北門の喚声
戦場で一番嫌な音って、何だと思う?
矢の音?
馬の音?
城門が閉まる音?
まあ、どれも嫌なんだけど……
アタシは、喚声もかなり嫌だと思う。
「勝ってる時も上がるからねェ」
孫二娘が、腕を組んで言った。
「負けてる時も上がるしね」 顧大嫂も頷く。
「つまり、聞こえただけじゃ何も分からないってこと?」
「そういうことだよォ」
孫二娘が肩をすくめる。
「遠くでワァワァ聞こえたって、味方が押してるのか、囲まれてるのか、誰かがやられたのか、こっちじゃ分からないからねェ」
「嫌すぎる」
「だから言ってるだろ。嫌な音だって」
顧大嫂が渋い顔をした。
「しかも、待つしかない時がある」
「それが一番嫌なのよ」
「三娘は待つの苦手だしねェ」
「得意な人いる?」
「いるよ。玉楼」
「あの子は別格」
「ああ、別格だね」
顧大嫂があっさり頷く。
「玉楼は待つ時も姿勢がシュッとしてる。あんたは待ってるだけで、今にも飛び出しそうな顔になる」
「そんな顔してない」
「してるねェ」
孫二娘が即答した。
「眉間に『行っていい?』って書いてあるよォ」
「書いてない!」
「じゃあ『まだ?』だね」
「もっと嫌だわ」
でも、否定しきれない。
北門から喚声が上がった時、アタシは本当に動きたかった。
徐寧と郝思文が向かった方角。
関勝もそこへ向かった。
でも、勝手に動けば、また敵の思う壺かもしれない。
見えていない場所へ飛び込むのは、見えている敵へ突っ込むより危ない。
「今回は、我慢できるのかい?」
顧大嫂が聞く。
「できるわよ」
「本当かねェ」
孫二娘が笑う。
「三娘の『できる』は、玉楼が横にいる時だけ信用できるんだよォ」
「どういう意味よ」
「手綱付きってことだね」
「アタシは馬じゃない」
「でも、よく走る」
「顧大嫂まで!」
二人が笑った。
アタシも少しだけ笑った。
でも、すぐに笑えなくなる。
北門の喚声は、まだ耳に残っている。
あの声の中で、誰が戻ってきて、誰が戻ってこないのか。
それを知るのが、怖かった。
二人が出てから、しばらく何も起きなかった。
アタシは何度も幕舎の外を見た。
北門の方角。
徐寧と郝思文が向かった方角。
ただ様子を見るだけで、深入りはしない。
敵を誘わない。
見て、戻るだけ。
そう決めていたはずだった。
でも、戻ってこない。
幕舎の中では、誰も大きな声を出さなかった。
朱武は地図を見ている。
盧俊義は腕を組んだまま動かない。
宋江は目を伏せている。
林冲は、外の気配を聞いているようだった。
関勝だけが、入口の方を見たまま動かなかった。
郝思文が向かって行った場所。
その背中が消えていった方角。
北門。
関勝と郝思文は、義兄弟と聞いたことがある。
同じ凌州から来た元官軍の将で、同じ時に梁山泊へ入った者同士だった。
「関勝」
盧俊義が声を掛けた。
「何かあるのか」
関勝は、すぐには答えなかった。
眉間に皺を寄せたまま、北門の方角を見ている。
「……少し、引っかかります」
朱武が地図から顔を上げた。
「何がです」
「静かすぎる」
その声は小さかった。
「郝思文は慎重な男です。徐寧も軽くは動かぬ。敵に見つかったなら、何かしら動きがある。見つかっておらぬなら、もう戻る頃です」
幕舎の中が、また静かになった。
静かなら安心。
そう思いたかった。
でも、杭州城は、黙っている時ほど嫌だった。
「まだ近づいておらぬだけかもしれません」
朱武が言う。
関勝は頷いた。
けれど、入口から目を離さない。
「ならば、確認だけでも――」
そう言って、関勝が一歩踏み出した。
その瞬間だった。
北門の方から、喚声が上がった。
最初は、遠い風のように聞こえた。
でも違う。
人の声だ。
一つじゃない。
いくつもの声が重なり、こちらに響いている。
幕舎の空気が変わった。
朱武が地図を押さえ、盧俊義が立ち上がる。
林冲の目が細くなり、黄信が外へ向く。
孫立が虎眼鞭に手を掛けた。
関勝は、もう入口へ向かっていた。
「北門だ」
低い声だった。
外から伝令が駆け込んでくる。
「北門方面にて喚声! 徐寧様、郝思文様、敵と接触した模様!」
関勝の顔が強張った。
朱武がすぐに言う。
「お待ちください。計略の可能性があります」
「分かっている」
関勝は振り返らなかった。
「確認に出る。深入りはしない」
「敵は、こちらを焦らせようとしております」
「承知している」
短い返事だった。
宋江が静かに言った。
「関勝、郝思文を……頼む」
関勝の肩が、わずかに動いた。
「必ず」
そう答えて、関勝は幕舎を出た。
アタシは、その背中を見送った。
徐寧と郝思文。
そして、関勝。
また一人、杭州城へ近づいていく。
北門の喚声は、まだ遠くで続いていた。
関勝が出てから、北門の喚声はしばらく続いた。
近づく訳でも、遠ざかる訳でもない。
ただ、遠くで揺れている。
それが余計に嫌だった。
アタシは幕舎の入口から外を見た。
誰も動かない。
いや、動けない。
ここで勝手に兵を出せば、敵の思う壺かもしれない。
けれど、何もしなければ、向こうで何かが終わってしまうかもしれない。
朱武は地図を見たままだった。
でも、その指は北門の近くで止まっている。
盧俊義は座らず、立ったまま外を見ていた。
林冲も黙っている。
黄信は弩兵へ何か命じるため、幕舎の外へ半歩出ていた。
孫立は虎眼鞭を握ったまま、動かない。
顧大嫂が低く言った。
「嫌な声だね」
孫二娘も、珍しく笑わなかった。
「喚声ってのはねェ、勝ってる時も負けてる時も上がるんだよォ。だから嫌なんだ」
その通りだった。
あの声だけでは分からない。 徐寧と郝思文が押しているのか。
囲まれているのか。
関勝は間に合ったのか。
それとも、もう遅かったのか。
分からない。
分からないまま、待つしかない。
その時、外から馬の音が聞こえた。
一騎じゃない。
複数だ。
速い。
隊列を成していない。
幕舎の前にいた兵達がざわめく。
「戻ってきた!」
誰かが叫んだ。
アタシは外へ出た。
土煙の向こうから、馬が駆け込んでくる。
先頭は関勝だった。
青龍偃月刀を片手に持ち、馬上に何かを載せている。
いや、人だ。
徐寧だった。
徐寧は馬上で身体を傾け、ほとんど関勝に支えられていた。
顔色が悪い。
唇の色もない。
首筋に、矢が刺さっていた。
深く貫いたようにも見えない。
それなのに、傷口の周りが黒ずんでいる。
「毒矢……か」
誰かが呟いた。
顧大嫂が真っ先に動いた。
「寝かせな! 水! 布! 医者を呼びな!」
孫二娘も走る。
「どけどけェ! 見物してる奴は邪魔だよォ!」
徐寧が馬から下ろされる。
その身体は、自分で立てていなかった。
兵達が支え、幕舎の前へ寝かせる。
徐寧は何かを言おうとした。 けれど、唇が動くだけで声にならない。
アタシは周りを見た。
いない……
郝思文がいない。
関勝は馬から下りた。
鎧には土がつき、腕にも血がついている。
でも、関勝自身の傷ではなさそうだった。
盧俊義が一歩前へ出る。
「郝思文は」
関勝は、すぐには答えなかった。
ほんの一瞬だけ、北門の方を見た。
それから、低く言った。
「囚われました」
幕舎の前から、音が消えた。
囚われた――
その言葉だけが、やけに重く残る。
「敵が、北門を半ば開けておりました。徐寧と郝思文は、近づきすぎた」
関勝の声は抑えられていた。
でも、拳が固く握られている。
「石宝の隊が横から出ました。城上からも矢が来た。徐寧は退こうとしたところを毒矢に。郝思文は、徐寧を戻そうとして……」
そこで、関勝の声が止まった。
誰も続きを急かさなかった。
関勝は、奥歯を噛むようにして続けた。
「敵に囲まれました。私が着いた時には、もう引き離されていた」
顧大嫂が徐寧の首筋を押さえながら言う。
「喋らせるんじゃないよ! 先に毒をどうにかしな!」
医者が呼ばれ、兵達が水と布を運ぶ。
徐寧の呼吸は浅い。
目は開いているのに、焦点が合っていない。
毒矢の傷は小さかった。
でも、小さい傷なのに、人の命を持っていこうとしている。
アタシは、手を握った。
こんな時に、安道全がいてくれたら……
張順は戻っていない。
徐寧は戻った。
でも、無事じゃない。
郝思文は、囚われた。
また、杭州城に近づいた人が帰ってこなかった。
関勝が、徐寧のそばに膝をついた。
徐寧がかすかに目を動かす。
何かを言おうとしている。
「郝……」
声にならない声だった。
関勝は、徐寧の手を取った。
「喋るな」
その声は静かだった。
「郝思文は、必ず取り戻す」
それを聞いた徐寧の目が、少しだけ揺れた。
でも、答えはなかった。
幕舎の外では、北門の喚声がようやく遠のいていた。
敵が退いたのか。
それとも、こちらを十分に傷つけたから静かになったのか。
分からない。
ただ一つだけ、分かることがあった。
杭州城は、まだ何も終わらせていない。
まだ、こちらから何かを奪うつもりでいる。
喚声とは、不思議なものです。
近くで聞けば、ただうるさい。
遠くで聞けば、なお悪い。
勝っている声なのか。
負けている声なのか。
味方の声なのか。
敵の声なのか。
聞こえているのに、分からない。
それが一番、人を揺らします。
「玉楼、また重い入り方だねェ」
孫二娘殿が、半分呆れたように言いました。
「軽く申し上げる内容ではございませんので」
「そりゃそうだけどさァ」
顧大嫂殿も腕を組みます。
「まあ、喚声は嫌だね。近くなら動ける。遠いと待つしかない」
「はい」
「でも、三娘は待てない」
「はい」
「即答だねェ」
孫二娘殿が笑いました。
「事実ですので」
「本人が聞いたら怒るよォ」
「怒られても、事実は変わりません」
扈三娘様は、動ける方です。
敵が見えれば、すぐに反応する。
崩れ目が見えれば、すぐに入る。
それは大きな強みです。
ですが、今回のように、見えない場所で何かが起きている時。
あの方は、きっと一番苦しい。
「三娘は、行ける場所があると行っちまうからね」
顧大嫂殿が言いました。
「今回は、行けない場所だった」
「はい」
「だから余計に腹が立つ」
「その通りでございます」
孫二娘殿が、少しだけ目を細めました。
「徐寧も戻ったけど、無事じゃない。郝思文は囚われた。張順も戻ってない」
その言葉に、私達はしばらく黙りました。
戻った……
戻らない……
たったそれだけの言葉が、これほど重くなるとは思いませんでした。
徐寧殿は戻られました。
ですが、毒矢を受けておられる。
郝思文殿は囚われました。
張順殿も、戻られておりません。
戻るという言葉が、少しずつ壊れていくようでした。
「で、三娘は大丈夫なのかい?」
顧大嫂殿が聞きました。
「大丈夫、とは」
「北門へ向かうんだろ。怒ってないかってことだよ」
「怒っておられます」
「やっぱりねェ」
「ですが、怒っていることを分かっておられます」
孫二娘殿が、少し笑いました。
「そこは成長だねェ」
「はい」
以前の三娘様なら、怒っていることにも気付かず、前へ出ていたかもしれません。
ですが、今は違います。
怒るな。
焦るな。
飛び込むな。
そう、ご自身に言い聞かせておられました。
それでも、胸の内が熱いことまでは止められない。
それが、扈三娘様なのだと思います。
「ま、玉楼が横にいるなら大丈夫だろ」
顧大嫂殿が言いました。
「そうだねェ。手綱係がいるからねェ」
「孫二娘殿」
「何だい?」
「扈三娘様は馬ではございません」
「でも、よく走るだろォ?」
「……否定はいたしません」
顧大嫂殿が笑いました。
私も、少しだけ息を吐きました。
笑えるうちは、まだ大丈夫――
そう思いたかったのかもしれません。
ですが、杭州城に近づく者は、まだ誰も無事に戻っておりません。
だから、私は扈三娘様の隣を離れる訳にはいきませんでした。




