静湖の鉤縄
「で?」
孫二娘が、鍋を混ぜながら笑う。
「今度は、“湖州落とした翌日に李俊と舟遊びに行ってた回”なんだって?」
顧大嫂が酒を煽った。
「しかも本人は偵察だと言い張ってるらしいねぇ」
「偵察よ!!」
即座に声が飛ぶ。
孫二娘が吹き出した。
「ウソだねェ!!」
「李俊付きで?」
「関係無いでしょ!!」
「舟で?」
「偵察よ!!」
「太湖で?」
「だから偵察だってば!!」
顧大嫂が肩を揺らした。
「嫌だねぇ」
「言えば言うほど見苦しい」
小さな笑いが広がる。
鍋の煮える音だけが、小さく続いていた。
アタシは思わず額を押さえる。
「アンタ達ねぇ……」
「だってねェ」
孫二娘がニヤニヤする。
「湖州落としたばっかりだろ?」
「普通は休むんだよ」
「そうよ」
「だから偵察なの」
「何がだからなんだい」
顧大嫂が酒を飲みながら笑った。
「で?」
「誰が行くって言ったんだい」
「李俊」
「ほら」
「何がほらよ」
「で?」
孫二娘が続ける。
「その次に何て言ったんだい」
アタシは少しだけ黙った。
嫌な予感しかしない。
孫二娘は笑いを堪えながら続ける。
「“アタシも行く”だろ?」
「…………」
「言ったんだ」
「言ったわよ」
「即答で?」
「即答だったわね」
顧大嫂が腹を抱えた。
「うわ、考える時間ゼロだ」
「待ってる方が嫌だったのよ!!」
「出たよ」
孫二娘が肩を揺らす。
「落ち着きの無い小彪将様だ」
「留守番向いてないんだよ」
「否定出来ないわね……」
小さくため息を吐く。
その時だった。
孫二娘が、わざとらしく首を傾げる。
「じゃあ聞くけどさ」
「朱武だったら?」
「行かない」
即答だった。
一瞬だけ静かになる。
それから――
孫二娘と顧大嫂が同時に吹き出した。
「即答じゃないか!!」
「違うのよ!!」
「何が違うんだい!!」
「朱武は軍議担当でしょ!!」
「李俊は?」
「水軍担当!!」
「つまり?」
「偵察よ!!」
顧大嫂が酒を吹きかけた。
「便利だねぇ、その言葉」
笑い声が広がる。
でも――
少しして、その笑いも静かになっていった。
アタシは火を見る。
湖州城、戦後処理、太湖、静かな水面……
そして――
葦の向こうに見えた小さな荘。
「……でもね」
小さく息を吐く。
「妙だったのよ」
孫二娘の笑いが少し収まる。
顧大嫂も黙って聞いていた。
「静かだった」
「静か過ぎたの」
湿った風が、静かに吹き抜ける。
鍋の湯気が揺れた。
「湖州落ちた直後なのに?」
「そう」
アタシは頷く。
「人が居る気配はある」
「でも動かない」
「見てるのに出て来ない」
少し間が空く。
「だから嫌な感じがしたのよ」
孫二娘が鍋を混ぜる手を止めた。
顧大嫂も酒を置く。
太湖は静かだった。
でも――
戦が終わった後の静けさじゃない。
何かを待っている静けさだった。
夜は、何も答えない。
ただ静かなまま――
湖州の喧騒を背に離れていく小舟と、
葦の奥からこちらを見ていた誰かの視線だけを、
湿った風の中へ、静かに残しているみたいだった。
湖州城の中は、完全に崩れ始めた。
甕城を抜けた梁山泊軍が、次々と城内へ広がっていく。
狭い路地へ、怒号が反響する。
「前へ!」
「守将を逃がすな!」
松明の火が増える。
ようやく隊列を組み始めた城兵達が、各所で押し返そうとしていた。
だが、もう遅い。
混乱したまま動き始めた兵では、梁山泊側の勢いを止め切れない。
時遷は、その騒乱の中を抜けていく。
白勝は、もう息が荒かった。
「っ……どこまで行く気だよ……!」
「奥だ」
落ち着いた返事。
その時だった。
前方の路地から、馬が飛び出してくる。
城兵達を押し退けるように、数騎が一気に駆け込んできた。
「退け!」 「道を開けろ!」
守将達の騎兵だ。
逃げ道を作る為に、無理やり前へ出てきている。
時遷の目が細くなる。
「来るぞ」
次の瞬間、狭い路地で馬がぶつかった。
槍に突かれ、壁へ叩き付けられる音と悲鳴。
その中を、アタシと玉楼が駆ける――
「そこっ!」
玉楼が叫ぶ。
甕城を抜けた先は、もう完全な乱戦だった。
梁山泊軍が押し込み、城兵が押し返し、狭い路地で人と馬が詰まっている。
その真正面から、数騎の騎兵が突っ込んできた。
「退けぇッ!」
守将達だった。
城兵を押し退けながら、無理やり突破しようとしている。
先頭の男が、鎧越しにも分かるほど焦っていた。
周囲の兵が叫ぶ。
「弓温様を通せ!」
アタシの目が細くなる。
「あれがね」
次の瞬間、馬腹を蹴った。
正面から踏み込む。
通りが狭く、逃げ場が無い。
守将側も、まさか正面から騎馬で突っ込んで来るとは思っていなかった。
「な――!」
弓温が槍を構える。
アタシは、真正面から突っ込んだ。
狭路で、馬が擦れ違う。
その瞬間――
日月双刀が走る。
火花と血しぶき。
弓温の身体が、馬上で真っ二つになって、崩れ落ちる。
後ろの騎兵達が止まる。
狭い通路は、一騎崩れれば全部詰まる。
まして、先頭が死ねば終わりだった。
「行きますよ!」
玉楼の声が飛ぶ。
梁山泊軍が、一気に押し寄せる。
湖州城の兵達は、もう逃げ場すら失い始めていた。
弓温の身体が馬上から崩れ落ちた瞬間、空気が変わった。
城兵達の動きが、明らかに止まる。
「……え?」
誰かが、間の抜けた声を漏らした。
狭い路地の中で、弓温の馬だけが暴れている。
その足元へ、真っ二つになった身体が転がっていた。
血が、濡れた石畳へ広がっていく。
城兵達の顔から、色が消える。
「弓温様が……」
「討たれた……?」
誰も、すぐには理解出来なかった。
だが、理解した瞬間、一気に崩れる。
後ろへ下がる者、槍を落とす者、逃げ道を探して振り返る者―
狭い路地の中で、恐怖だけが広がっていった。
「押せぇッ!」
梁山泊側の怒号が響く。
その瞬間、城兵達の隊列が完全に割れた。
もう、“戦”になっていない。
城兵達は逃げ惑い、押し合い、倒れた仲間すら踏み越えていく。
湖州城が落ちるのも、時間の問題だった。
夜が明け始める頃には、湖州城の抵抗はほとんど終わっていた。
あちこちで、まだ小競り合いの音は残っている。
でも、夜中みたいな怒号はもう無い。
城兵達も、完全に戦意を失っていた。
武器を捨て、壁際へ座り込む者、そのまま逃げようとして捕まる者、呆然と、燃え始めた建物を見上げている者――
湖州城の中には、敗戦の空気だけが広がっていた。
アタシは、馬を進める。
濡れた石畳には、まだ血が残っていた。
踏み荒らされた槍、折れた剣、転がったままの死体。
玉楼が、周囲を警戒しながら口を開く。
「残党は、ほぼ掃討された様です」
「そう」
短く返す。
勝った。
湖州城は落ちた。
でも、不思議と実感は薄い。
昨夜は、あれだけ銅鑼を待っていたのに。
今は、静かな城の方が気になる。
――太湖の波の音が聞こえる……
幕舎の中には、まだ夜明けの冷えが残っていた。
外では、湖州城の戦後処理が続いている。
捕虜の確認、兵糧の運搬、死体の整理。
怒号が消え、代わりに疲れ切った声が増えている。
アタシは、椅子へ腰を下ろしたまま息を吐く。
ようやく終わった。
……いや、終わってはいない。
湖州城を落としただけだ。
卓の向こうでは、李俊が濡れた上衣を脱ぎながら笑っていた。
「いやぁ、今回は骨が折れたな」
「アンタのとこ、水門だったものね」
「時遷が居なきゃ、ヤバかった」
その言葉に、時遷は壁際で肩をすくめるだけだった。
白勝は、もう卓へ突っ伏している。
「二度とやりたくねぇ……」
「毎回そう言ってるじゃないかい」
孫二娘が笑う。
その横で、顧大嫂は腕を組んでいた。
「でも、上手く行き過ぎた位だよ」
「まあね」
アタシも頷く。
正直、途中で何度か失敗かと思っていた。
湖州城は、もっと食い付いて来ると思っていた。
玉楼が、静かに口を開く。
「弓温討死が大きかったのでしょう」
幕舎が、少し静かになる。
確かに、あそこで完全に崩れた。
李俊が、卓へ肘を乗せる。
「大将がやられると、ああなる場合が多いぜ」
「逆に、残る奴は残るけどねぇ」
孫二娘が肩をすくめる。
顧大嫂が鼻を鳴らした。
「今回は逃げる方だったって事さ」
外から、微かに波の音が聞こえる。
湖州城は落ちた。
でも、方臘討伐戦は、まだ終わっていない。
湖州城を落としても、休む暇は無かった。
蘇州方面の様子を探る必要がある。
誰が残っているのか。
方臘軍がどこまで防備を固めているのか。
水路は使えるのか。
それを見なければ、次へ進めない。
李俊が、卓へ地図を広げながら言った。
「太湖沿いなら、俺が一番適任だな」
「じゃあ、アンタが行くのね」
「ああ」
その瞬間、反射で言ってしまった。
「アタシも行く」
幕舎内が少し静かになる。
李俊が、顔を上げた。
「……マジかよ」
「待ってる方が嫌」
後ろで、孫二娘が吹き出す。
「出た、出た」
顧大嫂も、呆れた様に鼻を鳴らした。
「留まっているのは、性に合わないんだろ」
「否定出来ないわね」
玉楼は、もう当然みたいな顔で立っている。
「私も同行致します」
「アンタは来ると思った」
孫二娘が肩をすくめる。
「相変わらずだねぇ」
朱武は呆れている。
林冲は背中を押してくれる。
「行け……」
外では、まだ戦後処理の声が続いていた。
だが、梁山泊側はもう次を見始めている。
太湖の水は、まだ静かだった。
太湖へ出港する頃には、空も少し白み始めていた。
湖州城の喧騒は、もう遠い。
小舟が、水を裂きながら静かに進む。
櫂を握っているのは童猛だった。
水の上へ出た途端、動きが変わる。
湖の流れを見る目だった。
アタシは舟の縁へ腕を乗せる。
「静かね」
「静かな時ほど、怖ぇんだよ」
李俊が前を見たまま返す。
玉楼も、周囲から視線を外さない。
葦が揺れ、水鳥が飛ぶ。
それだけなのに、妙に気が張る。
湖州城を落とした後なのに、まだ身体が休まっていなかった。
李俊が、不意に童猛に櫂を止めさせる。
「……妙だな」
空気が変わる。
アタシも顔を上げた。
前方、水辺の奥。
葦に隠れるように、小さな荘が見えていた。
人の気配がある。
だが、静か過ぎる。
玉楼の手が、柄へ掛かる。
「見られています」
次の瞬間だった。
水が跳ねる。
鉤縄が、舟の舳先へ飛んできた。
「っ!?」
同時に、左右の葦が大きく揺れる。
男達が、一気に姿を現した。
「動くな!」
「方臘軍か!?」
刃が向く。
アタシは、思わず眉をしかめた。
「違うわよ!」
言い返した瞬間、鉤縄がさらに飛んでくる。
舟の縁へ喰い付き、強引に引かれた。
「っ……!」
舟が大きく揺れる。
玉楼が、反射で刀へ手を掛ける。
だが、その前に李俊が低く言った。
「待て」
「李俊様!?」
「殺気が薄い」
短い声だった。
確かに、妙だった。
囲まれている。
刃も向けられている。
なのに、“殺す為の囲み方”じゃない。
葦の中から現れた男達は、こちらを睨みながらも距離を測っていた。
その中心にいた大男が、低い声で言う。
「方臘軍じゃねぇのか」
「違うって言ってるでしょ」
アタシが睨み返す。
男は、こちらをじっと見る。
李俊へ。 玉楼へ。 そして、アタシの日月双刀へ。
「……その得物」
空気が少し変わった。
李俊が、ゆっくり口を開く。
「梁山泊だ」
葦が揺れる。
周囲の男達が、一瞬だけ顔を見合わせた。
だが、まだ刃は下りない。
「証拠は」
疑いは消えていなかった。
夜は、相変わらず静かでした。
銅鑼もありません。
馬の嘶きも、怒号もありません。
あるのは、湿った風と、鍋の煮える音だけです。
その中で――
孫二娘殿と顧大嫂殿は、相変わらず鍋を囲んでおられました。
湖州城が落ちても鍋。
太湖へ出ても鍋。
もしかすると、このお二人は鍋を中心に生活しているのかもしれません。
――閑話休題
「で?」
孫二娘殿が、鍋を混ぜながら笑います。
「今度は、“舟遊びのつもりが鉤縄飛んで来た回”だったんだって?」
顧大嫂殿が酒を煽りました。
「偵察って便利な言葉だねぇ」
「偵さ……」
私が答える前に、外から声が飛びます。
「偵察よ!!」
孫二娘殿が吹き出しました。
「必死だねぇ!!」
「だって本当に偵察だったのよ!!」
「李俊付きで?」
「関係無いでしょ!!」
「舟で?」
「偵察よ!!」
「太湖で?」
「だから偵察だってば!!」
顧大嫂殿が肩を揺らしました。
「もういいよ」
「そこは諦めな」
小さな笑いが広がります。
鍋の煮える音だけが、静かに続いていました。
私は、その湯気を見ながら小さく目を伏せます。
太湖は静かでした。
静か過ぎる程に……
湖州城を落とした直後とは思えないほど、人の気配が薄かったのです。
私は静かに口を開きました。
「……妙だったのでしょう」
孫二娘殿が、少しだけ笑いを止めます。
「待ち伏せかい?」
私は小さく頷きました。
「はい」
「ですが、方臘軍ではありませんでした」
「それが余計に厄介だったのでしょう」
湿った風が、静かに吹き抜けます。
その時――
顧大嫂殿が、急にニヤつきました。
「で?」
「玉楼はまた最初に気付いてたんだろ?」
外が、一瞬だけ静かになります。
それから――
「……見られている気はしておりました」
ぼそっと返事を返しました。
孫二娘殿が腹を抱えて笑います。
「出た!!」
「また気付いてた!!」
「だって!!」
また外から声が返って来ます。
「この人、“妙ですね”って言った直後に鉤縄飛んで来たのよ!?」
「怖いのよ!!」
顧大嫂殿が酒を吹きかけました。
「うわ、“死亡フラグ察知能力持ち侍女”だ!!」
「便利だねぇ!!」
笑い声が広がります。
ですが――
その笑いも、少しずつ静かになっていきました。
鍋の湯気が、夜へ溶けます。
私は、小さく息を吐きました。
「……ですが」
「相手も警戒していたのでしょう」
孫二娘殿も、顧大嫂殿も何も言いません。
私は静かに続けます。
「鉤縄は飛んで来ました」
「武器も向けられました」
「囲まれました」
少し間を置きます。
「ですが」
「最初から殺すつもりなら、もっと違う動きをします」
湿った風が、静かに幕舎を揺らしました。
外から、小さく声が返って来ます。
「……確かにね」
「妙だったのよ」
私は頷きます。
「はい」
「だから李俊殿も止められたのでしょう」
「殺気が薄い、と」
鍋の音だけが、小さく続きました。
孫二娘殿が、小さく笑います。
「つまり」
「向こうも“誰だコイツら”だった訳だ」
「その様ですね」
顧大嫂殿も頷きました。
「戦より面倒だねぇ」
「疑ってる相手の方が厄介さ」
その言葉で、小さな笑いが戻ります。
私は、その声を聞きながら静かに目を伏せました。
湖州城は落ちました。
ですが――
太湖には、まだ別の人々がいました。
方臘軍でもなく、
梁山泊でもない者達。
そして、その出会いが何を意味するのかは、
まだ誰にも分かっていなかったのでしょう。
夜は、何も答えません。
ただ静かなまま、少しずつ――
太湖の葦の奥から現れた男達と、
その正体を探ろうとしていた小舟だけを、
湿った風の中へ、静かに残している様でした。




