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逃走の民草

「……嫌な道だねぇ」

顧大嫂が、鍋を混ぜながら先に言った。

孫二娘が、横で酒を煽る。

「まだ何も聞いてないよ」

「聞かなくても分かるさ」

顧大嫂は、湯気の向こうで鼻を鳴らした。

「水陽江沿いで、“静かだった”話の後は、大体ろくでもない」

外は静かな夜だった。

銅鑼も無い。

馬の嘶きも無い。

湿った風だけが、幕舎の帷幕をゆっくり揺らしている。

アタシは、小さく息を吐いた。

「……その通りだったわよ」

孫二娘が、そこでニヤつく。

「で?」

「今度は何処から来たんだい?」

「後ろ」

即答だった。

顧大嫂が眉を寄せる。

「嫌だねぇ」

「前じゃなく?」

「後ろから?」

「そうなのよ!!」

思わず声が大きくなる。

「もう“前警戒してたら後ろ崩れてる”の!!」

「しかも水路側まで同時なのよ!!」

孫二娘が吹き出した。

「うわ、“休ませる気ゼロの戦場”だ!」

鍋の煮える音だけが、小さく続く。

アタシは、水陽江沿いの河岸道を思い出していた。

崖、林、狭い道、並走する船団。

それから――

道を塞ぐ民達。

顧大嫂が、少しだけ笑いを消した。

「民まで居たんだろ」

「居たわ」

アタシは、小さく頷く。

「最初、皆止まったのよ」

少し間が空く。

「敵かどうか、先に見ちゃったの」

孫二娘が、鍋を混ぜる手を止めた。

笑わなかった。

その沈黙だけで、 あの空気が伝わる気がした。

アタシは、火を見る。

泥だらけの老人。

泣いてる子供。

怯えて動けない母親。

それから――

怒鳴りながら前へ出た顧大嫂。

「突っ立ってんじゃないよ! 水だ!」

顧大嫂が、酒を飲みながら鼻を鳴らした。

「立ち止まってたら死ぬからねぇ」

「そうなのよ!!」

また声が返って来る。

「この人、口悪いのに一番最初に水持って行くの!!」 「何なのよ!!」

孫二娘が腹を抱える。

「うわ、“怒鳴りながら人助けする女”だ!」

「アンタもでしょ!!」

「違いない!」

小さな笑いが広がる。

でも――

その笑いは、すぐ静かになった。

アタシは、小さく息を吐く。

「……でも、その直後なのよ」

湿った風が、静かに吹き抜ける。

「矢が来たの」

顧大嫂が、鍋を混ぜる手を少しだけ止めた。

「民見せて止めた所を狙ったか」

「ええ」

孫二娘が、低く舌打ちする。

「嫌なやり方だねぇ」

アタシは頷く。

「完全に、“立ち止まる瞬間”待ってた」

鍋の音だけが、小さく続く。

アタシは、水陽江の乱戦を思い出していた。

倒れる荷車、燃える補給船、鉤縄、火矢、林から湧いてくる方臘軍。

それから――

立ち止まれない二路軍。

孫二娘が、空気を崩すみたいに言う。

「で?」

「李俊、また舟の上走り回ってたんだろ?」

「走り回ってたわね」

思わず小さく笑う。

「もう、“舟の上だけ別の生き物”なのよあの人」

顧大嫂が吹き出した。

「嫌だねぇ!!」

「陸の上だと優男なのに、水入ると急に怖くなる男だ!」

「しかも!!」

また声が返って来る。

「火矢飛んでるのに、普通に小舟へ飛び移るのよ!?」 「何なの!? 落ちないの!?」

孫二娘が肩を揺らした。

「魚だからねぇ」

「人間よ!!」

久しぶりに、少し大きな笑いが広がる。

でも――

その笑いの奥に、 水陽江の重苦しさは残ったままだった。

アタシは、火を見つめながら呟く。

「……方臘軍、正面からだけ来ないのよ」

少し間が空く。

「止まる場所」

「疲れる場所」

「崩れる場所」

「そこばっかり狙って来る」

顧大嫂が、静かに酒を飲む。

孫二娘も、今度は笑わなかった。

湿った風が、幕舎を揺らす。

水陽江沿いの戦は、 もう“城攻め”じゃない。

進むだけで削られる。

立ち止まれば襲われる。

民を助けても、 その隙を突かれる。

そんな戦になり始めていた。

夜は、何も答えない。

ただ静かなまま――

崖と林に挟まれた水陽江の道と、 休む暇も無く削られていく二路軍の背中だけを、

湿った風の中へ、静かに残しているみたいだった。

宣州を発った二路軍は、再び水陽江沿いを進み始めていた。

だが、空気は以前より重い。

兵の数が減っている。

それを、誰も口には出さない。

出した瞬間、本当に崩れそうだった。

水路側では、李俊の船団が並走している。

補給船。

負傷兵を乗せた船。

矢や兵糧を積んだ船。

水軍がいなければ、この遠征はとっくに止まっていた。

河岸の道を、兵達が黙って歩く。

崖に……林……

相変わらず、嫌な地形だった。

枝が揺れるだけで、何人も顔を上げる。

宣州までの伏撃が、まだ全員の身体に残っている。

アタシは前を見る。

湖州への道は、まだ長い。

玉楼が小さく呟く。

「……静かですね」

アタシは頷く。

静か過ぎる。

だから嫌だった。

その時、水路側から李俊の声が飛ぶ。

「前、何かいるぞ!」

二路軍の前列がざわつき始める。

盧俊義と林冲が、馬を進めた。

兵達も槍を握り直す。

また何か来る。

そんな空気が、一瞬で広がっていった。


前列が止まる。

二路軍の空気が、一気に張り詰めた。

兵達が槍を構える。

弓兵も、慌てて周囲へ視線を走らせていた。

アタシも手綱を握り直す。

また伏撃か。

そう思った。

でも――違った。

前方の河岸道へ、人影が並んでいた。

民の人達だった。

老人、女、子供。

荷を抱えたまま、道の真ん中で立ち尽くしている。

逃げてきたのだ。

それは、すぐ分かった。

服が泥だらけだった。

怪我をしている者もいる。

泣いている子供の声が聞こえる。

二路軍の兵達も、すぐには動かなかった。

あまりにも、戦場の空気に慣れ過ぎていた。

敵かどうかを、先に見てしまう。

その時、前へ出たのは顧大嫂だった。

「突っ立ってんじゃないよ!」

怒鳴り声が飛ぶ。

「水だ! 怪我人運べ!」

兵達が、ようやく動き始める。

孫二娘も舌打ちしながら前へ出た。

「ガキまでいるじゃないか……」

口は悪い。

でも、もう水袋を投げ渡している。

アタシは、その光景を見る。

戦が進むほど、こういう人間が増えていく。

焼かれた村。

逃げているのは、信者では無い民衆。

死体。

それが、もう珍しくなくなり始めていた。

水陽江の流れる音だけが、妙に静かだった――


民達は、二路軍の姿を見ても、すぐには近付いて来なかった。

怯えているのが分かる。

兵と見れば、もう全部同じなのだ。

方臘軍も、梁山泊軍も。

戦場の中では、武器を持っている邪悪でしかない。

顧大嫂が、舌打ちしながら前へ出る。

「ほら、水だよ」

乱暴な声だった。

でも、その手つきは思ったより優しい。

年寄りへ水袋を押し付ける。

孫二娘は、泣いている子供へ干し飯を投げていた。

「食える時に食っときな」

子供は、しばらく動かなかった。

母親らしい女が、慌てて頭を下げる。

アタシは、その様子を黙って見ていた。

その時、民の中の一人が、小さく口を開く。

「湖州は……もう駄目です……」

声が震えていた。

盧俊義と林冲が視線を向ける。

男は怯えながら続けた。

「あなた方が近くに来た事で、方臘軍が略奪ばかり……」

言葉が途中で切れる。

後ろでは、痩せた子供が咳き込んでいた。

もう、“何が正しいか” を考える段階ではない。

生き残れるかどうか。

それだけになり始めている。

風が吹く。

水陽江の水面が、小さく揺れた。


しばらく、その場に重い沈黙が落ちた。

誰も、すぐには口を開かない。

水陽江の流れる音だけが聞こえる。

やがて、盧俊義が静かに口を開いた。

「湖州までは、あとどれくらいだ」

民の男は、怯えたまま答える。

「このまま進めば……二日ほどです……」

声が弱い。

もう、誰を信じれば良いのか分からない顔だった。

林冲が周囲を見る。

崖と林。

狭い河岸道。

伏撃には、最悪の地形だった。

朱武が、小さく呟く。

「急いだ方が良さそうですね」

李俊が舌打ちする。

「湖州まで荒んでるなら、水路も危険かもな……」

童威が後ろの船団へ視線を向ける。

負傷兵もいる。

補給船もある。

止まれば危険だった。

でも、急げば崩れる。

二路軍全体に、疲労が張り付いている。

その時だった。

後ろの方で、大きな悲鳴が上がる。

兵達が、一斉に振り返った。

河岸の林が――揺れていた。


次の瞬間、林の中から矢が飛び出した。

「敵襲――!!」

悲鳴と怒号が、一気に河岸道へ広がる。

前じゃなく、後ろだった。

補給隊の辺りで、兵達が崩れ始めている。

「後ろか!!」

李俊が立ち上がる。

その瞬間、水路側でも悲鳴が上がった。

小舟だった。

林の陰へ隠れていた方臘軍の小舟が、一気に水軍の船へ張り付いてくる。

鉤縄が飛び、火矢も飛ぶ。

「燃えるぞ!!」

童威が怒鳴る。

童猛は、無言で斧を振り下ろし、飛んできた鉤縄を叩き切っていた。

河岸側では、さらに矢が降り注ぐ。

民達が悲鳴を上げて伏せる。

梁山泊軍の兵達も、慌てて盾を構え始めた。

でも、完全に立ち止まっていた所を突かれている。

混乱が速い。

林冲が馬を返す。

「後衛を立て直せ!!」

蛇矛が振るわれる。

突っ込んできた方臘軍の兵が、まとめて吹き飛んだ。

盧俊義も前列を返す。

二路軍そのものが、河岸道の上で反転し始めていた。

狭い。

狭過ぎる。

人と馬と荷車が詰まり、隊列が軋む。

その時、アタシのすぐ横を矢が抜けた。

玉楼が槍を振るい、飛び出してきた方臘軍の兵を突き倒す。

「扈三娘様!」

アタシは日月双刀を抜く。

また始まった。

水陽江の神は、兵を休ませる気が無いみたいだ。


アタシは馬を返す。

河岸道の後方では、既に乱戦が始まっていた。

補給隊へ、方臘軍の兵が食い込んでいる。

荷車が倒れ、兵糧袋が散乱していた。

馬が暴れ、悲鳴が飛び交う。

その中へ、さらに矢が降り注ぐ。

完全に、隊列の乱れを狙っていた。

「荷を守れ!!」

誰かが怒鳴る。

でも、狭い。

動ける場所そのものが少な過ぎた。

アタシは日月双刀を振るう。

飛び込んできた方臘軍の兵の首元を斬り裂く。

血が飛ぶ。

その横では、玉楼が槍を突き出していた。

河岸へ押し込もうとした敵兵を、そのまま突き落とす。

水しぶきが上がる。

でも、敵は止まらない。

林の中から、次々と出てくる。

「しつこいわね……!」

アタシは舌打ちする。

その時、水路側で火の手が上がった。

補給船の一隻へ、火矢が刺さったのだ。

「水を掛けろ!!」

童威が怒鳴る。

李俊は、小舟へ飛び移っていた。

刀を振るい、鉤縄を掛けてきた方臘軍の兵を水陽江へ叩き落としている。

でも、水軍側も余裕は無かった。

河岸。

水路。

両方を同時に襲われている。

二路軍そのものが、水陽江沿いで削られ続けていた。


その時、後方で荷車が更に横倒しになる。

兵糧袋が河岸へ転がり落ちた。

「しまっ――」

次の瞬間、方臘軍の兵が一気に群がり、奪おうとする。

兵糧を奪われたら、二路軍は終わる。

それを分かって狙ってきている。

「近付けさせるな!!」

林冲の怒声が響く。

蛇矛が振るわれ、荷車へ飛び付こうとした方臘軍の兵が吹き飛んだ。

でも、敵の数が多い。

林の中から、まだ出てくる。

終わらない。

まるで、水陽江周辺そのものが兵を吐き出しているみたいだった。

アタシは馬を走らせる。

日月双刀を振るい、荷車へ迫った方臘軍の兵を斬り伏せる。

玉楼も槍を奮う。

槍が突き出されるたび、方臘軍の兵が河岸へ崩れ落ちた。

その横を、矢が抜ける。

危ない。

でも、止まれない。

止まった瞬間、隊列ごと崩れる。

その時だった。

水路側から、李俊の怒鳴り声が飛ぶ。

「舟を寄せろ!!」

梁山泊水軍の船が、一気に河岸へ近付いてくる。

弓兵が立ち上がった。

次の瞬間、水路側から矢が放たれ、方臘軍の兵の悲鳴が上がる。

河岸の林へ、矢が突き刺さる。

ようやく、敵の勢いが少し鈍る。

でも――まだ終わっていなかった。

夜は、相変わらず静かでした。

銅鑼もありません。

馬の嘶きも、怒号もありません。

あるのは、湿った風と、鍋の煮える音だけです。

その中で――

孫二娘殿と顧大嫂殿は、いつもの様に鍋を囲んでおられました。

「で?」

孫二娘殿が、鍋を混ぜながら笑います。

「今度は、“止まった瞬間を狙われた回”だったんだって?」

顧大嫂殿が、酒を煽りました。

「しかも、“民助けた直後に矢飛んで来た”んだろ?」

「嫌だねぇ」

幕舎の外から、すぐ声が返って来ます。

「嫌だったわよ!!」

孫二娘殿が吹き出しました。

「“ようやく人助けしたと思ったら伏撃”とか、気分悪いだろうねェ」

「そうなのよ!!」

また外から返って来ます。

「完全に、“立ち止まる瞬間”待ってたのよ!?」

「もう性格悪過ぎるの!!」

顧大嫂殿が、肩を揺らしました。

「そりゃ方臘軍も、正面から殴るだけじゃ勝てないって分かってるんだろうさ」

鍋の煮える音だけが、小さく続きます。

私は、その湯気を見ながら、小さく目を伏せました。

水陽江沿いの道は、 戦場として非常に厄介でした。

崖、林、狭い河岸道。

隊列を広げられない。

立ち止まれば詰まり、 崩れれば、そのまま後方まで潰れる。

そして――

民が居れば、完全に無視する事も出来ない。

私は静かに口を開きます。

「……方臘軍は、“戦う場所”を選んでいたのでしょう」

孫二娘殿が、少しだけ笑いを止めました。

「“勝てる場所”じゃなく、“疲れさせる場所”って事かい?」

私は、小さく頷きます。

「はい」

「二路軍そのものを止める必要はありません」

「疲弊させ続ければいい」

「眠れず」

「休めず」

「気を抜けない」

「そうやって、少しずつ削っていたのでしょう」

湿った風が、静かに吹き抜ける。

その時――

顧大嫂殿が、急にニヤつきました。

「で?」

「玉楼、また危ない所で平然としてたんだろ?」

外が、一瞬だけ静かになります。

それから――

「……平然ではありません」

ぼそっと返事を返しました。

孫二娘殿が、腹を抱えて笑います。

「お、珍しく否定した!!」

「だって!!」

また外から声が返って来ます。

「この人、“矢飛んで来てる中で荷車見てた”のよ!?」 「何見てるの!?ってなるでしょ!!」

顧大嫂殿が、酒を吹きかけました。

「うわ、“飛んで来る矢より兵糧優先する侍女”嫌だねぇ!!」

「兵糧を失えば全体が止まりますので」

「返しが全部補給基準!!」

小さな笑いが広がります。

ですが――

その笑いも、少しずつ静かになっていきました。

鍋の湯気が、夜へ溶ける。

私は、小さく息を吐きます。

「……ですが」

「扈三娘様も、“戦場そのものが罠になる”感覚を理解され始めたのでしょう」

孫二娘殿も、顧大嫂殿も、何も言いません。

私は、静かに続けます。

「以前なら、“敵が居る場所”だけを警戒されていたと思います」

「ですが、水陽江では違いました」

「立ち止まる場所」

「狭まる場所」

「民が現れる場所」

「そういう、“人が崩れる瞬間”そのものを狙われていたのです」

湿った風が、静かに幕舎を揺らしました。

外から、小さく声が返って来ます。

「……嫌だったのよ」

少し間が空く。

「戦ってる時より、“立ち止まった時”の方が怖いの」

鍋の音だけが、小さく続きます。

私は、その声を聞きながら、静かに目を伏せました。

方臘との戦は、 正面からぶつかるだけの戦ではなくなっていました。

城だけではない。

道も、 川も、 疲労も、 民さえも……

全てが戦場になり始めている。

だからこそ――

二路軍の空気も、 以前より静かになっているのでしょう。

夜は、何も答えません。

ただ静かなまま、少しずつ――

崖と林に挟まれた水陽江の道と、 休む事も許されず削られていく二路軍の姿だけを、

湿った風の中へ、静かに残している様でした。

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