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偽船の潜入

「……今度は水軍連中で、コソコソやってるんだって?」

孫二娘が、鍋を混ぜながら呟く。

顧大嫂が酒を煽った。

「梁山泊って、もっと“うおおお!”って突っ込む連中だと思ってたんだけどねぇ」

外では、湿った夜風が水辺を抜けていた。

江南の夜は、静かでも気が休まらない。

波の音がするだけで、何か潜んでいそうだった。

孫二娘が、鍋の湯気を見つめる。

「で?」

「李俊達、本当に潜り込んだのかい」

「入ったわよ」

アタシは腕を組みながら答える。

「糧秣船に化けて、そのまま潤州の中」

顧大嫂が、少しだけ感心した顔をした。

「思い切るねぇ」

「水軍は、ああいうの得意なんだろうさ」

「正面から殴り合うより、“気付いた時には終わってる”方が性に合ってるのよ」

思わずそう返すと、孫二娘がニヤついた。

「アンタと真逆じゃないか」

「うるさい」

即答すると、二人が小さく笑う。

でも、その笑いも長くは続かなかった。

湿った風が吹き、帷幕を揺らしたからだ。

アタシは、水路の暗さを思い出す。

灯り……

沈黙……

開くまで終わらない水門……

あの時間は、本当に嫌だった。

孫二娘が、鍋を混ぜながらぼやく。

「でもさぁ」

「見破られたら終わりなんだろ?」

「終わりね」

「しかも城の中だ」

顧大嫂が、焚き火を見たまま鼻を鳴らした。

「逃げ場無しかい」

「嫌だねぇ」

「だから、水軍の仕事なんじゃない?」

アタシは小さく息を吐く。

「アタシなら、あんな静かな所で待ってる方が無理」

「ほら来た」

孫二娘が吹き出した。

「絶対、“もう斬った方が早い!”とか言い出すタイプだよ!」

「実際そう思ったわよ!」

「駄目じゃん!」

顧大嫂まで笑い始める。

「だからアンタ、待ち伏せされるんだよ!」

「うるさいっての!!」

思わず睨む。

でも、二人は全然止まらない。

しばらく笑った後、孫二娘が、ふっと真顔になった。

「……でも、李俊の顔、変わったんだろ?」

アタシは少し黙る。

思い出す。

篝火の光。

敵兵の視線。

その中で、何も揺れなかった李俊の目。

アタシは、小さく頷いた。

「ええ」

「完全に、“狩る側”の顔してた」

その瞬間、空気が少し静かになる。

遠くで、水音がした。

夜の江南は、暗い。

顧大嫂が、ぽつりと呟く。

「……真正面だけが戦じゃないんだねぇ」

「むしろ、“見えてない所”の方が怖いのかもよ」

誰も、すぐには返さなかった。

湿った風だけが、宿営地の火を小さく揺らしていた。

夜になっても、軍営の空気は重かった。

潤州攻略は失敗。

しかも、焦挺、陶宗旺、宋万が死んだ……

そのままじゃ勝てない。

でも、このまま正面からぶつかり合えば、こちらが先に終わる。

それを、皆が感じ始めていた。

軍議の幕舎には、いつもより人が集まっていた。

灯りが揺れる。

でも、誰も大きな声を出さない。

中央には呉用がいる。

宋江も座っているが、疲れが隠せていない。

林冲は腕を組んだまま黙っていた。

アタシと玉楼も、後方へ座る。

しばらく沈黙が続いた後、呉用が口を開いた。

「……正面への攻城戦は、想定以上に損耗が大きい」

誰も否定しない。

そんなことは分かっている。

潤州は固い。

兵も折れない。

しかも、地形まで向こうに味方している。

呉用は地図を広げる。

川。 水路。 補給線。

指が、潤州南側をなぞった。

「長期籠城へ入られれば、更に厄介になります」

林冲が低い声で言う。

「兵糧か」

呉用が頷く。

「はい」

その時だった。

李俊が、ようやく口を開く。

「……なら、俺らの出番だな」

幕舎の空気が少し動く。

李俊は地図を見る。

「潤州は、水路があるから保ってる」

「逆に言やぁ、水路を使えば、城も揺れる」

呉用の目が細くなる。

李俊は続けた。

「奴ら、水路から糧秣を入れてやがる」

「いつも完全に閉じてる訳じゃねぇ」

林冲が顔を上げる。

「見たのか」

「水軍舐めんな」

李俊の声は低い。

でも、先日までの怒気とは違った。

戦を見ている声だった。

「糧秣船のフリすりゃ、中へ入れる」

幕舎内が静まる。

玉楼の目が、わずかに細くなる。

アタシも李俊を見る。

危険だ。

でも――

正面から潰し合うより、まだ現実的だった。


潤州への攻城は、その後も続けられた。

でも、最初の日ほど激しくはない。

梁山泊軍は、正面へ圧力を掛け続ける。

攻城梯子も出し、弓も撃つ。

それでも、無理には踏み込まない。

潤州側から見れば、 梁山泊軍が攻めあぐねているように見えるだろう。

実際、間違ってはいない。

焦挺、陶宗旺、宋万を失ったのだ。

無理に押せば、また頭領が減る。

だから、正面では“攻める振り”を続けた。

その裏で、李俊の水軍が動いていた。

夜になるたび、小舟が水路へ出る。

火は使わない。

声も抑える。

川の流れへ紛れるように、静かに動く。

李俊自身も、水路へ出ていた。

潤州へ入る船を見る為だ。

糧秣船は、毎日来る訳じゃない。

だが、止まってもいない。

二日置き、夜半前後、支流側から入る。

荷印も決まっていた。

帆の汚れ方まで、李俊は見ていた。

玉楼が小さく呟く。

「……そこまで見ますか」

李俊は笑わない。

「偽物が雑なら、すぐバレちまうさ」

短い言葉だった。

でも、無頼の世界で生きてきた人間の声だった。

アタシは、水路の先を見る。

暗い。

静かだ。

でも、その静けさの奥に、潤州がある。

李俊が低く言った。

「次の糧秣船で入る」

風が、水面を揺らした。

いよいよ始まる。

そう思った瞬間、背中が静かに張り詰めた。


次の糧秣船が動いたのは、夜半過ぎだった。

空には雲が掛かっている。

月も無く、水路は暗かった。

梁山泊側の小舟は、支流の奥で静かに待っている。

誰も大きな声を出さない。

櫂の音すら抑えていた。

アタシと玉楼は、岸の陰から水路を見ている。

乗る事は出来ない。

女が糧秣船に混じっていれば、それだけで怪しまれる。 まして、アタシは戦場に出ている。

顔を知られていない保証もない。

ここは、李俊の領分だった。

やがて、遠くに灯りが見える。

糧秣船だった。

二隻。

荷を積み、潤州へ向かっている。

李俊が、小さく手を上げる。

水軍が動いた。

音がしない。

闇の中を滑るみたいに、小舟が近付いていく。

アタシは息を止める。

早い。

気付いた時には、もう終わっていた。

短い水音。

押し殺した声。

それだけだった。

糧秣船の灯りが、一つ消える。

続けて、もう一つ。

李俊達が船へ乗り移っている。

玉楼が小さく呟く。

「……見事ですね」

本当に、その通りだった。

正面から斬り合う戦じゃない。

でも、水の上では、李俊達の方がずっと上手だった。

しばらくして、糧秣船の灯りが戻り、帆も直される。

船は、何事も無かったみたいに潤州へ向かい始めた。

アタシは、ただ見ているしかない。

暗い水路の上を、二隻の船が静かに進んでいく。

その先には、潤州の水門がある。

見破られれば、終わりだ。


糧秣船は、ゆっくり潤州へ近付いていく。

水路の先に、篝火が見える。

潤州の水門だ。

遠い。

何が起きているのか、細かい所までは分からない。

ただ、船が水門の前で止まったのだけは見えた。

アタシは息を止める。

玉楼も黙っている。

水門の方から、怒鳴り声が響いた。

でも、何を言っているのかまでは聞き取れない。

篝火の光が揺れ、船の灯りも揺れる。

時間が長く感じる。

――開くの?

手が、無意識に日月双刀へ触れていた。

ここからでは何も出来ない。

見破られたとしても、すぐには助けに行けない。

ただ、待つしかない。

水面が暗く揺れている。

遠くで、また声がした。

それから、しばらく何も聞こえなくなる。

嫌な沈黙だった。

玉楼が、低く呟く。

「……長いですね」

「ええ」

声がかすれた。

次の瞬間、重い音が響いた。

鎖の音。

水門が、ゆっくり開き始めていた。

アタシは、ようやく息を吐いた。

二隻の糧秣船が、何事も無かったみたいに潤州の中へ入っていく。

灯りが、城の内側へ消えていった。


糧秣船が潤州へ入ってからも、アタシ達はその場を動かなかった。

戻って来なければ、失敗だ。

それが分かっているからだ。

水路は暗いまま。

潤州の灯りだけが、遠くに揺れている。

玉楼も黙っていた。

風が湿っている。

嫌な空気だった。

その頃、潤州の中では、糧秣船が水門脇へ着けられていた。

敵兵達が、荷の確認を始めている。

李俊達は、荷運び人夫の顔をしたまま動いていた。

誰も慌てない。

視線も上げ過ぎない。

普通を崩した瞬間、終わる。

潤州の中は、外より熱気が強かった。

篝火、兵の声、武器の音。

城そのものが張り詰めている。

李俊は、荷を運ぶ振りをしながら周囲を見ていた。

兵糧蔵の位置。

見張りの数。

水門までの距離。

そして―― 火を掛ければ、どこまで燃えるか。

一緒に潜り込んだ水軍達も、静かに散っていく。

誰も合図を出さない。

目だけで動いている。

その時だった。

近くを通った敵兵が、李俊へ声を掛ける。

「おい、お前」

空気が止まる。

李俊が、ゆっくり振り向いた。

敵兵が、李俊の顔を見る。

篝火の火が揺れる。

嫌な沈黙だった。


敵兵は、李俊の顔をじっと見ていた。

篝火の火が揺れる。

周囲では、荷運びの音が続いている。

でも、李俊の周りだけ空気が止まっていた。

「……お前、前にも来てたか?」

低い声だった。

李俊は、一瞬も間を置かない。

「あぁ?」

わざと面倒臭そうに返す。

肩へ担いでいた荷を、少し持ち直す。

「こっちは何往復もしてんだ」 「いちいち覚えてられっかよ」

敵兵が眉をひそめる。

だが、李俊は視線を外した。

もう興味が無いみたいに。

それが逆に自然だった。

周囲では、他の水軍頭領達も普通に動いている。

荷を運ぶ。

文句を言う。

汗を拭う。

誰も、張っていない。

敵兵は、しばらく李俊を見る。

嫌な時間だった。

やがて、小さく舌打ちする。

「さっさと運べ」

李俊は鼻を鳴らした。

「言われなくてもやってる」

そのまま、荷を担いで歩き出す。

背中は普段と変わらない。

だが、篝火から離れた瞬間、李俊の目だけが変わった。

静かだった。

完全に、獲物を狙う側の目になった。

江南の夜は、北より静かでした。

ですが、その静けさが、寧ろ落ち着きません。

水辺の音が近いのです。

波の揺れる音。

舟が軋む音。

湿った風が、幕舎の帷幕を揺らす音。

何かが近付いて来ても、気付きにくい――

そんな夜でした。

その中で――

孫二娘殿と顧大嫂殿だけは、相変わらず鍋を囲んでおられます。

「で?」

孫二娘殿が、鍋を混ぜながら笑いました。

「李俊達、本当に城の中まで入ったんだって?」

顧大嫂殿も、酒を煽りながら頷きます。

「しかも、普通に荷運びしてたんだろ?」

「似合わないねぇ」

私は、小さく息を吐きました。

「ですが、水軍の方々は、ああいう事に慣れておられます」

鍋の煮える音だけが、小さく続きます。

「水の上では、“気付かれない”事の方が重要なのでしょう」

孫二娘殿が、少しだけ肩を竦めました。

「アタシなら無理、とか扈三娘が言ってたけどねェ」

顧大嫂殿が吹き出します。

「そりゃそうさ」

「あの子、“待つ”より先に斬るタイプだろ?」

私は、少しだけ視線を逸らしました。

……否定は難しかったからです。

その時――

幕舎の外から、急に扈三娘様の声が飛び込みます。

「玉楼ー!!」

「静か過ぎると逆に怖いんだけどー!!」

孫二娘殿が、腹を抱えました。

「ほら!」

「結局、騒いでないと落ち着かないんだよ!」

顧大嫂殿も肩を揺らします。

「どっかの魚みたいに、止まると死ぬんじゃないのかい?」

「聞こえてるわよ!!」

外から、すぐ怒鳴り返って来ました。

その瞬間だけ、少し空気が軽くなります。

ですが――

その静けさも、長くは続きません。

遠くで、水鳥の羽音がしたからです。

孫二娘殿が、鍋を混ぜる手を止めます。

「……江南って、“静か”なのが怖いねぇ」

顧大嫂殿も、焚き火を見たまま頷きました。

「こっちは、“見えないまま近付いて来る”」

湿った風が、幕舎を揺らします。

私は、小さく息を吐きました。

「……気付いた時には、もう入り込まれているのでしょう」

誰も、すぐには喋りませんでした。

江南の夜は、静かなまま、 ゆっくり人を呑み込んでいく様だったのです。

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