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虎眼鞭の一撃

杭州城の前で、アタシは少しだけ嫌な予感がしていた。

敵が大人しく城に籠もるだけなら、まだ分かる。

でも、杭州はそういう城じゃない。

西湖があり、門があり、城壁があり、向こうにも考える者がいる。

「三娘、顔がもう戦ってるねェ」

孫二娘が横で笑った。

「まだ始まってないわよ」

「始まる前から突っ込む顔してるよォ」

「してない」

顧大嫂が腕を組む。

「いや、してるねぇ。林冲の麾下なんだから、勝手に飛び出すんじゃないよ」

「分かってるわよ」

「本当に?」

「何で疑うのよ」

「日頃の行いだねぇ」

孫二娘が楽しそうに肩を揺らした。

「林冲麾下の小彪将様だもんねェ」

「何よ、その言い方」

「病尉遅・孫立。鎮三山・黄信。一丈青・扈三娘」

顧大嫂が指を折る。

「三人いるんだよねぇ」

「で、三娘は末席だよォ」

孫二娘が、にやにやする。

「末席って言わないで」

「事実だろォ」

「事実でも言い方があるでしょ」

顧大嫂が笑った。

「まあ、末席には末席の仕事がある。前へ出すぎず、上の指示を聞いて動くことだね」

「急に説教になった」

「説教じゃないよ。生き残るための話さ」

そこは、反論出来なかった。

林冲麾下の小彪将。

病尉遅・孫立。

鎮三山・黄信。

そして、一丈青・扈三娘。

アタシは、その末席だ。

言われると少し腹は立つ。

でも、間違ってはいない。

孫立の名が出ると、顧大嫂は少しだけ鼻を鳴らした。

「うちの義兄貴も、こういう時は役に立つよ」

「こういう時は、ってひどくない?」

「褒めてるんだよ」

孫二娘が笑う。

「虎眼鞭で叩いて、敵の目でも覚ましてやるんだろォ」

「目を覚ますどころか、馬上から落とす方だと思うけど」

「それでいいんだよ。重い相手は、斬るより崩した方が早い」

顧大嫂が当然のように言う。

「……顧大嫂も地味に物騒よね」

「戦場で優しいこと言っても、敵は止まらないからねぇ」

孫二娘が笑った。

「ほら、三娘。今日は一人で全部やろうとしなくていいんだよォ」

「分かってる」

「林冲殿がいて、黄信が締めて、孫立が横から叩いて、玉楼が隣にいる」

顧大嫂が言う。

「アンタは、見えた場所へ入る。ただし、戻る場所を見てからだ」

アタシは少し黙った。

それから、頷く。

「……分かってる」

孫二娘が、少しだけ優しく笑った。

「なら良しだねェ」

その時、外から馬の音が近付いてきた。

早馬だった。

アタシは顔を上げる。

嫌な予感は、当たる時ほど早い。

重騎兵の馬蹄が、地面を叩いた。

軽騎とは音が違う。

速さで抜く音じゃない。

重さで押し潰す音だった。

馬の胸当てが光る。

鎧を固めた騎兵達が、槍を低く揃えてくる。

数は多くない。

でも、あれを左翼へ叩き込まれれば、それだけで隊列が割れる。

「来るわよ!」

アタシは叫んだ。

「正面から受けない!馬首を外へ向けさせる!」

でも、声を出しながら、自分でも分かっていた。

言うほど簡単じゃない。

軽騎なら流せる。

馬も人も軽い。

勢いを横へ逃がせば、姿勢は崩れる。

でも、重騎兵は違う。

重い馬。

厚い鎧。

低く構えた槍。

あれは、多少ずらしても、馬ごと押してくる。

玉楼が半歩、前へ出た。

「初手を外します」

「無理しないで」

「無理ではございません」

返事は静かだった。

でも、槍を握る手に力が入っているのが見えた。

敵の先頭が迫り、土が跳ねる。

馬の鼻息が荒い。

槍の穂先が、玉楼へ真っ直ぐ向いた。

玉楼は真正面には立たなかった。

馬を半歩ずらし、槍を敵の穂先へ添える。

お互いの穂先から、金属音が鳴る。

受けたんじゃない。

滑らせた。

敵の槍筋が、ほんの少し外へ流れる。

でも、勢いまでは消えない。

「っ……!」

玉楼の馬が横へ滑った。

蹄が土を削り、玉楼の肩が揺れる。

アタシは、その横へ入った。

「そこ!」

右の刀で敵の腕を打ち、左の刀で手綱を狙う。

敵兵の身体が揺れた。

けれど、落ちない。

重い――

鎧も、身体も、馬も。

軽騎なら、そこで崩れたはずだった。

でも、重騎兵は馬上に残ったまま、さらに押してくる。

「しぶとい……!」

もう一度踏み込もうとした時、正面から黄信の声が飛んだ。

「弩、前へ!杭柵の間を空けるな!」

杭柵の隙間へ、弩兵が滑り込む。

槍兵が半歩下がり、穂先を斜めに揃えた。

ただ壁を作るんじゃない。

敵が進みたくなる道を、狭くしている。

林冲の声が低く届く。

「受けるな。寄せろ」

その声で、正面の列が静かに動いた。

敵重騎兵の進路が、少しだけ左へ曲がる。

そこへ、左のさらに外側から、別の馬蹄が響いた。

味方だった。

土煙を割って、騎兵の一隊が横から入ってくる。

先頭にいたのは、孫立だった。

「左を空けろ!」

孫立の声が飛ぶ。

その手には、虎眼鞭が握られていた。

刃で斬る得物じゃない。

打ち、弾き、姿勢を崩すための得物だ。

孫立の虎眼鞭が唸った。

敵騎兵の槍の柄を横から叩き、穂先を跳ね上げる。

重い音が響いた。

次の一撃で、別の敵の肩を打つ。

鎧の上からでも衝撃が通ったのか、敵兵の身体が馬上で傾いた。

孫立隊が横から噛む。

黄信が正面を締める。

林冲が全体を流す。

その中で、アタシ達は左から崩す。

「今よ!」

アタシは馬腹を蹴った。

玉楼が敵の槍筋を外し、孫立の虎眼鞭が、重騎兵の姿勢を崩す。

黄信の弩が、杭柵の隙間から敵の足を止める。

敵重騎兵の突撃線が歪んだ。

そこへ、アタシは入った。

鎧は狙わず、馬も斬らない。

狙うのは、馬上の姿勢だ。

右の刀で槍の柄を打ち上げ、左の刀で鐙の近くを叩く。

敵兵の膝が浮いた。

「落ちろ!」

肩をぶつけるように馬を寄せ、刃の背で押し込む。

敵兵がついに馬上から傾いた。

重い音を立てて、地面へ落ちる。

後続の重騎兵が詰まった。

前の馬を避けようとして、隊列がさらに曲がる。

孫立が虎眼鞭を振り上げた。

「押し合うな! 横へ流せ!」

その声で、孫立隊が外へ圧を掛ける。

林冲隊が正面を締める。

黄信の弩兵が、撃ち過ぎず、敵の足を止める位置だけを狙う。

玉楼が半歩外へ流し、アタシが崩れた所へ入る。

敵の重さが、少しずつ削れていく。

一騎、二騎と……

倒し切らなくてもいい。

進ませなければいい。

馬首が乱れ、槍先が揺れ、足並みが合わなくなる。

それだけで、重騎兵は重さを失う。

突撃線が折れた。

敵の騎兵が、初めて後ろを見た。

杭州城の方へ戻ろうとしている。

追いたい。

ここで叩けば、もっと崩せる。

背中を見せた騎兵を逃がすなんて、もったいない。

一気に行けば、城門近くまで押せるかもしれない。

でも――

林冲の声が、頭に残っていた。

深追いはするな。

城門の近くまで寄れば、矢に晒される。

それだけじゃない。

今まで何度も、見えたものへ飛び込んできた。

西京でも、紀山でも、危ない所へ入った。

そのたびに、玉楼に止められ、紅玉に見られ、顧大嫂と孫二娘に茶化された。

見えたから行く。

それだけじゃ足りない。

戻る場所を見てから行く。

止まる場所も見ておく。

だから、アタシは手綱を引いた。

「追い過ぎない!杭柵の外まで!」

兵達が振り返る。何人かは、まだ行けるという顔をしていた。

「止まれ!」

自分でも驚くくらい、声が強く出た。

玉楼も槍を立てる。

「ここから先は敵の間合いです」

その声で、兵達が踏みとどまった。

逃げる敵騎兵の背中が、杭州城へ向かって遠ざかる。

城壁の上で、弓兵が動くのが見えた。

弓が並ぶ。 矢がこちらへ向いている。

やっぱり、待っていた。

追っていたら、射られていた。

アタシは息を吐いた。

「……危なかった」

玉楼が静かに言う。

「ですが、止めました」

正面では、林冲がまだ敵の方を見ていた。

黄信は弩兵と槍兵を戻している。

孫立は虎眼鞭を下ろし、隊を外側へまとめ直していた。

一つ、止めた。

でも、勝った気はしなかった。

杭州城は、まだそこにある。

城壁は高く、門は閉じている。

水路の方も、嫌なほど静かだった。

アタシは水辺の方を見た。

李俊達は、もう水路へ向かっているはずだった。

張横も、童威も、童猛も。

胸の奥が、少し冷たくなる。

林冲がこちらを見た。

「扈三娘」

「はい」

「左翼を立て直せ。敵はまた来る」

「分かりました」

「追わなかった判断は良かった」

一瞬、言葉が出なかった。

林冲は、もう前を見ている。

褒めたつもりもないのかもしれない。

ただ、事実を言っただけ。

でも、少しだけ胸が軽くなった。

「……はい」

アタシは手綱を握り直した。

後ろから、顧大嫂の怒鳴り声が飛んでくる。

「怪我人を下げな!馬を替えるなら今のうちだよ!」

孫二娘も続ける。

「立ってるだけの奴は邪魔だよォ! 動けるなら運べ、動けないなら寝てなァ!」

本陣側は、もう動いていた。

水が運ばれ、布が広げられ、負傷兵を寝かせる場所が空けられている。

前で止める者がいる。

横から崩す者がいる。

後ろで受ける者がいる。

どれが欠けても、戦は続かない。

アタシは左翼の兵達へ向き直った。

「隊列を戻すわよ!怪我人を下げて、馬を替える!次が来る前に整える!」

兵達が動き出す。

朝日は、もうさらに高くなっていた。

杭州城の上には、冷たい光が残っている。

戦は、まだ続く。

重騎兵の突撃は、正面から受けるものではございません。

そう言うのは簡単です。

ですが、実際にあの馬蹄の音を聞けば、簡単な話ではないと分かります。

軽騎は速さで来ます。

重騎は、重さで来ます。

あれを真正面から受ければ、人も馬も隊列も、まとめて割られてしまうでしょう。

だから林冲殿は受けませんでした。

黄信殿が正面を締め、孫立殿が横から入り、扈三娘様が崩れた場所へ入られました。

「出たねェ」

孫二娘殿が横で笑われました。

「玉楼の戦場解説だよォ」

「解説ではございません」

「いや、今のは解説だねぇ」 顧大嫂殿も頷かれます。

「でも、今回はそれでいいよ。正面から受けてたら潰されてた」

その通りでございます。

そして今回、扈三娘様は追いませんでした。

敵が背を向けた時、あの方は確かに追いたそうにしておられました。

ですが、手綱を引かれました。

「追い過ぎない」

その声を聞いた時、私は少しだけ安心いたしました。

「玉楼、今の顔は保護者だったねェ」

「違います」

「違わないだろう」

顧大嫂殿が笑われます。

「三娘が止まった時、分かりやすく安心してたよ」

「それは当然でございます」

城壁の上には、弓が並んでおりました。

あのまま追っていれば、矢に晒されていたでしょう。

扈三娘様は、見えた場所へ入る方です。

それが強さであり、危うさでもございます。

ですが、今回は戻る場所を見ておられました。

止まる場所を、見ておられました。

「まあ、三娘も少しは学んだってことだねェ」

「少しは、とは失礼ではございませんか」

「じゃあ、かなり?」

「……かなり、であれば」

孫二娘殿が笑われました。

そこへ、孫立殿が歩いて来られました。

虎眼鞭を肩に掛け、いつものように落ち着いた顔をしておられます。

顧大嫂殿が、すぐに声を掛けました。

「義兄貴、今日は役に立ったじゃないか」

「今日は、とは何だ」

「褒めてるんだよ」

「褒めているようには聞こえん」

孫二娘殿が楽しそうに笑われます。

「虎眼鞭、見事だったよォ。敵の目を覚ましてたねェ」

孫立殿は静かに答えられました。

「あれは目を覚まさせたのではない。槍筋と姿勢を崩しただけだ」

「ほら、玉楼と同じこと言ってるよォ」

「同じではございません」

「同じだねぇ」

顧大嫂殿が笑われました。

「真面目に物騒なことを言うあたりが似てるよ」

私は、少々複雑でございました。

ですが、孫立殿の虎眼鞭がなければ、左翼はもっと押されていたでしょう。

斬るのではなく、崩す。

倒し切るのではなく、進ませない。

あの一撃は、確かに重騎兵の流れを折りました。

「それを言うなら、扈三娘もよく入った」

孫立殿が言われました。

「崩れた場所を見る目は、確かだ」

「おや、三娘が褒められてるねェ」

「本人がいたら照れて怒るねぇ」

「怒られるでしょうか」

「怒るよォ。照れた時ほど怒るからねェ」

否定は、出来ませんでした。

戦場では、進むことより止まることの方が難しい時がございます。

勝てそうに見える時ほど。

敵が背を向けた時ほど。

刃が届きそうな時ほど。

今回、扈三娘様は止まりました。

前で止める者がいる。

横から崩す者がいる。

後ろで受ける者がいる。

隣で見る者がいる。

どれが欠けても、戦は続きません。

だから私は、これからも見ております。

扈三娘様が前へ進まれる時。

その刃が届く場所だけでなく、戻る場所も見失われぬように。

杭州城の上には、まだ冷たい光が残っております。

戦は、まだ続きます。

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