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眠りの綻び

「……で?」

孫二娘が、鍋を混ぜながら首を傾げる。

「今度は、“時遷が人間辞めてた回”なんだって?」

顧大嫂が酒を煽った。

「しかも、“白勝だけずっと胃が痛かった”んだろ?」

「嫌だねぇ」

外は静かな夜だった。

銅鑼も無い。

馬の嘶きも無い。

湿った風だけが、幕舎の帷幕をゆっくり揺らしている。

アタシは、小さく息を吐いた。

「……本当に胃が痛そうだったわね」

孫二娘が吹き出す。

「だろうねェ!!」

「城壁登らされてる時点で嫌だよ!!」

「そうなのよ!!」

思わず声が大きくなる。

「アタシ下から見てたけど、時遷が普通に壁登ってくのよ!?」

「雨上がりよ!?」

「濡れてるのよ!?」

顧大嫂が肩を揺らした。

「嫌だねぇ」

「蜘蛛か何かかい」

「本当にね……」

アタシは額を押さえる。

「しかも、全然音しないの」

「気付いたら上に居るのよ」

孫二娘が鍋を混ぜながら笑う。

「うわ、“説明すると余計怖い系”だ」

鍋の煮える音だけが、小さく続く。

アタシは、湖州の城壁を思い出していた。

濡れた石、見張りの火、揺れる縄。

それから――

平然と登っていく時遷。

顧大嫂が酒を飲みながら鼻を鳴らす。

「で?」

「白勝は?」

「嫌そうだったわ」

即答だった。

孫二娘が腹を抱える。

「だろうねェ!!」

「むしろ嫌じゃない方がおかしいよ!!」

「見張りの服まで着せられてたのよ!?」

「濡れてるし臭いしで、顔が完全に死んでたわ」

顧大嫂が吹き出した。

「うわ、“潜入前から士気低い工作員”!!」

「でも仕事はしたのよ」

アタシは小さく笑う。

「文句言いながらちゃんと登るし」

「兵とも普通に喋ってるし」

孫二娘が肩を竦める。

「そういう奴ほど生き残るんだよ」

湿った風が静かに吹き抜ける。

少し間が空く。

アタシは火を見る。

湖州城、閉じられた門、待ち構える城。

そして――

その中へ入っていく時遷と白勝。

「……正直ね」

小さく息を吐く。

「戦ってる時より嫌だったわ」

顧大嫂の笑いが少し消える。

「見てるだけだからかい」

「ええ」

アタシは頷く。

「何かあっても助けに行けないの」

「失敗したら終わり」

「でも、こっちは待つしかない」

孫二娘も、今度は笑わなかった。

鍋の音だけが、小さく続く。

湖州は静かだった。

だからこそ、不気味だった。

夜は、何も答えない。

ただ静かなまま――

閉ざされた湖州の城壁と、

その中へ消えていった時遷と白勝の背中だけを、

湿った風の中へ、静かに残しているみたいだった。

湖州城を前にして、二路軍はそのまま動かなかった。

動けなかった。

正面から攻めれば、死者が増えるだけだ。

それは、誰の目にも分かっていた。

湖州城から、一旦距離を置いたその夜。

幕舎の中に、主だった者が集められる。

盧俊義、林冲、李俊、朱武、他何名かの頭領達。

そして、アタシ達もそこにいた。

地図の上には、湖州城と水門が描かれている。

朱武は、しばらく黙ってそれを見ていた。

やがて、指先で水門の横をなぞる。

「正面からは無理ですね」

誰も驚かなかった。

朱武は続ける。

「湖州城は、こちらが疲れている事を知っています。だから門を閉じ、籠城している」

「普通に攻めれば、こちらが先に潰れます」

顧大嫂が腕を組む。

「じゃあ、どう落とすんだい」

朱武は、地図の水路側を指した。

「夜陰に紛れます」

空気がわずかに動く。

李俊が目を細めた。

「水路側の城壁からか」

「はい。ただし、音を立ててはなりません」

朱武の声は低い。

「気付かれたら終わりです」

「時遷の出番です」

幕舎の隅で、時遷が薄く笑った。

「そっちの方が性に合う」

白勝は、少し嫌そうに肩をすくめる。

「で、俺は何をするんだい」

朱武が答える。

「城内で火を起こしてください」

「城壁上の見張りの交代を見計らって潜入します」

「見張りから、身包み剥いでください」

白勝の顔から、少しだけ嫌そうな色が消えた。

「……紛れ込めって事か」

「はい」

朱武は頷く。

「時遷殿が入る道を作る。白勝殿は、内側で人の流れを乱す」

林冲が静かに聞く。

「門を開けるのか」

「開ける必要はありません」

朱武は水門を指した。

「閂を抜くだけでいい」

李俊が頷く。

「水門の閂さえ無ければ、こっちで合わせられる」

「その通りです」

盧俊義は、しばらく黙っていた。

それから短く頷く。

「正面は待機」

静かな決定だった。

ただ、湖州城の閉じた場所へ、小さな綻びを作る。

アタシは地図を見る。

夜、水路、水門に時遷と白勝。

湖州城が静かに待っているなら、こちらも静かに崩すしかない。


夜は深かった。

雨は止んでいる。

だが、太湖の水音だけは、まだ低く続いていた。

湖州城の灯は少ない。

城壁の上に、見張りの火が点々と揺れている。

こちらの陣も、息を潜めていた。

李俊の小舟が、音を殺して水面を進む。

櫂は深く入れない。

水を叩かないよう、ゆっくり押すだけだ。

舟の中には、時遷と白勝が乗っていた。

時遷は、城壁の影を見上げている。

白勝は、濡れた縄を握ったまま、呟く。

「……本当に、ここから入るのかい」

時遷がせせら笑う。

「だから呼ばれたんだろ」

舟が、水門から少し離れた影へ寄る。

城壁の石は濡れていた。

だが、時遷は迷わなかった。

縄が上がる。

音は無い。

次の瞬間、時遷の身体が、壁へ張り付くように上がっていく。

白勝が下から見上げる。

「化け物かよ……」

小さく呟いた声さえ、すぐ水音に消えた。

アタシ達は、少し離れた闇の中で待っていた。

動けない。

声も出せない。

湖州は、まだ静かだった。

静か過ぎた。


時遷の身体が、闇の中を滑るように上がっていく。

濡れた城壁……

普通なら、足を取られて落ちる。

でも、時遷は止まらない。

指先と足先だけで、石の隙間を拾っていく。

やがて、城壁の上端へ手が掛かった。

見張りの火が近い。

声も聞こえる。

眠そうな兵の声だった。

「……雨は止んだか」

「あぁ……でも、最悪だ」

気の抜けたやり取り。

時遷は、その声の切れ目を待つ。

火が揺れ、風が吹く。

その瞬間、時遷の身体が城壁の内側へ消えた。

音は無い。

下で待つ白勝が、小さく息を飲む。

しばらく何も起きない。

長い。

嫌になるほど長かった。

やがて――

上から、縄が降りてくる。

白勝が顔を上げた。

「……入れってか」

小さく舌打ちして、縄を握る。

城壁の上では、まだ松明の火が揺れていた。

まるで、 何も起きていないみたいだった。


白勝が、縄を掴んだまま城壁を見上げる。

嫌な高さだった。

しかも石は濡れている。

「落ちたら終わりだな……」

小さく呟く。

だが、下に残っている方がもっと嫌だった。

白勝は歯を食いしばり、縄を登り始める。

太湖の波の音だけが続いていた。

やがて、城壁の上へ手が掛かる。

その瞬間、横から手が伸びた。

時遷だった。

強引に白勝の身体を引き上げる。

白勝は、濡れた石の上へ転がり込んだ。

「っ……」

思わず声が漏れそうになる。

だが、時遷の手がすぐ口を押さえた。

足音が近い。

見張りの兵が、ゆっくり歩いてくる。

松明の火が近付く。

白勝の喉が鳴る。

時遷は動かない。

息さえ止めていた。

見張りの兵が欠伸をする。

「……次、交代まだかよ」

気怠そうな声。

火が揺れ、足音が遠ざかる。

そこでようやく、時遷が手を離した。

白勝が、小さく息を漏らす。

「寿命縮んだぞ……」

時遷が、せせら笑う。

「まだ始まってもいねぇよ」

湖州の夜は、まだ静かだった。


時遷が、低く顎を振る。

「行くぞ」

白勝は、小さく頷いた。

城壁の上は暗く、さっきまでの雨のせいで、足元が悪かった。

濡れた石の上を、二人は音を殺して進む。

下を見れば、湖州の城内が広がっていた。

灯は少ない。

もう夜更けだ。

だが、完全には眠っていない。

遠くで、兵の話し声が聞こえる。

どこかで犬も鳴いた。

白勝が、小さく呟く。

「……本当に、城の中へ入っちまったんだな」

時遷は答えない。

視線だけが動いている。

見張り。

巡回。

火の位置。

全部を拾っていた。

やがて、時遷が止まる。

城壁の内側へ降りる階段だった。

その下に、見張りの兵が一人座っている。

槍を抱えたまま、半分眠っていた。

時遷が、白勝を見る。

白勝も頷く。

音は立てない。

その空気だけで、十分だった。

時遷の身体が、闇の中へ沈むように動く。

次の瞬間には、もう見張りの背後へ回っていた。


時遷の身体が、闇へ溶ける。

見張りの兵は、まだ気付いていない。

半分眠ったまま、槍へ身体を預けている。

白勝は、思わず息を止めた。

次の瞬間、時遷の腕が後ろから、兵の首へ回る。

もう片方の手が、口を塞いだ。

兵の身体が跳ねる。

だが、声は漏れない。

槍が石へ倒れかける。

その寸前、時遷が足で支えた。

音すら立てない。

兵は、短く喉を鳴らす。

やがて、身体から力が抜ける。

時遷は、ゆっくり兵を石壁へ寄せた。

眠っているみたいだった。

白勝が、小さく囁く。

「……本当に、人間か?」

時遷は振り返らない。

もう、兵の鎧へ手を掛けていた。

「早く着ろ」

白勝が顔をしかめる。

「濡れてんじゃねぇか……」

「贅沢言うな」

時遷は小さな声で返す。

白勝は、舌打ちしながら見張りの上衣を被った。

湿っていたし、血の臭いも少しする。

嫌な仕事だった。

だが、湖州へ入った時点で、もう後戻りは出来ない。

遠くで、見張り交代の鐘が小さく鳴った。

湖州の夜は、まだ静かだった。


白勝は、見張りの上衣を整えながら、顔をしかめた。

濡れて重い。

しかも、妙に生臭い。

それでも脱ぐ訳にはいかない。

時遷は、倒れた兵を物陰へ引きずり込む。

鎧の擦れる音さえ、ほとんど立てなかった。

「行くぞ」

白勝は頷く。

足元には雨水が溜まっている。

一歩歩くたび、石が冷たく濡れていた。

少し行くと、別の兵が二人、火の近くで身を寄せている。

「交代か?」

一人が顔を上げた。

白勝の喉が鳴る。

時遷は、すでに影へ消えている。

ここからは、自分で誤魔化すしかない。

白勝は、わざと肩を落とし、気怠そうに答えた。

「ああ……上は冷える」

兵は疑わなかった。

「そりゃそうだ。雨上がりだしな」

もう一人が欠伸をする。

白勝は、内心で息を漏らす。

誤魔化せた。

だが、安心するには早い。

時遷は、いつの間にかその兵達の背後を抜け、水門の方へ向かっていた。

白勝は、顔を伏せたまま後を追う。

湖州城の中は、まだ眠っている。

でも、その眠りは浅い。

一つ音を立てれば、すぐ目を覚ます。

そんな夜だった。

夜は、相変わらず静かでした。

銅鑼もありません。

馬の嘶きも、怒号もありません。

あるのは、湿った風と、鍋の煮える音だけです。

その中で――

孫二娘殿と顧大嫂殿は、いつもの様に鍋を囲んでおられました。

「で?」

孫二娘殿が、鍋を混ぜながら笑います。

「今度は、“時遷が人間じゃなかった回”だったんだって?」

顧大嫂殿が酒を煽りました。

「しかも、“白勝が城入った瞬間から帰りたそうだった”んだろ?」

「嫌だねぇ」

幕舎の外から、すぐ声が返って来ます。

「嫌そうだったわよ!!」

孫二娘殿が吹き出しました。

「だろうねェ!!」

「雨上がりの城壁登らされて喜ぶ奴なんか居ないよ!!」

「そうなのよ!!」

また外から返って来ます。

「しかも時遷が普通なのよ!!」

「白勝だけが正しい反応なの!!」

顧大嫂殿が肩を揺らしました。

「うわ、“基準がおかしくなってる軍議”だ。さすが梁山泊」

小さな笑いが広がります。

鍋の煮える音だけが、静かに続いていました。

私は、その湯気を見ながら小さく目を伏せます。

今回の役目は、派手な戦ではありませんでした。

城壁を越える。

見張りを避ける。

気付かれずに動く。

戦場ではありますが、少し種類の違う戦いです。

私は静かに口を開きました。

「……湖州の潜入は、“戦う前の戦い”だったのでしょう」

孫二娘殿が、少しだけ笑いを止めます。

「門開ける前に勝負が始まってたって事かい?」

私は、小さく頷きました。

「はい」

「城へ辿り着くまでに疲弊していました」

「正面から攻めれば、更に消耗します」

「だからこそ」

「誰かが危険な役目を引き受けなければなりませんでした」

湿った風が、静かに吹き抜けます。

その時――

顧大嫂殿が、急にニヤつきました。

「で?」

「玉楼は下からずっと見てたんだろ?」

外が、一瞬だけ静かになります。

それから――

「……見ておりました」

ぼそっと返事を返しました。

孫二娘殿が腹を抱えて笑います。

「出た!!」

「また観察してた!!」

「だって!!」

また外から声が返って来ます。

「この人、“時遷が何歩で城壁登ったか”数えてそうなのよ!?」

「怖いのよ!!」

顧大嫂殿が酒を吹きかけました。

「うわ、“潜入班まで分析する侍女”嫌だねぇ!!」

「見失う訳にはいきませんので」

「返しが全部仕事なんだよ!!」

笑い声が広がります。

ですが――

その笑いも、少しずつ静かになっていきました。

鍋の湯気が、夜へ溶けます。

私は、小さく息を吐きました。

「……ですが」

「扈三娘様が、“戦っている時より嫌だった”と仰った理由も分かります」

孫二娘殿も、顧大嫂殿も何も言いません。

私は静かに続けます。

「戦場ならば、まだ動けます」

「助ける事も出来ます」

「共に戦う事も出来ます」

少し間を置きます。

「ですが、潜入は違います」

「失敗しても助けられない」

「見つかっても動けない」

「ただ待つしかない」

湿った風が、静かに幕舎を揺らしました。

外から、小さく声が返って来ます。

「……待つだけって、嫌なのよ」

少し間が空きます。

「何も出来ないから」

鍋の音だけが、小さく続きました。

私は、その声を聞きながら静かに目を伏せます。

湖州の夜は静かでした。

ですが、その静けさの中で、

時遷殿と白勝殿は城内へ入り、

綻びを探していたのです。

大軍が動く前に、

ほんの僅かな隙間を作る為に。

夜は、何も答えません。

ただ静かなまま、少しずつ――

閉ざされた湖州の城壁と、

その内側へ消えていった二人の影だけを、

湿った風の中へ、静かに残している様でした。


ちなみに、鍋ばかり食べているのは、健康と美容の為だそうですよ――

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