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見えているのに、崩せない

壺関が見えてきた。

城壁があるし、旗もあるし、兵まで堂々と並んでいる。

「よかった。今日は敵が見える!」

「三娘、安心する基準がおかしくなってるよォ」

孫二娘が笑い、顧大嫂まで頷いた。

「昨日は石だけ飛んできたからねぇ。姿があるだけ親切に見えるのも分からなくはないよ」

「でしょ?」

「敵に対する基準が一日で狂わされたんだねェ」

「心理学で分析しないで!」

孫二娘が前方を指した。

「でもさァ、見える相手なら勝てるとは限らないよ?」

「それは分かってるわよ」

その時、敵陣が割れた。

鉄棍を持った大男が、一騎で前へ出てくる。

……ねえ。

あれ、ものすごく強そうじゃない?

壺関が見えた時、アタシは少しだけ安心した。

城壁の前には兵が並び、旗も堂々と立っている。

昨日みたいに、どこから石が飛んでくるのか分からない相手よりは、ずっとまし――そう思った。

「三娘、何で敵を見て安心してるんだい?」

孫二娘が呆れたように言った。

「見えるからよ!」

「理由になってないねェ」

「昨日が気持ち悪すぎたの!」

顧大嫂が前方を眺めながら笑う。

「敵が堂々と並んでるだけで喜ばれるとは、田虎軍も思ってなかっただろうねぇ」

「喜んでない! 比較の問題!」

玉楼だけは笑わず、壺関の前に敷かれた陣を見ていた。

「昨日とは違いますね」

「うん」

アタシも表情を戻した。

兵の数も旗の位置も馬の動きも、見えているからこそ分かる。

ただし――見えることと、勝てることは別だ。

遼で嫌というほど覚えた。

林冲が手を上げると、こちらの隊列が止まった。

紅玉も今日は馬上で周囲を見ている。

昨日は偵察へ連れていかなかったけれど、それで拗ねる様子はなかった。

むしろ自分がどこを見ればいいのか考えているらしく、アタシたちより先に敵の旗へ視線を走らせている。

壺関側の陣が左右へ開いた。

中央から、一騎の男が進み出る。

ずいぶん大きい。

馬上でも肩幅の広さが分かり、手には鉄棍を持っている。

長さも太さも、どう考えても軽くはない。

「あれ、重そうね」

「はい」

玉楼が即答した。

アタシは横を見る。

「玉楼が言うと説得力あるわね」

「左様でございますか?」

「あるわよ。アンタ、普通の人が両手で持つ物を片手で持つでしょ」

孫二娘が肩を揺らす。

「三娘もだいぶ人のこと言えないけどねェ」

「アタシは普通!」

「その二本の刀を馬上で振り回しながら言う台詞じゃないよォ?」

聞かなかったことにした。

男は鉄棍を肩から下ろすと、こちらへ声を張った。

「我は壺関を守る山士奇! 梁山の賊ども、ここから先へは通さん!」

「賊って言われた」

「元々そうだろ?」

顧大嫂が真顔で返す。

「今は朝廷側でしょ!」

「昨日まで遼と戦って、今日は田虎と戦ってる奴らを、向こうが律儀に官軍扱いしてくれると思うかい?」

「……それもそうね」

納得したくないけど……

その時、林冲が蛇矛を手に前へ出た。

空気が変わった。

山士奇もすぐに林冲を見る。

どうやら、最初からこちらの中で誰が強いのか見ていたらしい。

林冲が馬を進める。

アタシは反射的に前へ出そうとして、やめた。

これは林冲の戦いだ。

それに、敵陣全体を見る者も必要になる。

玉楼が何も言わず隣へ並んだ。

「見るわよ」

「はい」

林冲と山士奇が動いた。

最初の一撃で、腹の奥まで響くような音がした。

蛇矛と鉄棍がぶつかり、林冲の馬がわずかに外へ流れる。

「え?」

声が出た。

林冲が押された?

いや、違う。

馬を滑らせて力を逃がしている。

次の瞬間には矛先が返り、山士奇の胸元へ走った。

山士奇は鉄棍を立てて弾く。

重い武器なのに遅くない。

二騎がすれ違い、すぐに馬首を返す。

今度は山士奇が先に踏み込んだ。

鉄棍が横から振られる。

林冲は受けず、蛇矛の石突きを使って軌道をずらす。

そのまま穂先が山士奇の脇へ伸びたけれど、山士奇も馬体を沈めるように避けた。

「……強い」

思わず漏らすと、玉楼が頷いた。

「林冲様と正面から打ち合っております」

「見れば分かる!」

でも、本当にそれくらいしか言えない。

三合、五合と続いても、どちらも崩れない。

山士奇は力任せじゃない。

鉄棍の重さを使いながら、林冲の蛇矛が伸びる場所を潰している。

林冲も真正面から受けず、馬を動かして角度を変える。

気付けば、周囲の兵まで声を出さなくなっていた。

周囲の兵も、アタシも、いつの間にか二人の戦いへ目を奪われていた。

だから――紅玉の声が飛ぶまで、気付かなかった。

「三娘様! 右の旗が!」

はっとする。

敵陣の右側。

さっきまで立っていた旗が一つ沈み、その奥にいた騎兵が動き始めている。

一騎打ちに目を奪われている間に、こちらの横へ回るつもりだ。

「玉楼!」

「はい!」

同時に馬を出した。

アタシが敵の騎兵へ正面から寄る。

相手もこちらを見て槍を揃えた。

玉楼はアタシの後ろへつかない。

途中で斜めに切れ、少し離れた位置から敵の側面へ回った。

これでいい。

最初から役目なんて決めなくていい。

アタシが前へ出たなら玉楼が別の穴を見て、玉楼が止めたならアタシがそこへ入る。

敵の槍が来た。

右の刀で穂先を外へ流し、左で柄を叩く。

馬を寄せたところで相手が下がろうとする。

その先に玉楼がいた。

「遅いです」

玉楼の槍が走り、敵の肩口を打つ。

一騎が崩れた。

その隙間へアタシが入る。

「そこ、空いた!」

こちらの兵が続く。

敵が寄ると、今度は玉楼が前へ出た。

ならアタシはその背後へ――じゃない。

反対側だ。

玉楼へ集まろうとする騎兵へ馬首を向け、横から割り込む。

日月双刀を左右へ開き、一本の槍を上へ、もう一本を下へ弾いた。

「三娘様、左!」

紅玉の声がする方へ視線を移した。

別の旗が動いている。

「見えてる!」

「では、わたくしが!」

玉楼がもう動いていた。

「お願い!」

それだけでいい。

孫二娘の声が後ろから飛ぶ。

「前へ出るのはいいけど、帰る道も残しときなよォ!」

「分かってる!」

「本当に?」

「疑わないで!」

「実績がねェ」

「今それ言う!?」

顧大嫂の笑い声まで聞こえた。

戦場なんだけど!

それでも、不思議と頭は冷えていた。

敵も味方も見えているし、紅玉の声も届く。

玉楼がどこへ動くのかも、だいたい分かる。

昨日の石礫みたいに、何も分からないまま間合いだけ奪われる戦いとは違う。

だからこそ――敵が強いことまで、よく見えた。

右へ回ってきた騎兵は簡単には崩れない。

こちらが押すと一度下がり、隊列を作り直してまた出てくる。

「しつこい!」

「守る場所がございますので!」

玉楼が槍を返しながら答える。

「分かってる!」

壺関を背負っている以上、逃げるつもりなどなく、ここでアタシたちを止める気なんだ。

中央では、まだ林冲と山士奇が打ち合っていた。

「まだやってるの!?」

一瞬だけ目を向ける。

山士奇の鉄棍が林冲の蛇矛を叩き下ろす。

林冲はその力を利用するように蛇矛を回し、山士奇の兜へ矛先を跳ね上げた。

山士奇はそれを避け、その勢いのまま鉄棍を返して林冲の胴を狙う。

林冲が馬を旋回させ、ぎりぎりでかわした。

何合やってるの?

もう数える気にもならない。

「三娘様!」

「分かってる!」

今度はすぐに前へ視線を戻した。

危なかった。

林冲の戦いを見ていたい。

でも、今のアタシが見るべき場所はそこだけじゃない。

敵騎兵が一歩下がった。

こちらの兵が追いかけようとする。

行ける。

そう思った瞬間、昨日の石が頭をよぎった。

開いた。

逃げた。

追える。

だから――追う?

「行きすぎない!」

自分の声が飛んだ。

先頭の兵が止まる。

「列を崩さないで! 関の前よ!」

玉楼がこちらを見る。

「はい!」

敵騎兵はそのまま一定の距離まで下がった。

自分も追わず、兵にも追わせない。

昨日より少しだけ早く、自分で止まれた。

孫二娘が後ろで何か言った気がするけれど、聞かなかった。

たぶん後で褒めるふりして抱きついてくる。

絶対そう。

やがて壺関から鉦が鳴った。

敵兵の動きが変わる。

山士奇も鉄棍を引き、馬を止めた。

林冲も追わない。

二騎の間に距離が開く。

山士奇が息を整えながら笑った。

「豹子頭、聞きしに勝るな」

林冲は蛇矛を構えたまま答える。

「貴様もな」

それだけだった。

「え、終わり?」

思わず呟いた。

玉楼がこちらを見る。

「何がでございますか?」

「いや、あれだけ戦ってたんだから、もっとこう……因縁っぽい台詞とかないの?」

「必要でしょうか?」

「物語的には!」

孫二娘が吹き出した。

「三娘、戦場に演出を求めるんじゃないよォ」

「だって五十合くらいやってたでしょ!?」

「数えてたのかい?」

「途中から分かんなくなった!」

顧大嫂が腹を抱えている。

敵は鉦に従って関へ戻っていく。

こちらも追わなかった。

林冲が戻ってくる。

汗はかいているけれど、息は崩れていない。

「強かった?」

聞くと、林冲は短く答えた。

「ああ」

迷いのない返事だけで十分だった。

林冲が認めるなら、山士奇は本当に強い。

「田虎軍って、ああいうのが何人いるの?」

「知らん」

「知らないの!?」

「これから知る」

嫌な言い方!

後ろで孫二娘が肩を揺らす。

「ほらァ。昨日言っただろ。そのうち嫌でも名前を覚えるって」

「こんな覚え方したくない!」

「記憶は感情が伴うと残りやすいんだよォ」

「山士奇って名前、もう絶対忘れないわよ!」

「効果抜群だねェ」

「嬉しくない!」

陣へ戻る途中、紅玉が少し控えめに馬を寄せてきた。

「先ほどの旗、見えていましたか?」

「途中からね。最初は林冲を見てた」

正直に言う。

紅玉が驚いたように瞬いた。

「三娘様でも、見落とすことがあるのですね」

「あるわよ! アタシを何だと思ってるの?」

「何でも見える方かと……」

「そんな能力ない!」

玉楼が口元を緩めた。

「ですが、紅玉様が見ておられました」

「そうね」

そこが大事だ。

全部を一人で見る必要はない。

見えなかったなら、見えた人に教えてもらえばいい。

遼で李俊にも似たようなことを言われた。

――全部を一人で見ようとする奴から沈む。

思い出した途端、あいつの顔まで出てきた。

今頃、何をしているんだろう。

ちゃんと無事なのか、今度会ったら聞いてみよう――

そこまで考えて、ようやく気付いた。

「……まただ」

口から漏れた。

孫二娘がすぐ寄ってくる。

「何が?」

「何でもない!」

「李俊?」

「何でそこだけ毎回当てるのよ!」

「顔だねェ」

「心理学関係ないじゃない!」

「観察も心理学には大事だよォ」

「便利に使いすぎ!」

孫二娘が笑いながら肩を寄せてきた。

逃げようとすると、反対側には玉楼がいる。

「ちょっと、挟まないで!」

「アタイは挟んでないよォ。三娘が真ん中にいるだけさ」

「同じでしょ!」

紅玉まで笑っている。

その笑い声を聞きながら、アタシはもう一度壺関を振り返った。

昨日は、姿すら見えない相手に止められた。

今日は全部見えていた。

山士奇も、鉄棍も、敵兵の動きも見えていた。

それでも、壺関は落ちなかった。

見えれば何とかなるなんて、そんなに甘くないらしい。

田虎って誰?

昨日まで本気でそう思っていた。

でも、その下にいる将を一人見ただけで、少し考えが変わった。

アタシは遠くの壺関を見た。

「……田虎軍、弱くないじゃない」

玉楼でございます。

本日は、三娘様と前後を決めずに動きました。

「ずいぶん息が合ってたねぇ」

顧大嫂様が笑っております。

「三娘様が前へ出れば、わたくしが空いた方へ。わたくしが出れば、三娘様が逆を見てくださいましたので」

「無意識に相互補完してるねェ。かなり完成度が高いよォ」

「じゃあアタイも間に入れば、もっと完成するかねェ」

「邪魔でございます」

「言い切った!?」

紅玉様も、三娘様より先に敵の旗を見つけました。

ただ、林冲様と五十合近く打ち合った山士奇でさえ、田虎軍では一人の将にすぎません。

顧大嫂様が腕を組みます。

「……まだいるのかい?」

はい。

どうやら、山士奇殿だけを警戒していれば済む話ではないようでございます。

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