帰る道が、また遠くなる
やっと帰れる――
今度こそ本当に帰れる。
「二回言うと、逆に不安になるねェ」
「やめて!」
孫二娘が笑い、顧大嫂まで妙な顔をした。
「で、梁山泊へ着いたら?」
「まず寝る。その後は李俊の舟に――って、何でニヤつくのよ!」
「誰も何も言ってないよォ」
「顔がうるさい!」
顧大嫂が街道の先を見ながら鼻を鳴らした。
「帰る前から予定を立てると、潰れた時に腹立つぞ」
「潰れないわよ! 戦は終わったんだから!」
孫二娘が肩をすくめる。
「人間、安心した直後が一番油断しやすいんだよねェ」
「心理学で不吉な前振りしないで!」
……ねえ。
向こうから、ものすごい勢いで馬が来てない?
「これで帰れるのよね?」
そう聞いたら、玉楼は少しだけ黙った。
嫌な間だった。
「……分かりません」
「何で!?」
思わず声が裏返る。
玉楼は困ったように眉を下げた。
「わたくしも、帰れるものと思っております。ただ、三娘様に断言してよいものかと考えまして」
「そこは安心させてよ! ほら、『もちろんでございます』とか!」
「もちろんでございます」
「今言われても遅い!」
後ろから孫二娘の笑い声が飛んできた。
「三娘、自分で言わせて安心できるのかい?」
「できないけど!」
「じゃあ玉楼が正解だねェ」
「何で二娘までそっち側なのよ!」
顧大嫂まで肩を揺らしている。
「帰り道くらい静かにしな。どうせ梁山泊まで長いんだから」
「そうよ。長いんだから、のんびり帰ればいいの」
言葉にすると、少し気分が戻った。
梁山泊へ帰ったら、まず風呂に入って寝る。
それから婆惜たちに礼を言って、白秀英や潘巧雲のところにも顔を出す。
そして――
前を進んでいる李俊の背中へ、つい目が向いた。
舟――乗せてもらう約束をした。
そう考えた途端、さっきまでより帰り道が短く感じられた。
「分かりやすいねェ」
「何が?」
「別にィ」
孫二娘が馬を寄せてきたと思ったら、そのまま肩をこちらへ預けてくる。
「ちょっと、重い!」
「傷つくねェ。アタイ、そんなに重くないよォ」
「馬の上で寄りかからないで!」
「もう戦は終わったんだろ? 少しくらい親睦を深めてもいいじゃないか」
「その親睦、何で毎回アタシに密着する方向なの!?」
「接触行動は親密さを――」
「心理学で正当化しない!」
玉楼が当然のように間へ馬を入れた。
「孫二娘様、三娘様の騎乗を妨げますので、お離れくださいませ」
「あんた、本当にそこだけ反応が速いねェ」
「三娘様の安全に関わりますので」
「じゃあ止まってる時ならいいのかい?」
玉楼が考え始めた。
「考えないで!」
顧大嫂の笑い声が街道へ響く。
さっきまで城を返したことに腹を立てていたのに、こうしていると、本当に戦が終わったような気がしてくる。
幽州はもう遠い。
後ろを振り返っても城壁は見えない。
前には南へ続く道がある。
そのまま行けばいい。
今度こそ梁山泊まで――
「早馬!」
前方から声が上がった。
隊列の空気が変わる。
道の向こうから、一騎が土煙を上げて近づいてきた。
あれ?
アタシは目を細める。
戦は終わり、遼との話も決まった。
城も捕虜も返したのに、何であんなに急いでるの?
早馬は速度を落とさないまま隊列へ迫り、先頭近くでようやく手綱を引いた。
馬が荒く息を吐く。
乗っていた男も、ほとんど転がるように下りた。
「朝廷より急使!」
聞いた瞬間、さっきまで近かったはずの梁山泊が、急に遠くなった気がした。
孫二娘が隣で小さく息を吐く。
「三娘」
「何?」
「さっきまで機嫌よかったねェ」
「過去形にしないで!」
まだ何も決まってないし、ただの連絡かもしれない。
帰還後の話という可能性だってある。
むしろ「ご苦労だった、ゆっくり休め」とか――
顧大嫂が鼻で笑った。
「朝廷がそんな気の利いたこと言うかねぇ」
「アタシの心を読まないで!」
早馬は宋江たちのいる先頭へ通されていった。
隊列が止まる。
すぐに話が伝わってくるかと思ったけれど、なかなか動かない。
その待ち時間が妙に長かった。
アタシは手綱を握ったまま、前を見る。
隣では玉楼も何も言わない。
紅玉が少し後ろからこちらを見ていた。
孫二娘は――さっきまでアタシにくっついていたくせに、今は妙に真面目な顔をしている。
「二娘」
「何だい?」
「こういう時に使える心理学ないの?」
「あるよォ」
「あるの!?」
「悪い知らせを待ってる時は、人間は実際より待ち時間を長く感じやすい」
「役に立たない!」
「説明しただけだよォ」
「不安を減らしてよ!」
「じゃあ抱きつく?」
「何でそうなるの!」
いつもの顔に戻った。
安心したような、してないような。
やがて前方から呼び出しが来た。
梁山泊の主だった者は集まれ、とのことだった。
嫌な予感しかしない。
馬を降りて向かうと、宋江、盧俊義、呉用、朱武たちがすでに集まっていた。
林冲もいる。
李俊の姿を見つけた途端、なぜか少し安心した。
向こうもこちらを見た。
一瞬だけ目が合う。
そのまま逸らさなかった。
最近、これが増えている。
嬉しいけど困る。
いや、今はそれどころじゃない。
宋江の手には書状があった。
「朝廷より新たな命が下った」
新たな――
その三文字だけで帰りたくなった。
「河北にて田虎なる者が勢力を広げ、州県を奪い、自ら王を称している。朝廷は我ら梁山泊の軍に、その討伐を命じられた」
少しの間、誰も声を出さなかった。
アタシも意味が分からなかった。
分からないというより、頭が受け付けなかった。
「……誰?」
隣で孫二娘が吹き出した。
「そこからかい?」
「知らないものは知らないわよ!」
顧大嫂が腕を組む。
「つまり、遼が終わったと思ったら今度は河北か」
「そのようです」
朱武が答える。
そのようです、じゃない。
アタシは宋江を見る。
「帰るんじゃなかったの!?」
声が大きくなった。
何人かがこっちを見る。
でも知らない。
だって、帰ると思うじゃない!
「遼に勝った!」
孫二娘が指を一本立てる。
「城を返した!」
二本目。
「捕虜も返した!」
三本目。
「それで帰る!」
「三娘、アタイに説明しなくても分かってるよォ」
「じゃあ何で河北なのよ!」
「朝廷に聞いとくれ」
まただ。
この前と同じだ。
兵が足りないわけじゃない。
兵糧が尽きたわけでもない。
梁山泊からは補給が届き、李家荘と曾頭市も後ろを支えている。
戦おうと思えば戦える。
だから――戦えと言われる。
そのことが、ものすごく腹立たしかった。
林冲は何も言わなかった。
ただ書状を見ている。
幽州の城門で見た横顔を思い出す。
朝廷から命じられれば、また行く。
たぶん、この人は今回もそうする。
そしてアタシも林冲の下にいる。
逃げる理由なんて、どこにもなかった。
「軍を二手に分ける」
盧俊義が地図を広げた。
田虎の勢力は河北に広く散っている。
一方向から押すより、別れて進んだ方がいいらしい。
宋江が一方を率い、盧俊義がもう一方を率いる。
林冲は盧俊義の軍へ入る。
だったら、アタシも決まった。
「三娘様」
玉楼がこちらを見る。
「分かってる」
答えると、玉楼が頷いた。
どっちが前に出るかは、その時決めればいい。
遼でそうしてきた。
林冲の下で戦うなら、今度も同じだ。
紅玉も連れていく。
ただし、無茶はさせない。
遼で成長したからといって、何でもできるようになったわけじゃない。
孫二娘は当然のような顔でこちらの隣にいた。
「……二娘も来るの?」
「何言ってんだい。アタイだけ梁山泊へ帰れって?」
「いや、帰ってもいいのよ?」
「三娘がまた無茶した時、誰が止めるんだい?」
「玉楼」
「即答するなよォ」
玉楼が真面目に頷く。
「わたくしがお止めいたします」
「ほら」
「二人してアタイを要らない子にしないでくれるかい?」
顧大嫂が笑った。
「お前さんは怪我人でも見てな。そっちなら役に立つだろ」
「大嫂まで酷いねェ。アタイは精神面の支援もできるんだけど」
「三娘に抱きつくことか?」
「それも含む」
「含めないで!」
少しだけ空気が緩んだ。
でも、胸の中に引っ掛かったものは取れなかった。
軍議が終わり、皆が散っていく。
アタシも戻ろうとして、李俊を見つけた。
向こうから歩いてくる。
顔を見たら、真っ先に浮かんだのは田虎じゃなかった。
「……舟」
口から出た。
李俊が少しだけ目を丸くする。
「舟?」
「約束したじゃない」
「ああ」
「帰ったら乗せるって」
「言ったな」
「帰れないんだけど」
「そうだな」
何でそんなに落ち着いてるのよ。
腹が立って、少し睨む。
李俊は笑わなかった。
「舟は逃げねえ」
「そういう問題じゃないの」
「分かってる」
「本当に?」
「ああ」
短く答えてから、李俊は少しだけ間を置いた。
「約束も消えねえよ」
胸の奥が跳ねた。
ずるい。
こういう時だけ、急にそういうこと言うのやめてほしい。
「……じゃあ、絶対だからね」
「ああ」
「田虎が終わったらよ?」
「戻ったら乗せる」
戻ったら。
また、その言葉だ。
孫二娘がいつの間にか後ろに立っていた。
「いいねェ。延期された予定ってのは、待ってる間に価値が上がることもあるんだよォ」
「いつからいたの!?」
「『舟』って言った辺りから」
「最初からじゃない!」
「アタイ、耳はいいんだ」
顧大嫂まで向こうで笑っている。
何で毎回いるのよ!
李俊は肩を揺らした。
「じゃあな」
「ちょっと! アンタも逃げないで!」
「準備がある」
「アタシにもあるわよ!」
李俊は振り返らず片手を上げた。
それだけなのに、さっきより少しだけ腹立たしさが減っている。
本当にずるい。
翌朝、南へ向いていた隊列は進路を変えた。
梁山泊へ続く道から離れていく。
林冲の旗は、盧俊義の軍勢の中にあった。
アタシは玉楼と並び、その後ろには紅玉がいる。
孫二娘もいる。
戦える。
兵糧もある。
馬も動く。
だから進む。
それが正しいのかどうかは、もう分からなかった。
昨日まで敵だった遼には背を向けた。
今日は田虎という、顔も知らない相手へ向かっている。
勝っているのか。
運ばれているのか。
もう、その境目が分からない。
玉楼でございます。
結局、三娘様は梁山泊へお戻りになれませんでした。
「朝廷ってのは、人が帰ろうとすると仕事を増やすのかい?」
顧大嫂様が呆れます。
孫二娘様は少し考えてから申しました。
「終わりが見えた直後に予定を追加されると、疲労感は増しやすいねェ」
「では、三娘様は相当お疲れなのでは?」
「たぶんねェ。でも李俊と話した後は少し機嫌直ってたよ」
「……何のお話を?」
「それは本人に聞きな」
なぜ、お二人とも笑っておられるのでしょう。
ともあれ、次は盧俊義様の軍で河北へ向かいます。
そして先ほど、田虎軍の将について報せが届きました。
……ずいぶん、妙な者が多いようでございます。




