湧金門の夢
杭州城って、嫌な城なのよ。
いや、城なんだから嫌なのは当たり前なんだけど、あそこは何か違う。
高いとか、守りが堅いとか、そういう話だけじゃない。
近づいた人が、帰ってこない感じがする。
「三娘、そういう言い方はやめなよォ」
孫二娘が怪訝な顔をした。
「縁起でもないねェ」
「でも、そう感じるんだから仕方ないでしょ」
「仕方ないで済ませるんじゃないよ。戦の前にそんな顔してたら、兵が余計に怖がるだろ」
顧大嫂が腕を組んで言う。
「だいたい、あんたは顔に出るんだよ。考えてることが」
「出てる?」
「出てるねェ」
孫二娘が即答した。
「嫌な感じがするけど、突っ込んだ方がいいのかな、いや玉楼に怒られるかな、でも隙が見えたら行きたいなって顔だよォ」
「そんな顔してない!」
「してる」
「してるね」
二人同時に言わないでほしい。
「今回は行かないわよ。ちゃんと止まったし」
「そこは偉い」
顧大嫂が頷いた。
「重騎兵を追い過ぎなかったのは良かったよ。あれで城門近くまで行ってたら、上から射られてた」
「でしょ?」
「ただし、偉いのは一回だけだ」
「一回だけ!?」
孫二娘が笑う。
「三娘、一回我慢できたからって、次も我慢できるとは限らないからねェ」
「信用ないわね」
「あるよォ。飛び込む信用はねェ」
「それ、信用じゃないでしょ」
「実績だよ」
やめてほしい。
否定しきれないから、余計に嫌だ。
杭州城は、まだ落ちていない。
張順も、まだ戻っていない。
だから、今は笑っていられるだけ笑っておく。
次に何が起きるかなんて、誰にも分からないから……
「で、今回は何だい?」
顧大嫂が聞く。
「湧金門の夢」
そう言うと、二人の顔から少しだけ笑いが消えた。
孫二娘が、小さな声で呟く。
「……夢で済めばいいけどねェ」
顧大嫂も、外を見た。
「戻ってくりゃ、それで済むんだけどね」
本当に、そうだった。
それで済んでほしかった。
重騎兵を追い返した報せを持って戻っても、幕舎の空気は軽くならなかった。
敵の重騎兵は追い返した。
左翼は持ちこたえた。
林冲にも、追い討ちを掛けない判断は良かったと言われた。
でも、しっくりこなかった。
杭州城は、まだそこにある。
高い城壁も、閉じた門も、水路へ落ちる影も、何も変わっていない。
そして――
昨夜、湧金門へ向かった張順は、まだ戻っていなかった。
幕舎の中では、朱武が地図の前に立ち、門の位置と水路の線を見ている。
盧俊義も腕を組んで座っていた。
林冲、黄信、孫立もいる。
宋江は奥に座り、静かに目を伏せていた。
アタシと玉楼は、戦況の報告のために呼ばれていた。
「敵重騎兵、退けました」
林冲が短く告げる。
「左翼は足止めのみで、追撃はしておりません」
朱武が頷いた。
「それでよいです。矢や弩の間合いへ誘うつもりだったのでしょう」
やっぱり、そうだった――
追っていれば、射られていた。
分かっていた。
分かっていたから止めた。
それなのに、改めて言われると、背中が凍る。
あの時、あと一歩前へ出ていたら……
逃げる重騎兵の背中に釣られていたら……
追撃して、城門の近くまで寄っていたら……
今ここに、戻って来られなかったかもしれない。
「扈三娘」
朱武がこちらを見る。
「はい」
「左翼の兵は」
「怪我人は下げています。馬も替えています。顧大嫂と孫二娘にお願いしています」
「ならばよい」
朱武は地図へ視線を戻した。
「敵は、こちらを誘っています。重騎兵は押し潰すためだけではなく、こちらの足を前へ出させるためでもあったのでしょう」
「……はい」
素直に頷いた。
前なら、少し反発していたかもしれない。
見えたなら行く。
敵を崩せるなら入る。
そう思っていた。
でも、今回は違った。
止まれた。
それを褒められても、胸の奥は晴れない。
止まったからといって、杭州城が落ちた訳ではないからだ。
幕舎の外では、兵達の声がしている。
水を運ぶ声に負傷兵を下げる声。
馬を入れ替える声。
戦は終わっていない。
けれど、幕舎の中には、別の重さがあった。
誰も、湧金門の話を先にしない。
張順のことを、誰も口にしない。
言えば、何かが決まってしまう気がした。
その時、奥で宋江がゆっくりと顔を上げた。
「……各頭領達に、伝えねばならぬことがある」
幕舎の中が静まった。
宋江の声は、いつものように穏やかだった。
でも、その穏やかさが、今は少しだけ怖かった。
「昨夜、夢を見た」
夢――
その一言に、アタシは思わず眉を寄せた。
夢? この状況で?
でも、誰も笑わない。
誰も、そんなものをと言わない。
朱武も、盧俊義も、林冲も、黙って宋江を見ている。
宋江は続けた。
「夢の中に、張順が現れた」
空気が、さらに沈んだ。
張順――
水路から杭州城へ向かったまま、まだ戻らない人。
「張順は、湧金門より城内へ入ろうとした。だが、上より矢を浴び、岩を落とされ、西湖へ落ちた。そして……命を落としたと」
誰も動かなかった。
言葉だけが、幕舎の中に残る。
張順が死んだ――
そう言われても、すぐには入ってこなかった。
夢で見た。
夢の中に現れた。
張順本人が、そう告げた。
そんな話を、そのまま信じられる訳がない。
アタシは元々違う世界の人間だ。
夢は夢だ。
人は、怖れていることを見る。
願っていることを見る。
後悔していることを、勝手に形にすることだってある。
死んだ人間が夢に現れて、自分の死を告げる。
そんな話を、はいそうですかと受け止められるほど、アタシはこの世界に染まり切っていない。
でも――
張順は戻っていない。
それだけは、事実だった。
水路から、湧金門へ向かった。
杭州城へ入ろうとした。
そして、まだ戻らない。
夢が本当かどうかは分からない。
宋江が見たものが、張順の霊なのか、ただの夢なのかも分からない。
でも、戻っていない。
その事実だけが、胸の奥へ重く沈んだ。
玉楼が隣で、小さく息を呑んだ。
「張順殿が……」
孫二娘は幕舎の端で黙っていた。
いつもなら何か言いそうなのに、何も言わない。
顧大嫂も、腕を組んだまま目を伏せている。
宋江は静かに言った。
「張順は、我らのために命を投げ出した」
その言葉に、少しだけ胸がざらついた。
命を投げ出した――
そう言えば、綺麗に聞こえる。
立派に聞こえる。
皆のために死んだのだと、意味を与えられる。
でも、張順は本当に命を投げ出すつもりだったのだろうか。
生きて戻るつもりだったんじゃないのか。
水路を抜けて、門を開けて、笑って戻ってくるつもりだったんじゃないのか。
死んだ後で、命を投げ出したと言われるのは、少し嫌だった。
でも、口には出さなかった。
今、ここで言うことじゃないと、自分に言い聞かせた。
朱武が地図へ手を置いた。
「湧金門が固いなら、別の口を探るしかありません」
盧俊義が目を細める。
「北門か」
「はい」
朱武が頷く。
「北門の守りを見ます。軽く探るだけです。深入りは禁物。敵は、こちらを怒らせ、焦らせようとしている」
焦らせようとしている――
その言葉は、今の幕舎によく似合っていた。
張順が戻らない。
宋江の夢では、もう死んでいる。
それを聞いた頭領達の胸の中には、怒りも悲しみもある。
その状態で城へ近づけば、敵の思う壺だ。
でも、何もしない訳にもいかない。
徐寧が一歩前へ出た。
「ならば、私が行きましょう」
声は落ち着いていた。
徐寧は派手に怒る人じゃなく、静かに、必要な場所へ出る人だった。
続いて、郝思文も進み出た。
「私も参ります。北門の様子を見るだけなら、私達の手勢で事足ります」
関勝が眉を寄せた。
「郝思文、無理はするな」
「承知しております」
郝思文は、静かに頭を下げた。
その横顔には、恐れはなかった。
少なくとも、そう見えた。
でも、アタシは嫌な感じがした。
今度は徐寧と郝思文が出る。
また、誰かが城へ近づく。
杭州城は、黙ってそこにある。
その黙った城へ、人が一人、また一人と近づいていく。
「扈三娘様」
玉楼が低く声を掛けた。
「何?」
「お顔が険しくなっております」
「……そう?」
「はい」
アタシは息を漏らす。
「嫌なだけよ」
「何がでございますか」
「この城」
そう言って、幕舎の外へ目を向けた。
帷幕の隙間から、杭州城の上だけが少し見える。
陽の光を受けた城壁は、遠くから見ると鮮やかだった。
でも、あそこで張順が死んだかもしれない。
あの上から、矢や岩が落とされたかもしれない。
水へ落ちて、戻れなかったかもしれない。
「近づいたら、帰してくれない感じがする」
口にしてから、自分でも少し驚いた。
玉楼は否定しなかった。
「そういう城なのでしょう」
「嫌な言い方」
「ですが、当たっていると思います」
アタシは何も言えなかった。
徐寧と郝思文は、すぐに出立した。
北門の様子を見るだけの偵察だ。
深入りはせず、 敵を誘わない。
見て、戻るだけ……
それだけのはずだった。
二人が幕舎の前を通る。
徐寧は槍を携え、馬上で軽く会釈した。
郝思文も、関勝へ一度だけ頭を下げる。
関勝は何も言わなかった。
ただ、黙って見送っていた。
アタシも見送った。
何か言えばよかったのかもしれない。
気をつけて、とか……
無理しないで、とか……
そんな当たり前の言葉が、口から出なかった。
言えば、本当に危ない場所へ行くみたいだったから。
二人は北へ向かった。
杭州城の壁に沿うように、ゆっくりと遠ざかっていく。
朝の光の中で、その背中はだんだん小さくなった。
張順は戻っていない。
その事実が、まだ幕舎の中に残っている。
そして今、また二人が城へ近づいていく。
「戻ってきなさいよ……」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
張順なのか、徐寧なのか、郝思文なのか……
もしかしたら、これから杭州城へ近づく全員へ……
なのかもしれない。
杭州城は何も答えない。
ただ、遠くで静かに立っているだけだった。
扈三娘様は、よく止まられたと思います。
重騎兵が退いた時、追いたくならなかったはずがございません。
あの方は、流れが見える方です。
崩れた場所も、押せる場所も、他の者より早く気付いてしまわれる。
だからこそ、危うい。
見えたから行く。
届くと思ったから踏み込む。
その判断で救われた場面も、多くございました。
ですが、杭州城は違います。
見えている背中を追えば、城壁の矢に射られる。
開いたように見える門も、誘いかもしれない。
水路も、逃げ道ではなく罠かもしれない。
あの城は、近づく者を帰さぬ城です。
「玉楼、言い方が重いねェ」
孫二娘殿が、少し嫌そうに眉を寄せました。
「事実を申し上げただけです」
「その事実ってやつが重いんだよォ」
顧大嫂殿も腕を組んで頷かれます。
「まあ、でも間違っちゃいないね。あの城は嫌な城だよ」
「三娘様も、そう仰っておられました」
「だろうねェ」
孫二娘殿が息を吐きました。
「三娘は勘だけは妙に鋭いからねェ」
「勘だけ、とは」
「他も褒めろって?」
「はい」
「突っ込む速さ」
「褒めておりません」
「怒られる速さ」
「なお悪いです」
顧大嫂殿が、そこで少し笑いました。
「まあ、今回は止まったんだから褒めてやりな」
「もちろんでございます」
私は頷きました。
今回は、三娘様は止まられた。
追わなかった。
見えた敵の背中ではなく、見えない矢の方を選ばれた。
それは、とても大きなことです。
ただし――
「一度止まれたからといって、次も止まれるとは限りません」
「ほら出たよォ。玉楼の静かな心配性」
「必要な心配です」
「まあ、必要だね」
顧大嫂殿が外を見ました。
「杭州城は、まだ落ちてない」
その言葉に、私達はしばらく黙りました。
張順殿は、まだ戻っておられません。
宋江殿の夢が本当かどうか、私には分かりません。
けれど、戻らぬという事実だけは、そこにございます。
扈三娘様は、それを疑いながらも、受け止めておられました。
疑うこと……
受け止めること……
その両方を、同時に抱えておられた。
それが、この世界で生きていくということなのかもしれません。
「で、次はどうなるんだい?」
顧大嫂殿が、静かに尋ねました。
孫二娘殿が肩をすくめます。
「夢で済めばいいんだけどねェ」
私は、答えられませんでした。
杭州城は、まだ遠くに立っています。
何も言わず、何も返さず、ただそこにある。
三娘様が言われた通りです。
あの城は、近づいた者を帰してくれない。
だからこそ、次に近づく者達が、無事に戻ることを願わずにはいられませんでした。




