北門へ向かう
北門へ向かう時って、変な感じなのよ。
攻めに行くんだから、本当ならもっと声を出してもいい。
勢いをつけてもいい。
「行くぞ!」
「取り戻すぞ!」
そういう感じでもいいはずなのに……
今回は、誰もそんな声を出さなかった。
「そりゃそうだろ」
顧大嫂が腕を組んで言った。
「徐寧は毒矢を受けてる。郝思文は囚われてる。張順も戻ってない。そこで景気よく騒げる奴がいたら、そっちの方が怖いよ」
「まあねェ」
孫二娘も頷いた。
「こういう時の出陣ってのは、足が重いんだよォ」
「足が重い?」
「そうだよォ。前には進んでるのに、腹ん中じゃ戻りたいんだよォ」
嫌な言い方だけど、分かる。
前へ行かなきゃいけない。
でも、前へ行けば、また誰かが戻らないかもしれない。
そう思うと、足が重くなる。
「三娘は足が重くても走りそうだけどね」
顧大嫂が言った。
「走らないわよ」
「本当かい?」
「今回は走らない」
「今回は、ねェ」
孫二娘が笑う。
「三娘の“今回は”は信用していいのかねェ」
「信用してよ」
「玉楼が隣にいるなら信用するよォ」
「結局そこ!?」
「だって、手綱があるからねェ」
「アタシは馬じゃないってば」
「でも、北門が見えたら走りたくなっただろ?」
言い返せなかった。
北門の向こうに郝思文がいるかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥が熱くなった。
でも、走らない。
前だけを見ない。
門だけを見ない。
「で、見る場所を増やすんだったね」
顧大嫂が聞いた。
「そう。城の上、横、足元、戻る場所」
「おや、偉いじゃないか」
「でしょ?」
「でも、それを口に出して確認してる時点で、まだ危ないねェ」
孫二娘が肩をすくめた。
「本当に慣れてる奴は、黙って見てるよォ」
「うるさいわね」
「うるさく言われてるうちは、生きてるってことだよ」
その言葉に、少しだけ黙った。
本当に、そうだった。
うるさい。
腹が立つ。
茶化される。
止められる。
でも、それは全部、生きて戻っているからできることだ。
張順は戻っていない。
徐寧は戻ったけど、無事じゃない。
郝思文は、囚われている。
だから、北門へ向かう。
怒らない訳じゃない。
怖くない訳でもない。
でも、走らない。
徐寧の周りだけ、空気が違っていた。
人が動いている。
水も布も運ばれている。
医者も呼ばれた。
それなのに、そこだけ時間が遅い。
首筋の矢は、すぐには抜かれなかった。
下手に抜けば、余計に悪くなる。
そう言われて、頭領達が息を殺す。
徐寧は目を開けていた。
でも、こちらを見ているのかどうか分からない。
顧大嫂が医者へ怒鳴る。
「毒だよ! 矢傷だけ見るんじゃないよ!」
医者は額に汗を浮かべながら頷いた。
「分かっております。ですが、毒の回りが早い」
その言葉に、誰も返せなかった。
早い。
ただ、それだけで人の顔色が変わる。
孫二娘が低く舌打ちした。
「嫌な矢だねェ」
関勝は答えなかった。
ただ、徐寧のそばに膝をついたまま、動かない。
青龍偃月刀は、すぐ横に置かれている。
手を伸ばせば取れる位置だ。
その置き方が、怖かった。
すぐにでも立つ。
すぐにでも北門へ戻る。
そう言っているみたいだった。
朱武が静かに言った。
「今すぐ兵を出せば、また同じことになります」
関勝の肩がわずかに動いた。
「分かっております」
声は小さかった。
「ですが、郝思文は城内に囚われている」
「はい」
「時間を置けば、何かしら利用するかもしれない……」
利用――
その言葉が嫌だった。
人を、戦の道具にする。
生かすも殺すも、こっちを動かすために選ぶ。
杭州城は、そういうことをする。
そう思った瞬間、胸の奥が寒くなった。
宋江が目を伏せたまま言う。
「郝思文を見捨てる訳にはいかぬ」
その声に、頭領達の空気が動いた。
見捨てる……
その言葉を誰も口にしなかったのに、皆、考えていたのだと思う。
助けに行くべきか。
それとも、罠と見て待つべきか。
盧俊義が朱武を見る。
「攻めるか」
朱武はすぐには答えなかった。
地図へ目を落とし、北門の位置を指で押さえる。
「攻めるとしても、怒りで突っ込む形にはできません」
「分かっている」
盧俊義の声も硬い。
「杭州城へ圧をかけます。ただし、門が開いても、すぐには入ってはいけません。城上の弓、横から出る兵、落とし戸、その全てを疑うべきです」
落とし戸――
その言葉に、アタシは思わず城の方を見た。
まだ、何かある。
門が開いたとしても、それで終わりじゃない。
開いていること自体が危ない。
分かる。
分かるのに、身体の奥が熱くなる。
郝思文が捕らわれている。
張順は戻らない。
徐寧は目の前で毒にやられている。
それで、冷静でいろという方が難しい。
玉楼が、隣で小さく言った。
「扈三娘様」
「分かってる」
「まだ何も」
「言わなくても分かる」
前へ出すぎるな。
怒りで動くな。
見えているものだけを追うな。
全部、分かっている。
でも、分かっていても腹は立つ。
徐寧が小さく息を吐いた。
かすれた音だった。
医者が矢に手を掛ける。
顧大嫂が徐寧の肩を押さえた。
「動くんじゃないよ」
徐寧は動かなかった。
動けなかったのかもしれない。
矢が抜かれる。
短い音。
肉から抜ける、嫌な音。
血が出た。
黒ずんだ血だった。
孫二娘が顔をしかめる。
「……悪いねェ」
誰も否定しなかった。
医者が布を押し当て、何か薬を塗る。
でも、その手つきに迷いがある。
安道全がいれば……
また、そう思った。
でも、いない。
いない人間を思っても、徐寧の毒は抜けない。
朱武が伝令を呼んだ。
「各隊へ。北門へ圧をかける。ただし、兵を一方へ寄せすぎるな。正面、左翼、北門の三方から押さえる。水軍は湧金門で敵兵を引きつけるだけに留めよ。勝手な突入は禁ずる。城上の動きに注意。弩兵は前へ。盾を厚く。破城槌はまだ出し過ぎるな」
伝令が走る。
幕舎の外が、一気に動き出した。
兵達の声と馬の音が響き、武具の擦れる音と水を運ぶ音が激しくなる。
さっきまで待つしかなかった空気が、戦の形へ変わっていく。
でも、軽くはならなかった。
むしろ、重くなった。
関勝が立ち上がった。
「私も出ます」
朱武が関勝を見る。
「関勝殿」
「郝思文を取り戻す」
その声は静かだった。
静かすぎて、誰も止められなかった。
盧俊義が言う。
「深入りはするな」
「承知」
「敵はお前を怒らせたい」
関勝は、ほんの少しだけ目を伏せた。
「分かっております」
本当に分かっているのか。
分かっていて、それでも行くのか。
アタシには分からなかった。
でも、もし玉楼が囚われたら。
もし、目の前の城の中にいると分かったら。
アタシは、同じように静かでいられるだろうか。
無理だと思った。
だから、関勝を止める言葉なんて、出なかった。
徐寧が、かすかに目を開けた。
「……郝……」
関勝が振り返る。
徐寧は、まだ何か言おうとしていた。
でも、声にならない。
関勝は短く言った。
「分かっている」
それだけだった。
徐寧の目が、ゆっくり閉じかける。
医者が慌てて声を掛けた。
「眠らせるな!」
顧大嫂が徐寧の頬を軽く叩く。
「起きてな! 今寝るんじゃないよ!」
孫二娘も覗き込む。
「金鎗手だろォ。そんな小さい矢一本で寝るんじゃないよォ」
乱暴な言い方だった。
でも、声は少し震えていた。
徐寧の瞼が、わずかに開く。
それだけで、周りの頭領達が息を吐いた。
アタシは拳を握ったまま、北門の方を見た。
郝思文は、まだ城の中にいる。
生きているかもしれない。
傷を負っているかもしれない。
縛られているかもしれない。
でも、まだ戻っていない。
杭州城の壁が、朝の光の中で静かに立っている。
何も言わない。
何も見せない。
その中に、郝思文を隠したまま。
朱武の声が飛んだ。
「出陣準備」
誰も歓声を上げなかった。
ただ、皆が動き出す。
アタシも刀を握り直した。
怒るな。
焦るな。
飛び込むな。
そう言い聞かせても、胸の奥は熱い。
玉楼が隣へ並ぶ。
「三娘様」
「分かってる」
「まだ申し上げておりません」
「言われる前に分かってる」
玉楼は少しだけ黙った。
「ならば、結構です」
その声が、ほんの少しだけ優しかった。
アタシは息を吐く。
北門へ向かう。
でも、門だけを見るな。
城の上を見る。
横を見る。
足元を見る。
戻る場所を見る。
そうしなければ、杭州城はまた誰かを奪う。
張順、徐寧、郝思文。
これ以上、名前を増やしたくなかった。
それでも、戦は進む。
アタシ達は、北門へ向かった。
陣を出ると、陽の光が眩しかった。
眩しいのに、暖かくはない。
城壁の上だけが、やけに白く見える。
兵達は黙って進んでいた。
誰も声を張らない。
誰も、勢いで走らない。
盾を持つ者が前へ出る。
弩兵が、その後ろにつく。
槍兵が左右へ広がる。
関勝の部隊は、少し前に出ていた。
青龍偃月刀の刃が、光を受けて鈍く光る。
関勝の背中は大きい。
でも、今はそれが怖かった。
あの人は怒鳴らない。
走らない。
取り乱さない。
だから余計に、怒っているのが分かる。
アタシは手綱を握り直した。
「扈三娘様」
玉楼が、もう一度だけ呼んだ。
「今度こそ、言わなくても分かってる」
「はい」
玉楼は、それ以上言わなかった。
北門が見えてくる。
高い門。
閉じた扉。
その上に並ぶ影。
あの中に、郝思文がいるかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥がまた熱くなる。
でも、走らない。
前だけを見ない。
門だけを見ない。
城の上。
横。
足元。
戻る場所。
見る場所を、一つずつ増やす。
それくらいしか、今のアタシにはできなかった。
北門へ向かう三娘様は、いつもより静かでした。
怒っておられない訳ではございません。
怖れておられない訳でもございません。
ただ、走らなかった。
それだけのことが、今回はとても大きかったのだと思います。
「玉楼、そこ褒めるところなのかい?」
顧大嫂殿が、少し首を傾げました。
「はい。大いに」
「走らなかっただけだよ?」
「三娘様にとっては、大事なことです」
孫二娘殿が、腕を組んで頷きました。
「まあねェ。三娘は見えたら行くからねェ」
「行けると思ったら行きます」
「行っちまうね」
「止まれない時がございます」
「言い切ったねェ」
「事実ですので」
三娘様は、戦場でよく見えてしまう方です。
隊列の割れ目。
押せる場所。
今、入れば流れが変わる場所。
それが見える。
だからこそ、強い。
ですが、だからこそ危うい。
杭州城のような場所では、見えているものほど危険なことがあります。
開いた門。
逃げる敵。
城壁の影。
戻らぬ味方。
見えたものへ真っ直ぐ進めば、別のものを見落とす。
今回、三娘様はそれを分かっておられました。
「見る場所を増やす、だったかい?」
顧大嫂殿が言いました。
「はい」
「城の上、横、足元、戻る場所」
「その通りでございます」
孫二娘殿が笑いました。
「ずいぶん増えたねェ。前は敵の顔と首くらいしか見てなかったんじゃないのかい?」
「孫二娘殿」
「冗談だよォ」
「半分ほど事実です」
「認めるんだねェ」
私は、少しだけ息を吐きました。
以前の三娘様なら、北門が見えた瞬間に前へ出ていたかもしれません。
郝思文殿が中にいるかもしれない。
そう思えば、なおさら。
ですが、今回は違いました。
怒っている。
焦っている。
それでも、走らない。
ご自身で、ご自身を止めておられた。
「やっぱり少し心配だねぇ」
顧大嫂殿は腕を組み直しました。
「大丈夫、とは申し上げられません」
「正直だね」
「杭州城ですので」
そう――
相手は杭州城です。
張順殿は戻らず、徐寧殿は戻られましたが、毒矢を受けておられる。
郝思文殿は、囚われている。
近づいた者が、無事に戻っていない。
その事実だけで、十分すぎるほど重い。
孫二娘殿が、少し低い声で言いました。
「でも、行くしかないんだよねェ」
「はい」
「嫌だねェ」
「はい」
「三娘は、嫌な場所ほど顔を上げるからねェ」
その言葉に、私は少し黙りました。
確かに、そうかもしれません。
怖い時ほど、三娘様は前を見る。
嫌な時ほど、目を逸らさない。
震えていても、腹を立てていても、結局は前を見る。
だから、私は隣にいるのだと思います。
走り出さないように……
見落とさないように……
戻る場所を忘れないように……
「つまり、やっぱり手綱係だねェ」
「孫二娘殿」
「何だい?」
「扈三娘様は馬ではございません」
「でも、よく走る」
「……否定はいたしません」
顧大嫂殿が笑いました。
少しだけ、空気が緩みました。
北門はもう目の前です。
ですが、三娘様は走らなかった。
杭州城は、それで許してくれる相手ではない。
そう思うと、私はやはり、三娘様の隣を離れる訳にはいきませんでした。




