知っているのに、防げない
妖術と聞いて、嫌な記憶が戻ってきた。
「三娘、経験者じゃないかァ」
「その言い方やめて! 高廉で十分だから!」
顧大嫂が腕を組む。
「一度勝ってるなら、今度も何とかなるんじゃないかい?」
「そう思うのが危ないんだって」
孫二娘が珍しく真面目に答えた。
「成功体験に引っ張られるのも認知バイアスだからねェ」
「妖術相手に心理学が仕事してる……」
「失礼だねェ」
しかも今度の相手は喬道清。
幻魔君なんて呼ばれているらしい。
「名前からして嫌なんだけど」
「肩書きで強さは決まらないよ」
「じゃあ安心していい?」
「妖術使いなのは確定」
「安心材料どこ!?」
……高廉と同じだと思わない方がよさそうね。
「援軍を率いる将の名は――喬道清」
その名を聞いた瞬間、アタシは眉をひそめた。
「……誰?」
「またそこからかい」
顧大嫂が呆れる。
「知らないものは知らないの!」
壺関を一つ落としたら、また知らない名前が増えた。
田虎軍、倒しても倒しても次が出てくるんだけど、いったい何人いるのよ。
孫二娘が横から顔を寄せてくる。
「新しい敵が解放されたみたいだねェ」
「ゲームみたいに言わないで!」
「言い出しそうなのは三娘だろ」
「先に言われると腹立つ!」
そこへ唐斌が入ってきた。
喬道清の名を聞いた途端、それまで穏やかだった顔が変わる。
「知ってるの?」
「ああ、田虎の麾下では、幻魔君と呼ばれている」
「幻魔君?」
嫌な肩書きまでついてきた。
山士奇なら鉄棍を持った大男だった。
見れば強そうだと分かるし、実際に強かった。
でも幻魔君って何なの。
唐斌は少し間を置いてから答えた。
「妖術を使う」
その言葉で、アタシたちは揃って黙った。
初めてじゃない。
だからこそ嫌だった。
「……また妖術?」
高唐州で高廉と戦った時のことを思い出す。
あの時だって妖術には散々振り回され、最終的には公孫勝が破ったけれど、だから二回目は怖くありません、とはならない。
むしろ、一度知っているからこそ嫌だった。
「一回やったから二回目は簡単、とかないわよね?」
「妖術を何だと思ってるんだい」
顧大嫂に言われた。
「攻略済みの敵?」
「三娘、そういう発想は危ないよォ」
孫二娘が珍しく真面目な顔になる。
「高廉と喬道清が同じ術を使う保証なんてないからねェ。一度うまくいった方法に引っ張られるのも、立派な認知バイアスだよォ」
「心理学が急に役に立った!」
「急にって何だい!」
言いながら、アタシの肩へ腕を回してくる。
「ちょっと、何でくっつくの!?」
「専門家への敬意が足りなかったからねェ」
「身体で取り立てないで!」
顧大嫂が笑っている横で、玉楼だけは唐斌へ向き直った。
「喬道清殿は、どのような術を?」
「風を起こし、砂塵で視界を奪うと聞いている。敵に本来ないものを見せたという話もあるが、俺も直接戦ったことはない」
「高廉とは違うのね」
少なくとも、同じだと思わない方がよさそうだ。
玉楼が少し考える。
「術を用いる前に、何か分かりやすい動きはございますか?」
「印を結び、呪を唱えるとは聞く」
「では、そこを見れば――」
「見えればな」
唐斌の一言で止まった。
なるほど。
砂で目を潰す相手に、「見て判断する」は最初から邪魔される可能性がある。
遼では巨大な陣の中でも旗を見たし、壺関では城壁と敵兵を見続け、姿の見えない投石相手にも周囲を見て追わない判断ができた。
ところが今度は、その「見る」こと自体を奪ってくる。
「順番に嫌なところ突いてくるわね……」
「三娘が慣れた頃には、また別の嫌な奴が出てくるねェ」
「そういう法則みたいに言わないで!」
林冲は唐斌から話を聞き終えると、すぐには兵を出さなかった。
物見を増やし、喬道清軍がどこを通り、どの程度の兵を連れているのか探らせた。
「待つぞ」
以前なら「また!?」くらい言っていたと思う。
でも、今回は素直に頷いた。
「分かった」
孫二娘がものすごい顔でこちらを見る。
「何よ」
「三娘が待つって言われて騒がなかった」
「アタシだって成長するの!」
「これは強化学習の成果かねェ」
「人を実験動物みたいに言うな!」
笑いながら、また抱きついてきた。
「成長祝いだよォ」
「何でも抱きつく理由にしないで!」
玉楼を見ると、目が合う。
助けて。
視線だけで訴えた。
「二娘様、三娘様が困っておられます」
珍しく助けが来た。
「じゃあ玉楼も混ざる?」
「遠慮いたします」
「そこは即答なのね!?」
数日後、物見から喬道清の軍が昭徳方面から壺関へ向かっているとの報告が届いた。
敵の進路は分かった。
ただし、十二騎や二十騎の物見だけをさらに近づけるには危険すぎる。
林冲は決戦を仕掛けるのではなく、敵の位置と動きを確かめ、何かあればすぐ退けるだけの兵を出すことにした。
唐斌もまとまった手勢を率いて同行する。
壺関を取った以上、こちらも城外の道を押さえておかなければならない。
敵を見つけました、追われました、全員逃げましたでは、今度は壺関そのものへ敵を案内することになる。
アタシと玉楼、紅玉もその中に入り、孫二娘と顧大嫂は少し後ろへ回った。
「つまり、見に行くけど、見つかった時に逃げられるだけの人数は連れていくってことね」
「左様でございます」
玉楼が頷く。
「何も起きなければ、それが一番でございます」
「戦なのに、その感想が一番正しい気がしてきた」
「三娘がそんなことを言うようになったよォ」
「そこ、いちいち感動しないで!」
目的は敵を倒すことではなく、位置と動きを確かめ、できれば術の届く距離まで探ることだった。
危ないと思えばすぐ戻る――言葉にするだけなら、ものすごく簡単だった。
「三娘様が実行なされるとなると、少々心配でございます」
「玉楼!?」
「冗談でございます」
顔が真面目すぎて分からない!
馬を進めながら、ふと李俊の顔が浮かんだ。
あいつなら、見えないところへ舟を進める時はどうするんだろう。
たぶん、いきなり突っ込んだりはしない。
水の流れを見て、深さを測って、それから進む。
そう考えると、今やっていることが少しだけ分かりやすくなった。
……今度会ったら聞いてみようかな。
妖術の話をしたら、あいつはどんな顔をするんだろう。
たぶん最初に聞くのは――
無事か?
「三娘ォ」
孫二娘の声が横からした。
「何でもない!」
「アタイ、まだ何も聞いてないけどォ?」
またやった。
顧大嫂が吹き出す。
「最近、自分から白状してないかい?」
「してない!」
「じゃあ誰を考えてたのかねェ」
「言わない!」
孫二娘が嬉しそうに馬を寄せてくるので、アタシは玉楼の反対側へ逃げた。
「玉楼、壁!」
「承知いたしました」
「そういう時だけ連携が早いねェ!」
昼を過ぎたころ、先行していた紅玉が戻ってきた。
「三娘様、前方に軍勢です」
「旗は?」
「喬の字が見えます」
丘の陰から遠くを窺うと、軍勢そのものは妙に普通だった。
巨大な陣でもなければ、山士奇みたいな大男が前へ出ているわけでもない。
中央に一人、武将らしくない道士姿の男がいるだけだった。
玉楼がそちらへ視線を向ける。
「あの方ではございませんか?」
「喬道清?」
「おそらく」
「普通に見えるんだけど」
「三娘、道士姿で戦場にいる時点で十分普通じゃないよ」
顧大嫂の言う通りだった。
その時、前方から数騎が戻ってきた。
味方の物見だ。
ただし、出した数より明らかに少ない。
馬の走り方もおかしかった。
紅玉の表情が変わる。
帰ってきた一人は、顔を真っ青にしていた。
「風が……急に……」
「何があったの?」
「砂です。黄色い砂が巻き上がって、前が……何も見えなくなって……」
聞いた瞬間、高廉の時の嫌な感覚が戻ってきた。
妖術が始まる時の、目の前で起きていることに理屈が追いつかなくなる感じ。
「何人で行った?」
孫二娘が尋ねる。
「十二人です」
戻ったのは四人だった。
「残りは?」
「分かりません。声は聞こえたんです。でも、どこから聞こえているのか……敵が前にいたと思ったら、後ろからも音がして……」
孫二娘は兵の肩へ手を置いた。
「もういいよォ。水を飲んで休みな」
兵が運ばれてから、アタシは孫二娘を見る。
「どう思う?」
「視界を奪われれば方向感覚は狂うし、恐怖が強ければ音の位置も正確には取れなくなる。それ自体は説明できるよォ」
「じゃあ砂は?」
「そこが専門外」
やっぱりそこか。
唐斌が前へ出た。
「喬道清だ。これ以上は近づくな。高廉と同じだと思えば呑まれるぞ」
アタシも異論はなかった。
見るべきものは見た。
少なくとも、あの軍へ不用意に近づいてはいけないことは分かった。
林冲へ知らせ、公孫勝にも話を回した方がいい。
馬首を返そうとした時だった。
「三娘様、後ろ!」
紅玉が振り返る。
別の土煙が上がっていた。
喬道清軍の騎兵だ。
いつの間にかこちらの退路へ回り込もうとしている。
「気付かれてたの!?」
「退け!」
唐斌が叫んだ。
兵が一斉に動き出す。
敵との距離はまだある。
このまま速度を落とさなければ、追いつかれる前に離れられる。
ところが前方にも騎兵の影が現れた。
数は多くなく、道を完全に塞ぐというより、こちらの足を一度止めるための兵らしい。
後ろの敵が追いつくまで時間を稼げれば、それで十分なのだろう。
「挟む気ね!」
玉楼がアタシの右へ出る。
「三娘様、前を抜きます」
「じゃあアタシは左!」
言葉を交わした時には、もう二人とも動いていた。
玉楼の槍が敵騎兵の槍を外へ弾くと、その横をアタシが抜け、味方の手綱へ伸びた刃を日月双刀で受けた。
次の一騎を玉楼が押し出せば、空いた場所へ今度はアタシが入る。
どちらが前で、どちらが後ろなんて決めていない。
空いた方へ一人が入り、もう一人がその穴を広げればいい。
その時、後ろから紅玉の声が飛んだ。
「右が薄いです!」
「聞いた!」
アタシが右へ寄ると、玉楼は中央へ入った。
突破口が開く。
「今!」
顧大嫂が兵を前へ押し出し、孫二娘は遅れた者へ声を飛ばす。
「止まらない! 今は隊列を綺麗にする方が危ないよォ!」
「雑でも走れってこと!?」
「そういうこと!」
先頭が抜け、その後へ兵が次々と続いた。
これなら行ける――そう思ったところで、唐斌の旗が止まった。
「唐斌!?」
振り返ると、唐斌は追ってくる敵を見ていた。
こちらが狭いところを抜けたせいで、隊列は大きく伸びている。
後ろの兵が全員抜ける前に敵が追いつけば、そのまま最後尾から崩される。
「先へ行け!」
唐斌が自分の兵へ命じた。
その大半がこちらへ走る。
けれど、五百余りだけが唐斌と一緒に向きを変えた。
「何する気!?」
「追撃を止める!」
「さっき近づくなって言ったの自分でしょ!」
「だからここで止める! 後ろの兵まで術の間合いへ入れるわけにはいかん!」
言い返せなかった。
唐斌は喬道清の術が危険だと分かっているからこそ、自分たち五百余りを残して、残りを逃がすつもりだった。
「だったらアタシも――」
馬首を返しかけた瞬間、目の前へ槍が出た。
玉楼だった。
アタシを攻撃したわけではなく、ただ戻る道だけを塞いでいる。
「三娘様」
「唐斌が残ったのよ!」
「だからこそ、お戻りになってはなりません」
「でも!」
「唐斌殿は、三娘様まで残すために足を止められたのではございません」
分かっている。
腹が立つくらい、玉楼の言うことは正しかった。
孫二娘も馬を寄せ、アタシの袖をつかんだ。
「助ける人数を増やすつもりが、捕まる人数を増やすだけになるかもしれないよォ」
「……分かってる!」
唐斌の方を見る。
五百余りの兵が横へ広がり、追ってきた騎兵を受け止めた。
その向こうで、喬道清が動く。
遠くからでも、片手を上げたのが見えた。
風が吹いた。
最初は、地面の砂が少し動いただけだった。
次の瞬間、黄色い砂が一気に空へ巻き上がる。
「来る!」
唐斌の兵はたちまち見えなくなり、黄色い壁の向こうから馬の嘶きと怒鳴り声、それに武器がぶつかる音だけが聞こえてくる。
誰がどこで戦っているのか、もう見当もつかなかった。
「唐斌!」
返事はなかった。
ここで戻れば、アタシたちまであの中へ入る。
玉楼はもう何も言わない。
言われなくても分かる。
見えないから追わない。
分からないから、確かめに行かない。
唐斌が残った意味を、アタシが勝手に消したら駄目だ。
「戻る! 林冲に知らせる!」
紅玉がすぐに馬首を返し、顧大嫂が伸びた兵をまとめ直した。
孫二娘も一度だけ黄色い砂を振り返る。
「心理学じゃ妖術は止められないけどねェ」
「知ってる!」
「だから、止められる人を呼ばないと」
公孫勝。
アタシにもすぐ分かった。
壺関へ戻り、林冲へ報告した。
日が傾いても、唐斌は帰らなかった。
一緒に残った兵も戻らない。
高廉の妖術なら知っていた。
一度経験していた。
それでも、知っていることと防げることは、同じじゃなかった。
五百余りいた。
なのに、黄色い砂が消えたあと、こちらへ戻ってきた者は一人もいなかった。
玉楼でございます。
本日は、三娘様の馬前へ槍を差し出しました。
「ずいぶん思い切ったねェ」
「行かせる方が危険でございましたので」
「で、三娘は?」
「止まりました」
顧大嫂様が感心しております。
「前なら槍ごと越えて行きそうだったのにね」
「そこまででは……」
「玉楼、また否定が弱いよォ」
ですが、今回は三娘様だけを止めれば済む話ではございませんでした。
「唐斌、自分から残ったんだよねェ」
「五百余りとともに、追撃を止めるためでございます」
「止めに戻ったら?」
「唐斌殿が残られた意味を失います」
孫二娘様が、珍しく何も返しませんでした。
黄色い砂に呑まれた唐斌殿と五百余りの兵は、日が暮れても戻りませんでした。
三娘様も追いませんでした。
今度は、それが正解だったからこそ――厄介なのでございます。




