↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
10/210

まず見ろ

「林冲に、“まず見ろ”って言われたの」

孫二娘が鍋を混ぜながら笑う。

「新人研修が観察からかァ?」

「しかも玉楼には、“守るなら先に見ろ”よ!」

顧大嫂が酒を置いた。

「それで?」

「言われた直後から、玉楼の索敵範囲が広がった」

「人を便利機能みたいに言うなよ」

「だって性能上がってるのよ!!」

二人が笑う。

問題は、その後だった。

また王英が来た。

「教材まで向こうから来たのかい?」

「最低の実習教材よ!」

でも、今度はただ気持ち悪いだけじゃなかった。

アタシが噛みついて、玉楼が道を塞ぐ。

黒と白。

そして二人で見ていた。

王英だけじゃない。

その周りにいる全員を。

孫二娘が鍋を混ぜる手を止める。

「何か見えたかい?」

「……少しね」

梁山泊は、まだ信用できない。

でも――

誰が笑って、誰が黙るのか。

それくらいは、見え始めていた。

梁山泊の朝は、思ったより静かだった。

もっと荒れていて、怒号が飛び交っている場所だと思っていたけれど、実際に聞こえるのは鍋の蓋が鳴る音や、水桶を運ぶ足音、それから見張りが交代する時の短い声くらいだ。

山賊の砦というより、軍営地に近い。

「……また想像と違う」

廊下を歩きながら呟くと、半歩前にいる玉楼が振り向いた。

「何がでございますか?」

「山賊って、もっと朝から酒飲んで喧嘩してるものかと思ってた」

「朝から酒を召される方もおられるかもしれません」

「そこは否定してよ」

玉楼は少し考えた。

「存じませんので」

律儀。

そして役に立たない。

前を歩く兵は振り返らない。

数日前までなら縄を持たれていたところだけど、今日は何もない。

それでも好きに曲がっていいわけじゃないから、自由になった実感は薄かった。

通り過ぎる兵たちが、ちらちらこちらを見る。

「あれが扈三娘か」

「隣が玉楼だろ」

「林教頭の麾下に入ったってよ」

昨日までは捕虜を見る目だった。

今日は、どう扱えばいいのか迷っている目だ。

仲間になったのか?

まだ敵なのか?

林冲の下にいるなら、下手に触るなということだけは共有されているらしい。

玉楼が一人の兵へ視線を向けた。

兵が前を見る。

「玉楼」

「はい」

「見るだけで人を正面向かせるの、便利ね」

「わたくしは何も」

「知ってる。見ただけでしょ?」

最近、その言い訳まで分かるようになってきた。

広場へ出ると、朝の空気が一気に広がった。

槍を持った兵が列を作り、その向こうでは馬が引かれている。

武具を点検している者もいれば、遅れて走って来て列へ滑り込む者もいる。

そして、その中心に林冲がいた。

白い披風が風に揺れている。

蛇矛を持っているだけなのに、周りの空気が勝手に整って見えた。

林冲がこちらを見る。

「来たか」

「来たわよ」

玉楼が頭を下げる。

「お待たせいたしました」

同じ返事なのに、どうしてアタシだけ新人アルバイトみたいになるの。

林冲は気にした様子もなく、兵たちへ視線を戻した。

「今日からここで動いてもらう。ただし、まだ隊は預けん」

「いきなり隊長やれって言われても困るけど」

「だから預けん」

即答された。

玉楼の口元が、ほんの少し動いた。

「今、笑った?」

「いいえ」

絶対笑った。

林冲が続ける。

「まず見ろ」

「見る?」

「誰が命を聞く。誰が遅れる。誰が周囲を見ている。誰が自分しか見ていない。それを覚えろ」

戦えでも、従えでもない。

見る。

意外だった。

「人を見る仕事ってこと?」

「戦う前から戦は始まっている」

なるほど。

会社にもいたわ。

仕事が始まってから慌てる人と、始まる前に全部揃えてる人。

ただ、こっちは失敗すると槍が飛んでくる。

研修の圧が違う。

林冲の視線が玉楼へ移った。

「玉楼」

「はい」

「お前も同じだ」

「承知いたしました」

「扈三娘の半歩前に立つのは構わん」

玉楼の目が少しだけ動いた。

「だが、守る相手だけを見るな」

今度はアタシも林冲を見る。

「後ろから来るものを防ぐなら、前だけ見ても間に合わん。守るなら先に見ろ」

玉楼はすぐには答えなかった。

いつもなら「承知しました」で終わるのに、一拍だけ考えてから深く頭を下げる。

「心得ました」

その声は真面目だった。

アタシは少しだけ笑う。

「玉楼、先生に注意された」

「三娘様も同じご命令を受けております」

「巻き込まないで」

「同じでございます」

こういう時だけ反撃が速い。

林冲が蛇矛の石突きを地面へ一度ついた。

広場の空気が変わった。

「始めるぞ」

兵たちが動く。

そこからは速かった。

槍の列が組み替わり、馬が出入りし、伝令が走る。

林冲は大声を張り上げない。

それでも指示が一つ飛ぶたび、人の位置が変わった。

アタシは端から見る。

最初は何となく眺めていただけだった。

でも、意識して見ると違う。

号令より半歩早く動きかける男がいる。

隣の槍先まで確認してから構える男もいる。

遅れた仲間をさりげなく列へ戻す奴もいれば、自分が間違っているのに他人を睨んでいる奴もいた。

「……結構いるわね」

「何がでございますか?」

玉楼はアタシより少し前に立ちながら、視線を広場全体へ動かしていた。

「同じことやってるように見えて、全然違う」

「はい」

「玉楼も分かった?」

「三列目、右から四人目の方は左足を庇っておられます。二列目の端の方は、号令より隣の動きを見ております。あちらの馬は右から近づかれるのを嫌がっております」

待って。

「見えすぎじゃない?」

「見るよう命じられましたので」

性能がおかしい。

林冲、この女に新しい機能を解放してない?

午前の稽古が終わり、兵たちが散り始めた。

アタシたちも広場を離れる。

林冲から次の指示はない。

つまり、まだ見ろということらしい。

梁山泊の中を歩くと、武具を直している者がいて、食料を運ぶ者がいる。

その向こうでは怪我人の手当てをしていた。

戦う人間だけで出来ている場所じゃない。

昨日までは、そこまで見えていなかった。

「山賊っていうより会社……いや、町?」

「先ほどから、その『かいしゃ』とは何でございますか?」

「説明すると長いから忘れて」

「承知しました」

聞き分け良すぎるのも困る。

その時だった。

「おい、扈三娘」

声だけで気分が下がった。

王英。

今日も元気に最悪。

振り向くと、向こうからにやつきながら歩いてくる。

周囲にいた兵が、少しだけ距離を取った。

止めない。

でも、見ている。

昨日なら、それだけだった。

今日は違う。

林冲の言葉が頭に残っている。

アタシは王英ではなく、その周りを見た。

王英と目を合わせない兵。

面白そうに様子を窺う男。

眉をひそめる女。

荷物を抱えたまま、足だけ止めた若い兵。

なるほど。

「昨日は随分言ってくれたな?」

王英が近づく。

玉楼が半歩前へ出た。

いつもなら、そのまま王英だけを見る。

でも今日は違った。

身体はアタシを庇える位置に置いたまま、玉楼の視線は周囲まで拾っている。

もう使ってる。

林冲に言われたことを。

早いわ。

「聞いてんのか?」

「聞いてる。聞きたくないけど」

「相変わらず口が減らねえな」

「減らしたらアンタが喜びそうだから維持してあげる」

どこかで小さく笑いが漏れた。

王英の目がそちらへ動く。

その瞬間、玉楼が囁いた。

「三娘様」

「分かってる」

今、見た。

王英はアタシに嫌われることより、周囲に笑われることを気にした。

昨日までは、ただ気持ち悪い男だった。

今日は少しだけ中身が見える。

王英が一歩出る。

「林冲殿の下に入ったからって、調子に乗るなよ」

玉楼の手が腰へ寄った。

武器には触れていない。

でも王英は、それを見る。

足が止まった。

「主人の前に出る癖、直した方がいいぜ」

「ご忠告ありがとうございます」

玉楼が微笑む。

「ですが、三娘様の前へ出ることより、三娘様へ近づこうとなさる方を直す方が早いかと存じます」

周囲が静かになった。

「玉楼」

「はい」

「今日も切れ味いいわね」

「刃には触れておりませんが?」

「そういう意味じゃない」

王英の顔が歪む。

「お前ら……」

アタシは玉楼の横へ出た。

半歩。

今度はアタシが前だ。

玉楼は止めない。

「試してみる?」

王英が眉を寄せる。

「何をだ?」

「ここでアタシに触ったら、誰がどうするか?」

周囲へ視線を向ける。

「アンタも気になるでしょ?」

王英の目が動いた。

兵たちを見る。

誰も助けようとはしていない。

かといって、王英を止めに入る奴もいない。

みんな見ている。

林冲の麾下へ入ったばかりの女に、王英が本当に手を出すのか。

アタシも見ている。

玉楼も見ている。

王英だけが、急に見られる側になった。

「……冗談だよ」

やっぱり。

「つまらない冗談」

「覚えてろ」

「忘れたいから、もう話しかけないで」

今度は笑いが二つ、三つ漏れた。

王英はそちらを睨んだが、誰が笑ったのか分からない。

舌打ちして去っていく。

追わない。

玉楼も動かなかった。

姿が人の間へ消えてから、玉楼がこちらを見る。

「危のうございました」

「でも見えた」

「何がでございますか?」

「王英、アタシに嫌われるより、人に笑われる方が嫌みたい」

玉楼が少し考える。

「確かに」

「それから、誰も助けなかった」

「はい」

「でも止めもしなかった」

玉楼の表情が、ほんの少しだけ変わる。

「……それも、見るべきことでございますね」

「でしょ?」

林冲の言った意味が、ようやく少し分かった気がする。

敵が誰かを見るだけじゃない。

味方が誰かを見るだけでもない。

何か起きた時、誰が手を出すのか?

誰が黙るのか?

誰が笑うのか?

それを知っていれば、次に何が起きるか、ほんの少しだけ先に読める。

玉楼がいつもの半歩前へ戻った。

でも朝とは違う。

今の玉楼は、アタシだけを見ていない。

道の先を見ている。

横を通る人間も見ている。

背後の足音まで拾っている。

「玉楼」

「はい」

「半歩、意味変わった?」

少しだけ間があった。

「三娘様をお守りすることに変わりはございません」

「うん」

「ですが、守るために見るものは増えました」

なるほど。

林冲、教えるの上手いじゃん。

本人に言ったら無表情で流されそうだから言わないけど。

アタシも前を見る。

梁山泊には暮らしがある。

規律もあるし、笑う人もいれば、黙って働く人もいる。

その同じ場所に王英みたいなのもいる。

だから、まだ信用はしない。

でも昨日よりは見える。

少なくとも、ここが単純な善人の集まりでも、悪党の巣でもないことくらいは。

アタシが先に踏み込む。

玉楼は、その先を見る。

玉楼が道を塞げば、アタシが横から噛みつく。

黒と白。

やっぱり、悪くない。

梁山泊は、まだ分からない。

でも、少しだけ見えた。

ここは、火だけで出来ている場所じゃない。

影も、同じだけ濃い。

玉楼でございます。

「玉楼、林冲に“先に見ろ”って言われたんだって?」

顧大嫂様が酒を置きました。

「はい、大変勉強になりました」

孫二娘様が鍋を混ぜます。

「それで三娘以外まで全部見るようになったのかァ?」

「必要でございますので」

幕舎の外から声が飛びました。

「索敵範囲が広がってるのよ!!」

「三娘様をお守りするためでございます」

「また性能上がった!」

甚だ失礼でございます。

ですが、あの日、三娘様も変わられました。

王英様だけではなく、その周りで笑う者、黙る者、目を逸らす者まで見ておられたのです。

林冲殿の仰った「見ろ」の意味を、三娘様なりに掴まれたのでしょう。

ですから私も――

次は、三娘様より先に見つけるつもりでございます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。