玉楼の涙
「……で?」
孫二娘が、鍋を混ぜながら首を傾げる。
「今度は、“軟禁生活スタート”なんだって?」
顧大嫂が酒を煽った。
「しかも、林冲が普通に部屋まで来たんだろ?」
「嫌だねぇ」
外は静かな夜だった。
銅鑼も無い。
馬の嘶きも無い。
湿った風だけが、幕舎の帷幕をゆっくり揺らしている。
孫二娘が、鍋の湯気を見つめた。
「で?」
「梁山泊の牢って、どんな感じだったんだい」
アタシは、少しだけ考える。
「……静かだった」
「うわ、一番落ち着かないヤツだ!」
顧大嫂が吹き出した。
「もっと、“牢屋!!”って感じ想像してただろ!」
「してたわよ!!」
思わず声が大きくなる。
「もっと汚くて、怒鳴り声とか、鉄格子とかあると思ってたの!!」
「なのに、普通に部屋なのよ!!」
孫二娘が、腹を抱えて笑った。
「扈三娘、“扱いが悪い”より、“妙に丁寧”に弱いねェ!」
「だって嫌でしょ!?」
鍋の煮える音だけが、小さく続く。
アタシは、あの部屋を思い出していた。
低い卓、水差し、静かな灯り。
それから――
玉楼の半歩前の位置。
顧大嫂が、酒を持ったまま呟く。
「しかも、玉楼ずっと前に立ってたんだろ?」
「立ってたわよ……」
「ほら来た!!」
孫二娘が肩を揺らす。
「もう玉楼、“侍女”じゃなくて、“扈三娘専用の扉”なんだよ!」
「そうなのよ!!」
また声が返って来る。
「林冲が入って来ても、真っ先に間へ入るの!!」
「“ここから先は私を通して下さい”って!!」
顧大嫂が、酒を吹きかけた。
「うわ、静かなのに滅茶苦茶圧あるヤツだ!」
「しかも林冲相手だろ?」
「普通もっとビビるさ!」
アタシは、小さく息を吐く。
「玉楼、ああいう時ほど静かなのよ……」
鍋の湯気が、夜へ溶ける。
その時――
孫二娘が、急にニヤついた。
「で?」
「ご飯、先に玉楼へ食わせたんだろ?」
外が、一瞬だけ静かになる。
それから――
「……食べさせたわよ」
ぼそっと返事が返る。
顧大嫂が吹き出した。
「疑ってるじゃないか!!」
「当たり前でしょ!!」
即答だった。
「捕まってるのよ!?」
「毒くらい警戒するわよ!!」
孫二娘が、笑いながら鍋を混ぜる。
「でも玉楼、普通に食べたんだろ?」
「食べたわよ……」
「しかも、“問題ありません”って顔で」
「うわ、“毒見役”まで慣れてる!」
笑い声が広がる。
でも――
その笑いも、少しずつ静かになっていった。
アタシは、あの足音を思い出していた。
扉の向こうの声。
――扈家荘が落ちた。
――李逵が暴れた。
その言葉。
顧大嫂が、焚き火を見たまま呟く。
「……で、扈三娘」
「本当は、分かってたんじゃないのかい」
空気が、少しだけ止まる。
アタシは、すぐには答えない。
鍋の煮える音だけが、小さく続く。
それから――
小さく息を吐いた。
「……分からなかったわよ」
声は、静かだった。
「分からないって事に、してたのかもしれないけど」
湿った風が、静かに吹き抜ける。
孫二娘が、鍋を混ぜる手を止める。
「玉楼は、気付いてたんだろうねぇ」
アタシは、何も言わない。
でも――
玉楼が、あの時、 わざわざ前へ回って座った意味だけは、 ちゃんと分かっていた。
夜は、何も答えない。
ただ静かなまま――
アタシが、 “扈家荘の娘”である事から、 もう逃げ切れなくなっている事だけを、 ゆっくり突きつけてくる様だった。
梁山泊に連れてこられて、だいぶ夜も遅くなった。
梁山泊の中にいても、夜の静けさは変わらない。
ただ、静けさの質が違う。
梁山泊には人が沢山いるのに……
見えない場所で、誰かしら起きている気配はある。
壁の向こうを流れるそれを、アタシは拾っていた。
部屋は狭い。
木の柱と土壁。
低い卓と、水差しが一つ。
扉は厚い。
指で触れなくても分かる。
内側から開くものじゃない。
アタシ達を閉じ込めるためのものだ。
壁に背を預けない様に、床に座っている。
預けた瞬間に、意識を失う気がしたからだ。
前に、玉楼が立っている。
ほんの半歩。
でも、その半歩は玉楼がアタシに何かあった時に対応する為に、いつも取る間合いだ。
ここから先は、絶対に触れさせない。
そういう距離。
玉楼の背中は、いつも通りだ。
無理に張っているわけでも、力んでいるわけでもない。
ただ、そこにいる。
それだけで安心する。
廊下の足音が止まる。
わずかな間。
扉が開いた。
空気が一度、入れ替わる。
入ってきた男は、足音を残さない。
音がないわけじゃない。
ただ、余分な動きが無い。
アタシは顔を上げない。
見なくても分かる。
ああいう立ち方をする奴は、そう多くない。
扉が閉じ、外の気配が少しだけ遠くなる。
完全に切れるわけじゃない。
むしろ、閉じたことで輪郭がはっきりする。
逃げ場はない――
最初から分かっていたことだ。
男――
林冲は、部屋の奥までは入ってこない。
近すぎず、遠すぎず、踏み込めば届く様な間合い。
だけど、間違い無く林冲の間合い。
そういう位置に立っている。
見極めようとしてる。
アタシじゃない。
アタシたちを。
視線が動く気配が分かる。
まず、玉楼。
次に、その後ろのアタシ。
それから、もう一度、玉楼。
順番を見ている。
玉楼が、わずかに体の向きを変える。
完全に遮る形になる様に、 アタシの前に立つ。
「――ここから先は、私を通して下さい」
押しつけるでも、威嚇するでもない。
ただ、決めている。
そういう言い方だった。
アタシは動かない。
止めもしない。
玉楼が前に出るのは、間違いじゃない。
一瞬の沈黙。
張り詰めた空気が漂う。
「当分の間、ここでゆっくりするのだな」
林冲が言う。
思っていたより、優しい言葉だった。
でも、その中に全部入っている。
「処遇は、その後で決める」
……そういう事ね。
アタシは、そこで初めて顔を上げる。
玉楼の肩越しに、林冲を見る。
目は逸らさない。
逸らす理由がない。
林冲も、逸らさない。
値踏みじゃない。
もっと静かな、別の何か……
「守る事は三つ」
ひとつ、
「とにかく静かにしていろ」
ふたつ、
「逃げようと思うな」
みっつ、
「呼べば来い」
簡単だ。
玉楼が、小さく頷く。
「……了承致します」
アタシの代わりに言ってくれた。
それでいい。
ここは、そういう場。
アタシは黙っていた。
言葉にするほどのことじゃない。
ただ、一度だけ、玉楼の背中を見る。
位置を確かめる。
そこにいる。
それで十分だ。
視線を戻す。
林冲は、見ている。
全部見ている。
「食事は運ばせる」
それしか言わなかった。
さっきの言葉にあった柔らかさは、もう無い。
ただの処理だ。
沈黙が戻る。
外で、また足音が動く。
ここは閉じられている。
でも、止まってはいない。
アタシは後ろにいる。
玉楼は前に立っている。
男は、その先にいる。
距離は変わらない。
けれど――
ここで何かを誤れば、この形はすぐに崩れる。
そういう場所に、来ている。
やっと、実感が追いついた。
扉が閉まる。
外の音が、少しだけ遠くなる。
完全に消えたわけじゃない。
人の動きは、まだ向こうにある。
玉楼は、前に立ったまま動かない。
アタシは、その背中を見てから、視線を卓に落とす。
湯気が、ゆっくり薄れていく。
「玉楼」
「先に確認して」
玉楼はすぐに動き、卓の前に進み、膝をつく。
箸を取り、ひと口。
飲み込んで、待つ。
その間、アタシは何も言わない。
やることは決まっている。
様子を見る。
それだけ。
「……問題ありません」
玉楼が言う。
アタシは頷く。
それで十分。
箸を取り、少しだけ口に運ぶ。
味は薄い。
余計なことはしていない味。
この場所らしい。
食べる量は抑える。
ここで満たす必要はない。
箸を置き、少しだけ間を置く。
「玉楼」
もう一度呼ぶ。
玉楼は振り返らない。
ただ、次の言葉を待つ。
「これからどうする?」
問いは短い。
玉楼はすぐには答えない。
考えている。
その間の後、
「……急がない方がよろしいかと」
静かに言った。
「こちらから動く必要はありません」
アタシは小さく頷く。
同じ考えね……
「見られてるわね」
玉楼が、わずかに視線を上げる。
「はい」
「アタシ達がどう出るか」
そこまで言って止めた。
最後まで言わなくても、それで通じる。
アタシは卓に指先を置く。
軽く、触れるだけ。
「なら、ゆっくりさせてもらおうじゃない」
玉楼が、息を漏らす。
「はい」
アタシは扉の方へ視線を上げる。
その向こう側を意識する。
「しばらくは、このまま」
結論だけを言う。
「余計なことはしない」
玉楼は頷く。
「承知しました」
言葉はそれだけで良いだろう。
アタシは背筋を伸ばしたまま、動かない。
玉楼は、また半歩前の位置に戻る。
最初と同じ形。
けれど――
意味が変わっている。
さっきまでは
「アタシを守るための位置」
だった。
今は
「二人で決めた事を維持する位置」だ。
部屋の外で足音が響く。
夜はまだ続く。
急ぐ理由はない。
ここでやることは、一つ。
動かないことを、決める。
それだけでいい。
数日後、足音が近づいて、この部屋の扉の前で止まった。
かすかに声がした。
「……扈家荘が巻き添えで落ちたってよ」
「本当か?」
「李逵が勘違いして大暴れしたらしい」
短い間の後、
「……あー……」
「扈三娘にやられた事の逆恨みらしい」
「誰か止めてやれよ」
「いるわけねえだろ。あいつを止めれる人間なんて、宋江様と戴宗様だけだぞ」
小さく笑う気配。
「そりゃそうだ」
「こっちにも捕まってんだろ? 関係者が」
「らしいな」
「誰だっけ」
「……女共だよ。林冲殿が預かっているそうだ」
「ああ」
興味の薄い声。
「余計なこと考えんなよ」
「分かってるって」
足音が離れる。 静けさが戻る。
アタシは卓を見たまま、動かない。
――扈家荘
――李逵
何の事か分からない……
玉楼は、前に立ったまま。
しばらく、そのまま。
それから――
ゆっくりと振り向く。
「……扈三娘様」
アタシは顔を上げる。
「なに?」
玉楼は一拍置く。
そして、アタシの斜め前に腰を下ろした。
「ご様子が、変わりませんが……」
アタシは玉楼を見る。
「変わる必要、ある?」
玉楼は目を逸らさない。
「ございます……」
静かな声だった。
しかし、それで止まってしまった。
アタシは、ほんの少しだけ間を置いた。
「……どうかしらね」
それだけ……
玉楼が、わずかに息を止めた。
「……」
考えている。
やがて、視線を少し落とした。
「……承知しました」
消えそうな声だった。
納得はしていないのだろう。
けれど、この場を納めるために引いたみたいだ。
ただ――
玉楼の目に涙が浮かんでいた。
アタシは何も言わなかった。
言えなかった。
悲しむべきだったのか。
怒るべきだったのか。
それとも、何かを思い出すべきだったのか。
それすら、まだ分からなかった。
外で足音が響く。
答えはまだ出なかった。
夜は、相変わらず静かでした。
銅鑼もありません。
馬の嘶きも、怒号もありません。
あるのは、湿った風と、鍋の煮える音だけです。
その中で――
孫二娘殿と顧大嫂殿は、いつもの様に鍋を囲んでおられました。
「で?」
孫二娘殿が、鍋を混ぜながら笑います。
「今度は、“牢なのに普通に生活してる場所”へ放り込まれたんだって?」
顧大嫂殿が、酒を煽りました。
「しかも、林冲殿まで普通に部屋へ来るんだろ?」
「嫌だねぇ」
幕舎の外から、すぐ声が返って来ます。
「嫌だったわよ!!」
孫二娘殿が吹き出しました。
「“捕虜です!”って空気より、“普通に暮らしてます”の方が怖かったんだろ?」
「そうなのよ!!」
また外から返って来ます。
「もっとこう、“山賊!”って感じ想像してたの!!」
「なのに、普通にご飯出て来るし、水差しあるし、静かなのよ!!」
顧大嫂殿も、肩を揺らしました。
「うわ、“雑に扱われる覚悟”してたら、“丁寧に閉じ込められる”ヤツだ」
鍋の煮える音だけが、小さく続きます。
私は、その湯気を見ながら、小さく息を吐きました。
梁山泊――
外から見れば、“賊”です。
ですが、中には人の暮らしがあります。
だからこそ、 扈三娘様には、余計に整理がつかなかったのでしょう。
私は静かに口を開きます。
「……恐らく、“敵として憎み切れなかった”のだと思います」
孫二娘殿が、少しだけ笑いを止めました。
「酷けりゃ、“敵だ!”で済むからねぇ」
私は、小さく頷きます。
「はい」
「ですが、梁山泊は違いました」
「閉じ込める」
「けれど、乱暴には扱わない」
「警戒する」
「けれど、辱めない」
「……そういう曖昧さは、人を迷わせます」
湿った風が、静かに吹き抜ける。
その時――
顧大嫂殿が、急にニヤつきました。
「で?」
「林冲殿が来た時、玉楼また前へ出たんだろ?」
外が、一瞬だけ静かになります。
それから――
「……出たわよ」
ぼそっと返事が返って来ました。
孫二娘殿が、腹を抱えて笑います。
「ほら来た!!」
「もう玉楼、“護衛”じゃなくて、“扈三娘専用の結界”なんだよ!」
「だって!!」
また外から声が返って来ます。
「林冲が入って来た瞬間、“ここから先は私を通して下さい”なのよ!?」
「静かなのに、全然引かないの!!」
顧大嫂殿が、酒を吹きかけました。
「うわ、“声荒げない方が怖いタイプ”だ!」
「しかも相手、林冲だろ!?」
「普通もっと遠慮するさ!」
私は、少しだけ目を伏せます。
……遠慮している余裕が、無かったからです。
笑い声が広がります。
ですが――
その笑いも、少しずつ静かになっていきました。
鍋の湯気が、夜へ溶ける。
私は、小さく呟きます。
「……ですが」
「本当に危うかったのは、あの後だったのでしょうね」
孫二娘殿も、顧大嫂殿も、何も言いません。
私は、静かに続けます。
「扈家荘が落ちた」
「李逵殿が暴れた」
「その話を聞いても――」
「扈三娘様は、何も乱れませんでした」
湿った風が、静かに幕舎を揺らしました。
「……ですが」
「乱れなかったのではなく、“まだ落ちて来ていなかった”のでしょう」
外から、小さく声が返って来ます。
「……玉楼、前に座ったのよ」
孫二娘殿が、少しだけ笑います。
「聞かせない為かい?」
少し間が空く。
それから――
「……多分」
小さな返事。
私は、その声を聞きながら、静かに目を伏せました。
あの時、 扈三娘様は、まだ“娘”へ戻り切っておられませんでした。
だからこそ、 私は前へ出たのです。
夜は、何も答えません。
ただ静かなまま、 少しずつ――
扈三娘様の中で止まっていた感情を、 逃げ場の無い形で、
ゆっくり浮かび上がらせていく様でした。




