表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
72/102

水陽江遠征

「……で?」

孫二娘が、鍋を混ぜながら首を傾げる。

「今度は、“宣州で死に過ぎて誰も笑えなくなった回”だったんだって?」

顧大嫂が、酒を煽った。

「しかも、“城入った後の方が地獄だった”んだろ?」

「嫌だねぇ」

外は静かな夜だった。

銅鑼も無い。

馬の嘶きも無い。

湿った風だけが、幕舎の帷幕をゆっくり揺らしている。

孫二娘が、鍋の湯気を見つめる。

「で?」

「宣州、そんな酷かったのかい」

アタシは、少しだけ黙る。

「……酷かったわね」

顧大嫂が、小さく眉を寄せた。

「うわ、“勝ったのに全然勝った感じしない戦”だ」

「そうなのよ!!」

思わず声が大きくなる。

「城門前で人死に過ぎなのよ!!」

「しかも、止まる暇も無いの!!」

孫二娘が、鍋を混ぜながら顔をしかめた。

「曹正かい」

アタシは頷く。

「矢、何本も刺さってた」 「それでも、最後まで朴刀離さなかった」

鍋の煮える音だけが、小さく続く。

顧大嫂が、静かに酒を飲んだ。

「……アイツらしいねぇ」

少しだけ間が空く。

アタシは、宣州城門前を思い出していた。

降って来た矢、崩れる前列、倒れた曹正、鄭天寿、王定六……

それでも止まらなかった、二路軍。

孫二娘が、空気を崩すみたいに言う。

「で?」

「張清の石、また飛んだんだろ?」

「飛んだわね」

アタシは、小さく息を吐く。

「もう最近、“石飛んだ=誰か終わる”みたいになってるのよ」

顧大嫂が吹き出した。

「嫌だねぇ!!」

「“戦場の合図”みたいに石飛ばす男だ!」

「しかも!!」

また声が返って来る。

「その直後に玉楼が突っ込むのよ!?」

「最近この人、“倒れた瞬間の追撃”だけ異常に早いの!!」

幕舎の外から、静かな声が返る。

「立て直される前に処理が必要でしたので」

孫二娘が腹を抱えた。

「ほら来た!!」

「“必要でしたので”で全部押し切る侍女!!」

顧大嫂も酒を吹きかける。

「うわ、“感情より先に戦況整理する女”嫌だねぇ!!」

「だって!!」

また外から声が返って来る。

「止まれば押し返されていましたし」

「また正論!!」

小さな笑いが広がる。

でも――

その笑いは、長く続かなかった。

アタシは、火を見る。

宣州城の中、血の臭い、狭い石畳、崩れた兵。

それから、 李俊が言った言葉。

“……随分減ったな”

湿った風が、静かに吹き抜ける。

孫二娘が、鍋を混ぜる手を少しだけ止めた。

「……減ったねぇ」

今度は、誰も笑わなかった。

顧大嫂が、火へ薪を足す。

小さく爆ぜる音。

アタシは、酒を見つめながら呟く。

「潤州終わった時は、まだ“次がある”って感じだったのよ」

少し間が空く。

「でも宣州は、“減った”が残るの」

鍋の音だけが、小さく続く。

孫二娘が、小さく鼻を鳴らした。

「方臘戦ってのは、そういう戦だからねぇ」

「勝っても減る」

「進んでも減る」

「止まっても減る」

顧大嫂が、低く笑う。

「嫌な戦だ」

アタシは頷く。

「だから、紅玉は置いてきたの」

少しだけ空気が止まる。

孫二娘も、今度は茶化さなかった。

顧大嫂が、静かに酒を飲む。

「……まだ早いか」

「ええ」

アタシは、小さく息を吐いた。

「こんな場所に連れて来るには、まだ」

湿った風が、幕舎を揺らす。

宣州の火は、もう遠い。

でも、 焼けた臭いだけは、まだ身体へ残っている気がした。

孫二娘が、そこでわざとらしく空気を崩す。

「で?」

「玉楼は今回も寝てないんだろ?」

幕舎の外が、一瞬だけ静かになる。

それから――

「……必要でしたので」

顧大嫂が吹き出した。

「また言った!!」

「この侍女、“必要でしたので”だけで戦場生き抜く気だよ!!」

「実際、生き抜いておりますので」

「返しまで固い!!」

久しぶりに、少し大きな笑いが広がった。

でも――

その笑いの奥に、 宣州で死んだ者達の顔が、まだ静かに残っていた。

夜は、何も答えない。

ただ静かなまま――

燃えた宣州の臭いと、 減っていく梁山泊軍の背中だけを、 湿った風の中へ、静かに残しているみたいだった。

城門前の乱戦は、完全に押し潰し合いになっていた。

怒号、悲鳴、血の臭い。

宣州軍も、梁山泊軍も、一歩も引かない。

その最前列で、曹正が朴刀を振るっていた。

「押せェッ!!」

血を浴びながら前へ出る。

宣州軍の槍を払いながら、味方を押し上げていく。

その時だった。

城壁の上から、一斉に矢が放たれる。

雨の様に……

「矢だァッ!!」

誰かが叫んでも、もう遅かった。

曹正の身体へ、何本もの矢が突き刺さる。

額、胸、腹。

身体が大きく揺れる。

それでも、すぐには倒れない。

朴刀を握ったまま、前を睨んでいた。

だが、次の瞬間――

ゆっくり膝もつかず、そのまま倒れた。

「曹正――!!」

悲痛な叫び声が飛ぶ。

その横では、鄭天寿も槍を振るっていた。

前へ出ようとした瞬間、再び矢が降る。

一本が胸を貫く。

さらに肩へ。

喉元へ。

鄭天寿の身体が止まる。

槍を握ったまま、血を吐いた。

それでも一歩だけ前へ出て――

倒れた。

その時、水門側から兵が駆け込んでくる。

「王定六様が討たれた!!」

アタシが振り向くと、水門近くで、王定六が倒れていた。

伝令へ走っていた所を、城壁から射抜かれたのだ。

身体へ、深々と矢が刺さっている。

もう動かない――

城門前は、血の海と化している。

でも、戦だけは止まらなかった。


曹正、鄭天寿、王定六が倒れても、二路軍は止まらなかった。

止まれば、押し返される。

それが全員分かっている。

「前へ出ろォッ!!」

怒号が響く。

盧俊義が馬を進める。

その勢いに押され、宣州軍の前列が崩れ始めた。

城門前で、人が雪崩れる。

倒れた兵を踏み越え、梁山泊軍が一気に押し込んでいく。

林冲の蛇矛が唸る。

前へ出ようとした宣州軍の兵が、まとめて吹き飛ばされた。

アタシも馬を進める。

日月双刀を振るい、城門前の敵兵を薙ぎ払う。

玉楼も、すぐ隣にいた。

槍を振るいながら、押し込まれる味方を支えている。

その時だった。

宣州軍の一角が、大きく崩れる。

「道が開いたぞ!!」

誰かが叫ぶ。

次の瞬間、梁山泊軍が城門内へ雪崩れ込んだ。

宣州軍も必死に止めようとする。

でも、もう止まらない。

水門側でも火が上がっている。

李俊の水軍が、城の横腹を押さえていた。

アタシは馬を叩く。

城門を抜ける。

血の臭いと、土煙が一気に濃くなる。

振り返る余裕は無かった。

曹正も……

鄭天寿も……

王定六も……

もう戻ってこない――

それでも、二路軍は前へ進んでいた。

宣州城の中へ。


宣州城の中は、既に混乱していた。

城門を抜けた梁山泊軍が、一気に雪崩れ込んでいる。

宣州軍も必死に止めようとしていた。

でも、もう押し返し切れない。

狭い石畳へ、人と馬が溢れていた。

怒号、悲鳴、血の臭い。

建物の上から矢が飛び、路地からも兵が飛び出してくる。

それでも、二路軍は止まらない。

林冲の蛇矛が前列を薙ぎ払う。

盧俊義も馬上から敵兵を叩き潰していた。

アタシは日月双刀を振るう。

敵兵が近い、近過ぎる。

斬っても、すぐ次が来る。

玉楼も、すぐ隣で槍を振るっていた。

「左!」

声が飛ぶ。

横道から突っ込んできた宣州軍を、アタシはそのまま斬り払う。

その時だった。

水門側から、大きな怒号が響く。

李俊の水軍だった。

水門側でも、梁山泊軍が城内へ入り始めている。

宣州軍の空気が揺れる。

挟まれた。

そう気付いたのだ。

盧俊義が前へ出る。

林冲も並ぶ。

二路軍が、さらに宣州城の奥へ押し込んでいく。

アタシは、血の臭いの中で馬を前へ出す。

宣州城の兵達は、戦意を喪失し始めていた。


宣州城が落ちた頃には、もう夜が近かった。

城内の火は、まだ完全には消えていない。

煙が、暗くなり始めた空へ流れていた。

二路軍の兵達も、ようやく腰を下ろし始めている。

でも、誰も気を抜いてはいなかった。

疲れ切っているのに、鎧を外す手が遅い。

アタシは、崩れた城壁の近くへ座っていた。

玉楼も隣にいる。

しばらく、何も言わない。

遠くで、負傷兵の声が聞こえる。

水を運ぶ音。

火の爆ぜる音。

戦は終わった。

でも、身体がまだ終わったと思っていない。

アタシは、小さく息を吐く。

「……紅玉、置いてきて正解だったわ」

玉楼は、少しだけ黙った。

それから、静かに頷く。

「はい」

短い返事だった。

でも、言いたい事は分かる。

曹正。

鄭天寿。

王定六。

今日だけで、何人も死んだ。

紅玉まで、この中へ入れるべきじゃない。

アタシは、燃え残る宣州城を見る。

「まだ早いわよ」

小さく呟く。

玉楼は否定しなかった。

その時、水路側から足音が聞こえた。

李俊だった。

煤と血で、服がかなり汚れている。

でも、まだ立っていた。

李俊は、アタシの隣へ腰を下ろす。

しばらく、誰も喋らない。

水陽江の音だけが聞こえる。

やがて、李俊が小さく口を開いた。

「……随分減ったな」

アタシは答えない。

答えられなかった。

李俊も、それ以上は言わない。

ただ、水の方を見ている。

その視線の先には、まだ片付けられていない死体があった。

風が吹く。

煙が揺れる。

アタシは、静かに目を閉じた。

せめて、少しだけでも。

――死んだ仲間が、静かに眠ってくれればいいと、心から願う……


宣州城が落ちてから、数日後――

二路軍は、城内で再編へ入っていた。

負傷兵の選り分け。

死者の確認。

焼けた城壁の補修。

城内には、まだ煙の臭いが残っている。

それでも、止まる時間は長くなかった。

次の進軍命令が下り始めていたからだ。

夜。

アタシは玉楼と共に幕舎へ入る。

中には、既に何人か集まっていた。

盧俊義。

林冲。

李俊。

そして――

「遅かったねぇ」

孫二娘が、酒も飲まずにこちらを見る。

その隣では、顧大嫂が腕を組んでいた。

久しぶりに顔を見る。

でも、互いに無事だった事へ安心する余裕は、もう無かった。

顧大嫂が鼻を鳴らす。

「酷い面してるじゃないか」

アタシは肩をすくめた。

「そっちもでしょ」

顧大嫂が少しだけ笑う。

でも、目は笑っていない。

宣州まで来る間に、全員かなり精神的に来ている。

その空気が、幕舎の中へ重く残っていた。

朱武が地図を広げる。

「次は湖州方面です」

空気が静まる。

誰も軽口を叩かない。

もう、“次がある” のを全員知っていた。


軍議が終わった頃には、もう夜も深くなっていた。

外では、まだ負傷兵の呻き声が聞こえる。

静かになるには、まだ時間が掛かりそうだ。

アタシは、自分の幕舎へ戻る。

玉楼も後ろにいた。

幕を開けると、中には既に人がいる。

孫二娘だった。

卓へ肘を付き、勝手に酒瓶を開けている。

「遅いよ」

その隣では、顧大嫂も座っていた。

「軍議ってのは、長いだけで本当につまらないねぇ」

相変わらずだった。

アタシは、少しだけ肩の力を抜く。

玉楼も、ようやく槍を槍掛けに立て掛ける。

卓の上には、干し肉と酒だけが置かれている。

豪華な物は無い。

そんな余裕も無かった。

孫二娘が酒を煽る。

「曹正の馬鹿、結局最後まで前出て死んじまったねぇ……」

そこで、空気が少し止まる。

誰もすぐには喋らない。

顧大嫂が、小さく息を吐いた。

「アイツらしいけどね」

声は荒い。

でも、笑ってはいなかった。

鄭天寿。

王定六。

名前が頭をよぎる。

減った。

また。

それだけが、静かに残る。

アタシは酒を口へ運ぶ。

美味しくない。

でも、何も飲まないよりはましだった。

その時、孫二娘がアタシを見る。

「紅玉は何で置いてきた?」

アタシは、少しだけ間を置く。

「瓊英の護衛役よ」

孫二娘が頷く。

顧大嫂は黙って聞いている。

その沈黙だけで十分だった。

まだ早い。

こんな場所へ連れて来るには――

夜は、相変わらず静かでした。

銅鑼もありません。

馬の嘶きも、怒号もありません。

あるのは、湿った風と、鍋の煮える音だけです。

その中で――

孫二娘殿と顧大嫂殿は、いつもの様に鍋を囲んでおられました。

「で?」

孫二娘殿が、鍋を混ぜながら笑います。

「今度は、“宣州で減り過ぎて誰も元気無かった回”だったんだって?」

顧大嫂殿が酒を煽りました。

「しかも、“勝った後なのに空気が死んでた”んだろ?」

「嫌だねぇ」

幕舎の外から、すぐ声が返って来ます。

「嫌だったわよ!!」

孫二娘殿が吹き出しました。

「“城落としたー!!”じゃなく、“……減ったね”だったんだろ?」

「そうなのよ!!」

また外から返って来ます。

「宣州入った後、全然“勝った空気”じゃないの!!」 「皆、生きてるか確認してる感じなのよ!!」

顧大嫂殿が、静かに肩を揺らしました。

「うわ、“勝っても人数減る戦”だ」

鍋の煮える音だけが、小さく続きます。

私は、その湯気を見ながら、小さく目を伏せました。

宣州の戦は、 確かに勝利でした。

ですが――

失った者も、多かった。

曹正殿、鄭天寿殿、王定六殿……

城門前で倒れた者達の姿は、 二路軍の空気そのものを重くしていました。

私は静かに口を開きます。

「……二路軍全体が、“減った事”を理解してしまったのでしょうね」

孫二娘殿が、少しだけ笑いを止めました。

「“死ぬのは当たり前”で済ませられなくなったって事かい?」

私は、小さく頷きます。

「はい」

「潤州でも死者は出ました」 「ですが、宣州は近かったのです」

「城門前で」

「すぐ隣で」

「前へ出た者から倒れていく」

「それを、皆見ていました」

湿った風が、静かに吹き抜ける。

その時――

顧大嫂殿が、急にニヤつきました。

「で?」

「玉楼、また“必要でしたので”で敵仕留めたんだろ?」

外が、一瞬だけ静かになります。

それから――

「……必要でしたので」

ぼそっと返事を返しました。

孫二娘殿が、腹を抱えて笑います。

「ほら来た!!」

「もうこの侍女、“必要でしたので”だけで戦場渡ってるんだよ!!」

「だって!!」

また外から声が返って来ます。

「最近この人、“倒れた敵が再起不能か確認する速度”まで早いのよ!?」

「怖いのよ!!」

顧大嫂殿が、酒を吹きかけました。

「うわ、“戦場確認が細かい侍女”嫌だねぇ!!」

「再度立ち上がられると危険ですので」

「返しが全部現実的!!」

小さな笑いが広がります。

ですが――

その笑いも、少しずつ静かになっていきました。

鍋の湯気が、夜へ溶ける。

私は、小さく息を吐きます。

「……ですが」

「扈三娘様が、紅玉殿を置いて来られた理由も、よく分かりました」

孫二娘殿も、顧大嫂殿も、何も言いません。

私は、静かに続けます。

「宣州は、“強ければ生き残れる戦”ではありませんでした」

「身体が疲弊し」

「心が削られ」

「押し潰されながら、それでも前へ出続ける」

「そういう戦でした」

湿った風が、静かに幕舎を揺らしました。

外から、小さく声が返って来ます。

「……まだ、早いのよ」

少し間が空く。

「紅玉を、あそこへ入れるには」

鍋の音だけが、小さく続きます。

私は、その声を聞きながら、静かに目を伏せました。

方臘との戦は、 少しずつ形を変え始めています。

勢いだけでは押し切れない。

勝っても休めない。

そして――

生き残った者ほど、 減っていく仲間の数を覚えてしまう。

だからこそ、 二路軍の空気も、 以前より静かになっているのでしょう。

夜は、何も答えません。

ただ静かなまま、少しずつ――

宣州の血の臭いと、 疲れ切った二路軍の背中だけを、

湿った風の中へ、静かに残している様でした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ