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惑わされても、追わない

城の中に、喬道清の旗が立っていた。

「三娘、どうするゥ?」

「近づかない!」

「偉いねェ」

「その褒め方やめて!」

顧大嫂が旗を眺めている。

「でも、向こうから歩いてきたらどうするんだい?」

「旗が歩く前提で話さないで!」

「妖術だしねェ」

「二娘まで納得しない!」

孫二娘が肩へ腕を回してきた。

「人間って、目立つものがあると注意を持っていかれやすいんだよォ」

「じゃあ見なきゃいい?」

「気になるだろォ?」

「なる」

「ほらァ」

「心理学で勝ち誇るな!」

顧大嫂が笑った。

「で、旗は?」

「見ても追わない!」

……最近のアタシ、戦うより我慢してない?

喬道清の旗は、城外ではなく、壺関の内側に立っていた。

「誰も近づくな!」

アタシが叫ぶより早く、城内の兵がざわめいた。

さっきまで空だった通りの真ん中に、喬の字を染め抜いた旗が一本だけ立っている。

門は閉じたままで、城壁から落とした梯子も全部外に転がっている。

敵兵が入り込んだなら、どこかで騒ぎになるはずなのに、それもない。

なのに旗だけがある……

しかも、ゆっくりこっちを向いた。

「……旗って自分で向き変えるものだっけ?」

「通常は風に従うものでございます」

「だよね!」

玉楼の答えを聞いても安心材料にはならなかった。

城壁の兵の何人かが後ろを振り返り、持ち場から離れようとする。

「待って! 下りないで!」

声を張ると、一人が城内を指さした。

「ですが、敵が中に!」

「敵かどうかまだ分からない!」

「旗はございます!」

「旗しかないでしょ!」

言ってから、自分でも妙な会話だと思った。

孫二娘がすぐ横まで来る。

「三娘、これ狙われてるねェ」

「何が?」

「注意。あんな分かりやすいものを城内に出されたら、みんなそっちを見るだろ?」

その瞬間、城外から怒号が上がった。

振り向く。

薄くなった黄砂の向こうで、敵兵がもう一度梯子を起こしていた。

「そういうこと!?」

顧大嫂が舌打ちする。

「中を見せて、外から登る気かい!」

「本物の侵入がなくても、守る側が勝手に持ち場を空けりゃ同じだからねェ」

孫二娘の声が急に真面目になる。

「三娘、旗を消そうとしない方がいい。消せるかどうかも分からないし、今は城壁の方が本物だよォ」

分かった。

今度は迷わない。

「玉楼、右! アタシは中央!」

「承知いたしました!」

二人で同時に走った。

玉楼が右側の梯子へ槍を入れ、登りかけた兵をまとめて押し返す。

その動きを横目で見ながら、アタシは中央へ伸びた敵兵の剣を日月双刀で受けた。

一人が前へ出れば、もう一人は別の穴を塞ぐ。

いつもと同じ。

ただし今は、城外だけを見ていればいいわけじゃない。

背中側には、勝手に立った旗がある。

「三娘様、中央を!」

「そっち任せた!」

玉楼が押した梯子が傾き、敵兵ごと壁から離れた。

空いた右へ味方が戻るのを確認してから、アタシは中央の兵を蹴り返す。

そこへ林冲の声が飛んだ。

「城内の旗に近づくな! 持ち場を守れ!」

命令が広がると、離れかけていた兵たちが戻り始めた。

だが、全員が持ち場へ戻ったわけではない。

そんな中、城内から別の叫び声が上がった。

「敵だ!」

「中にいるぞ!」

見ると、旗の周りに人影が増えている。

一人、二人じゃない。

甲冑を着た兵が、通りの奥からこちらへ走ってくる。

「本当に入ってる!?」

飛び降りそうになったところで、袖を掴まれた。

孫二娘だった。

「待ちなって!」

「でも!」

「さっきまで誰もいなかったんだよォ! いつ、どこから入った?」

言われて止まる。

人影は増えているのに、足音が妙に薄い。

通りを走っているはずなのに、砂埃も上がらない。

そのうち一人が、建物の壁をすり抜けた。

「……はい、偽物!」

「判断が早くなったねェ」

「壁抜けしたら心理学いらないでしょ!」

「確かにねェ」

それでも城内の兵には、本物と区別がついていない。

剣を抜いて影へ斬りかかる者まで出た。

刃は何もないところを通り抜け、その勢いで近くの味方とぶつかる。

「まずいねェ」

孫二娘が城内へ向かおうとする。

「二娘!?」

「アタイの仕事ができた。敵と戦うんじゃなくて、味方に味方を斬らせない方」

顧大嫂も続いた。

「じゃあ、あたしはあっちを殴って止めりゃいいんだね?」

「できれば殴る前に止めてよォ」

「努力はするよ」

「努力目標なの!?」

二人は階段を駆け下りていった。

アタシは追わない。

今は城壁を守る。

それぞれが、自分のやることをやる。

――全部を一人で見ようとする奴から沈む。

また李俊の言葉が浮かんだけれど、もう驚かなかった。

「李俊、便利すぎない?」

思わず口から出た。

玉楼が敵の槍を払いながら振り向く。

「何か仰いましたか?」

「何でもない!」

「李俊様でございますか?」

「聞こえてるじゃない!」

こんな戦場で拾わないでよ!

でも、少しだけ笑えた。

あいつならどうするかと考えるだけで、頭の中が整理されるようになっている。

それが悔しいと思ったけれど、もう悔しがるところでもないのかもしれない。

「三娘様、左!」

「はいはい、今はこっち!」

左から登った兵の腕を刀の腹で弾き、玉楼がその足元へ槍を差し込む。

敵兵が崩れたところを味方が押し返した。

城内では孫二娘の声が響いている。

「見えたものを追わない! 隣の味方の名前を呼びな!」

「張平!」

「俺はここだ!」

「次! 自分がどこにいるか言って!」

「南の通り!」

「よし、勝手に走るな!」

顧大嫂の声も混じる。

「そいつは味方だって言ってるだろ! 斬るならちゃんと敵を斬りな!」

「大嫂、それ恐慌の兵に言う言葉じゃないよォ!」

「通じりゃいいんだよ!」

通じているのが怖い。

樊瑞も城内へ下り、旗から距離を取ったまま様子を見ていた。

やがて地面へ落ちた砂を掴み、叫ぶ。

「旗そのものを見続けるな! 術に引かれる!」

「見ちゃ駄目なの!?」

「確認だけしろ! 追うな!」

「最初からそう言って!」

妖術使いの説明、もう少し初心者向けにしてほしい。

けれど意味は分かった。

旗があることは認める。

でも、旗があるからといって、そこへ行かなきゃいけないわけじゃない。

さっきからずっと、そればっかりだ。

見えるものに引っ張られない。

助けたいから飛び出さない。

怖いから逃げない。

いつからアタシの戦いは、こんなに我慢大会になったんだろう?

「三娘様」

玉楼が横へ入った。

「前を」

「分かってる」

二人で同時に敵を見る。

黄砂がさらに薄くなり、城外の様子が戻ってきた。

喬道清はまだ馬上にいて、こちらを見上げている。

遠すぎて表情までは分からなかったが、やがて剣を下ろした。

その瞬間、城内から悲鳴が消えた。

振り返ると、 旗がない。

兵の影も消えている。

残っていたのは、互いに剣を向けかけた味方たちだけだった。

「……最悪」

孫二娘が額の汗を拭う。

「術で直接斬らなくても、こっちが勝手に斬り合えばいいってことだねェ」

「性格悪っ!」

「敵だからねェ」

顧大嫂が肩を回す。

「でも、今回は斬り合わずに済んだじゃないか」

その通りだった。

負傷者はいるし、城壁にも傷が増えた。

それでも門は閉じたままで、城内でも味方同士の殺し合いは起きていない。

守った。

今度こそ、そう思った。

けれど城外の喬道清は攻め続けなかった。

合図とともに梯子を下げ、軍をゆっくり後退させていく。

「追うな!」

盧俊義の命令が城壁へ届く。

今度は誰も異を唱えなかった。

アタシも黙って喬道清の旗が遠ざかるのを見ていた。

勝った感じはしない。

向こうが試したいことを試して、帰っていったようにしか見えなかった。

「嫌な相手だねェ」

いつの間にか戻ってきた孫二娘が、また肩へ腕を回してくる。

「重い」

「今日は頑張ったからいいだろォ?」

「アンタが?」

「アタイも」

「そこは認める」

珍しく素直に言ったら、孫二娘が目を丸くした。

「三娘がデレた」

「下りて!」

「撤回が早いねェ!」

玉楼まで笑っている。

その日の夜、盧俊義のもとで状況が整理された。

城は守り、喬道清軍も引いた。

唐斌たちは連れ戻せていないし、公孫勝もまだ来ない。

「今日は防げた」

林冲がそう言った。

「だが、明日も同じとは限らん」

誰も反論しなかった。

アタシも分かっている。

今日のやり方は、今日の術に通じただけだ。

喬道清が次も同じことをする保証なんてない。

寝台へ戻っても、なかなか眠れなかった。

李俊ならこんな時、何て言うんだろう。

またあいつのことを考えていると自覚したら、余計に眠れなくなった。

――戻ったら乗せる。

あの約束を、もう何回思い出したんだろう。

「……アンタ、ちゃんと覚えてるでしょうね」

返事なんてあるはずがない。

その時、城門の方角から馬の蹄の音が聞こえた。

続いて、夜番の兵の声が上がる。

「開門を! 味方です!」

身体を起こした。

廊下へ出ると、玉楼も孫二娘も顧大嫂も顔を出している。

「こんな時間に誰?」

階下から兵が駆け上がってきた。

息を切らしながら、それでも顔は笑っていた。

「公孫勝殿です!」

アタシたちは顔を見合わせた。

そして、ほとんど同時に走り出した。

今度は、喬道清を待たなくてすみそうだ。

玉楼でございます。

喬道清は退き、公孫勝殿も到着なさいました。

「玉楼、これで安心かい?」

「安心するには少々早いかと」

孫二娘様が笑います。

「三娘なんて、もう攻める顔してたよォ」

「してない!」

「してたねぇ」

「大嫂まで!」

三娘様は否定なさいますが、日月双刀はすでに腰へ戻され、代わりに地図を覗き込んでおられました。

「前より進歩したねェ」

「どこが?」

「先に作戦を聞いてる」

「そこ!?」

顧大嫂様が頷きます。

「昔なら先に馬へ乗ってたね」

「そこまでじゃない……」

……否定が少々弱うございました。

ともあれ、公孫勝殿は来られました。

次は、喬道清を討つ番でございます。

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