崩したのに、落とせない
昨日、山士奇は林冲と五十合近く打ち合った。
だから今日も出てくると思ってた。
……出てこない。
「三娘、敵にも休みたい日はあるんじゃないかねェ」
「こっちは朝から待ってるのよ!」
「待ち合わせじゃないよ」
顧大嫂にまで呆れられた。
孫二娘が壺関を眺める。
「期待した反応が返ってこないと、予測誤差で余計に気になるんだよォ」
「敵相手に恋愛心理みたいな説明しないで!」
顧大嫂が笑った。
「帰るかい?」
「……何か嫌なのよね」
その時――
閉じていた城門の奥から、鉦が鳴った。
翌朝、山士奇は出てこなかった。
壺関の前まで進んでも、城門は閉じたままだった。
昨日はあれだけ堂々と名乗り、林冲と五十合近く打ち合った男である。
今日も当然出てくるものだと思っていたのに、城壁の上からこちらを眺める兵がいるだけで、門が動く気配はない。
「……出てこないんだけど?」
アタシが言うと、孫二娘が隣で笑った。
「敵にも予定ってものがあるんじゃないかねェ」
「昨日あれだけ戦ったんだから、今日も来なさいよ!」
「三娘、ずいぶん勝手な客だねぇ」
顧大嫂まで呆れている。
「こっちは客じゃない!」
「向こうからすりゃ、招いてもいないのに大人数で来た客だよ」
否定しにくい。
前では林冲と張清が何度か兵を進め、城内へ向けて声を飛ばしている。
それでも山士奇は姿を見せなかった。
玉楼が城壁を見上げる。
「待っているのでございましょうか」
「何を?」
「それが分かれば苦労はいたしません」
「そうよね……」
昨日は見えるだけで安心した。
今日は見えている城が、何もしてこない。
結局、敵って何をしていても気持ち悪い。
「昨日一日で警戒の基準がぐちゃぐちゃになったねェ」
「今のアタシを心理学の教材にしないで!」
紅玉は笑わず、城壁の上を見ていた。
昨日、自分で敵旗の変化を見つけたからか、今日は最初から一騎打ちだけを待っていない。
兵の出入りや旗の位置まで視線を動かしている。
「何かある?」
「今のところは……ただ、兵が減っているようには見えません」
「じゃあ逃げたわけでもないのね」
「はい」
それなら余計に変だ。
昼近くまで待っても、壺関は静かなままだった。
林冲がようやく馬首を返す。
今日は出てこないと判断したらしい。
こちらも隊列を整え、少しずつ関から離れ始める。
アタシは何度も後ろを振り返った。
「三娘、未練がましいねェ」
「違う。何か嫌なの」
「昨日は見えるから安心って言ってなかったかい?」
「言ったけど、今日は見えてるのに何もしないじゃない!」
「注文が増えたねぇ」
顧大嫂が笑った、その時だった。
城門の奥から、鉦が鳴った。
紅玉が振り返る。
「三娘様!」
「見えてる!」
閉じていた城門が開き、兵が溢れ出した。
昨日のように整然と待ち構える出方ではない。
騎兵が先に飛び出し、その後ろから歩兵が続く。
山士奇もいる。
鉄棍を掲げ、こちらの背を追うように馬を走らせていた。
「今なの!?」
孫二娘が肩をすくめる。
「帰ろうとした瞬間を狙ったんだろうねェ」
「昨日の正々堂々はどこへ行ったのよ!」
「昨日と今日で戦い方を変えちゃいけない法律でもあるのかい?」
ない……
ないけど腹が立つ!
林冲の号令が飛び、こちらの隊列が反転する。
さっきまで帰るために並んでいた兵が、今度は迎え撃つために広がった。
山士奇軍の勢いは強い。
撤退しかけたこちらへ、そのまま食い込もうとしている。
「玉楼!」
「はい!」
アタシが馬首を返すと、玉楼は同じ方向へは来なかった。
左へ流れる。
なら、アタシは右だ。
昨日と同じ形にする必要はない。
空いた場所へ入る。
塞がれそうなら、もう一人が別の場所を広げる。
敵騎兵の槍が伸びてきた。
日月双刀の右で穂先を逸らし、左で相手の腕を打つ。
馬がよろめいた隙に前へ抜けると、別の一騎が横から寄ってきた。
その男の槍が届く前に、玉楼の槍が割って入った。
「こちらはお任せくださいませ!」
「じゃあ、そっちお願い!」
アタシは振り返らず前へ進む。
背後を任せるというより、必要な場所をそれぞれ見ているだけだ。
玉楼がこちらへ来ることもあれば、アタシが玉楼の方へ戻ることもある。
今日も前後は決めない。
敵の勢いが一度鈍った。
その向こうで林冲と山士奇の兵がぶつかっている。
昨日の一騎打ちとは違う。
山士奇の周囲には配下の将がいて、林冲たちを押し返そうとしていた。
一人が鉄槍を振り上げる。
「伍粛!」
敵兵の声が上がった。
その直後、林冲の蛇矛が走った。
伍粛の鉄槍が外へ流れ、空いた胴へ矛先が入る。
男の身体が馬上で傾き、そのまま地へ落ちた。
ほとんど一瞬だった。
「昨日の五十合は何だったのよ……」
思わず呟く。
山士奇が、それだけ強かったということだ。
それを考えると、余計に嫌になる。
別の場所では索超が敵将とぶつかっていた。
名は呉成だったと思う。
こちらも長くは続かなかった。
索超の大斧が振り抜かれ、呉成が馬から落ちる。
二人の将を失ったことで、山士奇軍の動きが一気に崩れた。
「下がるぞ!」
声が上がる。
敵兵が壺関へ戻り始めた。
山士奇も馬首を返す。
その背を見て、張清が手を動かした。
小さなものが指の間に見えた。
石――
それを認識した瞬間、アタシの肩が勝手に強張った。
張清の腕がしなる。
石礫が一直線に飛び、逃げる山士奇の兜を叩いた。
乾いた音がここまで聞こえた気がした。
山士奇の上体が大きく揺れる。
「うわっ……」
思わず顔をしかめた。
玉楼がこちらを見る。
「三娘様?」
「いや、味方なのは分かってるんだけど……石って、やっぱり嫌」
孫二娘がいつの間にか近くまで来ていた。
「刺激と痛みが結び付いちゃったかねェ。古典的条件づけ――」
「犬みたいに言わないで!」
「犬とは言ってないよォ」
「言い方が完全にそれだった!」
顧大嫂が笑いながら負傷兵を後ろへ送っている。
孫二娘も冗談を言ってはいるけれど、手は止めない。
馬から落ちた兵の肩を貸し、傷の浅い者には自分で歩くよう促している。
前には出ず、後ろが崩れないように支えている。
敵は完全に壺関へ向かって退き始めた。
こちらの兵が追う。
アタシも馬を進めかけた。
昨日は止まった。
じゃあ、今日はどうする?
山士奇軍は本当に崩れている。
配下の将も討たれ、山士奇自身も石礫を受けた。
追えば押し込めるかもしれない。
けれど、関が近い。
「玉楼、行きすぎないで!」
「承知しております!」
玉楼は敵を追いながらも、城壁へ近づきすぎない位置で馬を抑えた。
アタシもそこへ並ぶ。
林冲たちはさらに前へ出ている。
「林冲!」
声を上げた時、城壁の上が一斉に動いた。
弓兵。
「伏せて!」
矢が降った。
馬上で身を沈める。
一本が肩の上を抜け、別の矢が馬の前へ刺さった。
関から石まで落ちてくる。
「また石!?」
誰に文句を言えばいいのよ!
こちらの兵が慌てて距離を取る。
その中で、林冲の身体が揺れた。
「林冲!」
左腕に矢が立っている。
それでも蛇矛を落としてはいない。
馬首を返し、追撃していた兵へ退くよう指示を出している。
アタシは急いで馬を寄せた。
「大丈夫!?」
「騒ぐな」
「矢が刺さってるんだけど!」
「腕だ」
「腕ならいいみたいに言わないで!」
林冲は本当に平然としている。
その態度が余計に腹立たしい。
孫二娘が駆け寄ってくると、傷を見てすぐ顔つきを変えた。
「戻るよォ。ここで抜くんじゃない」
林冲も逆らわなかった。
それだけで、この場で放っておいていい傷じゃないと分かる。
アタシは壺関を振り返った。
山士奇は逃げ込んだ。
配下の将も討った。
そこまで押したのに、関はまだ落ちていない。
昨日は正面から止められ、今日は出てこないと思わせてから襲われた。
追い返したと思えば、最後は城壁から矢を浴びせられる。
「……本当にしつこい」
玉楼が隣で頷く。
「守る側も、必死なのでございましょう」
分かってる。
分かってるけど、腹は立つ。
陣へ戻ると、林冲の矢は無事に抜かれた。
幸い骨までは達していないらしい。
孫二娘が包帯を巻きながら、林冲に念を押している。
「今日は左腕を使いすぎないこと。いいねェ?」
「ああ」
「三娘より聞き分けがいい」
「何でそこでアタシと比べるの!?」
「比較対象として分かりやすいからねェ」
「不名誉!」
顧大嫂が横で笑った。
林冲の傷が浅いと分かって、ようやく息が抜けた。
その瞬間、なぜか李俊の顔まで浮かんだ。
あいつも、どこかでこんな無茶をしてないでしょうね?
……会ったら確認しよう。
また一つ、会った時に言うことが増えた。
戦は終わっていない。
壺関も落ちていない。
それでも今日はこちらが押した。
少なくとも、そう思っていいはずだった。
夜になると、陣は静かになった。
アタシは玉楼と一緒に見回りへ出た。
紅玉も少し後ろからついてくる。
昼間の戦いで敵の旗を見続けていたせいか、まだ時々壺関の方へ目を向けている。
「今日はよく見てたわね」
「ですが、敵が出てくるまでは何も分かりませんでした」
「アタシもよ」
「三娘様でも?」
「だからアタシを何だと思ってるの?」
紅玉が少し笑う。
その時だった。
夜気を裂く音がした。
身体が先に動いた。
「伏せて!」
矢が一本、陣の手前へ突き刺さった。
玉楼が槍を構える。
紅玉も息を呑んだ。
でも、二本目は来ない。
「……何?」
アタシは馬を寄せる。
矢の先を見た玉楼が、眉を寄せた。
「三娘様。これは……」
矢尻に、何かが巻き付けられている。
石じゃない。
毒でもなさそうだ。
細く畳まれた絹だった。
玉楼が慎重に矢を抜き、それをほどいていく。
「手紙?」
「そのようでございます」
誰が。
何のために。
壺関から?
紅玉が周囲を見回す。
「敵からでしょうか」
「普通、敵が手紙送ってくる?」
言った直後、自分でも変な質問だと思った。
戦っている相手だからこそ、送ってくることだってあるのかもしれない。
玉楼が最後の折り目を開いた。
中には、小さな文字がびっしり書かれていた。
玉楼でございます。
本日は、林冲様が左腕に矢を受けられました。
「本人が平然としすぎなんだよ」
顧大嫂様も呆れております。
「三娘様は大騒ぎでございましたが」
「身内が怪我すると、あの子は分かりやすいねェ」
「二娘様、笑っておられませんでしたか?」
「気のせいだよォ」
その後、三娘様は張清様の石礫を見ただけで肩を強張らせておられました。
「条件づけって怖いねェ」
「嬉しそうに言うんじゃないよ」
ですが、今夜飛んできたのは石ではなく矢でした。
しかも、矢尻には密書がございます。
……さて。
敵から届いた手紙を、素直に信じてもよろしいのでしょうか?




