乖離の始動編
夜は静かだった。
戦のあととは思えないほど、音が薄い。
勝ったはずなのに、胸の奥に残るものは軽くない。
名前が変わり、形が整い、言葉が並ぶ。
それでも、やっていることは変わらない。
見ていれば分かる。
だから、目を逸らさない。
動きはもう始まっている。
アタシはその中にいる。
少しだけ、外れたまま。
縄を引き締める。郝思文の動きが止まる。
まだ力は残っているが、起き上がれない。槍は手を離れている。
アタシは手綱を引き寄せ、間合いを詰める。
喉元に切先を突きつけ、動きを奪う。
後ろで足音が寄る。玉楼だ。
「確保しました」
アタシは頷く。
周りの音が戻ってくる。まだ戦っている。終わっていない。
そのとき、遠くで声が上がる。
ざわめきが広がる。流れが揺れる。
「――関勝を、捕らえた!」
歓声が重なる。
一斉に、前の動きが変わる。押されていた流れが崩れる。
アタシは顔を上げる。遠い。それでも分かる。
「……やったのね」
玉楼がわずかに頷く。
アタシは手綱を引く。
「引くわよ」
玉楼が通す。
「第四軍、引け!」
列が動く。乱れはない。
さっきまでと同じだ。ただ一つ、違う。
縄の先に、郝思文がいる。
アタシは前を見る。
胸の奥が、少しだけ軽い。
終わったわね。
北京大名府は、既に落ちていた。
他の部隊が先に入っている。遅れた形になる。
アタシは足を止め、城を見上げる。
「また繰り返したのね……」
玉楼は何も言わない。
アタシは呟く。
「忠義、忠義って……」
少し間を置く。
「ウソばっかりじゃない?」
玉楼がわずかに頷く。
「また誰かに聞かれますよ」
「うっ……」
言葉が詰まる。
玉楼が、わずかに間を置く。
「……お嫌いでは、ないのでしょう」
痛いところを突かれる。
アタシは視線を逸らす。
後ろから足音が近づく。
振り返る。
顧大嫂と孫二娘だ。
「アタイらも城内に入っていいかい?」
アタシは一瞬だけ二人を見る。
「勝手にしなさいよ」
顧大嫂と孫二娘は、そのまま城内へ入っていく。
玉楼がわずかに肩を落とす。
アタシと玉楼だけが、その場に残る。
風が、少しだけ強い。
アタシは歩き出す。玉楼が半歩、後ろにつく。
門をくぐると、内は静かだった。
人はいる。動いている。だが、騒がない。荷が運ばれ、縛られた者が座らされている。
泣き声は小さい。誰も見ない。誰も止めない。
アタシはそのまま進む。視線だけを動かす。
見たくない光景だ。変わらない。名前が変わっても、やっていることは同じだ。
ため息をつく。
玉楼が前を見たまま言う。
「処理が早いですね」
アタシは頷く。
「慣れてるのよ」
奥から声がする。呼ばれている。
アタシは足を止めない。そのまま向かう。
郝思文を引き渡す。
縄を預ける。
見張りが引いていく。
それを見送る間もなく、アタシは踵を返す。
玉楼が続く。
廊下を進むと、人の気配が減っていく。
林冲の部屋の前で足を止める。
玉楼が戸を叩く。
「入れ」
中から声が返る。
戸を開ける。
林冲がいる。
座ったまま、こちらを見る。
アタシはそのまま進み、止まる。
玉楼が半歩、後ろに下がる。
少しだけ間が空く。
林冲の視線が動く。
アタシを見る。
「……取ったか」
アタシは頷く。
「そっちは?」
林冲は一拍置く。
「終わった」
余計なことは言わない。
それで足りる。
アタシは視線を外す。
「そう」
同じ距離だ。
それでも、少し違う。
林冲が口を開く。
「外されたな」
アタシは肩をすくめる。
「見れば分かるでしょ」
林冲は否定しない。
「意図はある」
それだけ言う。
アタシは鼻で笑う。
「でしょうね」
視線を上げる。
「だから?」
林冲は答えない。
少しだけ目を細める。
「見ていろ」
それだけ残る。
部屋を出る。
戸が閉まる音が残る。
廊下は静かだ。さっきまでと同じだ。何も変わらない。
アタシは歩く。
玉楼が半歩、後ろにつく。
しばらく、何も言わない。
林冲の声が残っている。
「見ていろ」
アタシは息を吐き、視線を落とす。
分からないわけじゃない。
だから、腹が立つ。
玉楼が前を見たまま言う。
「何か、ございましたか」
アタシは首を振る。
「別に」
それだけ返す。
廊下の先が開ける。
人の気配が戻る。
また同じだ。
名前だけが違う。
アタシは顔を上げる。
歩みは止めない。
自分達の部屋に戻る。
戸を閉める。
外の音が途切れる。静かだ。
アタシは椅子に腰を下ろす。
玉楼は、いつもの位置に立つ。
アタシは顔を上げる。
「座りなさいよ」
玉楼は一拍置く。
それから、向かいに腰を下ろす。距離が近い。
「……お疲れでしょう?」
アタシは首を振る。
「別に」
少し間を置く。
「ウソよ」
小さく言う。
玉楼は目を伏せる。
「分かっています」
アタシは視線を逸らす。
「……アンタは、変わらないわね」
玉楼は顔を上げる。
「変わる理由がありません」
静かに言う。
アタシは鼻で笑う。
「あるでしょ」
身を少しだけ乗り出す。
「全部、変わってるのよ」
声がわずかに強くなる。
「名前も、立場も、やることも」
一拍。
「……人も」
玉楼は視線を逸らさない。
「それでもです」
はっきりしている。
アタシは息を吐く。
背を椅子に預ける。
「林冲に言われたわ」
玉楼は黙って聞く。
「見ていろ、って」
小さく言う。
「分かってるのよ」
視線を落とす。
「でも、納得はしてない」
玉楼は頷く。
「はい」
一拍。
「納得する必要はありません」
静かに言う。
アタシは顔を上げる。
玉楼を見る。
近い。逃げない。
「アンタ、そういうとこよ」
玉楼はわずかに首を傾ける。
「不都合でしょうか」
アタシは小さく笑う。
「楽でいいわ」
アタシは視線を逸らす。
「……居なさいよ」
玉楼はそのまま座っている。
動かない。
「ここに」
宴に呼ばれる。
灯りが多い。
声も多い。
さっきまでの静けさが嘘みたいだ。
席に着く。顔ぶれが違う。
知らない顔が増えている。
その中に、一人。
場の中心に座っている。
誰もが気にしている。
だが、騒がない。
上座は空いている。
それでも、視線はそこに向く。
わざとらしく、宋江はその横にいる。
誰かが言う。
「此度の戦、見事でございました」
別の声が重なる。
「これで、あの方も――」
そこで止まる。
だが、続きは分かる。
アタシは盃を持つ。
口はつけない。
話が流れていく。
「入山も時間の問題でしょう」
「これで盤石ですな」
頷く者ばかりだ。
否定はない。
一人もいない。
アタシは視線を上げる。
あの男は何も言わない。
ただ座っている。
遅れて、名前が出る。
「盧俊義殿」
誰かが呼ぶ。そこで繋がる。
それだけだ。
上座は空いたまま。
それでも、もう決まっている。
「……そういうこと」
小さく呟く。
玉楼が横で動かない。
「どうかなされましたか」
アタシは首を振る。
「何でもない」
視線を戻す。
話は続いている。
北京大名府は、そのためだ。
戦は理由じゃない。
手段だ。
アタシは盃を置く。
音が小さく鳴る。
誰も気にしない。
同じ方向を見ている。
アタシと玉楼だけが、違う。
席を立つ。誰も止めない。
外へ出る。灯りが遠くなる。
空気が冷たい。
さっきまでの熱が抜ける。
アタシは足を止める。
息を吐く。
玉楼が半歩、後ろにつく。
しばらく、何も言わない。
「……見た?」
玉楼は頷く。
「はい」
アタシは笑う。
「分かりやすいわね」
視線を上げる。空は暗い。
「最初から、そのつもり」
玉楼は否定しない。
「はい」
一拍。
「そういう流れかと」
アタシは鼻で笑う。
「流れ、ね」
言葉を切る。
「……気に入らない」
玉楼は動かない。
「はい」
アタシは肩の力を抜く。
「でも、やるしかない」
玉楼が頷く。
「承知しております」
アタシは歩き出す。
玉楼が続く。
夜は静かだ。
宴の音は、もう届かない。
夜の空気を切るように、足音が近づく。急いでいる。
振り返る前に分かる。
伝令だ。
息を切らして止まる。
「失礼します」
アタシは足を止める。
「何?」
伝令は一瞬だけ言葉を選ぶ。
「盧俊義殿の件で――」
続きは、言わなくても分かる。
アタシは目を細める。
「もう動いたの?」
伝令は頷く。
「はい」
アタシは息を吐く。
「早いわね」
玉楼が横で動かない。
「想定内かと」
アタシは小さく笑う。
「でしょうね」
視線を上げる。暗い。
でも、もう見えている。
「……始まったわね」
誰に言うでもなく、呟く。
玉楼は答えない。必要ない。
アタシは歩き出す。
玉楼が続く。
止まる理由はない。
戦は終わった。
そういう形になっただけだ。
勝った負けたの話は、もう通り過ぎている。
最初から決まっていたことが、そのまま進んだ。
見えなかっただけで、隠れていたわけじゃない。
気づいた時には、もう動いている。
止める理由も、止まる理由もない。
アタシは見る。
外れたまま、見ている。




