熱狂の城壁
「……南、来た瞬間から嫌な空気しかしないねぇ」
孫二娘が、鍋を混ぜながら呟く。
顧大嫂が酒を煽った。
「しかも湿っぽいんだよ」 「鎧まで腐りそうさね」
外では、湿った風が幕舎を抜けていた。
北とは違う。
空気そのものが重い。
鍋の湯気まで、肌へ張り付くみたいだった。
孫二娘が、嫌そうに眉を寄せる。
「で?」
「森で死体見つけたんだって?」
アタシは、小さく息を吐いた。
思い出す。
湿った森。
血の臭い。
木へ打ち込まれていた腕。
あの異様な光景。
「……最悪だったわよ」
顧大嫂の顔から笑いが消える。
「腕のヤツかい」
「ええ」
「趣味悪いねぇ」
「脅しじゃないわ」
アタシは、少し低い声で返した。
「“見てるぞ”ってやつよ」
鍋の煮える音だけが、小さく続く。
風が吹く。
でも、全然涼しくない。
孫二娘が、鍋を混ぜながらぼやいた。
「しかも、その後が潤州だろ?」
「籠城、士気高い、湿気地獄」
「嫌だねェ」
「本当にね……」
思わず即答してしまった。
顧大嫂が、少しだけ真顔になる。
「でも、一番嫌なのは、あの声なんだろ?」
アタシは黙った。
――聖公万歳。
あの熱狂。
死にそうなのに、まだ前へ出て来る声。
王慶軍とは違う。
“負けたくない”じゃない。
“信じてる”
あの感じ。
アタシは、水を飲みながら吐き捨てる。
「……厄介よ」
「逃げる気が薄い」
「勝つまで止まらない顔してる」
その瞬間、孫二娘と顧大嫂の笑いが消えた。
遠くで、負傷兵の呻き声が聞こえる。
焦挺……
陶宗旺……
宋万……
最初の攻城だけで、もう三人が死んでいる。
顧大嫂が、焚き火を見たまま呟いた。
「早いねぇ……」
「まだ入口だろうに」
誰も、すぐには返せなかった。
その時――
孫二娘が、急にこっちを見る。
「で?」
「扈三娘、また前出てたんだろ?」
「そりゃ出るわよ!」
「止まったら死ぬもの!」
「ほら来た」
顧大嫂が吹き出した。
「結局アンタも、“熱くなって前へ出る側”なんだよ」
「うるさい!」
思わず睨む。
でも、二人は止まらない。
孫二娘が、腹を抱えながら笑う。
「“待ってる敵が嫌”とか言いながら、自分から突っ込んでくんだから!」
「相変わらずだねぇ!」
「アンタ達ねぇ!!」
声を荒げた瞬間、二人がさらに笑い始める。
でも――
その笑いも、長くは続かなかった。
遠くで、また鬨の声が聞こえたからだ。
「聖公万歳!!」
湿った風が、その声を軍営まで運んでくる。
孫二娘が、鍋を混ぜる手を止めた。
「……まだ全然折れてないねぇ」
顧大嫂も、静かに頷く。
「方臘軍、本気で“勝つ気”だよ」
誰も、すぐには喋らなかった。
湿った南風だけが、 宿営地の火を小さく揺らしていた。
出立の朝……
軍営は、まだ薄暗かった。
夜が完全に明ける前から、人が動いている。
馬の息、荷車の軋み、鎧の擦れる音、低く交わされる声。
誰も騒がない。
王慶戦へ向かった時とは違う。
勝てるとか、功を立てるとか、そういう空気はもう無い。
ただ、行く。
行けと言われたから行く。
その重さだけが、軍営全体を覆っていた。
アタシは馬の手綱を握る。
玉楼が隣にいる。
静かだった。
でも、眠れていない顔をしている。
「扈三娘様」
呼ばれて、そちらを見る。
玉楼は少しだけ言葉を探していた。
「……どうか、ご無理だけは」
小さい声だった。
止めたい訳じゃない。
止められないのも分かっている。
それでも、言わずにはいられなかったんだと思う。
アタシは少しだけ笑う。
「玉楼こそね」
玉楼が、ほんの少し目を丸くする。
その顔が、少しだけ可笑しかった。
「置いていかれるみたいな顔しないでよ」
「玉楼も来るんだから」
玉楼が、一瞬だけ黙る。
それから、小さく笑った。
本当に、少しだけ。
「……はい」
短い返事だった。
でも、その声は少し柔らかかった。
遠くで号令が飛ぶ。
隊列が動き始める。
アタシが馬に乗り、 鐙に足を掛けた瞬間に冷たい金具の感触が伝わった。
前を見ると、南へ向かう道がある。
その先に、方臘がいる。
その先に、どれだけの死があるのかは分からない。
でも、もう進み始めていた。
林冲の隊が動く。
アタシも手綱を引く。
玉楼の馬も、隣で動き出す。
風が吹き、軍旗が揺れた。
――また、戦へ行く。
誰も声には出さない。
でも、その言葉だけが、胸の奥でずっと響いていた。
南へ向かう道は、思っていた以上に重かった。
隊列は長い。
でも、静かだ。
誰も無駄に喋らない。
馬の足音と、荷車の軋みだけが続いていく。
道は少しずつ変わり始めていた。
乾いた土が減り、空気が湿っていく。
風も違う。
どんよりしている。
肌へ張り付くみたいだった。
玉楼が周囲を見る。
「……空気が変わりました」
アタシも頷く。
王慶の土地とも違う。
もっと湿っている。
森が深い。
道も狭い。
見通しが悪い。
林冲の隊は、速度を落とし始めていた。
前方では、斥候が何度も行き来し、警戒している。
それが、後ろにいても分かった。
その時だった。
前の方で、馬が急に嘶く。
隊列が止まった。
緊張が走る。
アタシは手綱を握り直す。
玉楼も、すぐ横で周囲を見ている。
少しして、前方から斥候が戻ってきた。
顔色が悪い。
「……どうしたの?」
前へ出た林冲へ、兵が息を切らしながら報告する。
「道の先に……死体が」
空気が止まる。
兵は、唾を飲み込んだ。
「梁山泊の斥候です」
誰も、すぐには動かなかった。
風だけが、湿った森を抜けていく。
アタシの背中に、嫌な汗が流れ始める。
林冲が前へ出る。
「案内しろ」
斥候が頷く。
隊列の前方だけが動き始める。
アタシと玉楼も続いた。
森へ入ると、湿った土が馬の足に絡む。
異様な雰囲気の中、妙に静かだった。
鳥の声も少ない。
少し進んだ所で、臭いが変わる。
血だ。
それも、まだ新しい。
玉楼の目が細くなる。
アタシも無意識に日月双刀へ手を掛けていた。
やがて、斥候が足を止める。
「……ここです」
前を見る。
木の根元に、人が倒れていた。
梁山泊の兵だった。
喉が裂かれている。
鎧も割れていた。
でも、それだけじゃない。
妙だった。
死体の周囲だけ、土が大きく抉れている。
争った跡にしては、おかしい。
林冲が馬を降り、周囲を確認する。
玉楼も静かに辺りを見渡す。
アタシは死体へ近付いた。
兵の目は開いたまま、恐怖が残っている。
逃げようとして、間に合わなかった顔だった。
その時だった。
後ろにいた兵が、小さく声を漏らす。
「……何だ、これ」
皆の視線が止まる。
木だ。
太い幹に、何かが刺さっている。
アタシは近付く。
矢じゃない。
槍でもない。
――人の腕だった。
空気が凍る。
切り落とされた腕が、そのまま木へ深く打ち込まれている。
血は、まだ乾き切っていない。
誰も、すぐには喋れなかった。
湿った風だけが、森を抜けていく。
玉楼が呟く。
「……威嚇ですね」
林冲の目が、静かに細くなる。
方臘軍は、もうこちらを見ている。
そう感じた瞬間、背筋が凍りついた。
森を抜けた後も、空気は重いままだった。
湿気が残る。
兵達の顔も沈んでいる。
あの死体を見てから、誰も余計な事を喋らなくなっていた。
梁山泊軍は、そのまま南へ進む。
やがて、大きな川沿いへ出た。
遠くに城壁が見える。
潤州だ。
水路を押さえる要所。
だからこそ、方臘軍も簡単には捨てない。
城壁の上には、既に兵が並んでいた。
旗も多い。
弓兵の姿も見える。
梁山泊軍の隊列が止まる。
林冲が城壁を見る。
「……徹底しているな」
玉楼も静かに頷く。
「完全に籠城するつもりでしょう」
つまり、待っていた。
方臘軍は、最初から梁山泊軍が来る前提で動いている。
アタシは城壁を見る。
嫌な感じがした。
王慶軍とは違う。
慌てていない。
逃げる気も薄い。
ここで止めるつもりだ。
その時、城壁の上から太鼓が鳴った。
重い音。
続けて、鬨の声が響く。
「聖公万歳!!」
怒号が、川沿いへ広がった。
梁山泊軍の兵達が顔を上げる。
熱狂だった。
王慶軍とも違う。
賊軍というより、何かを本気で信じている声だった。
玉楼が、小さく呟く。
「……厄介ですね」
アタシも同じ事を思っていた。
士気だけなら、今まで戦ったどの軍より高い。
しかも、相手は籠もっている。
潤州攻略は、簡単には終わらない。
そんな予感だけが、胸の奥へ重く沈んでいった。
潤州への最初の攻城は、昼過ぎに始まった。
梁山泊軍は、正面から城へ押し寄せる。
盾兵が前へ出る。
攻城梯子が運ばれ、後方から弓が放たれる。
だが、潤州側は崩れなかった。
城壁の上では、方臘軍が絶えず動いている。
矢が降り、石が落ちる。
油が撒かれ、火が走る。
攻城梯子へ取り付いた兵が、悲鳴と共に落ちていった。
それでも、梁山泊軍は前へ出る。
止まれば、削られる。
だから進むしかない。
アタシも玉楼と共に前へ出ていた。
城壁の下は、もう滅茶苦茶だった。
煙。 血。 火。 怒号。
その中で、焦挺が城壁際へ踏み込むのが見えた。
敵兵を殴り倒し、無理矢理梯子を押さえようとしている。
「上がれぇッ!」
怒声が響く。
次の瞬間だった。
城壁の上から、岩が落ちる。
鈍い音。
焦挺の姿が、土煙の中へ消えた。
誰かが叫ぶ。
でも、もう止まれない。
その少し離れた場所では、陶宗旺が攻城兵をまとめていた。
「梯子を掛けろ!」
矢が飛ぶ。
一本。 二本。 三本。
陶宗旺の身体へ突き刺さる。
それでも前へ出ようとした。
だが、四本目が喉へ入る。
陶宗旺の身体が、大きく揺れた。
そのまま、攻城梯子の下へ崩れ落ちる。
玉楼が歯を食いしばる。
「……っ」
でも、戦場は止まらない。
さらに前方で、別の怒号が上がった。
宋万だった。
古参の頭領が、兵を押し上げている。
「押せぇ!」
城壁の上から、矢が振り注いだ瞬間――
宋万の額を貫いた。
動きが止まる。
次の矢。
さらに、もう一本。
宋万の身体が、ゆっくり膝をついた。
周囲の兵が叫ぶ。
でも、もう押され始めていた。
城壁の上から、方臘軍の鬨の声が響く。
「聖公万歳!!」
熱狂が、潤州全体を揺らしていた。
林冲が蛇矛を振る。
「退け!」
号令が飛ぶ。
梁山泊軍が、少しずつ後退を始める。
無理に続ければ、もっと死ぬ。
それが分かる退却だった。
アタシは息を切らしながら、振り返る。
潤州の城壁は、まだ立っている。
方臘軍の士気も、全く下がっていなかった。
南の空気は、北とは全く違っておりました。
湿っているのです。
鎧の内側へ熱が籠もり、風が吹いても涼しくならない。
森も深く、道も狭い。
その上――
敵は、最初からこちらを待っていました。
森で見つかった死体。
木へ打ち込まれた腕。
あれは、脅しというより、 “見ているぞ” という意思表示だったのでしょう。
兵達も、あれを見てから口数が減りました。
そして、潤州です。
方臘軍は、逃げませんでした。
城へ籠もり、 熱狂したまま、 真正面から梁山泊軍を押し返して来たのです。
「聖公万歳!!」
あの声は、今でも耳に残っています。
恐怖より、信じる気持ちの方が強い。
あれは、今まで戦って来た相手とは少し違いました。
その中で――
孫二娘殿と顧大嫂殿だけは、相変わらず鍋を囲んでおられます。
「で?」
孫二娘殿が、鍋を混ぜながら笑いました。
「扈三娘、また前出てたんだって?」
顧大嫂殿も、酒を煽りながら頷きます。
「しかも“止まったら死ぬ”とか言ってたらしいねぇ」
私は、小さく息を吐きました。
「……実際、あの方は止まられる方ではありませんから」
その瞬間、二人が吹き出します。
「玉楼、諦めてるじゃん!」
「もう“そういう生き物”扱いだねぇ!」
私は、少しだけ視線を逸らしました。
否定し切れなかったからです。
その時――
幕舎の外から、急に扈三娘様の声が飛び込みます。
「玉楼ー!!」
「南の湿気、髪まで気持ち悪いー!!」
孫二娘殿が、腹を抱えました。
「そこ!?」
顧大嫂殿も肩を揺らします。
「もっと気にする事あるだろうにねぇ!」
私は、小さく息を吐きます。
「……少し安心しました」
二人が、きょとんとこちらを見ました。
私は、鍋の湯気を見ながら続けます。
「怖がり過ぎて黙られるよりは、いつも通り騒いでおられる方が良いので」
少しだけ、空気が静かになりました。
遠くでは、まだ負傷兵の呻き声が続いています。
焦挺殿……
陶宗旺殿……
宋万殿……
最初の攻城だけで、 もう戻られませんでした。
孫二娘殿が、鍋を混ぜる手を止めます。
「……早いねぇ」
顧大嫂殿も、静かに頷きました。
「方臘討伐、まだ入口なんだろうに」
誰も、すぐには喋りませんでした。
湿った南風だけが、宿営地の火を小さく揺らしていたのです。




