表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
75/101

静城の銅鑼

「……で?」

孫二娘が、鍋を混ぜながら首を傾げる。

「今度は、“李俊が何も知らないのに巻き込まれた回”なんだって?」

顧大嫂が酒を煽った。

「しかも、翌朝まで本人だけ話について来れてなかったんだろ?」

「嫌だねぇ」

外は静かな夜だった。

銅鑼も無い。

馬の嘶きも無い。

湿った風だけが、幕舎の帷幕をゆっくり揺らしている。

アタシは、小さく息を吐いた。

「……知らなかったわね」

孫二娘が吹き出す。

「だろうねェ!!」

「アンタが勝手に墓穴掘っただけだろ!!」

「違うわよ!!」

思わず声が大きくなる。

「だって急に本人出て来ると思わないじゃない!!」

顧大嫂が肩を揺らした。

「嫌だねぇ」

「後ろで散々騒いだ翌朝に本人登場だ」

「しかも」

アタシは額を押さえる。

「“俺、何かしたか?”なのよ」

孫二娘が腹を抱えた。

「うわ、完全に無自覚だ!!」

「そうなのよ!!」

「だから余計に困るのよ!!」

鍋の煮える音だけが、小さく続く。

顧大嫂が酒を飲みながら鼻を鳴らした。

「まあ、李俊らしいねぇ」

「水の中では化物みたいに動くくせに、そういう所だけ鈍い」

「本当にね……」

思わず遠い目になる。

孫二娘がニヤニヤする。

「で?」

「結局、湖州着いたんだろ?」

空気が少し変わる。

アタシは火を見る。

泥だらけの河岸道。

雨、伏撃、壊れた荷車……

それから――

ようやく見えてきた湖州。

「着いたわ」

「でもね」

少し間が空く。

「全然、“辿り着いた”感じしなかったの」

顧大嫂の笑いが少し消える。

「城かい」

「ええ」

アタシは頷いた。

「閉じてるのよ」

「全部」

「門も」

「水門も」

「人も」

孫二娘が鍋を混ぜる手を止めた。

「嫌だねェ」

「準備終わってる城だ」

湿った風が静かに吹き抜ける。

アタシは湖州を思い出していた。

高い城壁。

並ぶ兵。

閉じられた門。

そして――

こっちを見ているのに、何もして来ない不気味さ。

「疲れてる所へ、あれ見せられるのよ」

小さく息を吐く。

「正直、嫌だったわ」

顧大嫂が低く笑う。

「安心しな」

「聞いてるだけでも嫌だよ」

孫二娘が肩を竦めた。

「しかも銅鑼まで鳴ったんだろ?」

アタシは頷く。

重い音、揺れる旗。

まるで、

“来るなら来い”

と言われているみたいだった。

鍋の湯気が夜へ溶ける。

さっきまで笑っていた空気も、少しずつ静かになっていく。

湖州は、逃げない。

待っている。

それが一番嫌だった。

夜は、何も答えない。

ただ静かなまま――

泥と雨を越えて辿り着いた二路軍と、

最初から待ち構えていた湖州の城壁だけを、

湿った風の中へ、静かに残しているみたいだった。

雨は、夜になっても止まなかった。

幕舎の外で、水が流れる音が続いている。

アタシは、濡れた上着を脱ぎ捨てる。

綺麗な顔まで泥だらけ……

卓の上には、もう酒瓶が置かれている。

孫二娘だった。

「酷い顔してるねぇ」

自分だって、泥だらけのくせによく言うわと思う。

その隣では、顧大嫂が腕を組んでいた。

「河岸道でそのまま死ぬかと思ったよ」

「アンタら、前に出過ぎなんだよ」

アタシは、小さく笑う。

「そっちもでしょ」

顧大嫂が鼻を鳴らした。

でも、否定はしない。

玉楼は、濡れた槍を静かに拭いていた。

穂先へ付いた泥と血を、丁寧に落としている。

それを見ながら、アタシは息を吐いた。

「……今日は助かったわ」

玉楼の手が、一瞬だけ止まる。

アタシは続ける。

「荷車の所」

「あの声が無かったら、危なかった」

玉楼は、少しだけ目を伏せた。

「当然の事をしたまでです」

いつもの返事だった。

でも、少しだけ肩の力が抜けている。

孫二娘が酒を煽る。

「ま、玉楼が居なかったら危なかったのは本当だねぇ」

顧大嫂も頷いた。

「今日は全員、生き残っただけで上等さ」

外では、まだ雨音が続いている。

でも、幕舎の中だけは、ほんの少しだけ空気が緩んでいた。


孫二娘が、酒瓶を揺らしながらニヤつく。

「そういえば、アンタ最近、李俊と良い雰囲気らしいじゃないか」

アタシは眉を寄せた。

嫌な顔をしている自覚はあった。

でも、孫二娘は止まらない。

「東京の出立の時、アンタが『全部終わったら、迎えに来てよ』って言ってたのを聞いてるヤツがいてねぇ〜」

「……は?」

思わず声が低くなる。

顧大嫂が吹き出した。

「言ったのかい」

「違うわよ」

即座に返す。

孫二娘が肩を揺らす。

「でも、似たような事は言ってたんだろ?」

「言ってない」

「顔赤いよ」

「泥よ」

アタシは即答した。

顧大嫂が酒を飲みながら笑う。

「そりゃ無理あるねぇ」

玉楼は、槍を拭く手を止めない。

でも、少しだけ口元が緩んでいた。

アタシは、それを見逃さなかった。

「……玉楼まで何なのよ」

玉楼は視線を上げないまま、小さく答える。

「いえ、別に」

その返事が一番怪しかった。

幕舎の中へ、小さな笑い声が広がる。

外では、まだ雨が降り続いている。

でも、その夜だけは、少しだけ戦の臭いが遠かった。


孫二娘は、まだニヤニヤしていた。

酒瓶を揺らしながら、わざとらしくため息を吐く。

「いやぁねぇ〜」

「まさか扈三娘が、男を迎えに来させる側になるとは」

「誰がよ」

アタシは即座に返す。

顧大嫂が肩を揺らした。

「でも、李俊なら割と本当に来そうじゃないか」

「やめて」

即答だった。

孫二娘が笑う。

「水軍率いて迎えに来るかもよ?」

「湖から」

「嫌過ぎるわね……」

思わず顔を押さえる。

玉楼は、静かに槍を立て掛ける。

でも、まだ少しだけ口元が緩んでいた。

アタシは、それを見て眉を寄せる。

「玉楼、アンタ絶対面白がってるでしょ」

「いえ」

返事が早い。

怪しい。

顧大嫂が酒を飲み干す。

「まあ、悪くないんじゃないかい」

「こんな戦ばっかしてるとねぇ」

「少しくらい、そういう話があった方が人間らしい」

その言葉で、少しだけ空気が静かになる。

外では、まだ雨が降っている。

水陽江沿いでは、今日も何人も死んだ。

湖州へ着く前に、 また減るかもしれない。

だからこそ、 幕舎の中の小さい笑い声が、 妙に温かかった。


翌朝。

雨は少し弱まっていた。

でも、水陽江沿いの空気は重いままだ。

兵達は、泥だらけの荷車を引き起こしながら、再び進軍準備へ入っている。

アタシも幕舎から出る。

まだ少し眠い。

酒が残っている気がした。

その時、水路側から李俊が歩いてくる。

「おう」

相変わらず、妙に軽い。

でも、目の下には疲れが見えていた。

李俊は、こちらを見るなり少し笑う。

「昨日の夜、随分賑やかだったみたいだな」

その瞬間。

後ろで、孫二娘が吹き出した。

顧大嫂まで肩を揺らしている。

アタシは、一気に嫌な予感がした。

「……アンタのせいよ」

気付けば、反射で言っていた。

李俊が止まる。

「は?」

本気で分かっていない顔だった。

アタシは、そこで自分が何を言ったのか理解する。

顔が熱い。

最悪だった。

「いや……違っ……」

言葉が詰まる。

後ろで、孫二娘が腹を抱えて笑い始めた。

「アハハハハッ!!」

「駄目だこりゃ!」

顧大嫂も笑いを堪え切れていない。

玉楼だけは、静かに視線を逸らしていた。

でも、肩が少し震えている。

絶対笑ってる。

李俊は、まだ困惑したままだった。

「……俺、何かしたか?」

その顔が、本当に覚えていない顔だったから、余計に腹が立つ。

アタシは顔を押さえる。

「……もういいわよ……」

水陽江沿いの空気は最悪なのに。

その朝だけは、幕舎の周りに妙な笑い声が響いていた。


笑い声が残る中でも、進軍準備は止まらなかった。

兵達が泥だらけの縄を引き、荷車を起こしていく。

直した車輪を確認している兵もいた。

水路側では、李俊の水軍が昨夜傷んだ船を確認している。

水陽江は、まだ灰色だった。

雨雲も消え切っていない。

孫二娘が、ようやく笑いを落ち着かせながら酒瓶を置く。

「はいはい、冗談はここまでだよ」

「そろそろ湖州に向けて出立の時間だ」

空気が少し変わる。

顧大嫂も腕を組み直した。

「昨日みたいなのを、また食らうかもしれないねぇ」

誰も否定しない。

玉楼は、静かに槍を持ち直していた。

もう顔に笑いは残っていない。

切り替えている。

アタシも、水陽江の先を見る。

遠く。

灰色の空の下に、うっすら城らしき点が見え始めていた。

「……湖州」

小さく呟く。

そこまで辿り着けば終わり――

なんて、誰も思っていなかった。


二路軍は、重い空気のまま水陽江沿いを進み続けていた。

泥だらけの河岸道を、兵達が黙って歩いていく。

昨日の伏撃で壊れた荷車もある。

兵糧袋を積み替えながら、何とか隊列を保っていた。

水路側では、李俊の船団も速度を落として並走している。

もう、水陽江そのものが安全じゃない。

誰も、それを分かっていた。

灰色の空の下。

やがて、前方に湖州の城壁が見え始める。

遠目でも分かる。

閉じていた。

城門は固く閉ざされ、城壁の上には兵が並んでいる。

旗だけが、風の中で揺れていた。

静かだった。

静か過ぎた。

河岸沿いにも、もう何も残っていない。

倉も。

舟も。

人影すら少ない。

全部、城の中へ引き上げたのだ。

朱武が小さく息を吐く。

「徹底してますね……」

李俊が水門の方を見る。

「あれじゃ、水路側も簡単には入れねぇな」

顧大嫂が舌打ちした。

「嫌な城だよ」

アタシは黙ったまま湖州を見る。

ここまで来る間に、何人も死んだ。

兵も、民も。

それでも――

湖州は、まるで最初から全部待っていたみたいに、静かにそこにあった。


二路軍の進軍速度が、少しずつ落ち始める。

誰も命令していない。

でも、自然とそうなっていた。

湖州の城壁が近付くほど、空気が重くなる。

城壁の上には、既に弓兵が並んでいるのが見えた。

こちらを見ている。

でも、矢は飛んで来ない。

ただ、待っている。

それが余計に嫌だった。

盧俊義が前へ出る。

林冲も並ぶ。

二人とも、黙ったまま湖州を見上げていた。

水路側では、李俊の船団が速度を落として停止し始める。

水門は閉じ切っていた。

杭もあるかもしれない。

無理には近寄れない。

朱武が、低く呟く。

「……すぐには攻めませんね」

「でしょうね」

顧大嫂が吐き捨てる。

「こんなの、正面から行ったら死体積むだけだよ」

誰も否定しない。

兵達も、湖州を見上げたまま黙っていた。

疲れている。

それでも来た。

でも、城は崩れる気配すら無い。

その時だった。

湖州の城壁の上で、大きな銅鑼が鳴る。

重い音だった。

次の瞬間、城壁の上へ、方臘軍の旗が一斉に掲げられる。

風の中で、無数の旗が揺れた。

まるで、

「来るなら来い」

とでも言っているみたいだ。

夜は、相変わらず静かでした。

銅鑼もありません。

馬の嘶きも、怒号もありません。

あるのは、湿った風と、鍋の煮える音だけです。

その中で――

孫二娘殿と顧大嫂殿は、いつもの様に鍋を囲んでおられました。

「鍋ばかり食べて大丈夫でしょうか?」

栄養の偏りが心配になります……

それは、また別の機会に聞いておきます。

――閑話休題

孫二娘はニヤニヤしながら、こちらに顔を向ける。

「で?」

孫二娘殿が、鍋を混ぜながら笑います。

「今度は、“湖州が最初からやる気満々だった回”だったんだって?」

顧大嫂殿が酒を煽りました。

「しかも、“ようやく着いたと思ったら城の防備が完成してた”んだろ?」

「嫌だねぇ」

幕舎の外から、すぐ声が返って来ます。

「嫌だったわよ!!」

孫二娘殿が吹き出しました。

「“辿り着いた!”じゃなく、“お待ちしておりました”だったんだろ?」

「そうなのよ!!」

また外から返って来ます。

「こっちは泥だらけなのに!!」

「向こうだけ準備万端なのよ!!」

顧大嫂殿が肩を揺らしました。

「うわ、“徹夜明けで店行ったら、徹夜組の行列が並んでる”みたいだ」

「何その例え!?」

「でも嫌だろ?」

「……嫌ね」

小さな笑いが漏れます。

鍋の煮える音だけが、小さく続きました。

私は、その湯気を見ながら静かに目を伏せます。

湖州は、これまでの城とは少し違いました。

慌てて閉じた城ではありません。

追い詰められている城でもありません。

最初から待っていた。

その印象が強かったのです。

私は静かに口を開きます。

「……湖州は、“攻められる事”を前提に準備していたのでしょう」

孫二娘殿が、少しだけ笑いを止めました。

「逃げる気が無かったって事かい?」

私は、小さく頷きます。

「はい」

「門も閉じていました」

「水門も閉じていました」

「兵も配置されていました」

「こちらが到着する前に、やるべき事を終えていたのでしょう」

湿った風が、静かに吹き抜けます。

その時――

顧大嫂殿が、急にニヤつきました。

「で?」

「玉楼、湖州見てまた何か数えてたんだろ?」

外が、一瞬だけ静かになります。

それから――

「……見てはおりました」

ぼそっと返事を返しました。

孫二娘殿が腹を抱えて笑います。

「出た!!」

「また始まったよ観察癖!!」

「だって!!」

また外から声が返って来ます。

「この人、城門じゃなくて見張り台の人数見てるのよ!?」

「怖いのよ!!」

顧大嫂殿が酒を吹きかけました。

「うわ、“まず兵数を数える侍女”嫌だねぇ!!」

「配置は重要ですので」

「返しが全部軍議なんだよ!!」

笑い声が広がります。

ですが――

その笑いも、少しずつ静かになっていきました。

鍋の湯気が、夜へ溶けます。

私は、小さく息を吐きました。

「……ですが」

「扈三娘様が、湖州を見て嫌な予感を抱かれたのは正しかったのでしょう」

孫二娘殿も、顧大嫂殿も何も言いません。

私は静かに続けます。

「これまでの戦は」

「伏撃もありました」

「雨もありました」

「補給への妨害もありました」

「ですが、それらは移動中の脅威でした」

少し間を置きます。

「湖州は違います」

「辿り着いた先にある脅威です」

湿った風が、静かに幕舎を揺らしました。

外から、小さく声が返って来ます。

「……待ってるのよね」

少し間が空く。

「逃げないの」

鍋の音だけが、小さく続きます。

私は、その声を聞きながら静かに目を伏せました。

方臘との戦は、

二路軍を進む途中で力を削ぐ段階から、

守りを固めた城を崩す段階へ移り始めています。

ですが――

そこへ辿り着いた頃には、

既に二路軍そのものが疲弊している。

それが、湖州の恐ろしさなのでしょう。

夜は、何も答えません。

ただ静かなまま、少しずつ――

泥と雨を越えて辿り着いた二路軍と、

最初から全てを待ち構えていた湖州の城壁だけを、

湿った風の中へ、静かに残している様でした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ