残る者、往く者
「……勝った後の方が、空気悪いってのも嫌な話だねぇ」
孫二娘が、鍋を混ぜながら呟く。
顧大嫂が酒を煽った。
「王慶が終わったってのに、誰も“終わった顔”してないからねぇ」
外では、軍営の音が続いていた。
馬のいななき。
荷車の軋み。
武具を運ぶ音。
でも、前みたいな勢いが無い。
妙に静かだった。
孫二娘が、鍋の湯気を見つめる。
「で?」
「今度は南だって?」
「方臘討伐」
アタシは、吐き捨てるみたいに答えた。
その瞬間、顧大嫂が嫌そうに顔をしかめる。
「まだ行かせるのかい……」
「勅命だってさ」
「便利な言葉だねぇ」
孫二娘が鼻を鳴らした。
笑ってるのに、目が笑っていない。
鍋の煮える音だけが、小さく続く。
その時――
顧大嫂が、ふとアタシを見る。
「で?」
「李俊、荒れたんだろ?」
アタシは少し黙った。
思い出す。
あの幕舎の空気。
怒鳴り声。
止まらない怒り。
そして――
“戻ればいい”
あの低い声。
アタシは、小さく息を吐く。
「……止まらなかった」
「珍しいねぇ」
孫二娘が、少しだけ真顔になる。
「普段、あそこまで前に出る男じゃないだろ?」
「よっぽど溜まってたんだろうさ」
顧大嫂が、焚き火を見たまま呟いた。
「皆、分かってるからねぇ」
「“また減る”って」
その言葉の後だけ、空気が少し重くなる。
風が吹く。
でも、涼しくはならない。
鍋の湯気が、重たい空気へ溶けていった。
その時――
孫二娘が、急にニヤついた。
「で?」
「最後、“呼びに来てよ”とか言ったんだって?」
「ぶッ……!」
思わず咳き込む。
顧大嫂が吹き出した。
「言ったのかい!」
「いや、アレはそういうんじゃ――」
「何、“生きて帰って来い”みたいな空気出してんだい」
「違うわよ!」
即答した瞬間、 二人が腹を抱えて笑い始める。
「アンタ、そういう所だけ素直なんだよ!」
「顔に出るんだよねぇ!」
「うるさい!!」
思わず睨む。
でも、二人は全然止まらない。
しばらく笑った後、孫二娘が、ふっと笑いを消した。
「……でもさ」
鍋を混ぜる手が、少し止まる。
「沈むって分かってる船から、降りたくなる気持ちは分かるよ」
顧大嫂も、静かに頷いた。
「梁山泊の連中だって、不死身じゃないからねぇ」
誰も、すぐには喋らなかった。
遠くで、軍旗が鳴る。
出立前の軍営は、静かなのに、どこか沈みかけているみたいだった。
アタシは、空を見る。
曇っていた。
南へ向かう空も、きっと、こんな色をしてる気がした。
張清の幕舎を出ると、使いの者が来た。
「林冲様が、宋江様の幕舎まで来いとお呼びです」
アタシは玉楼と共に、呼び出された幕舎へ向かった。
中には、宋江、呉用、林冲、李俊がいた。
他にも何人かの頭領がいる。
誰も笑っていない。
それだけで分かる。
良い話じゃない。
呉用が、静かに口を開いた。
「朝廷より、新たな詔が下りました」
その言葉だけで、胸の奥が冷えた。
新たな詔。
嫌な響きだった。
李俊の目が、わずかに細くなる。
呉用は続ける。
「方臘討伐です」
幕舎の中の空気が止まった。
誰かが息を呑む。
アタシも、すぐには動けなかった。
――方臘?
また戦なの?
また、誰かが死ぬ……
李俊が、低く笑った。
笑い声ではない。
怒りを押し殺した音だった。
「……まだ行けと言うのか」
呉用は答えない。
李俊が一歩前へ出る。
「王慶が終わったばかりだぞ」
「兵は減った。傷も癒えていない」
「それでも、まだ行けと?」
呉用は静かに言う。
「勅命です」
その一言で、李俊の顔が変わった。
「勅命、勅命と」
「それで何人死なせる気だ」
幕舎の空気が張る。
宋江が口を開きかける。
だが、李俊は止まらない。
「兄弟を連れて戻ったと思えば、また次だ」
「終わりが無い」
「朝廷は俺達を使い潰す気だろうが!」
誰もすぐには止められなかった。
アタシも、止められなかった。
分かってしまったからだ。
李俊の言っている事が。
紅玉を残した。
瓊英を守らせた。
生き残る道を作ったつもりだった。
なのに、前に出る者は、また戦場へ赴く。
李俊が呉用を睨む。
「なあ、軍師」 「ここまで来て、まだ受けるのか」
呉用の表情は変わらない。
でも、目だけは冷えていた。
「受けねば、我ら全てが逆賊に戻ります」
「戻ればいい」
低い声だった。
幕舎が凍った。
李俊が、さらに踏み込む。
「朝廷に首を差し出すくらいなら、ここで旗を返しても同じだ」
「やるなら、今だろうが」
誰も動かなかった。
クーデター。
その言葉は出ていない。
でも、意味は同じだった。
アタシの手が、無意識に震えた。
玉楼が、隣でわずかに動く。
止めるべきだ。
そう思った。
でも、声が出ない。
李俊の怒りが、間違っていると思えなかった。
宋江が、そこでようやく立ち上がった。
「李俊、落ち着け」
声は静かだった。
でも、疲れている。
王慶戦が終わったばかりなのだ。
宋江自身も、まだ完全には戻っていない。
それでも、李俊は止まらない。
「アンタは、本気で行く気か」
宋江は、少しだけ間を置いた。
幕舎の中が静まり返る。
誰も口を挟まない。
やがて宋江が、小さく息を吐く。
「勅命だ」
その瞬間、李俊が舌打ちした。
「またそれか」
空気がさらに張る。
林冲が、わずかに視線を動かす。
玉楼も黙ったまま。
アタシは宋江を見る。
疲れている。
でも、止まらない。
止まれないのかもしれない。
宋江が、ゆっくり李俊を見る。
「ここで逆らえば、梁山泊は終わる」
「今まで死んだ兵達も、全部逆賊として扱われる」
李俊が睨み返す。
「だから、また死ねってのか」
宋江は答えない。
答えられない。
その沈黙が、逆に苦しかった。
李俊が吐き捨てる。
「……兄弟を生かす気があるなら、止まれ」
その言葉は、幕舎の奥へ重く落ちた。
幕舎を出ても、空気は重いままだった。
誰もすぐには喋らない。
風だけが抜ける。
遠くでは、まだ軍営の音が続いている。
でも、さっきまでとは違って聞こえた。
アタシは歩く。
玉楼も隣を離れない。
その時だった。
「……扈三娘」
後ろから声が飛ぶ。
振り向く。
李俊だった。
さっきまでの怒気は消えている。
でも、目だけは冷めていた。
周囲に人がいないのを確認して、李俊が近付いてくる。
玉楼が、わずかに前へ出る。
李俊は苦笑した。
「そんな顔すんな」
「今さら暴れねぇよ」
玉楼は下がらない。
李俊も気にしなかった。
そのまま、アタシを見る。
「……お前も、思っただろ」
アタシは、すぐには答えられない。
でも、黙っているだけで十分だった。
李俊が小さく息を漏らす。
「終わらねぇんだよ」
暗い声だった。
だから余計に重かった。
「王慶が終わって、やっと帰れると思った」
「なのに、次だ」
李俊が空を見る。
疲れている。
本当に。
「兄弟を連れて帰っても、また減る」
「その繰り返しだ」
アタシは、李俊を見る。
この人も、ずっと戦ってきた。
梁山泊に入る前から、入った後も、ずっと……
李俊が少しだけ笑う。
でも、乾いた笑いだった。
「俺ぁ、水の上で生きる方が性に合ってんだ」
「陸の上で死ぬなんて、真っ平ごめんだ」
玉楼の目が、わずかに細くなる。
アタシは、小さく息を吐いた。
「……離れる気?」
李俊は、少し黙った。
否定しなかった。
風が吹き、軍営の旗が揺れる。
李俊が、静かに言う。
「沈むと分かってる船に、最後まで乗る義理があるのかね」
胸が少し痛む。
でも――
間違ってるとは、言えなかった。
紅玉を残した。
瓊英も残る。
喬道清も離れる。
皆、どこかで気付いている。
この戦は、まだ終わらない。
李俊が、ゆっくり踵を返す。
その背中へ、アタシは声を投げた。
「……じゃあさ」
李俊が止まる。
アタシは少しだけ笑う。
「全部終わったら、呼びに来てよ」
風が抜ける。
李俊は、しばらく黙っていた。
やがて、肩越しに少しだけ笑う。
「生きてりゃな」
それだけ言って、李俊は歩き出す。
アタシは、その背中をしばらく見ていた。
方臘討伐の準備は、驚くほど早かった。
まるで、誰かが最初から決まっていた事を、そのまま進めているみたいだった。
軍営の中では、兵が動く。
武具の確認、兵糧の積み込み、馬の整理、負傷兵の選別。
でも、王慶戦の前とは空気が違う。
声が少なく、笑い声も、ほとんど無い。
皆、分かっている。
また南へ行き、また誰か死ぬ。
その覚悟だけが、静かに広がっていた。
アタシは幕舎の外に立つ。
空は曇り、風が少し重い。
玉楼が隣に来る。
「出立は数日後との事です」
「早いわね」
「はい」
短い返事だった。
アタシは軍営を見る。
動いている。
でも、どこか沈んでいる。
王慶戦の勝利後とは思えなかった。
その時、遠くで怒鳴り声が上がり、振り向く。
兵同士の揉め事だった。
止めに入る者もいる。
でも、前みたいな勢いが無い。
疲れている。
皆、限界が近い。
玉楼が小さく呟く。
「……空気が変わりました」
アタシも頷く。
変わった。
もう、“次の戦”へ向かう軍じゃない。
終わりの見えない戦へ、押し出されている。
そんな空気だった。
風が吹き、軍旗が揺れる。
その旗を見ながら、アタシはうなだれる。
――あと、どれだけ死ぬんだろう。
その考えが、頭から離れなかった。
出立前日。
軍営の空気は、さらに静かになっていた。
準備は終わっている。
馬も、兵糧も、武具も揃った。
後は出るだけだった。
だからこそ、人の声が減っている。
皆、余計な事を考え始めるからだ。
アタシは軍営の外れを歩く。
玉楼も後ろについて来ている。
空は曇ったまま。
風が冷たい。
遠くでは、出立準備の声が小さく響いていた。
その時だった。
「扈三娘様」
呼ばれて振り向く。
紅玉だった。
――いや、違う。
少し後ろに、瓊英もいる。
紅玉は、どこか落ち着かない顔をしていた。
でも、瓊英は静かだった。
そのまま二人で近付いてくる。
アタシは少しだけ目を丸くする。
「どうしたの?」
紅玉が答える前に、瓊英が口を開いた。
「私が連れて参りました」
柔らかい声だった。
でも、その奥に意志がある。
瓊英は続ける。
「このまま、お見送りもせずに出立させるのは嫌でしたので」
風が吹く。
紅玉が、少しだけ視線を落とした。
「……すみません」
「何て言えばいいのか、分からなくて……」
その声は小さい。
少し前までなら、もっと無理に笑っていた。
でも今は違う。
ちゃんと迷って、 ちゃんと立ち止まっている。
アタシは紅玉を見る。
朴刀を携えている。
もう、護衛の立ち姿だった。
瓊英が静かに紅玉を見る。
「紅玉は、ずっと気にしておりました」
「瓊英様……!」
紅玉が慌てる。
瓊英は少しだけ笑った。
「ですが、残る事もまた役目です」
その言葉に、紅玉が黙る。
風が抜け、軍旗が揺れる。
アタシは、少し前の紅玉を思い出す。
後ろを追い掛けて来ていた頃。
必死に食らいついていた頃。
でも、もう違う。
残れる。
守れる。
アタシは小さく笑った。
「アンタには、アンタの戦がある」
紅玉の目が揺れる。
アタシは、そのまま続けた。
「任せたわよ」
しばらく、紅玉は動かなかった。
やがて、強く頷く。
「……はい!」
その返事は、もう前とは違っていた。
軍営の空気は、勝った後とは思えませんでした。
兵は動いております。
荷車も進み、馬も鳴いている。
ですが――
誰も、“終わった顔”をしていないのです。
王慶戦は終わりました。
それでも、次が来る。
“方臘討伐“
その言葉だけで、人の顔から熱が消えていくのが分かりました。
その中で――
孫二娘殿と顧大嫂殿だけは、相変わらず鍋を囲んでおられます。
「で?」
孫二娘殿が、鍋を混ぜながら笑いました。
「李俊、とうとう爆発したんだって?」
顧大嫂殿が酒を煽ります。
「珍しいねぇ」
「普段は、あそこまで前へ出る男じゃないだろ?」
私は、小さく頷きました。
「……相当、溜め込まれていたのでしょう」
鍋の煮える音だけが、小さく続きます。
「終わったと思ったのでしょうね」
「ですが、終わらなかった」
顧大嫂殿が、焚き火を見たまま鼻を鳴らしました。
「そりゃ荒れるさ」
「生き残っても、また次だもんねぇ」
孫二娘殿も、少しだけ真顔になります。
「しかも、今度は方臘だろ?」
「南は長いよォ」
「暑いし、湿るし、死体まで腐る」
「縁起でもない事言わないでよ」
思わず、私が返してしまいました。
その瞬間、二人が吹き出します。
「玉楼が突っ込んだ!」
「珍しいねぇ!」
私は、小さく咳払いをしました。
「……あまり嬉しそうに言わないで下さい」
ですが、その空気も長くは続きません。
遠くで、軍旗のたなびく音がしたからです。
風は吹いているのに、どこか重い音でした。
その時――
幕舎の外から、急に扈三娘様の声が飛び込みます。
「玉楼ー!!」
「南って絶対暑いわよね?これー!!」
孫二娘殿が、腹を抱えました。
「そこ!?」
顧大嫂殿も肩を揺らします。
「もっと他に心配する所あるだろうにねぇ!」
私は、小さく息を吐きました。
「……扈三娘様らしいです」
少しだけ、 空気が軽くなります。
ですが――
孫二娘殿が、鍋を混ぜる手を止めました。
「……でもさ」
「本当に沈み始めてる船って、“静か”なんだよねェ」
顧大嫂殿も、静かに頷きます。
「誰も騒がなくなるからねぇ」
誰も、すぐには喋りませんでした。
遠くで、出立準備の音だけが続いています。
梁山泊は、まだ進んでいました。
ですがその足音は、もう以前ほど軽くは無かったのです。




