斬れるのに、届かない
やっと公孫勝が来た。
「これで妖術とはお別れ! 次は普通に斬れる相手がいい!」
孫二娘が肩へ腕を回してくる。
「三娘、それフラグっぽいねェ」
「何の!?」
顧大嫂まで笑った。
「普通に斬れない相手が来るんじゃないかい?」
「縁起でもないこと言わないで!」
「じゃあ、遠くから何か飛ばしてくる相手とかァ」
「もっと嫌!」
「当たると痛いやつ」
「範囲を広げるな!」
孫二娘が、にやっと笑う。
「嫌なものほど注意が向くのをネガティビティ・バイアスって――」
「今から心理学で呼び寄せないで!」
……妖術が終われば、少しは楽になると思っていた。
本当に、そう思っていた。
喬道清の剣が、公孫勝ではなく――アタシを指していた。
次の瞬間、黄砂がこちらへ向きを変えた。
さっきまで公孫勝と押し合っていた風が、一本の流れになって地面を這ってくる。
視界の端で何かが揺れ、目の前に人影が立った。
玉楼が馬を寄せる。
「三娘様!」
「見えてる!」
そう答えたのに、人影が二つ、三つと増えた。
唐斌たちを守っている敵兵とは違う。足元が砂に溶け、顔も定まらない。分かっている。幻だ。
でも、その向こうには本物の捕虜がいる。
「面倒くさい!」
斬れば時間を取られる。無視して進めば、本物が混じっているかもしれない。
喬道清が狙っているのは、それだ。
アタシを倒したいんじゃない。
止めたい。
「三娘! 捕虜を見ろ!」
公孫勝の声が今度は届いた。
同時に、彼が剣を横へ振る。
黄砂の上が裂けた。
青空が見える。
「玉楼!」
「はい!」
玉楼が右へ出たので、アタシは左へ回った。二人で幻の間を抜け、青空の下にいる兵だけを見る。
一人目の槍を日月双刀で外へ弾き、そのまま馬を進めた。二人目が横から入ろうとした瞬間、玉楼の槍が伸びて胸元を突き上げる。
「三娘様、前を!」
「分かってる!」
三人目はアタシが受けた。
敵の刀を左の刀で止め、右を返す。
男が馬上で崩れたところを抜けると、唐斌までの距離が一気に縮んだ。
その時だった。
喬道清がまた剣を動かす。
黄砂が持ち上がろうとした。
けれど、公孫勝がそれを許さない。
「何度も同じものを見せるな!」
風がぶつかった。
黄色い幕が途中で潰れ、今度は地面へ叩き落とされる。
「公孫勝、強っ!」
思わず声が出た。
「前を見ろ!」
「見てる!」
怒られた。
その間にも玉楼は進んでいた。
アタシが追いつくと、捕虜を囲んでいた兵がこちらへ槍を揃える。
「玉楼、開ける!」
「お願いいたします!」
日月双刀を交差させ、先頭の槍をまとめて外へ押し流した。
玉楼の槍が、その隙へ入る。
一人を馬から落とし、二人目を退かせる。空いたところへアタシが飛び込み、縄を握っていた男の刀を弾き飛ばした。
「唐斌!」
「来るなと言っただろう!」
「もう来ちゃったわよ!」
「なら早く切れ!」
助けられる側の態度じゃない。
でも、その方が唐斌らしかった。
縄へ刀を入れたが、一度では切れず、二度目でようやく落ちた。
唐斌が自由になった途端、近くにいた捕虜の縄へ手を伸ばす。
「先に他の者を!」
「脚やられてるんでしょ!」
「死んではいない!」
言い返す元気があるなら大丈夫そうね。
玉楼が周囲を押さえている間に、近くの兵も捕虜の縄を切り始めた。
そこへ林冲が追いつく。
蛇矛が一閃し、追いすがってきた敵兵が馬ごと横へ退いた。
「捕虜を下げろ! 追撃はするな!」
「はい!」
今回は誰も聞き返さなかった。
喬道清の術は、もう戦場を覆えていない。
黄砂は上がっても途中で崩れ、幻も形になる前に消える。
公孫勝が一歩進むたび、喬道清の馬が一歩下がった。
そして、ついに喬道清が剣を下ろした。
その軍勢も退いていく。
誰も追わなかった。
唐斌たちを取り戻した。
それで十分だった。
アタシは息を吐いてから、唐斌を見る。
「ねえ」
「何だ?」
「何であいつ、最後にアタシを狙ったの?」
唐斌が一瞬だけ黙った。
「お前が一番前にいたからだろう」
「それだけ!?」
玉楼が真面目な顔で頷く。
「やはり三娘様は目立っておられたのでございますね」
「そういう意味じゃない!」
後ろから追いついた孫二娘が笑った。
「自己注目が強くなってたねェ」
「妖術使いに狙われたら普通気にするでしょ!」
「特別な理由が欲しかったのかい?」
顧大嫂まで余計なことを言う。
「いらない!」
唐斌は呆れたようにこちらを見たあと、負傷した脚を引きずりながら味方の方へ歩いていった。
喬道清との戦いは、それで終わった。
術を破られ、捕虜まで奪い返された以上、これまでのようには戦えなかったのだろう。
その後、喬道清が降ったという知らせが届いた時も、アタシは驚かなかった。
むしろ思った。
長かった。
妖術使い、一人に何日使ったのよ。
「三娘、誰に文句言ってるのォ?」
「知らない!」
「メタっぽいねェ」
「気のせい!」
田虎との戦は、まだ終わっていない。
だから休んでいる暇もなかった。
軍を整え直したあと、次に動く敵の知らせが届く。
襄垣の方へ田虎軍が集まり、その中に女将軍がいるという。
その三文字で、嫌な記憶が戻った。
姿も見えない場所から飛んできて、刀へ当たり、こちらの動きを止めたあの石だ。
紅玉も覚えていたらしく、報せを聞いた途端にこちらを見る。
「三娘様……あの時の」
「まだ同じ相手とは限らないわ」
そう答えたけれど、自分でもあまり信じていなかった。
数日後、アタシたちは襄垣へ続く道を進んでいた。
林冲の隊が前へ出て、アタシと玉楼もその一角に入る。
紅玉はすぐ後ろ。孫二娘と顧大嫂は少し下がって、退路と負傷兵を受ける位置についていた。
今回は幻術ではなく、相手の姿が見えている。
それだけで、ずいぶん楽に思えた。
「三娘ォ、安心するの早いよォ!」
後ろから声が飛んできた。
「何で考えてること分かるの!?」
「顔!」
「また顔!?」
顧大嫂の笑い声まで聞こえる。
玉楼が前を見たまま言った。
「三娘様は分かりやすくて助かります」
「玉楼まで!?」
そんな話をしていられたのは、敵が見えるまでだった。
前方から騎兵が現れる。
先頭の男が槍を掲げた。
「盛本、ここにあり!」
「盛本?」
名前に聞き覚えがない。
「三娘様、参ります」
玉楼がもう槍を構えている。
「うん。早く終わらせよう」
盛本が突っ込んできた。
槍先が一直線にアタシへ伸びる。
身体をずらして外し、右の刀で柄を叩く。
盛本が引こうとしたところへ、玉楼が横から槍を入れた。
男がそちらを受けたので、空いた間合いへ馬を寄せる。
日月双刀の片方が槍を押さえ、もう片方が走った。
盛本は馬上から崩れ落ちた。
「終わり!」
「早かったねェ!」
「アンタ後ろにいるのに実況しないで!」
盛本を失った敵兵が退く。
林冲の指示で追撃は浅く止め、そのまま襄垣方面へ圧をかけた。
そこまでは良かった。
本当に、そこまでは。
少し先の丘に、新しい軍勢が見えた。
中央から一騎が進み出る。
馬上で戟を持ち、こちらを真っ直ぐ見ているのは若い女だった。
だが、その姿を見た瞬間、何かが引っかかった。
腰のあたりに小さな袋がある。
女の手がそこへ伸びた。
「三娘様!」
玉楼の声と、空気を裂く音が重なる。
反射で刀を上げた。
硬いものが手元へぶつかった。
衝撃が手首から肘まで走り、右の刀が大きく下がる。
石――
「こいつ……!」
あの時と同じだ。
姿が見えなかった石礫の使い手。
今度は見えている。
女がもう一度、腕を振った。
見えた。
見えたのに、避けきれなかった。
石が肩へ食い込み、腕の感覚が一瞬消える。
「三娘様、下がってください!」
「まだ行ける!」
「行けません!」
玉楼が前へ入る。
それを避けるように、三つ目が飛んだ。
アタシではなく、石は馬の首元へ当たった。
馬が悲鳴を上げて大きく跳ねる。
身体が浮いた。
手綱を引くけれど、右腕が動かない。
落ちる。
そう思った瞬間、玉楼がこちらへ馬を寄せた。
「三娘様!」
腕を掴まれる。
身体が鞍から半分外れたまま、玉楼に引き戻された。
「離して! まだ――」
「退きます!」
「でも!」
「二娘様!」
玉楼が叫ぶと、後ろから孫二娘の声が返った。
「道を空けるよォ! 負傷者が下がる!」
「負傷者ってアタシ!?」
「他に誰がいるんだい!」
顧大嫂まで怒鳴る。
「今はツッコんでる場合じゃないよ!」
それはそうだけど!
玉楼は聞く気がなかった。
自分の馬をアタシの馬へ寄せたまま、こちらの手綱まで取って下がり始める。
アタシが振りほどこうとしても、右腕に力が入らない。
丘の上では、女が次の石を手にしていた。
女は追ってこなかった。
追う必要がないのだ。
こちらが近づけない以上、距離そのものがあの女の武器になる。
悔しい。
見えているのに届かない。
女は、退いていくアタシたちを静かに見ていた。
その名を知ったのは、陣へ戻ってからだった。
瓊英――
アタシは、瓊英に一歩も近づけないまま、戦場から引きずり出された。
玉楼でございます。
本日は、三娘様を戦場から連れ戻しました。
「連れ戻したっていうか、ほぼ拉致だったねェ」
「必要な措置でございます」
顧大嫂様が笑います。
「三娘、ずっと『まだ行ける』って騒いでたじゃないか」
「行けた!」
「右腕が動かなかったよォ」
「左がある!」
「そういう問題ではございません」
三娘様は不満そうですが、瓊英殿へ近づけなかったのは事実でございます。
「次はどうするんだい?」
「まず三娘様を寝かせます」
「そこから!?」
はい、そこからでございます。
もっとも――三娘様がお休みになっている間に、別の方々が動き始めておりました。




