見えないのに、届いてくる
田虎の勢力圏に入った。
広くて静かなのに、ものすごく感じが悪い。
「三娘、第一印象が雑だねェ」
「だって人がいないのよ!」
孫二娘が周囲を見回し、顧大嫂は鼻を鳴らした。
「隠れて見てるんじゃないかい?」
「もっと嫌なんだけど!」
孫二娘が笑う。
「見られてる気がすると、人間は実際以上に警戒しやすくなるんだよォ」
「じゃあ気のせい?」
「いや、今回は本当に見られてるかもねェ」
「心理学で安心させる気ゼロ!?」
顧大嫂が前方を指した。
「三娘、何か飛んできたぞ」
「え?」
足元で、小さな石が跳ねた。
……今の、外れたのよね?
田虎の勢力圏に入ると、空気が変わった。
幽州へ向かっていた時の張り詰めた重さとは違う。
遼では、城壁の向こうにも街道の先にも大軍がいると分かっていた。
旗があり、陣があり、嫌になるほど兵がいたから、怖くても相手の形だけは見えていた。
ところが河北へ入ってからは、それがない。
道は広く、背の低い草が風に押されて遠くまで波打っている。
見通しがいいはずなのに、村へ近づいても人影は少なく、畑のそばに誰かがいたと思えば、こちらを見るなり家の中へ消えていった。
「……嫌われてない?」
思わず聞くと、隣を進む孫二娘が肩をすくめた。
「武装した集団が何千人も押し寄せてきたら、好かれる方が難しいと思うよォ」
「それはそうだけど!」
「三娘、自分たちを旅芸人か何かだと思ってないかい?」
「二十万と戦った後に旅芸人扱いされるとは思わなかったわよ!」
少し前を進んでいた顧大嫂が振り返った。
「旅芸人なら、あんたは何をするんだい?」
「え?」
「刀二本持って踊れば客は集まりそうだねぇ」
「見世物にしないで!」
笑い声は出たけれど、周囲の静けさまでは消えなかった。
むしろ声が途切れた後の方が、人のいなさが目立つ。
遼戦が終わって、今度こそ帰れると思った翌日に進路を変えられた。
そのせいで最初から機嫌がいいとは言えなかったけれど、この辺りへ来てからは別の意味で落ち着かない。
田虎――
未だに顔も知らない。
自分で王を名乗り、州県を押さえ、朝廷から討てと言われた相手。
それ以上のことは、進軍中に聞いた話を繋ぎ合わせるしかなかった。
しかも、各地を守る将にもそれぞれ癖があるらしい。
「面倒なのがいっぱい出てくるってこと?」
「雑なまとめ方だねェ」
「だって名前だけ聞かされても覚えられないのよ!」
「そのうち嫌でも覚えるさ」
「それ、絶対いい意味じゃないでしょ!」
孫二娘が笑ったところで、前方を進んでいた林冲が手を上げた。
隊列がゆっくり止まる。
さっきまでふざけていた空気が一瞬で消えた。
林冲は街道の先を見た後、こちらへ視線を向けた。
それだけで分かる。
見てこい。
アタシは頷き、玉楼を見る。
「行くわよ」
「はい」
ほぼ同時に馬を出した。
どちらが先に出るかなんて決めていない。
玉楼が少し前へ出ればアタシが反対側を見るし、アタシが道の中央へ寄れば、玉楼は草地側へ目を配る。
遼の陣の中で何度もやった。
前と後ろを固定する必要はない。
見える方が見て、動ける方が動けばいい。
紅玉も馬を進めようとしたけれど、アタシは片手を上げた。
「今回は残って」
「……はい」
返事は早かった。
以前なら不満そうな顔をしたかもしれない。
でも今は、アタシと玉楼が偵察へ出る理由を分かっているらしい。
林冲の近くで周囲を見る。
それも仕事だ。
孫二娘がこちらへ手を振った。
「怪しい物が飛んできたら、ちゃんと避けるんだよォ」
「何その雑な助言!」
「具体的だろ?」
「怪しい物の範囲が広すぎるのよ!」
「じゃあ三娘が怪しいと思った物!」
「もっと広がった!」
玉楼が馬上で小さく笑った。
アタシたちは隊列を離れた。
少し走っただけなのに、背後の音が遠くなる。
風に草が擦れ、蹄が乾いた土を踏む。
人がいるなら、それ以外の音が混じってもいいはずなのに、鳥の鳴き声さえ妙に遠い。
「玉楼」
「はい」
「右、見て」
「踏み跡がございます」
やっぱり。
草の倒れ方が不自然だった。
道から外れたところに、人か馬が通った跡が残っている。
古くはない。
土も完全には乾いていなかった。
玉楼がそちらへ寄り、アタシは街道側を見る。
「人がいないんじゃなくて、隠れてる?」
「その可能性が高いかと」
「歓迎されてないわね」
「先ほど孫二娘様も、そのように」
「そこは忘れて!」
もう少し進む。
前方には緩い起伏があり、その向こうは見えない。
アタシは馬を止めずに速度だけ落とした。
敵なら、どこから見る?
道の中央を進む軍を観察するなら、背の高い場所へ行きたい。
でも高すぎればこちらからも見える。
草むらや土の盛り上がり、低い斜面へ順番に目を走らせる。
それでも、人影は見つからない。
それなのに、ぞわっとした。
見られている。
遼の陣で感じた圧とは違う。
あっちは巨大すぎて、どこを見ても敵だった。
今は逆だ。
どこにもいないのに、こちらだけが丸見えになっている気がする。
「玉楼」
声を掛けるのと同時だった。
何かが飛んだ。
反射的に手綱を引く。
乾いた音がして、小さな石が馬の前へ落ちた。
玉楼もすぐ馬を止める。
「……石?」
地面を見る。
ただの石礫に見える。
けれど、自然に転がってきた位置じゃない。
拾おうとはしなかった。
その瞬間、もう一つ飛んできた。
今度はアタシの馬ではなく、玉楼の馬の前。
馬が鼻を鳴らして足を止める。
アタシと玉楼は同時に顔を上げた。
飛んできた方角を見る。
誰もいない。
「見えた?」
「いいえ」
「アタシも」
それが余計に嫌だった。
外した?
違う。
最初の一つはアタシの馬を止め、次の一つは玉楼の馬を止めた。
狙いがずれたようには見えない。
当てる場所を、そこに決めていた。
玉楼が少しだけ馬をこちらへ寄せた。
「警告かと」
「でしょうね」
当てられるのに、今は当てない。
そういうことだ。
アタシは思わず馬を前へ出しかけて――やめた。
昔なら行ったかもしれない。
どこにいる。
出てきなさい。
そう思った勢いのまま、草の中へ突っ込んでいたかもしれない。
でも、遼で散々やられた。
開いたから入る。
逃げたから追う。
見えたから取る。
それで何度、敵の思う場所へ運ばれたか。
手綱を絞る。
「追わない方が良さそうね」
玉楼がこちらを見た。
「はい」
驚いていない。
当然だと思ってくれている。
それが、少し嬉しかった。
アタシたちはその場でしばらく周囲を見た。
石礫はもう飛んでこない。
草の揺れ方も、風以外には変わらない。
さっきまで確かに誰かがいたはずなのに、こちらが止まった途端、気配まで遠ざかった。
「反応を見られたわね」
「わたくしたちが追うかどうかを、でしょうか」
「たぶん」
「では、追わなくて正解でございます」
「……そう思う」
言いながら、少しだけ悔しかった。
勝った感じがしない。
でも、負けてもいない。
そもそも戦ってすらいない。
それなのに、相手の方が一枚上からこちらを見ていたような感覚だけ残った。
「戻るわ」
「はい」
馬首を返す。
帰りながら、さっきの石礫が頭から離れなかった。
矢なら弦を引く動きがあり、槍なら構えが見える。
剣に至っては、そもそも近づかなければ届かない。
でも石礫は小さい。
どこからでも飛んできそうに見える。
しかも、あの二つは偶然じゃない。
林冲の隊列へ戻る頃には、紅玉がこちらを見ていた。
まだ何も聞いていないのに、視線がアタシたちではなく馬の足元へ向かう。
「何か飛んできたんですね」
「……分かるの?」
「お二人とも戻る時に、前より馬を寄せていませんでした。それに、三娘様が何度も後ろを見ていたので」
アタシは玉楼を見る。
玉楼もこちらを見た。
「育ってるわね」
「はい」
紅玉が困った顔をする。
「何のお話ですか?」
「こっちの話」
林冲の前で馬を止めた。
「前に誰かいる」
「数は?」
「分からない。でも石礫を投げてきたわ」
林冲の眉が動く。
「当たったか」
「いいえ」
答えてから、少し言葉を足した。
「外したんじゃないと思う。アタシの馬の前と、玉楼の馬の前に一つずつ。進むなって言われた感じ」
林冲はすぐ前方を見る。
「追ったか」
「追ってない」
今度は、ほんの少しだけ林冲の目が緩んだ。
「それでいい」
その一言で、変なところがむずむずした。
褒められたわけでもないのに、前よりはマシになったと言われた気がする。
孫二娘が横から顔を寄せてきた。
「三娘が追わなかった?」
「何よ、その珍獣を見るみたいな顔!」
「いやァ、成長したなと思って」
「アンタまで!」
「よしよししてやろうか?」
「いらない!」
言い終わる前に、腕が肩へ回ってきた。
「だから早い!」
「成功行動には適切な強化を与えた方が定着しやすいんだよォ」
「抱きつく理由を心理学で作るな!」
引き剥がそうとすると、反対側から玉楼が淡々と孫二娘の腕を外した。
「孫二娘様、三娘様は偵察からお戻りになったばかりです」
「じゃあ少し休ませてからなら?」
「それは三娘様がお決めになることかと」
「急にアタシへ判断を投げないで!」
紅玉が吹き出した。
林冲まで聞こえているはずなのに、もう前を向いている。
聞かなかったことにされた気がする……
少し離れたところで顧大嫂が腹を抱えていた。
「何笑ってるのよ!」
「いや、石を投げられて帰ってきた奴の騒ぎじゃないと思ってねぇ」
「こっちは真面目に偵察してきたの!」
「分かってるよ」
笑いながら言われても説得力がない。
それでも、少しだけ肩の力が抜けた。
その時、ふと李俊の言葉が頭に浮かんだ。
――約束も消えねえよ。
田虎を片づけて戻ったら、舟に乗せてもらう。
そのためにも、こんなところで知らない誰かの投げた石に頭を割られるわけにはいかない。
……何でアタシ、戦場で舟のこと考えてるのよ。
自分でもおかしくなって、口元を押さえた。
孫二娘が見逃さなかった。
「今、何考えて笑ったんだい?」
「何でもない!」
「李俊?」
「何で一発で当てるの!?」
「石より命中率高いねェ」
「上手いこと言った顔しないで!」
また笑い声が起きる。
けれど、アタシは笑いながらも前方から目を離さなかった。
林冲の命令で隊列は間を詰めすぎず、左右への警戒を強めて進むことになった。
偵察を前へ出しすぎず、誰かが不用意に草地へ入らないよう伝令も回る。
たった二つの石で、こちらの進み方を変えられた。
その事実は、笑って消せるものじゃなかった。
紅玉が小さな声で聞く。
「三娘様。あの石は、もし当てるつもりだったら……」
「たぶん当たってた」
言葉にした途端、さっきよりはっきりした。
相手は外したのではない。
当てない場所へ、正確に投げた。
あれが馬の足ではなく、額だったら。
手首だったら。
目だったら。
考えるほど嫌になる。
そして何より、こっちは相手の顔さえ見ていない。
遼では、巨大な陣の中へ入っても敵の旗は見えた。
兀顔統軍も答里孛も、そこにいると分かった。
今度の相手は違う。
こちらは見られているのに、アタシには見えない。
そのくせ、いつでも届く場所に石だけが落ちてくる。
見えない相手に、間合いだけを握られている。
それが、どうしようもなく気持ち悪かった。
玉楼でございます。
本日は、三娘様が自ら馬を止められました。
「そこ、そんなに驚くところかい?」
顧大嫂様が笑っております。
「以前でしたら、そのまま追われた可能性がございますので」
「玉楼、評価が身内に厳しいねェ」
孫二娘様が申します。
「でも、自分で衝動を抑えられたなら大きな変化だよォ。ご褒美に抱きしめて――」
「それは不要でございます」
「即答!?」
顧大嫂様が吹き出しました。
三娘様がお止まりになれるようになったことは、わたくしも嬉しく思います。
ただし――
あの石を放った者は、三娘様が追わないことまで確かめて去りました。
「次はどうすると思う?」
孫二娘様が尋ねます。
……次は、外してくださるとは限りません。




