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水陽の伏影

「……で?」

孫二娘が、鍋を混ぜながら首を傾げる。

「今度は、“潤州燃やした直後なのに、もう次の城だった会”なんだって?」

顧大嫂が酒を煽った。

「しかも、休む暇も無く宣州まで連れて行かれたんだろ?」

「嫌だねぇ」

外は静かな夜だった。

銅鑼も無い。

馬の嘶きも無い。

湿った風だけが、幕舎の帷幕をゆっくり揺らしている。

孫二娘が、鍋の湯気を見つめる。

「で?」

「潤州落とした後、少しは休めたのかい」

アタシは、少しだけ黙る。

「……休んだ気はしなかったわね」

顧大嫂が、小さく眉を上げた。

「うわ、“勝った後なのに勝った空気じゃない”ヤツだ」

「そうなのよ!!」

思わず声が大きくなる。

「皆疲れて座り込んでるのに、もう“次どこ行く?”始まってるのよ!?」

「梁山泊、止まるって概念無いの!?」

孫二娘が吹き出した。

「嫌だねぇ!!」

「“燃えてる城の横で次の戦の相談する集団”だ!」

「しかも!!」

また声が返って来る。

「潤州まだ煙出てるのに、“一路軍”“二路軍”って分け始めるのよ!?」

「もう少し“終わった……”って空気出しなさいよ!!」

顧大嫂が、酒を飲みながら鼻を鳴らした。

「出したら止まっちまうからねぇ」

鍋の煮える音だけが、小さく続く。

アタシは、潤州の水路を思い出していた。

黒い水、燃える城、縄を引く水軍。

それから――

煤だらけの顔で立っていた、李俊。

孫二娘が、鍋を混ぜながらニヤつく。

「で?」

「李俊、また舟の上で生き残ってたんだろ?」

「……生きてたわね」

「嫌だねぇ」

「アイツ、水軍絡むと死ぬ気しないんだよ」

アタシは、小さく息を吐く。

「でも、戻って来てない人も居たのよ」

少しだけ空気が静かになる。

顧大嫂が、鍋へ薪を足した。

火が、小さく爆ぜる。

「……まあ、水軍はねぇ」

低い声だった。

「飲まれる時は、静かに飲まれるからねぇ」

アタシは、水陽江を見るみたいに目を細めた。

李俊達の船、負傷兵、火矢、黒い水。

梁山泊は、勝っていた。

でも――

減っていない訳じゃなかった。

孫二娘が、そこで空気を崩すみたいに言う。

「で?」

「宣州着いた途端、また城門開いたんだろ?」

「そうよ」

即答だった。

「もう“ようこそ”みたいな勢いで騎馬隊出てきたわよ!!」

顧大嫂が吹き出した。

「嫌だねぇ!!」

「“疲れてる所を殴る”のが上手い軍だ!」

「しかも潘濬とかいうの、滅茶苦茶勢い良かったのよ!!」

「“梁山泊を潰せェ!!”って!!」

孫二娘が、鍋を混ぜながら笑う。

「で?」

「そこへ張清の石が飛んだんだろ?」

少し間が空く。

それから――

「……飛んだわね」

アタシは、小さく笑った。

「もう、“あ、死んだ”って分かる音だったわ」

顧大嫂が酒を吹きかけた。

「うわ、“石礫で流れ変わる戦場”嫌だねぇ!!」

「しかも!!」

また声が返って来る。

「その直後に玉楼が突っ込んで行くのよ!?」

「落馬した瞬間、喉一直線よ!!」

孫二娘が腹を抱える。

「うわ、“追撃判断が早い侍女”!!」

「この人、最近躊躇無いのよ!!」

幕舎の外から、静かな声が返る。

「止まれば立て直されますので」

「ほら来た!!」

「また正論!!」

笑い声が広がる。

でも――

その笑いも、少しずつ静かになっていった。

鍋の湯気が、夜へ溶ける。

アタシは、小さく息を吐く。

「……でも、疲れてたのよ」

湿った風が、静かに吹き抜ける。

「潤州終わったばっかりで」

「ずっと水陽江歩かされて」

「伏兵まで来て」

少し間が空く。

「なのに、宣州軍は休ませる気無かった」

顧大嫂が、静かに酒を飲む。

孫二娘も、今度は笑わなかった。

アタシは、火を見る。

潤州の火、水陽江、宣州の城門、張清の石、玉楼の槍。

梁山泊軍は、止まらない。

止まれば終わるから。

だから――

誰も止まれない。

夜は、何も答えない。

ただ静かなまま――

燃え続ける潤州の火と、 まだ続いていく宣州への戦だけを、

湿った風の中へ、静かに残しているみたいだった。

潤州の火は、夜明け近くまで消えなかった。

煙が、まだ空へ流れている。

焼けた木の臭いと、血の臭いが混ざっていた。

梁山泊軍の兵達も、城内で座り込んでいる。

誰も、大声では喜ばない。

疲れ切っていた。

アタシは、水門近くまで歩く。

玉楼も後ろにいる。

少し離れた所では、孫二娘が負傷兵へ水を配っていた。

血だらけの兵へ乱暴に水袋を押し付ける。

「死ぬなら飲んでから死にな」

そんな事を言っている。

でも、手は止まっていなかった。

水路側では、まだ水軍の兵達が動いている。

縄を引き、船を寄せ、負傷者を運んでいた。

その中に、李俊の姿が見えた。

火の煤で顔が汚れている。

服も濡れていた。

でも、生きている。

アタシは少しだけ息を吐く。

李俊もこちらへ気付いた。

「……随分派手に燃やしたわね」

李俊が鼻で笑う。

「そっちも大概だろ」

声が掠れていた。

それでも、いつもの調子を崩していない。

玉楼が、小さく頭を下げる。

「お見事でした」

李俊は肩をすくめた。

「水の上で飯食ってきたからな」

短い言葉だった。

その時、後ろから孫二娘の声が飛ぶ。

「アンタら、立ち話してる暇あんなら、手伝いな!」

振り返ると、孫二娘がこちらを睨んでいた。

「そんな顔で突っ立ってると、次はアンタらの番だよ!」

口は相変わらずだった。

でも、その横では、ちゃんと湯まで用意してある。

アタシは少しだけ笑った。

李俊も、疲れた顔のまま鼻を鳴らす。

その後ろでは、水軍の兵達が静かに負傷者を運び続けていた。

何人かは、戻ってきていないのも分かった。

アタシは、水路の方を見る。

黒い水へ、火の光が揺れていた。

「……ありがとう」

小さく呟く。

李俊が、一瞬だけ黙る。

それから、ゆっくり息を吐いた。

「まだ終わっちゃいねぇよ」

――その通りまだ終わっていない。


潤州は落ちた。

でも、方臘との戦は、まだ先が続いていた。

潤州陥落から、数日後――

梁山泊軍は、城内で再編へ入っていた。

負傷兵の選り分け。

兵糧の再整理。

焼け落ちた潤州では、まだ煙が残っている。

その中で、次の進軍命令が下された。

梁山泊軍は、一路軍と二路軍へ分かれる。

方臘軍の勢力圏が広過ぎる以上、軍を分けて進むしかない。

宋江の幕舎には、頭領達が集められていた。

空気は重い。

潤州を落とした後なのに、誰も浮いていない。

呉用が地図を広げる。

「一路軍は南側より進軍」

指が、水路をなぞる。

「二路軍は、水陽江沿いに宣州方面へ向かいます」

盧俊義が静かに前へ出る。

大きい。

梁山泊へ来てから何度も見ている男だ。

それでも、幕舎の空気が少し変わる。

玉麒麟。

そう呼ばれる理由を、改めて感じさせる立ち姿だった。

呉用が続ける。

「林冲隊は、二路軍へ編入」

アタシは小さく安堵の吐息を吐く。

林冲は、特に何も言わなかった。

ただ短く頷いただけだ。

玉楼が、ほんの少しだけこちらを見る。

宣州。

また次の城だ。

潤州が終わったばかりなのに、もう次へ進む。

梁山泊軍は止まらない。

止まれない。

李俊は腕を組みながら、静かに地図を見ていた。

水軍も、二路軍へ同行する。

水陽江を押さえなければ、宣州へは届かない。

潤州で終わりじゃない。

方臘軍は、まだ奥に続いている。

アタシは宣州の文字を見る。

燃える城の臭いが、まだ鼻の奥へ残っていた。


二路軍が潤州を発ったのは、まだ朝靄の残る時間だった。

焼け跡の煙は、完全には消えていない。

焦げた臭いが、水面の上まで漂っている。

水陽江には、梁山泊水軍の船団が並んでいた。

兵糧、負傷兵、予備の矢。

船が、軍そのものを運んでいる。

盧俊義が馬上から前を見る。

その後ろを、二路軍が河岸沿いに進み始めた。

林冲の隊も動く。

アタシは手綱を握る。

玉楼も、すぐ隣にいた。

少し後ろでは、孫二娘が潤州へ残る負傷兵達へ怒鳴っている。

「勝手に死ぬんじゃないよ!」

口は荒い。

でも、水も薬も、自分で運んで回っていた。

李俊達の船も、水路側から並走を始める。

李俊が、こちらへ向かって声を飛ばした。

「岸側、気を付けろよ!」

童威が周囲を見回し、童猛は無言で櫂を握っている。

河岸道は狭かった。

片側は水。

もう片側は、切り立った崖と林。

伏兵を隠す場所はいくらでもある。

隊列が進む。

潤州が、少しずつ後ろへ遠ざかっていく。

でも、焼けた臭いだけは、しばらく風が運んできていた。

前には、宣州への水路が伸びている。

――梁山泊軍は、まだ止まれない。


水陽江沿いの道は、進めるだけまだましだった。

でも、安全ではない。

河岸道は狭い。

片側は川。

もう片側は、崖と林。

船団は水路を進み、二路軍は岸沿いを進む。

互いの姿は見える。

それでも、すぐに助け合えるとは限らない。

崖の上で枝が揺れるたび、兵達は顔を上げた。

時折、本当に矢が飛んで来る。

数は多くない。

でも、それだけで気が張り詰め眠れない。

歩くたびに、誰かの足が遅れる。

途中で通った村には、人がいなかった。

焼けた家、壊された井戸、捨てられた荷。

物資を調達できる場所は、既に潰されている。

方臘軍は、正面からぶつかる前に、こちらを疲弊させにくる。

李俊の船団も、何度か林の中から射掛けられた。

童威が矢を払い、童猛が無言で盾を上げる。

李俊は舌打ちした。

「嫌な真似しやがる」

孫二娘は、疲れた兵へ水袋を押し付けて回っている。

「飲め。倒れるなら宣州に着いてから倒れな」

相変わらず口が悪い。

でも、その声で動ける兵もいた。

盧俊義も林冲も、弱音は吐かなかった。

だから、兵達も止まれない。

何日目だったのか、もう曖昧になり始めた頃――

水陽江の先に、城壁が見えた。

宣州城だった。


宣州城へ布陣するより早く、城門が開いた。

重い音が、水陽江へ響く。

次の瞬間、方臘軍の騎馬隊が一気に飛び出してきた。

「来るぞ!!」

梁山泊軍の前列が槍を構える。

土煙が上がる。

宣州軍は、こちらが疲弊しているのを見て出てきた。

休ませる気が無い。

盧俊義が馬を進める。

林冲も蛇矛を構えた。

アタシは日月双刀へ手を掛ける。

その時だった。

敵陣の前方から、一騎の武将が飛び出す。

長槍。

黒鎧。

馬上からこちらを睨み付けている。

「あれが潘濬か」

誰かが呟く。

宣州軍の兵達が、一気に勢い付く。

潘濬が槍を振り上げた。

「梁山泊を潰せェッ!!」

怒号と共に、宣州軍がぶつかってくる。

両軍が激突する。

槍が折れる。

馬がぶつかる。

怒鳴り声と悲鳴が、水陽江沿いへ響き渡った。

その乱戦の中――

乾いた音が響く。

石礫。

張清だった。

放たれた石が、一直線に潘濬へ飛ぶ。

避け切れずに、顔面へ叩き込まれた。

潘濬の身体が大きく揺れる。

そのまま、馬上から崩れ落ちた。

「――今!」

玉楼が馬を蹴り、槍が一気に前へ伸びる。

落馬した潘濬が顔を上げると同時に、穂先が喉を貫いた。

血が跳ねる。

宣州軍の空気が止まる。

玉楼は槍を引き抜き、そのまま前を睨んだ。

「進んでください、扈三娘様!」

アタシは頷く。

日月双刀を振り回し、崩れ始めた宣州軍へ馬を叩き込んだ。


潘濬が討たれた瞬間、宣州軍の前列が大きく揺れた。

「潘濬様が……!」

動揺が走り、押し込んでいた軍勢が、一瞬だけ止まる。

その隙を、盧俊義は見逃さなかった。

「押し返せ!!」

怒号が響く。

二路軍が、一気に前へ出た。

林冲の蛇矛が唸る。

突き出されるたび、宣州軍の兵が馬から落ちた。

アタシも馬を進める。

日月双刀を振るい、押し返してくる敵兵を薙ぎ払う。

玉楼も、槍を振るいながら、アタシについてきていた。

宣州軍は崩れ始めている。

でも、完全には止まらない。

城門がまだ開いていた。

後方から、新しい兵が次々と出てくる。

「閉じさせるな!!」

誰かが叫ぶ。

李俊の船団も、水陽江側から矢を射掛け始めていた。

火矢が飛ぶ。

水門側で悲鳴が上がる。

その混乱の中、曹正が前へ出る。

「城門まで押せ!!」

朴刀を振るい、宣州軍を押し込んでいく。

すぐ横では、鄭天寿も槍を振るっていた。

王定六は、伝令を飛ばしながら前線を駆け回っている。

誰も止まらない。

止まれば、押し返される。

宣州城の前で、二路軍と方臘軍が激しくぶつかり合っていた。

夜は、相変わらず静かでした。

銅鑼もありません。

馬の嘶きも、怒号もありません。

あるのは、湿った風と、鍋の煮える音だけです。

その中で―― 孫二娘殿と顧大嫂殿は、いつもの様に鍋を囲んでおられました。

「で?」

孫二娘殿が、鍋を混ぜながら笑います。

「今度は、“潤州落としたのに全然終わった感じしない回”だったんだって?」

顧大嫂殿が酒を煽りました。

「しかも、“燃えてる城の横でもう次の進軍決めてた”んだろ?」

「嫌だねぇ」

幕舎の外から、すぐ声が返って来ます。

「嫌だったわよ!!」

孫二娘殿が吹き出しました。

「“勝ったー!!”じゃなく、“はい次!!”だったんだろ?」

「そうなのよ!!」

また外から返って来ます。

「皆座り込んでるのに、“一路軍”“二路軍”始まるのよ!?」 「梁山泊、休む気あるの!?!」

顧大嫂殿が、肩を揺らしました。

「無いねぇ」

「止まったら、そのまま潰れるからさ」

鍋の煮える音だけが、小さく続きます。

私は、その湯気を見ながら、小さく目を伏せました。

潤州の戦は、確かに大きな勝利でした。

ですが――

梁山泊軍には、“終わった後の余裕”がありません。

方臘軍は、まだ奥へ続いている。

だからこそ、 止まれないのでしょう。

私は静かに口を開きます。

「……扈三娘様も、“勝利の後でも休めない戦”を実感されたのだと思います」

孫二娘殿が、少しだけ笑いを止めました。

「“勝ったら終わり”じゃないって事かい?」

私は、小さく頷きます。

「はい」

「潤州を落としても、宣州があります」

「宣州を越えても、まだ先がある」

「だから、兵達も完全には気を抜けません」

湿った風が、静かに吹き抜ける。

その時――

顧大嫂殿が、急にニヤつきました。

「で?」

「玉楼、また戦場で躊躇無く喉突いたんだろ?」

外が、一瞬だけ静かになります。

それから――

「……止まれば立て直されますので」

ぼそっと返事を返しました。

孫二娘殿が、腹を抱えて笑います。

「ほら来た!!」

「“現場判断です”で全部押し切る女!!」

「だって!!」

また外から声が返って来ます。

「最近この人、“追撃判断”だけ異常に早いのよ!?」

「落馬した瞬間、もう槍出てるの!!」

顧大嫂殿が、酒を吹きかけました。

「うわ、“敵の立て直しを待たない侍女”嫌だねぇ!!」

「必要でしたので」

「また言った!!」

笑い声が広がります。

ですが――

その笑いも、少しずつ静かになっていきました。

鍋の湯気が、夜へ溶ける。

私は、小さく息を吐きます。

「……ですが」

「二路軍全体が、かなり疲弊していた事も事実です」

孫二娘殿も、顧大嫂殿も、何も言いません。

私は、静かに続けます。

「水陽江沿いは、進むだけでも消耗します」

「伏兵も多く、休める場所も少ない」

「だからこそ、宣州軍は“疲れた所を叩きに来た”のでしょう」

湿った風が、静かに幕舎を揺らしました。

外から、小さく声が返って来ます。

「……止まらせる気、無かったものね」

少し間が空く。

「潤州終わったばっかりなのに」

鍋の音だけが、小さく続きます。

私は、その声を聞きながら、静かに目を伏せました。

方臘との戦は、 一つ城を落とせば終わる戦ではありません。

進み続け、 削られ続け、 それでも前へ出るしかない。

だからこそ――

梁山泊軍は、“勢い”だけでは動けなくなっているのでしょう。

疲れても進む。

減っても止まらない。

その形へ、少しずつ変わっていっているのです。

夜は、何も答えません。

ただ静かなまま、少しずつ――

潤州の火と、 水陽江の黒い流れと、 まだ終わらない宣州への戦だけを、

湿った風の中へ、静かに残している様でした。

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