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空盃の齟齬編

最近、前の世界の夢を見なくなった。

気がつけば、思い出すことも減っている。

残っているのは、あの光景だけだ。

見ていただけの、あの光景。

何もしていないのに、消えない。

ここで生きるほど、あれが遠くなる。

遠くなるほど、消えない。

最近、前の世界の夢を見なくなった……

気がつけば、思い出すことも減っている。

残っているのは、あの光景だけだ。

見ていただけの、あの光景。

何もしていないのに、消えない。

アタシは視線を上げる。

隊列は、もう動いている。

「……それでいいわけないでしょ」

ため息をつく。

蹄の音が鈍く続いた。


「……斥候の見立てそのままね。」

アタシは手綱を引いた。

「前列、前へ」

玉楼が、続けて号令する。

「前列、前へ!」

声が走り、隊列が応じる。

馬が前へ出る。

敵兵が正面から突っ込んでくる。

両軍がぶつかり、鈍い衝撃が走る。

前列が、その場で踏み止まる。

押し返さない。

「引きつけて」

「承知しました」

玉楼の声が重なり、隊列は崩れない。

そのまま、玉楼は部隊を後ろへ下げる。

列を保ったまま、ゆっくりと引く。

相手が寄せてくる。

踏み込みが深くなる。

間合いが、わずかにずれる。

アタシは馬首を左へ向けた。


「左、開けて」

玉楼がすぐに応える。

「左、開け!」

号令が響き、列の左がほどける。押し合いの力が、そのまま左へ流れる。相手は押し込もうとして前に出る。

「乱すな」

「承知しました」

玉楼の号令で、前列は形を崩したまま引く。踏み込みを揃えず、わざと拍を外す。前と後ろの合いが噛み合わず、隊列が綺麗に割れて見える。

相手はそれを崩れと見て、さらに寄せてくる。


玉楼の号令で、前列は崩した形のまま退く。

乱れて見えるが、崩れてはいない。

相手は押し切れると見て、踏み込む。

列が伸びる。

前と後ろが、噛み合わない。

土の感触が変わる。

踏み込みが、わずかに鈍る。

「そのまま、保って」

「承知しました」

玉楼の声が響き、列は形を保ったまま退く。

左手の先、岸が近い。

アタシは視線を李俊に向けた。

「任せたわ」

李俊は前を見たまま、短く返した。

「任せろ」

李俊が、水際へ出る。

敵兵を、そのまま水中に引き込んでいった。


「……これでいいのよね……」

気がつけば、盃が回っていた。声が重なって、笑いが途切れない。誰かが何かを言っているけど、拾う気にはならなかった。

盃を受けて、そのまま口に運ぶ。味がしない。もう一口含んでも、やっぱり何も残らない。酒がただ喉を通っていくだけだった。

音ばかりが近い。人はいるのに、どこか距離がある。手の中の盃だけが、やけに重たい……

隣に玉楼が座る。

「味がしないのでしょう?」

すぐには返さず、盃を眺めていた。

「そう見える?」

玉楼は、答えない。

そのまま、盃を取る。

少しだけ口をつけて、置いた。

「勝ちました」

アタシは、

「ええ」

それだけ返した。

少しの間。

玉楼は盃に手をかけたまま、動かない。

「……それで、いいのですか」

アタシは視線を上げない。

「いいって言ってるでしょ」

玉楼は、少しだけ間を置く。

「はい」

だが、その声は、引いていない。

「青州から、変です」

「わかる?」

玉楼は間を置かない。

「はい」

アタシは盃を見たまま、口を開く。

「当たり前なのよ……ここでは」

少しだけ間が空く。

「でも――」

言葉が、そこで止まる。

玉楼は、待つ。

「アタシには耐えられない」

玉楼は、しばらく考え込んで、

「では――」

少しだけ間を置く。

「どうなさいますか」

アタシは盃を見たまま、

「変えられないわ」

と呟く。

「……やるしかないのよ……」

玉楼は、すぐには答えなかった。

「でしたら」

「私も、ついて参ります」

アタシは盃から目を離さない。

「今さらでしょ」

「はい」

玉楼の声は、揺れない。

「今さらです」

その言い方に、少しだけ息が詰まる。

何も変えられない。

それでも、隣にいる。

アタシは盃を置いた。

「……そう」

小さく呟く。

玉楼はそれ以上、何も言わなかった。


席を立つ。

廊下に出ると、李俊がいた。

壁にもたれながら、こちらを見ている。

「顔が疲れてるぜ」

「そう?」

李俊は、少しだけ口元を緩める。

「わかるさ」

アタシは足を止めない。

「してないわ」

すれ違いざま、

「おい、待てよ」

足を止める。

「少しは、休め」

振り返らない。

「命令?」

「違う」

少しだけ、間が空く。

「そういうのじゃない」

「ありがとう。気持ちだけ受け取っておくわ」

そのまま、歩き出す。廊下の音が、少しだけ静まる。

「今のは」

玉楼が、前を見たまま口を開く。

「断りですか」

「受け取ったのよ」

玉楼は不思議そうだ。

「それだけ」

玉楼は、間を置いて、

「……通じているのですか?」

「何が?」

「お二人の間で」

アタシは肩をすくめる。

「……ないわよ」

玉楼は、間を外さない。

「そうですか」

少しだけ間が空く。

「扈三娘様も、お年頃では?」

足が、わずかに止まる。

「それを言ったら、アナタもでしょ?」

玉楼は、わずかに目を伏せる。

「私は――務めがあります」

アタシは小さく呟く。

「知ってるわよ」


外に出ると、風が少し冷たい。扉の向こうで宴の声がくぐもり、さっきまでの騒ぎが遠くなる。アタシは立ち止まり、空を見上げる。何も変わっていない。

玉楼は何も言わず、ただ同じ方を見ている。

「……戻りましょうか」

「そうね」

二人の足音だけが、続く。


しばらく経ったある日。

使いが来た。

玉楼が扉を開ける。

短く言葉が交わされ、こちらに向き直る。

「聚義庁へ」

頷いて、廊下に出る。

朝はまだ浅い。人の動きが、騒がしい。

アタシが聚義庁に入ると、

すでに頭領達は顔を並べていた。

上座に、晁蓋が座っている。

一人が前に出る。

「報せです」

「曾頭市が、頭領の首を狙うと」

「そう触れ回っているとのこと」

場の空気が変わる。

晁蓋が、わずかに笑う。

「面白い」

晁蓋が立ち上がる。

「こちらから出向いてやる」

「お待ちください」

宋江が一歩前に出る。

「軽々しく動く相手ではありません」

「罠の可能性もあります」

晁蓋は見ない。

「だからどうした」

宋江は黙って、一歩引いた。


塞の門が開く。隊列が外へ出る。朝の空気はまだ冷たい。誰も騒がず、静かに進む。

アタシは馬を進める。玉楼が半歩後ろにつく。

前の方に、晁蓋がいる。先頭に立っている。珍しい。

長い列だ。蹄の音だけが続く。

道が細くなり、木が増える。音が、吸われる。

嫌な静けさだ。

アタシは手綱を引く。玉楼がわずかに間合いを詰める。

誰も何も言わない。前の影が、止まる。

一瞬、風が変わる。

来る。

次の瞬間、音が弾けた。


空気が裂け、何かが前を横切り、視線の先で晁蓋の体が揺れた。踏みとどまる間もなく崩れ、馬が暴れる。

矢が、首に深く刺さっている。

誰もすぐには動けない。その一拍のあとで、声が戻る。

「退け」

短い声が走る。押し返す動きはない。列は乱れたまま向きを変える。

玉楼が前に出る。

「道を開けてください」

晁蓋の馬が抑えられ、体が支えられる。揺らさないように、慎重に運ばれる。

誰も振り返らず、そのまま退いた。

アタシは、ただ見ているしかなかった。


梁山泊に戻ると、人の気配はあるのに、声は少ない。

晁蓋は奥へ運ばれていく。

アタシは馬を降りる。

手の震えが、遅れてくる。

視線の端に、矢がある。

引き抜かれ、布の上に置かれている。

血に、まだ濡れている。

近づく。

何気なく、目が止まる。

何か刻まれている。

――史文恭。

一瞬、意味が繋がらない。

遅れて、胸の奥が冷える。

玉楼が言う。

「矢の持ち主かと」

「一々、矢に名前を書くのね」

玉楼は、少しだけ間を置く。

「挑発、でしょう」


奥へ入ると、灯りが落とされていた。

人はいるのに、静かだ。

晁蓋は横たわっている。呼吸が浅い。

首の布が、血で滲んでいる。

アタシは少しだけ距離を置く。

助からない。

晁蓋の目が、わずかに開く。

誰かを見るでもなく、焦点が合っていない。

それでも、口が動く。

音にならない。

宋江が耳を寄せ、短く頷く。

言葉は広がらない。

そのまま、静まる。

呼吸が、一つ抜ける。

誰も何も言わない。

アタシ達は、どうなってしまうのだろう……


あの時、止められたとは思っていない。

止める理由も、なかった。

それでも――

何もしていない感触だけが、残っている。

消えない。

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