなかった。
それでも、終わった。
やっと終わった。
ところが恩賞の話が済むと、次の命令が伝えられた。
「淮西へ向かい、王慶を討て」
一瞬、聞き間違いかと思った。
幽州の前から引き戻され、田虎を討てと言われた。
田虎を捕らえたら、今度は王慶?
「……休みは?」
誰も答えない。
「ないの?」
孫二娘が肩をすくめた。
「なさそうだねェ?」
「ブラック企業でももう少し間を空けない!?」
「三娘、それ朝廷に言えるかい?」
顧大嫂の問いには答えられなかった。
出立の準備が始まった頃、林冲に呼ばれた。
そこには李俊もいた。
さっきとは違い、顔が険しい。
「まだ宋江についていくのか?」
李俊は林冲ではなく、アタシを見ていた。
「遼征伐で退かされ、田虎が終われば王慶だ。次はどこだ? いつまで使われる」
答えられない。
だって、アタシだって同じことを考えている。
「……分かってるわよ」
「なら」
「でも、アタシは林冲についていくって決めたの」
李俊の目が細くなる。
「宋江じゃない」
自分でも驚くくらい、言葉はすぐに出た。
「アタシがついていくと決めたのは林冲よ。だから今は行く。でも、朝廷の命令を何でも喜んで聞くって意味じゃない」
林冲は黙っている。
李俊もすぐには答えなかった。
やがて息を吐く。
「……そうか」
怒っているようにも見える。
でも、アタシへ怒っているわけじゃない。
それが分かるから、余計につらかった。
「李俊」
呼ぶと、足を止めた。
何を言おう。
戻ったら舟に乗せるって言ったじゃない。
アンタも戻るって言ったじゃない。
色々浮かぶ。
結局、出たのは一つだけだった。
「ちゃんと戻ってきてよ」
李俊が振り返った。
少しだけ間を置いて、いつもの顔に戻る。
「お前もな」
それで十分だった。
林冲が歩き出す。
アタシもその後へ続いた。
田虎には勝った。
瓊英には勝てなかった。
それでも戦は終わり、今度は淮西へ向かわされる。
右腕にはまだ石礫の痛みが残っている。
隣には玉楼がいる。
後ろでは孫二娘と顧大嫂が何か言い合い、紅玉もその声を聞きながら歩いている。
そして別の隊列には、李俊がいる。
休ませてもらえないなら、生きて戻るしかない。
淮西へ向かう風は、乾いていた。
玉楼でございます。
田虎は捕らえられました。
「終わったねェ」
「終わりました」
顧大嫂様が腕を組みます。
「じゃあ次は?」
「休息ではございませんか?」
孫二娘様が笑いました。
「玉楼、それ三娘より楽観的だよォ?」
ほどなくして、王慶討伐の命が下りました。
「本当に次が来たね」
「早すぎませんか?」
「朝廷に心理的距離感を求めても無駄だよォ」
「そういう問題なのでございましょうか?」
向こうでは三娘様が叫んでおります。
「休みどこ〜!?」
わたくしも知りたいところでございます。
ですが、行き先はもう決まりました。
次は――淮西でございます。




