表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
74/101

血と雨の泥濘

「……もう川そのものが敵じゃないかい」

孫二娘が、鍋を混ぜながら先に言った。

顧大嫂が、横で酒を煽る。

「まだ何も聞いてないよ」

「聞かなくても分かるさ」

顧大嫂は、湯気の向こうで鼻を鳴らした。

「水陽江で、“静か過ぎる”の次は、大体もっと酷くなる」

外は静かな夜だった。

銅鑼も無い。

馬の嘶きも無い。

湿った風だけが、幕舎の帷幕をゆっくり揺らしている。

アタシは、小さく息を吐いた。

「……酷くなったわよ」

孫二娘が、そこでニヤつく。

「で?」

「今度は何が来たんだい?」

「雨」

即答だった。

顧大嫂が、嫌そうに眉を寄せる。

「嫌だねぇ」

「しかも河岸道だろ?」

「そうなのよ!!」

思わず声が大きくなる。

「ただでさえ狭いのに、全部泥になるの!!」

「荷車埋まるし、馬滑るし、もう最悪よ!!」

孫二娘が吹き出した。

「うわ、“地面まで敵側についた戦場”だ!」

鍋の煮える音だけが、小さく続く。

アタシは、水陽江沿いの雨を思い出していた。

泥、ぬかるみ、傾く荷車、流されそうになる兵糧船……

それから――

川底へ打ち込まれていた杭。

顧大嫂が、酒を飲みながら言う。

「杭まで打ってたんだろ」

「打ってたわ」

アタシは、小さく頷く。

「もう“普通に待ち伏せ”じゃないのよ」

「水路そのもの潰しに来てるの」

孫二娘が、鍋を混ぜる手を止めた。

「嫌らしいねェ」

今度は笑わなかった。

アタシは、火を見る。

雨の水、傾く補給船、怒鳴る李俊、縄を引く水軍。

それから――

泥へ沈んでいく兵糧車。

顧大嫂が、少しだけ顔をしかめる。

「兵糧狙いか」

「ええ」

「兵を殺すより、そっちの方が効くって分かってるのよ」

湿った風が、静かに吹き抜ける。

孫二娘が、そこでわざと空気を崩すみたいに笑った。

「で?」

「李俊、また雨の中で舟飛び回ってたんだろ?」

「飛び回ってたわね」

思わず小さく笑う。

「もう、“舟傾いてる方へ自分から行く”のよあの人」

顧大嫂が吹き出した。

「嫌だねぇ!!」

「普通は逃げる側だよ!!」

「しかも!!」

また声が返って来る。

「雨で足場最悪なのに、普通に舟移るのよ!?」 「滑らないの!?ってなるでしょ!!」

孫二娘が肩を揺らした。

「魚だからねぇ」

「だから人間よ!!」

久しぶりに、少し大きな笑いが広がる。

でも――

その笑いも、長くは続かなかった。

アタシは、小さく息を吐く。

「……しかもね」

少し間が空く。

「敵、“勝ちに来てる”感じじゃないのよ」

顧大嫂が、鍋を混ぜる手を止めた。

「削ぎに来てるか」

「そう」

アタシは頷く。

「止まれば来る」

「疲れた所へ来る」

「崩れた所へ来る」

「ずっと、それ」

鍋の音だけが、小さく続く。

アタシは、泥の中の乱戦を思い出していた。

滑る兵、倒れる荷車、泥の下から這い出してきた方臘軍。

それから――

終わらない雨。

孫二娘が、珍しく静かな声で言う。

「……嫌な戦だねぇ」

「ええ」

アタシは、小さく頷いた。

「もう、“勝つ”とかじゃないの」

「潰れないように進むだけ」

顧大嫂が、静かに酒を飲む。

湿った風が、幕舎を揺らした。

水陽江沿いの戦は、 もう城攻めですら無くなり始めていた。

雨、泥、川、疲労、兵糧。

全部が、二路軍を削いでくる。

そして方臘軍は、 そこを正確に突いてくる。

夜は、何も答えない。

ただ静かなまま――

雨に濁った水陽江と、 泥だらけになりながら進み続ける二路軍の姿だけを、

湿った風の中へ、静かに残しているみたいだった。

民達へ最低限の水と食料を渡すと、二路軍は再び動き始めた。

止まり続ける訳にはいかない。

方臘軍は、それを分かって襲ってきている。

河岸道へ、また長い隊列が伸びる。

負傷兵を乗せた船。

補給船。

疲れ切った兵達。

その全部を、水陽江沿いへ無理矢理押し流しているみたいだった。

アタシは前を見る。

空は曇り始めていた。

嫌な空気だった。

玉楼も同じ様に空を見ている。

「降りますかね」

「最悪ね」

雨が降れば、河岸道はもっと酷くなる。

荷車も止まる。

伏撃もしやすくなる。

良い事が一つも無かった。

その時、前方から斥候が駆けてくる。

馬が泥を跳ね上げた。

「報告!!」

息が荒い。

「前方の河岸で、船が何艘も座礁しています!」

李俊が顔を上げる。

「……何?」

空気が止まる。

伝令が続けた。

「川底へ杭を打ち込まれていました!」

水軍側がざわつく。

童威が舌打ちした。

「水路まで潰しに来やがったか……」

アタシは、水陽江を見る。

静かだった。

静か過ぎる。

でも、その静けさの下で、ずっと誰かがこちらを削り続けていた。


李俊が、ゆっくり息を吐く。

「……厄介だな」

いつもの軽さが無い。

水軍側も、かなり神経を削られていた。

童猛が、無言で水陽江を睨んでいる。

川面は静かだった。

でも、その先では杭を打ち込まれている。

見えない場所で、殺しに来ている。

李俊が舌打ちする。

「舟を奪われたら終わりだ」

補給船。

負傷兵。

矢。

兵糧。

全部、水軍へ寄っている。

だからこそ、狙われる。

朱武が地図へ視線を落としたまま口を開く。

「河岸側だけではなく、水路側にも偵察を増やした方が良さそうですね」

「増やしてる」

李俊が即座に返す。

「その上でこれだ」

空気が重くなる。

方臘軍は、真正面で潰しに来ていない。

進ませながら削っている。

その嫌らしさが、全員へ少しずつ積み重なっていた。

その時だった。

前方の空が、小さく光る。

次の瞬間――

遠くで雷鳴が響いた。


空気が変わる。

風が、水陽江を伝って抜けた。

兵達も空を見上げる。

嫌な沈黙だった。

次の瞬間、雨が落ちてくる。

最初は弱い。

でも、すぐに強くなった。

河岸道へ雨が叩き付けられる。

土が、一気にぬかるみ始めた。

「……最悪だな」

李俊が吐き捨てる。

舟だけじゃない。

河岸側も動けなくなる。

荷車の車輪が泥へ沈み始めていた。

兵達が押す。

でも、進まない。

雨は、どんどん強くなる。

視界も悪い。

林の奥が見えない。

伏撃側には、最高だった。

「止まるな!!」

林冲の怒声が響く。

「ここで止まれば終わるぞ!!」

兵達が泥だらけになりながら荷車を押す。

馬も暴れる。

負傷兵の呻き声が混ざる。

その時だった。

水路側から、大きな音が響く。

嫌な音だった。

李俊が、すぐに振り向く。

「……ッ!」

補給船の一隻が、大きく傾いていた。

川底の杭へ乗り上げたのだ。

雨の中、水軍の怒号が飛び交う。

でも、水陽江は容赦しなかった。


「舟を支えろ!!」

水軍の怒号が、雨の中へ響く。

傾いた補給船へ、別の船が横付けされる。

縄が飛び、兵達が必死に引き寄せ始めた。

でも、流れが強い。

雨で水かさまで増え始めていた。

李俊が、水路側へ飛び出す。

「荷を移せ! 沈めるな!!」

声が掻き消されそうになる。

雨が強過ぎた。

河岸側でも、状況は最悪だった。

荷車が、また一台止まる。

車輪が完全に泥へ埋まっていた。

兵達が押す。

滑る。

転ぶ。

怒鳴り声が飛ぶ。

でも、進まない。

その時――

林の奥で、火が揺れた。

アタシは顔を上げる。

松明だった。

雨の中、いくつも揺れている。

「……来る!」

次の瞬間、林の中から方臘軍が飛び出してきた。

今度は弓だけじゃない。

槍、刀。

完全に、止まった隊列を潰しに来ている。

「迎え撃て!!」

盧俊義の怒声が響く。

二路軍が、泥の河岸道で再びぶつかった。

雨で視界が悪く、足も滑る。

でも、もう退く場所が無い……


その時だった。

泥へ沈みかけていた荷車が、大きく傾く。

兵糧袋が、次々と河岸へ崩れ落ちた。

「奪われるな!!」

兵達が叫ぶ。

方臘軍の兵が、一斉にそちらへ群がる。

兵糧だけじゃない。

混乱そのものを広げに来ている。

「下がらせるな!!」

林冲が馬を蹴り、蛇矛が雨を裂く。

荷車へ飛び付いた方臘軍の兵が、まとめて吹き飛ばされる。

でも、ぬかるみが酷い。

馬が滑り、兵が転ぶ。

立て直す前に、また敵が来る。

終わりが見えない。

アタシは歯を食いしばりながら、日月双刀を振るい、荷車へ迫った方臘軍の兵を斬り払う。

その横を、矢が抜けた。

危ない。

でも、避ける余裕が無い。

玉楼が前へ出て、槍を振り回し、矢を弾き返す。

「扈三娘様、後ろ!」

アタシが振り向いた次の瞬間、泥だらけの方臘軍の兵が荷車の下から這い出してきた。

隠れていたのだ。

アタシは咄嗟に月刀で振り払う。

刃が、雨の中でぶつかった。


火花が散る。

雨の中で、激しい金属音が響いた。

方臘軍の兵は、泥まみれのまま低く踏み込んでくる。

まともな構えじゃない。

でも、その分読みにくい。

アタシは月刀を返す。

刃を滑らせ、そのまま肩口へ斬り込んだ。

血が飛ぶ。

でも、浅い。

方臘軍の兵は怯まない。

泥を蹴り、荷車の陰へ潜り込もうとする。

「逃がさないわ!!」

アタシは馬を寄せる。

その瞬間、横から別の方臘軍の兵が飛び込んできた。

雨で見えなかった。

玉楼の槍が唸る。

突き出された穂先が、飛び込んできた方臘軍の兵の胸を貫いた。

身体が泥にまみれる。

でも、まだ終わらない。

林の中で、また松明が揺れていた。

次が来る。

何度でも来る。

水陽江沿いの伏撃は、一度崩したら終わりじゃない。

削れるまで、繰り返してくる。

その時、水路側で大きな水音が響いた。

補給船の一隻が、ついに横転しかけていた。

両軍とも、生き残りをかけて必死の攻防を繰り返している。


「舟を戻せ!!」

李俊の怒声が、雨の中へ響く。

横転しかけた兵糧船へ、別の船が無理矢理寄せられていく。

縄が投げられる。

兵達が泥と雨にまみれながら引き寄せ始めた。

でも、水の流れが強過ぎ、舟が軋む。

今にも割れそうだった。

河岸側でも、方臘軍の兵が止まらない。

松明が揺れる。

雨の中で火は弱い。

でも、その分だけ不気味だった。

アタシは双刀を振るう。

泥を蹴り上げながら迫ってきた方臘軍の兵の腕を斬り飛ばす。

叫び声。

でも、すぐ次が来る。

「前を崩すな!!」

盧俊義が怒鳴る。

林冲も蛇矛を振るい続けていた。

でも、押し返し切れない。

ぬかるみで隊列が乱れる。

兵が滑る。

倒れた所へ、すぐ槍が突き下ろされる。

泥へ血が混ざった。

その時だった。

突然、林の奥で角笛が鳴る。

低い音だった。

方臘軍の兵達が、一斉に動きを変える。

引き始めたのだ。

「……退く?」

玉楼が呟く。

でも、追えない。

追えば、この雨と泥の林へ引き込まれる。

二路軍の兵達も、それを分かっていた。

方臘軍は、雨の林へ消えていく。

残ったのは、

泥、血、倒れた兵。

そして、半ば壊れかけた兵糧の荷車だけだった。 

雨は、まだ止まなかった。

河岸道へ、水が流れ始めている。

川へ流れた死体もあった。

兵達は、無言で仲間を引き上げていく。

誰も勝った顔をしていない。

勝敗なんか、もう分からなかい……

ただ、生き残った。

今は、それだけだった。

李俊が、水路側から戻ってくる。

全身ずぶ濡れだった。

「……何とか沈まずに済んだ」

でも、顔色は悪い。

水軍側も、かなり消耗していた。

童威が、壊れかけた兵糧船を見ながら舌打ちする。

「杭まで打ち込んでやがるとはな……」

朱武が、泥だらけの地図を見下ろしていた。

「このままでは、湖州へ着く前に兵が潰れますね」

誰も否定しない。

それくらい、二路軍は消耗していた。

アタシは、水陽江を見る。

雨で川面が波打つ。

静かな時の方が、不気味だった。

でも、今は違う。

もう、水陽江そのものが牙を剥いているみたいだった。

夜は、相変わらず静かでした。

銅鑼もありません。

馬の嘶きも、怒号もありません。

あるのは、湿った風と、鍋の煮える音だけです。

その中で――

孫二娘殿と顧大嫂殿は、いつもの様に鍋を囲んでおられました。

「で?」

孫二娘殿が、鍋を混ぜながら笑います。

「今度は、“雨と泥と杭で全員酷い顔してた回”だったんだって?」

顧大嫂殿が酒を煽りました。

「しかも、“敵より先に地面が襲って来た”んだろ?」

「嫌だねぇ」

幕舎の外から、すぐ声が返って来ます。

「嫌だったわよ!!」

孫二娘殿が吹き出しました。

「“伏兵です!”より先に、“荷車埋まりました!”だったんだろ?」

「そうなのよ!!」

また外から返って来ます。

「もう敵来る前から皆泥だらけなの!!」

「進むだけで体力削がれるのよ!?!」

顧大嫂殿が、肩を揺らしました。

「うわ、“地面が敵側”だ」

鍋の煮える音だけが、小さく続きます。

私は、その湯気を見ながら、小さく目を伏せました。

水陽江沿いの戦は、 既に通常の野戦ではなくなっていました。

狭い河岸道、連日の疲労、補給への依存。

そこへ、 雨と泥が重なる。

進むだけで、 隊列そのものが崩れていく。

私は静かに口を開きます。

「……方臘軍は、“勝てる場所”より、“壊せる場所”を選んでいたのでしょう」

孫二娘殿が、少しだけ笑いを止めました。

「“敵兵を殺す”より、“軍を動けなくする”って事かい?」

私は、小さく頷きます。

「はい」

「兵糧車」

「補給船」

「河岸道」

「どれか一つでも潰されるだけでも、二路軍全体が終わります」

「だからこそ、“立ち止まる瞬間”を狙っていたのでしょう」

湿った風が、静かに吹き抜ける。

その時――

顧大嫂殿が、急にニヤつきました。

「で?」

「玉楼、また危ない場所で荷車見てたんだろ?」

外が、一瞬だけ静かになります。

それから――

「……兵糧が止まる方が危険でしたので」

ぼそっと返事を返しました。

孫二娘殿が、腹を抱えて笑います。

「出た!!」

「“命より補給優先する侍女”!!」

「だって!!」

また外から声が返って来ます。

「この人、“敵来てる”より先に、“荷車傾いてます”なのよ!?」

「怖いのよ!!」

顧大嫂殿が、酒を吹きかけました。

「うわ、“兵站感覚が強過ぎる侍女”嫌だねぇ!!」

「兵糧を失えば、更に死人が増えますので」

「返しが全部現実的!!」

小さな笑いが広がります。

ですが――

その笑いも、少しずつ静かになっていきました。

鍋の湯気が、夜へ溶ける。

私は、小さく息を吐きます。

「……ですが」

「扈三娘様も、“環境そのものが敵になる戦”を理解され始めたのでしょう」

孫二娘殿も、顧大嫂殿も、何も言いません。

私は、静かに続けます。

「以前なら、“敵兵が居る場所”だけを見ておられたと思います」

「ですが、水陽江では違いました」

「雨」

「泥」

「疲労」

「川」

「兵糧」

「それら全てが、二路軍を削っていたのです」

湿った風が、静かに幕舎を揺らしました。

外から、小さく声が返って来ます。

「……もう、“戦ってる”感じじゃないのよ」

少し間が空く。

「壊れないように、前へ進んでるだけなの」

鍋の音だけが、小さく続きます。

私は、その声を聞きながら、静かに目を伏せました。

方臘との戦は、 少しずつ形を変えています。

武勇だけでは進めない。

強いだけでも、生き残れない。

隊列、補給、疲労、雨。

そういう、 “人が壊れる条件”そのものが、 戦場へ組み込まれ始めている。

だからこそ――

二路軍の空気も、 以前より静かになっているのでしょう。

夜は、何も答えません。

ただ静かなまま、少しずつ――

雨に濁った水陽江と、 泥に沈みながらも進み続ける二路軍の姿だけを、

湿った風の中へ、静かに残している様でした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ