掴んでていいぞ
第100話である。
ここまで来たら、普通は派手に城へ突っ込む回じゃないの?
「三娘ォ、誰に聞いてるんだい?」
「読者!」
孫二娘が肩をすくめた。
「節目だから大事件が起きるって期待するのは、区切りに意味を持たせ過ぎだねェ」
「記念回まで心理学で潰さないで!」
顧大嫂が湖州城を見上げる。
「正面から行きたいなら止めないよ。死体になる覚悟があるならね」
「行かない! 百話目で死にたくない!」
二人が笑った。
その夜、決まった作戦は総攻撃ではなかった。
城へ入るのは――たった二人。
しかも一人は、ものすごく嫌そうな顔をしていた。
湖州城を前にして、二路軍はそのまま動かなかった。
動けなかった、と言った方が正しい。
城門は閉じ、壁の上には弓兵が並んでいる。
ここまで来る間に方臘軍は何度も補給を狙い、雨と泥まで味方につけてこちらを削ってきた。
その状態で正面からぶつかれば、相手が望んでいる通りに死者を増やすだけだった。
湖州城から一旦距離を置いた、その夜……
幕舎には盧俊義や林冲、朱武、李俊をはじめ、何人かの頭領が集まり、アタシ達も端に座っていた。
卓の中央には湖州城の地図が広げられている。
朱武はしばらく黙って城門と水門を見比べ、やがて水路側へ指を置いた。
「正面からは無理ですね」
誰も驚かない。
顧大嫂が腕を組んだ。
「昨日まで散々削られた後だからね。今さら『正々堂々行きましょう』なんて言われたら、アタシが止めるよ」
「止め方が物理的なんだよねェ」
孫二娘が横から口を挟む。
「安心しな。まず話は聞くよ」
「その『まず』が怖い!」
アタシが言うと、顧大嫂がこっちを見た。
「三娘が言うかい?」
「何でアタシまで殴る側扱いなのよ!」
玉楼は何も言わず、わずかに口元を緩めている。
最近この人、絶対に面白がってる。
朱武が咳払いした。
「続けますよ」
「すみません」
何となくアタシまで謝った。
孫二娘が笑いを堪えている。
朱武は水門の横を指でなぞった。
「湖州城は、こちらが疲れていることを知っています。だからこそ門を閉じ、こちらから攻めさせようとしているのでしょう。ならば、その前提を崩します」
李俊が地図を覗き込む。
「水路から入るのか?」
「はい、ただし船で近付けば気付かれます」
「杭もあるだろうな」
李俊のその一言で、アタシは反射的に顔を向けた。
目が合う。
「何だ?」
「別に」
「杭の話しただけだぞ?」
「分かってる!」
孫二娘が小さく笑った。
「まだ何も言ってないのに反応したねェ」
「アンタは作戦会議中くらい黙ってて!」
「三娘様?」
玉楼が穏やかに呼ぶ。
「はい!」
返事をしてから気付く。
まただ。
顧大嫂が吹き出した。
「返事まで玉楼に仕込まれてるじゃないか」
「今そこ拾わなくていいから!」
朱武が今度こそ完全に無視して話を進めた。
「船ではなく、人だけを入れます」
幕舎の隅にいた男が、そこで顔を上げた。
時遷だった。
嫌な予感がするくらい楽しそうに笑っている。
「やっと俺の出番か」
「はい、時遷殿には、水門近くの城壁から潜入していただきます」
「正面から殴るよりは性に合うな」
その隣で、白勝が露骨に嫌そうな顔をした。
「待てよ。何で俺まで呼ばれてるんだ?」
朱武は平然としている。
「城内へ入った後、兵に紛れてください」
「……は?」
「見張りの交代を利用します。時遷殿に道を作ってもらい、白勝殿は中で人の流れを乱してください」
白勝の顔がさらに険しくなる。
「人の流れって、どうやってだよ」
「方法はお任せします」
「一番嫌な言い方しやがった!」
孫二娘が頷いた。
「裁量権が広い仕事って、聞こえはいいけど責任も広いからねェ」
「何で心理職が俺を追い詰めるんだよ!」
「白勝、落ち着きな」
顧大嫂まで肩を叩く。
「生きて帰れば笑い話になる」
「帰れなかった場合を省くな!」
アタシは思わず顔を逸らした。
駄目だ。
笑ったら可哀想だと思って玉楼を見ると、ちょうど目が合った。
……あ、この人も笑いそう。
朱武が水門を指した。
「目的は、城門そのものを開けることではありません。水門の閂を外していただければ十分です」
李俊が頷く。
「内側の閂が外れりゃ、こっちで合わせられる。ただし、合図が来る前には動かねぇ」
「その通りです」
林冲が腕を組んだまま聞く。
「正面は?」
「待機です。敵がこちらを正面へ誘いたいなら、今夜は乗りません」
盧俊義はしばらく地図を見ていた。
やがて、一度だけ頷く。
「それで行く」
決まった。
大軍を動かす作戦なのに、やることは城壁へ二人入れて、水門の閂を外すだけだ。
ただ、その小さい綻びを作るために、失敗すれば二人は城内で死ぬ。
アタシは地図の水門を見た。
湖州城が黙って待っているなら、こっちも正面から答える必要はない。
夜は深かった。
雨は止んでいたが、水陽江から太湖へ続く水面はまだ濁り、ところどころ流れが速い。
城壁の上には見張りの火が点々と浮かんでいる。
こちらの陣も灯を絞っていた。
李俊の小舟が一艘だけ、岸の影を利用して進んでいく。
時遷と白勝が乗っていた。
櫂を水へ叩きつけず、そっと押すように動かしている。
アタシ達は少し離れた岸辺で待っていた。
林冲と朱武もこちらに残り、玉楼は方天画戟を地面へ立てて城壁を見つめている。
孫二娘と顧大嫂も後ろで息を潜めていた。
誰も大声を出せない。
こういう時に限って、孫二娘が耳元へ顔を寄せてくる。
「三娘ォ」
「何」
「呼吸浅いよォ」
「今?」
「今だからだよォ。待つしかない時って、人間は勝手に最悪の結果を想像しやすいからねェ」
「心理学講座を始めるには場所が悪過ぎない?」
「声出さないように話してるだろォ」
「そういう問題じゃない!」
顧大嫂が小声で割り込んだ。
「二人とも静かにしな。見張りより先にアタシが黙らせるよ」
「ほら、物理」
「三娘ォも巻き込まれるよォ」
「何で!?」
玉楼がこちらを振り向く。
「三娘様」
「はい」
また普通に返事してしまった。
玉楼は少しだけ首を傾げる。
「お静かに」
「……はい」
孫二娘の肩が震えた。
絶対笑ってる。
今は怒れないのが悔しい。
水面を見る。
小舟はもう城壁の影へ入っていた。
時遷が立つ。
遠くて細かいところまでは見えない。
ただ、縄らしいものを持った腕が動き、黒い影が城壁へ寄ったことだけは分かった。
その後、影が一つ消えた。
時遷だ。
「……行った」
思わず呟く。
李俊がすぐ横で水門を見ていた。
いつの間に来たのよ。
「見りゃ分かる」
「驚かせないで!」
「声」
「誰のせいよ!」
李俊の口元が少し動く。
笑ったな。
白勝はまだ下にいる。
しばらくすると、城壁の上から何かが垂れた。
縄だ。
白勝がそれを掴む。
「……本当に登るのね」
「登らなきゃ何しに来たんだよ」
「分かってるけど!」
白勝の影も、少しずつ城壁へ吸い込まれていった。
やがて、二人とも見えなくなる。
そこからが長かった。
城壁の上では、火が揺れている。
見張りも動いている。
それ以外には何も見えない。
中で何が起きているのか、アタシ達には分からなかった。
捕まったのか、まだ城内を進んでいるのか、それとも水門にすら辿り着けていないのか……
確かめる術もなく、ただ待つしかないことがこんなに嫌なものだとは思わなかった。
「三娘ォ」
また孫二娘が呼ぶ。
「今度は何」
「李俊の袖、掴んでるよォ」
「…………」
見る。
掴んでた。
いつの間に……
アタシはすぐ手を離した。
「違うから!」
「何が?」
李俊がこっちを見る。
「何でもない!」
顧大嫂が肩を震わせている。
玉楼まで目を逸らした。
何でこんな時に全員余裕あるのよ!
李俊だけは、もう城壁へ視線を戻していた。
「掴んでていいぞ」
「は?」
「落ち着くなら」
「そういう余裕見せるのやめて!」
「嫌なら離せばいいだろ」
「もう離してる!」
「じゃあ終わりだ」
腹立つ〜!
でも、その一言で少しだけ息が戻った。
孫二娘が小声で言う。
「ほら、呼吸戻った」
「診察結果を発表しないで」
また、何もできないまま時間だけが過ぎていく。
城壁の上を見張りが一人通り、少しして別の兵も姿を見せた。
それでも騒ぎは起きない。
成功しているなら、それでいい。
失敗していても騒ぎが起きない可能性はある。
その考えに気付いて、胃の辺りが重くなった。
「……遅い」
アタシが呟く。
李俊は何も答えない。
玉楼も城を見たままだ。
今度は誰も茶化さなかった。
やがて、城壁の奥で小さな鐘の音が鳴った。
見張りの交代なのかもしれない。
それから、また何も起きない。
風が変わった。
水門の近くに浮かんでいた灯が、わずかに揺れる。
李俊が身体を前へ出した。
「……来るか」
アタシも目を凝らす。
何も見えない。
ただ、水門の向こうで何かが動いた気がした。
一度。
もう一度。
それから――
水面に、小さな灯が三度だけ明滅した。
李俊の表情が変わる。
「合図だ」
水軍の兵達が一斉に縄へ手を掛ける。
アタシも日月双刀へ手を伸ばした。
玉楼が隣で方天画戟を構える。
孫二娘が背後から言った。
「三娘ォ、今度は前だけ見な」
「分かってる!」
顧大嫂が笑う。
「後ろは任せな」
湖州城はまだ眠っている。
少なくとも、こちらからはそう見えた。
でも、その内側ではもう、何かが崩れ始めている。
李俊が手を上げた。
まだ下ろさない。
水軍も動かない。
あとは、水門が動くのを待つだけだった。
そして水門の向こうから、ほんのわずかに木が軋む音がした。
そんな夜だった。
三娘様は、ご自分では気付いておられなかったようです。
「三娘ォ、あれ完全に無意識だったねェ」
「何がよ!」
孫二娘殿が笑います。
「李俊の袖だよォ。掴んでから気付いてたじゃないか」
「緊張してただけ!」
顧大嫂殿まで頷きました。
「じゃあ、何で玉楼の袖じゃなかったんだい?」
「そこ比較する!?」
三娘様がこちらを見ます。
「玉楼、何か言って!」
「李俊殿の方が、お近くにおられましたので」
「そういう冷静な分析いらない!」
孫二娘殿が楽しそうに笑いました。
ですが、その直後――
水門の向こうから木の軋む音がして、誰も口を開かなくなりました。
次に動くのは、湖州城でございます。




